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新釈・竹取物語

 夜八時を過ぎて、一人で第一倉庫へ行くと、子供の幽霊を見かける……わが社には、そんな噂があった。

 ――座敷童子じゃないのか。わが社は儲かってこそいなくても、困ったことも無い。案外、その幽霊が守り神なのかもしれないよ――そういう者もいた。その子供の幽霊が、良いものでも悪いものでも、どちらにしても気分のいいものではない。
 ここへ転職し、一年が過ぎたが、残業することは多くても、その時間に倉庫へ行ったことはまだ無かった。それなのに、夜八時を過ぎた今、社内に一人残った私は、これから第一倉庫へ伝票の束やら書類やらを置きに行かなければならない。明日の朝一番に行っても良いのだが、生憎、明日は休みを取っていたのだ。隣の机の同僚に書置きでもして、代わりに明朝届けて貰う手もあるが、大の大人がそこまですることもない。
 書類を抱え、倉庫まで歩きながら考えていた。幽霊というものが存在するのは否定しない。私自身見たことは無いが、心霊現象というものは、ひとつのロマンであるかもしれない。超能力や空飛ぶ円盤、未確認生物などと同じように、胡散臭いものではあるが。
 大体、子供の幽霊だろう。怖いことなど無い。それにしては、私も倉庫行きを若干躊躇したのだが、それには理由があった。もちろん、幽霊が怖いと言うことではない。
 ――幾つ位の幽霊なのだろう。男の子だろうか。 女の子だろうか――
  そんなことを考えながら、倉庫へ着いた。
 両手が塞がっているので、電気スイッチを肘で点ける。そして引き戸を足で開けると、そこには、小さな男の子が立っていた。

 幽霊を見たという実感はなかった。正直言って、もし幽霊を見てしまったら、三十歳過ぎの私でも悲鳴を上げてしまうのではないかと思っていたが。
 幽霊とは、これほど実体を伴っているものなのだろうか。近所に住む子供が、悪戯に忍び込んだのではないだろうかと思ったほどだった。それか、倉庫勤務の者が誰か残っていて、その者の息子さんが、迎えがてら遊びに来ているのかとも思った。しかし、倉庫内も、事務スペースにも灯りは点いていなかった。私が外にある電気スイッチを点けるまで真っ暗だったはずだ。
 やはり幽霊だ。この子が噂の幽霊なのだ。実体はすぐそこに立っていながらも、この少年からは命がある者の匂いがまったく伝わってこない。理屈では言い表せない。  自分の本能がそう判断したのだ。

 少年はびっくりしたような顔のまま、動けないでいるようだった。
 服装は、私が十代の頃に流行った、ヒーロー物のキャラクターがデザインされたTシャツを着て、下はジャージをはいている。足元は薄汚れたような靴下しか着けていない。三歳か四歳といったところだろうか。
 ほんの数秒のことなのだろうが、私はそこまで観察していた。自分がこれほど落ち着きのある性格だとは思わなかった。いや、もともと落ち着きのある性格などではない。私はあの時から、感情をほとんど表に出すことはなくなっただけなのだ。一昨年、一歳になったばかりの息子を交通事故で亡くすまでは。

 日曜日の近所の公園でのことだった。非は息子をはねた運転手よりも、歩き始めて間もなくそれが楽しくて仕方が無い息子から、ほんの一瞬でも眼を離した私達夫婦にあった。車にはねられたとはいえ、急ブレーキのかかったあの状態では、大人なら打撲程度の衝撃だっただろう。しかし、一歳の小さな身体には耐えられない衝撃だった。私達夫婦は自らを、いや、お互いを責め、泣いて暮らした。共働きだった私達だが、その間、勤めになる状態ではなく、仕事は辞めてしまっていた。周囲の人々の同情もいたわりも、全てが辛かった。
 お互いを責め続けることと、引き篭もり続けることの間違いに気付き、泣いて暮らすことから、無理やりにでも立直るまで一年かかった。新しい暮らしを始めるため、住まいを隣の県へ移した。そして、この会社に就職したのだ。

 私は書類を入り口脇の事務机に置き、しゃがみこんで少年に話しかけた。
「こんばんは」
 少年は黙ったままだ。
「君は、ずうっと、ここにいたのかい?」
 少年は頷く。びっくりしたような表情は、少し和らいだように思える。眼の大きな子だと思った。
「おじさん、去年からここで働いているんだけど、初めて会えたね」
 そう、私は幽霊が怖かったのではない。
噂に聞く子供の幽霊と、亡くした自分の息子とを重ね合わせてしまうことが怖かったのだ。 少年はもじもじしている。恥ずかしいのだろうか。いや、もしかして寒いのではないだろうか。カーディガンを羽織っている私でも、十一月の倉庫は寒い。少年はTシャツ一枚なのだ。靴下だけでは床も冷たいだろう。それとも、幽霊に寒さ暑さは関係ないのだろうか。
「そんな格好でいたら、寒いんじゃないのかい?」
 少年は首を縦に振る。寒いのだ。幽霊だって寒いのだ。死んだ息子も寒いことがあるだろうか。
「おじさんと事務所に来ないか? 暖房があって暖かいよ。暖かい飲み物もあるよ」
 少年は首を横に振った。来たくないのだろうか。それとも、来られないのだろうか。
 ふと私は思い出した。霊にはいろいろなタイプがあると、高校時代、オカルト好きの友人が言っていたのだ。その中でも、地縛霊といったか、それは成仏するまで自分が死んだ場所から離れられないと聞いた。地に縛られる霊とは……何と悲しいことなのか。息子はどうなのだろう。息子は成仏したのだろうか。
「君の名前は何ていうの?」
私は自己紹介がまだだったと気付き、自分が名乗ってから、名前を聞いてみた。しかし、少年は答えない。下唇を噛んで、やはりもじもじとしている。名前が無いわけでもあるまい。思い出せないとか、忘れたとかいうことなのだろうか。それとも、この土地へ憑くという念しか残っていないということなのだろうか。それはあまりに悲しいことではないか。
「君は、ここから……出られないのかい?」
 少年は頷く。寂しそうに頷く。
 もう何年、ここに一人ぼっちでいたのだろうか。少年の肩先が震えているのに気付いた私の両目に、一年間忘れていた涙があふれる。
「おじさん、もう行かなきゃいけない。でもね、でもまた来るからね」
 滲んだ視界の中で、少年は手を振った。微笑んだようにも見えた。

 倉庫の入り口を閉め、私はその場に崩れるようにしゃがみこんでしまった。涙が止まらない。あの少年の全てが、息子とだぶった。
 また会いたい。また会わなければならない。

 このことを妻に話そうと家路を急いだが、少年ともっと親しくなれてからでも遅くないと思いなおし、しばらく内緒にしておくことにした。それから妻を会社に呼んで、少年に紹介すればいいのだ。

 明くる日の午後八時、私は第一倉庫の扉の前に立っていた。私が少年に会いたいように、少年も私に会いたいと思ってくれているだろうか。いや、ただ少年を見られるだけでもいい。ためらいがちに、明かりのスイッチを点け、扉をあける。
 あの少年が、立っていた。そして私の顔をみてにっこりと、嬉しそうに笑った。
 私はその時、どんな顔をしていたのだろうかと、今でもよく考える。

 明くる日から私は、同僚達の残業を、いくつか、引き受けるようにした。マイホーム購入を考えているので稼がなければねと、自分が残業する口実を作ったのだ。いくつかの残業分を明るいうちに大急ぎでこなし、そうして、夜を迎える。

 午後八時を過ぎなくとも、少年に会うことが出来た。私以外の者がいなければ、少年は姿を見せることが出来るらしい。波長が合うというのはこういうことだろうか。
 終業時刻を過ぎ、それでも倉庫担当が残業している場合は、少年に会うことが出来ないので、寂しかった。そんな時は、社員の目を盗んで、絵本や玩具を倉庫の陰のほうに置いておくのだ。次の日、置いておいた場所とは少しずれた所に揃えてある。これで遊んでくれたのだろう。一人寂しい夜でも、少しは気がまぎれたろうか。
 足のサイズを見繕って、靴を買って置いた。少年は次の日、その靴を履いて現れた。
 息子が生き返ったようで嬉しかった。重ね合わせてはいけないと思うのだが、それでも嬉しかった。
 私と少年は、いろいろな話をした。話をしたとはいっても、少年が何かを話すわけではなく、私が一人で喋っている。少年は喋りこそしなかったが、表情はだんだんと豊かになっていった。
 会社にいる時間が長くなった。妻に寂しい思いをさせているかもしれない。妻に、少年は見えるだろうか。早く会わせてやりたい。妻も少年と仲良く出来たら……妻はもっともっと明るくなれるだろうか。自分勝手な思い込みかもしれないが。

 そろそろ妻を連れてこようかと思っていた、少年と出会ってからひと月ほど経った夜、別れは、唐突に訪れた。

 いつものように一緒に遊んだあと、私が帰ろうとした時、少年は私の手を握り離さなかったのだ。私はふいに、こんな言葉を口にした。
「おじさんの家に来るかい」
 生きてはいない筈の少年の手から、不思議と暖かさを感じた。

 家に連れ帰ったら、この子さえよければ、新しい名前をつけてあげたい。
 新しい名前で、新しい家族と共に新しい暮らしを始めるのだ。
 悪くない考えではないかと、少年の手を握る手のひらに力が少し入る。
 倉庫を出た私達は、事務室に寄って鞄を取り、絵本やおもちゃを、用意していた子供用のデイパックに入れ、通用口へ向かった。その間、私達は親子のように手を繋いだままだった。

 少年と手を繋いで出た通用口フロアに、誰かが立っていた。黒いスーツに黒いネクタイ……喪服を着た、私よりも少し若い年代の男だった。不吉な服装とは裏腹に、後ろ手を組んだ佇まいから上品さが感じられた。
「あの……どちらさまでしょうか?」
 私は男に尋ねた。
「お迎えに参りました」
 細長い体躯に鼻筋の通ったハンサムな顔、そこから高くも低くも無い柔らかい声を出し、そう言った。しかしお迎えとは……誰を迎えに来たというのだ。その男は、私の頭の中での疑問を見透かすように言った。
「その少年は成仏したのです。だからお迎えに来たのです」
 男のその言葉に、私は固まってしまった。
「私は、彼の世からの使いです。死神のようなものですが、お伽噺では《月の使い》などとも呼ばれていました」
 男は、目元だけ微笑んでそう言った。
 ああ、そういうことか。この少年をこの場所から連れ出すということは、成仏させるのと同じことだったのだ。
「この子は、この会社が建てられる工事の時、この場所で重機による事故に巻き込まれて死んだのです。この子の両親は、あなた方のように自らを責め続け、そして悲しみから少しでも遠ざかれるように、この土地を離れてしまいました。少年は、帰って来ない両親を待つ余り、ここへ憑いて離れられなくなってしまったのです」

 死は誰にでも訪れる。それが、早い者も遅い者もいる。子が親を看取るのが正しい順序であるのに、その親より早く死ななければならぬ子もいる。自ら、その命を絶つ者もいる。誰にでも訪れる死であっても、納得できない死もある。
 私達は、息子を死なせてしまった。それは避けようの無い運命というものだったのかもしれない。この少年と、その両親に訪れた不幸もまた、避けようが無かったように。
 私は息子の死を、別れを受け入れるのに一年かかり、その締めくくりに少年と出会ったのだろうか。男は、こう続けた。
「あなたたちご夫婦のことを、毎日見ておりました。そこで私どもは、勝手ながら少しだけあなたの環境を操作させていただきました」
「……操作?」
「引越し先をこの町へ、就職先をここへ。そして、この少年と出会うようにと」
 死からは誰も逃れられない。ただ、その順番が狂った時、それをどう受け止めるか。逃れることが出来ないように、抗うこともまた出来ない。だからこそ、命は尊い。
 何処からか来た命は、また何処かへと帰っていく。
 少年の両親は、どこでどうしているのだろうか。私と似た境遇の人たちのことを考えてしまう。しかし、この少年を見送ることを出来るのが私しかいなかったのなら、それが私の役目だというのならば、喜んでそれを引き受けよう。
「ああ……わかりました。そして……私は救われたのですね」
 私は理解した。理解……この出会いと別れは、一つの理(ことわり)なのだろう。
少年が私を見上げていた。しっかりと結んだ口元と、黒々とした瞳が愛しかった。
 私は跪き、少年を高く抱え上げ、それから下ろし、抱きしめた。重さをまったく感じないその体を、静かに抱きしめた。少年は、その短い腕を私の肩に回してくれていた。

 表に出ると、駐車場には、黒塗りの上品なデザインのワゴン車が停まっていた。少年は、男に促されるわけでも無く、自分からワゴンの後部座席に乗り込んだ。私があげた靴を履き、手には絵本とおもちゃを入れたデイパックを大事そうに抱えていた。そして窓からこちらを見て、手を振る。
 手を振り返しながら私は、彼に聞いた。
「あなた方は、魂を司っているのですか」
「司っているという程ではありません。管理しているといった方が正しいでしょう」
「ひとつ教えてください。命は……私の息子や、この少年の魂は、また生まれ変わることが出来るのでしょうか」
「ええ、できます。誰もが、という訳ではありませんが」
 命は廻るのだ。
 私は、少年を通して成長した息子の姿を見ていたのか。最初は確かにそうだった。だが今は違うのだ。何をどう違うのか言葉に出来ない。
 ふと見上げると、高く蒼く澄み切った十二月の凍るような夜空に、満月が輝いていた。顔を下ろすと、男もワゴンも消えていた。

 男は、お伽噺では《月の使い》と呼ばれたと言っていた。ワゴンは、月に導かれて行ったのだろうか。あの月が、彼の世であってほしいと願う。毎夜、私たちは月を見上げ、月は私たちを見守る。今までも、これからも。

 家に帰った私は、妻にここ一ヶ月ほどに起こった事を全て話した。結局、妻に少年を会わせることが出来なかったが、今ではそれで良かったと思っている。先に子供を逝かせてしまうような悲しい別れを、二度もさせることはしなくて済んだからだ。
 妻は私の話を全て信じてくれた。そして、あなただけずるいと、私だってその子に会いたかったと、泣きながら、少しだけ笑いながら言った。いつか会えるかもしれないよと、私はその向こうに月が出ているであろう天井を見上げながら言った。それから二人でベランダへ出て、月の光の下で、また少し話をした。

  了