見出し画像

ちくびのおもいで

 さきほどまで自分の乳首をいじくって遊んでいたせいか、ふいに思い出したことがある。

 以前の職場で一緒に働いていた、松嶋花子さんのことだ。

          ※※※

 松嶋花子さんは、確かわたくしより二つ三つ年下だが、三人のお子さんを持つ、実に立派なおっかさんである。
 その松嶋さんは、ガキを三人も産んだとは思えないほど若々しく、また美人であり、優しく微笑むその様は松嶋菜々子を思わせるものがあった。

 しかし、それは「昨夜、ダンナと喧嘩しなかった」 「出掛けに子供が愚図つかなかった」 「カシワクラが朝イチから逆らわなかった」 「なので機嫌が良い」等、一定の条件が揃った時のみに見られる事象(イベント)であり、普段の松嶋さんは、「ちょっとマシな山田花子」 「あれ、山田花子ってこんなに綺麗だったっけ?」然としたビミョーというかギリギリの線というか、とりあえずギリ線のほうを略して「G線上の美人」と呼ぶべきであるのが本当のトコロであった。

 もちろん、「松嶋花子」という名前は本名ではなく、わたくしが名付けたホーリーネームである。

 本名は、第二期モー娘。の一番どうでもいい奴(主観)の名前を更にどうでもよくした(主観)ような名前であり、本人も結婚してつまらない苗字になったことをよく愚痴っていたが、そういうことを他所で言うから旦那さんと喧嘩になるんでしょ、大体独身だったとしても大して変わんない、つまんない苗字でしょや。
 などとわたくしがクチを滑らすとさあ大変。

 松嶋さんは、栄養士として私より先輩であり、人の親としても先輩であり、更にG線上のくせに――女王様になりたかったのあたし――な人でもあったので、年上とはいえ後輩で新入りで部下で、更にハゲでメガネでメタボなわたくしに対して、それはそれは辛く当たるんです。ジュンときちゃうくらい。

 さて、その松嶋花子さん、通称《おねえさま》(事務室では二人きりで仕事をすることが多かったので、ふざけてこう呼ぶことがあった)であるが、それが起こったのは、ある昼下がりのことだった。

「○時にお客さんが来て、会議室で打ち合わせするから、お茶出しとか頼んで良い? カシワクラさん」
「はい、わかりました」

 間もなくお客さんがやって来た。おねえさまが立ち上がり、案内する。
 そしてわたくしのほうを振り返り、(じゃ、あとよろしく)とクチパクで言ったその時のことでございます。

 おお、なんということでしょう。
 おねえさまの乳首が、ピンコ立ちであることにわたくしは気付いたのです。

 おねえさまとわたくしの机は並んでおり、仕事中に話をする時は横を向いて普通に顔を見たり、真正面のPCのモニターを見ながらだったり、であるので、まさかおねえさまのどうでもいいといえばどうでもいい乳首がそんな状態にあったとは、まったく思いもしなかったのです。

 加えて、おねえさまは確かに美人ではありましたが、スタイルは細身ゆえ、オッパイは目を見張る的な大きさではなかったので、わたくしは基本的に顔しか見ておらず、たまたま全体像として見て、初めてピンコ立ち乳首に気付いたのでした。

 これは教えたほうがいいのか、どうしたものか。
 おねえさまは女王様なので、私に辛く当たることも多くあるが、たまには優しいではないか。
 そんなおねえさまが笑われたら、下男のわたくしはツライではないか。
 ってゆうかワザとじゃね? ピンコ立ち。
 ってゆうかいつから下男なのよ俺。

 いやいやそんなわけはない。おねえさまはそういうタイプではない……多分。 
 そういうタイプだったらどうしよう。ジュンときちゃうな。
 いやいやいやいや、その“ジュンときちゃった《 宇能鴻一郎ネタ》は今時誰もわからないと思うぞ。

 とにかくあたしは考えたんです。じゃなくてわたくしは考えた。
 ジュンと濡れつつ考えた末に、そうだ! 手紙を書こう! と思いついた。
 そして、ルーズリーフを一枚引きちぎり、こう書いた。

  ―――――――――

  ティクビが立ってます

  ―――――――――


 その紙を急いで二つ折りにし、オモテには(外へ出て読んで)と書き、更に急いでお茶を用意し、お茶を乗せたお盆に添えて、おねえさまに手渡した。

 手紙を受け取ったおねえさまは、表書きを読んで怪訝そうな表情になり、お客さんにお茶を出してから「失礼します」と声をかけ、私がいたドアの反対側のドア――よくわからないでしょうけど裁縫工場を改築した建物だったんで変な造りだったんですよ、そこ――から、廊下へ出て行った。

 お客さんに一礼をし、事務室へ戻ったわたくしは椅子に座って、やれやれと胸を撫で下ろそうした刹那、廊下からおねえさまが山田花子まるだしの顔で事務室へ飛び込んできた。

そして大声で、こう叫んでしまった。

「ちがうの! これちがうの! 乳首じゃないの! これね、ブラジャーが余っててね、なんかこう乳首みたいに見えちゃってね、やー、あたし今朝なんとなくヤだなって思ったんだけど、やっぱりこれ付けてこなきゃよかった、んもうっ!」

 先ほど、職場について――工場を改築した建物、云々――と書いた。
 なので、《会議室》とは名ばかりで、ひとつの部屋を薄い壁で仕切って作った《ただの間》に過ぎない。
 おねえさまのご乱心ぶりは、お客さんにまる聞こえである。
 しかし、おねえさまはそれに気付かなかったかのように再び会議室に入っていった。

 数十分後、お客さんは帰っていった。
 玄関でお見送りをしたおねえさまが、受付の窓越しに私をちらりと見、それから恥ずかしげにニヤリと笑って、廊下の奥の更衣室へ消えていった。

 数分後、戻ってきたおねえさまは、椅子に腰掛けつつ、こう言った。
「……余ってるところにテイッシュ詰めてきたさ」

 なるほど、乳首らしきポッチは消え、かてて加えて思いのほか胸がボリュームアップした感さえもある。

「おねえさま、ナイスアイディアです。しかし……さっきのアレ、絶対聞こえてましたよ、お客さんに」
「やだ、聞こえてたべか」
「聞こえてたって。あったりまえじゃないですか」
「だってお客さん、リアクション無かったよ」
「見て見ぬふりしてくれてたんだって。ったく、もう。俺が気ィ遣った意味無いじゃないですか。ってゆうかティッシュもりもり詰められるほど余ってるブラジャーってのもどうよって話ですけど」
「ィヤハハハハハ!! もりもりじゃないって! かたっぽ四枚くらいだって!」

 思わず、(そのティッシュ俺にくれよ!)と言いそうになったのは不思議の森の仲間たちだけのヒ・ミ・ツ。

  おしまい