ブスと美人について思うこと~参加してないゲームの敗者みたいに扱うのはよせ~


「ブス」と言われながら生きてきた人生について書かれた文章のコメント欄で、こんな文章を書く暇があれば美容院に行って可愛くしてもらえばいいのに、というコメントを見た。こういう意見はわりとよくある。美人は美人になる努力をしているんだからブスは努力しろ、というもの。でも思うのだ、誰もがそのゲームに参加してるわけではないのだよ、と。

たとえば私の学歴は大学院出である。でも私は大学院に行かない人にバカとは言わないし、「そんなメイクしてる暇あったら塾行って賢くしてもらえば」とも言わない。人の得意分野は人それぞれだ。私の快適に関係ない、その人の願望にない、その人の能力的に向いてないことをわざわざ他人である私がさせようとはしない。

が、可愛くなることについて、世間は、可愛くなる願望が本人の優先順位的に高くもなく、能力的にも低い人間にも、当然のように「可愛くない」「可愛くなる努力をしろ」「可愛くなる努力が足りてない」と言う。可愛い人が目の前にいて幸福感が生まれるのはわかるけど、可愛くない人がいたって殴られるような痛みはないはず。

たとえば目の前の他人が体格や体質的にひ弱だったとして、それで腹痛にさせられる人はいるだろうか。だから、筋トレしたくもない、本人がそれを必要としてもない人に「軟弱!」って暴言はいたりあざ笑ったりして何になるの。と思う。

つまり、そのゲームに参加してない人をそのゲームのルールで裁くな、と。

人はみんな別人で、別の願望をもち、別の能力をもって、別のものを大事にして、けっこう別のゲームを生きてる。だから、そのゲームに参加していない人を、その参加してないゲームのルールで裁くのは単なる失礼であり、あなたが、自分と人は同じだと勘違いしてることをばらまくだけだよ、と思う。

もちろん、参加してればなじっていいって話じゃない。なんでそんなになじりたいのか、正直意味不明だ。

でも、とにかく、社会でみんなが参加しておくべきゲームは、「人を殺さない」とか、「人の物を盗まない」とか、もっと違う質のことだと思う。

ブスじゃなく美人になることが、「ブス」と言って誰かをいやな気持ちにするより大事なルールだとは、私は思わない。

それぞれの生きてるゲームで発揮されるそれぞれのよさが合わさって、様々なゲームを生きている社会の一人一人全体が居心地よくなっていったら、それが一番いいなと思う。

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