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what a fool believe - 愚か者が信じること

今から11年前、まだ健在だったジョブスのiPadのkeynoteを夜中に見て感じたこと。

さてそれから、本の状況はどれくらい変わったのか、あるいは変わっていないのか。

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What a fool believes | 2010/02/20

ジョブスのkeynoteを見て、柄にもなく「本の未来」のことを想う。

AppleやAmazonは、本の、ひとつひとつ独自にデザインされたパッケージは不要になる、音楽がそうであったように、共生という形態がしばらくは続くとしても、世の中のマジョリティが、やがて「読むもの」というコンテンツに、パッケージがなくてもかまわないと考えるようになるということに、確信を持っているようだ。

そして、そういうコンテンツの新しいパッケージがKindleやiPadであり、ジョブスの眼は、それをデフォルト・プラットフォームにするための(iTunes のような)キラーアプリに向けられているように見える。

単純にその情報だけが必要とされるものであれば、パッケージに固執する理由はないはずだから(たとえば辞書や辞典は、ひょっとして新聞も、すでにそうなっている)、世の中の大半の書物がデジタル化されることになっても不思議はないけれど、それほど楽に、その変化が進むとは思えない。

本は立体なんだ。

一冊の本は、表紙や版型や紙質や文字組みといったデザインプロセスを経て、ひとつのオブジェクトとして記憶される。さらにそれは、手触りや匂いあるいは佇まいといった、「眼」ではない感覚にさえおよぶ。

そして本が他の情報媒体と決定的に違うのは、その立体がそのままコンテンツであることだ。

たとえば音楽のメディアは、それだけでは機能しない。
CDなら、そのCDをプレイヤーに入れければその音を聴くことはできないし、iTunes からダウンロードしたデジタル音源は、 iPod のようなデジタル再生機がなければ音にならない。しかもその音のクオリティは、そのoutputによって、劇的に変わる。たとえ音源が同じでも、JBLで聴くマイルスと、イヤホンで聴くマイルスとでは、まったく違う。

ところが本は、時や場所を問わず、そのまま本として読まれ、しかもどんな状況でもそこに記録された情報の質が変わることはない。だから本は、本であることがすべてで、内容と形態が一体化した、”unchangeable” なオブジェクトだといえるんじゃないだろうか。

そしてそれは、これまでそうだったように、たぶん、ずっと変わらない。

”Books are not just for reading“

そんなタイトルをつけた少し前のエントリーで、こんな風に書いていた。

本というものをただの情報源と考えてしまうと、読むことと読まないことの間に情報的な優劣がついてしまう。でも本を読んで得ることと、そのことで失うこと、本の before – after は(それは本に限ったことじゃないのかもしれないけれど)、実は常にゼロバランスで、読んでしまったことでその内容にスポイルされてしまったり、費やした時間がもったいないと感じる本はいくらでもあるし、そもそもただ読んだだけで、その本をちゃんと理解しているかどうかなんて誰にもわからない。

橋本治が、読んだことのない本のことを、読んだ人以上に知っていたというのは有名な話だし、長嶋茂雄がある作家に言った「読まなくてもわかります、いいに決まってます」というコトバ。

そう考えれば、「読むこと」と「読まない」ことに、それほど差異はない。

本の存在を感じること。

本は眺めることもできるし、触ることもできる、その佇まいだけで感動することだってある。そしてなによりも、「読書と引き換えに何も求めない」ってことが大切なんだと思う。
何も求めなければ、得られるものはたくさんある。

デジタルブックとは別の世界の話、なんの根拠もない盲目的な確信。
iPadが、キャズムを超えられるかどうかは、ジョブスをもってしても微妙なところじゃないかな。

とにかくまずは、風呂で読めないと話にならない。

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