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「経験値のチカラ」

「経験値のチカラ」

「学ぶ」というのは「経験値」を上げること。

初めて直面する問題には、
過去の知識を使って対処できるに越したことはないが、
実際には、初見の問題に上手に対応できる人なんてそういるもんじゃない。

それよりも
同じような問題が次にやって来たときに備えて、
どうするかを経験から学んでおくことの方が
生きていく上ではずっと大事なことだと思う。
初見の問題なんて大失敗でいい。

学生時代、数学が得意な人を見ていると
「どうやってもそんな解き方思いつかない!」
「どうしてそんな解き方を思いつくんですか?」
と思うことも非常に多かった。

数学の問題の解法を「ひらめく」(ように見える)理由は簡単だ。

それまで、
その問題を何度も解いたことがある。

それだけのことだ。

「こんな難しい問題、解けるはずない!」
と嘆くような問題でも、得意な人は簡単に解いて見せるのは単純にそれが理由だ。

「数学が得意」という人は、
そうじゃない人よりもたくさんの問題と出会い、解いてきたにすぎない。

単なる経験値でしかない。

その先に「ひらめき」や「勘」がある。
経験値がないと「ひらめき」はやってこない。

つまり、
どんなに簡単な問題でも初めて出会う人にとっては難問であり
どんなに難しそうな問題でも、何度も出会う人にとっては簡単である。

自然の中にある数々の法則を経験によって学び取り、
知識として人間は生活を向上させてきた。

カレンダーなど存在しない時代から
いつ田植えをするべきか、
いつ頃どの野菜を植えるべきか
などはわかっていた。

もし自然界に法則性などなく、
1日の長さ、一年の長さ、地軸の傾きなどが
不規則で定まることがなければ、誰も作物を育てることはできないし
時計や時間という感覚そのものがなかっただろう。

つまり人類は、
自然の中に隠れている規則性を
何度も何度も繰り返すことによって発見し、
経験として身につけ、より良い生活をし、
発見された規則性を次の世代に伝える。

ということを繰り返して成長してきた。

経験が難しいことを当たり前のことに変えてくれる。

そうして、
新しいことに対する「ひらめき」が鍛えられていく。

「なんとなくこうだと思う」
という仮説が、真実に近くなるためには
その前に数多くの「経験」が必要なのだろう。

多くの人は、ひらめきが得られないからという理由で、
やる前に「得意・不得意」を決める。

でも、得意か不得意かなんて関係なく、なんか面白そうだと思って
そこに入り込んでいくと「経験」が増え「得意」になり「ひらめき」が得られるのだ。

得意なことを探していたら、人生が終わってしまう。

だって、得意なことはいつもやっていることの中にしか育たないものだから。

どんな分野でも壁を突破しようと思うのなら何度も何度も経験しよう。

「もういっちょこい!」

が「ひらめき」の源なのだろう。

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