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【インタビュー】「経営者になる」という夢を叶え、市議会議員にもなった、ポジティブにチャレンジし続ける人。

 このnoteでは、社会のセイフティーネットから漏れた友人支援ための「寄付などの返礼品としてのインタビュー」を、ご本人の了承を得て掲載しています。ここに登場するのは「微力ながら」と寄付を申し出てくれた一般の人たちですが、今回インタビューさせていただいた横内さんは寄付ができないお立場にあります。でも「力になれたら!」と熱い思いでおっしゃってくださったので、今回に限って、寄付ではなく報酬としていただきました。この支援のための活動資金(インタビューのための交通費や支援物資の送料など)にさせていただきます。2時間にわたる横内さんのロングインタビューを読んでいただければ幸いです。

横内博之さんヒストリー

 横内さんとの出会いは取材でした。横内さんが経営される四国中央キャリア主催の「高校生ビジネスプラン・コンテストin四国中央市」の授賞式を取材に行き、愛媛の片田舎で、こんな都会的な取り組みをされている方がいるんだ!とワクワクしたことを覚えています。共通の友人や知人が多かったこともあり、それからは、いろいろと接点を持たせてもらって、横内さんのアイデアと行動力にいつも「早い!凄い!」と思うのでした。

 私の印象で横内さんを語ると「ものすごく頭の切れる、人柄のいいひと。性善説で生きていて、根っからのポジティブ思考。アイデアと行動力がずば抜けていてすごいんだけど、親しみやすい子煩悩パパさん」です。

 そんな横内さんから、インタビューをお申し出いただいた際、どうやったらこんな風に育つんだろうと、とても興味があったので、根掘り葉掘り聞きました。本当は、現在の活動のための、序章として、育ってきた環境などを聞く予定でしたが、私の興味が尽きず、2時間のインタビューのうち序章部分に1時間半もかかってしまい、今回のインタビューは、ほぼ「横内博之ヒストリー」となりました。そんな横内さんの子ども時代からの物語を、ぜひ読んでいただければと思います。

おばあちゃんと過ごした子ども時代 

 横内さんは、愛媛県四国中央市に、3兄弟の真ん中の子として生まれました。3才上のお姉ちゃんは、弟と妹に安心感を与えてくれるような存在。そして、2才年下の妹とは、顔も性格もよく似ていて、波長が合ったそうです。「僕より妹の方がスペックが高いんです」とは横内さん談で、当時も今も、仲のいいご兄弟のようです。

 そんな3兄弟を育てられたご両親について尋ねると、「父は厳しかったですね。そして、あまり子育てには参加していなかったように思います。母は働いていたので、学校から帰ったらおばあちゃんがいて、ご飯も作ってくれました。小学校から高校までは、おばあちゃんと濃密に過ごしていました。おばあちゃんっ子でしたね」とのこと。それはさぞかし、優しく育てられたのだろうと思って「怒られたりしないですよね」と尋ねると、「いやいやいやいや、めちゃめちゃ怒られていました。博しっかりせんかい!ちゃんとせえ!ってよく言われていました」と予想外の答えが返ってきました。

 そんな横内さんの小学生時代は、「ワンパクで天真爛漫で、今小学一年生のうちの息子によく似ています。人の話を聞いていなくて、自分の世界に入って、楽しいことだけをやっている子でした。雨が降ったグラウンドにできた水の流れをせき止めてダムにしたり、学校帰りに葉っぱの船を作って川に浮かべて友達と競ったり、石を蹴り続けながら帰ったりしていました」とのことで、絵にかいたような小学生男子だったようです(笑)。

 学校以外では、スポ少の野球チームに所属していて、セカンドの9番。でも当時は筋力もなく、ひょろひょろひょろでバットを振ってももなかなか飛ばなかったそうです(スポーツ万能のイメージだったので意外!)。

横内さんらしさが見え隠れする少年時代

 「守備がうまいわけでもなく、試合でミスったり、バッティングもいいところで打てなかったりしましたが、他の人と比べて自分は何が秀でているか?を考えて、バントなどの小細工で活躍していました(笑)」

 また、「スポ少の陸上大会のときも、長距離は皆嫌がるけど、一生懸命やっていたら結構上位に入って、それがおもしろかったです。人より秀でていることがうれしくて、タイムが伸びていくのが快感でした。そして、それを日々感じながら、自分の限界に挑んでいました」とのこと。

 できないことに劣等感を感じて落ち込むより、人より秀でている自分の強みを見つけて、コツコツと伸ばしているその横内少年の姿に、今の横内さんの片鱗が見えました。

中学から高校時代

 ところが、中学生になり入部したバレー部は2週間で退部。持ち前の跳躍力と器用さで、上達の早い横内さんに部員から嫉妬の眼が向けられ、居づらくなったようです。親や先生にも相談して退部を決意すると、今度はサッカー部に入部し(切り替えの早さはさすがです!)、3年生の引退まで続けたそうです。

 勉強の方は、授業を真面目に聞いて、180人程の学年で20~30位をキープ。かといって「10位以内に入るぞ!」といった、上昇志向もなかったそうです。

 中学卒業後は地元の高校に入学し、2年生くらいのときには「経営者になりたい!」と思うように。その背景には「経営者になったら、自分のやりたいことがやれる!」という思いと「地元が寂れていくのを何とかしたい!」という思いがあったそうです。さらには、小学校の時に期待値高めで行った職場見学の会社で、働く人たちのモチベーションが低かったのがあまりにもショックで「こういう職場や仕事ばっかりだったら、帰ってきたくないよなぁ」と思ったことも影響したようです。

 大学受験では「丘の上にそびえ立つ緑豊かな大学」というパンフレットのキャッチコピーに惹かれ、和歌山大学 経済学部 ビジネスマネジメント学科の推薦入試を受けることに。自分が求めているゴールに一番効率よく行けるのが推薦入試だったため、そこに焦点を当てて受験勉強に取り組み、見事合格!晴れて大学生となりました。

大学時代に運命の出会い!

 「大学時代には、やれることを全力で楽しもう!」と、入学早々に大学祭の実行委員会に所属した横内さんは、そこで運命的な出会いをします。2年先輩の佐島さんという人で、視野が広く、対応力もずば抜けて高く、何でも笑いに変えてしまう彼の姿に「こういう人になりたい」と憧れたそうです。

 その佐島さんから、ブルービーンズショアという子どもキャンプのボランティアの話を聞いて、海が好きな横内さんは、そのメンバーに入ることにしました。それは、夏休みの数日間、小豆島のプライベートビーチで行われる、子どもたちのサバイバル体験キャンプをサポートするもので、「今の自分を形作っているのは、子どもキャンプのボランティアです」というほど影響を受けたそうです。確かに、この時の話をしている横内さんは、姿勢も前のめりで、目も表情もキラキラしていて、とてもうれしそうでした。

 そして、このキャンプを運営されていたのが、佐島さんのお父様で、「人生をかけてこういう人になりたい」と思うほど、魅力的な人だったそうです。子どもを引き付ける力や、リーダーシップに対しての考え方や、キャンプの運営に対しての情熱など、「全てにおいてこの人に勝てるものがない」と思える人で、会社経営をしながら、自分のやりたいことを存分にやっている佐島さんは、横内さんの憧れそのものだったそうです。

まさかの、就活失敗?!からの就職

 いい出会いもあり、大学生活を満喫した横内さんですが「僕、就活に失敗しているんですよ」とまさかの展開。内定した会社があったそうですが、「もしかしたら詐欺かもしれない」と思うことがあり、内定を辞退して10月に就職活動を再開。地元のフリーペーパーやフリーマガジンやなどを展開する和歌山の出版社に就職することになりました。「フリーペーパーやフリーマガジンは街の活性化のためにあるので、それを勉強するのにすごくいい環境になる」と思い、入社を決めそうです。

 出版社での仕事を通して、飲食店の店長などに話を聞いていくうちに、集客以上に人手不足に困っているお店が多いことがわかったそうです。さらに「どうやって育てたらいい?」と相談されることも多く、「これは、経営していく上でとても大きな課題だ」という気づきがあったそうです。

 そこで横内さんは考えました。「地元でフリーペーパーを作るより、人材領域に特化した方が可能性があり、四国中央市のためになるのでは?」。さらには地元が廃れていく寂しさや、これまで頭の片隅にあった様々な思いも重なって、「四国中央市から人材が流出しているけど、産業に対しての子どもたちの知識ってどうなっているのか?四国中央の企業も人材募集や、教育・育成の課題感が大きいのではないか?それだったら人材領域に特化した会社に就職した方がいい!」と、その出版社を1年1ヵ月で退職し、翌月から株式会社リクルートHRマーケティング関西で働き始めたそうです。

 営業として、求人広告を取ってくるのが主な仕事だったそうですが、入社時の適性検査で「新しいことをどんどんやった方が、能力が伸びやすい」という結果が出て、大阪⇒香川⇒鹿児島⇒宮崎⇒大分⇒福岡と、8年間で5回の転勤を繰り返したそうです。

 大阪勤務時代は、競合メディアからリクルートへ、お客様に広告媒体を切り替えてもらう特殊部隊のようなチームを立ち上げて活躍されたそうですが、香川県に転勤した際は、大阪時代の営業手法は通用せず、8~9カ月間は業績も、モチベーションも下がり続け「辞めたい」と思うこともあったそうです。でも、「リクルートには魅力的な先輩がいて、たくさん学ばせてもらいました。また、将来的に経営者になるという目標があったので、経営者の方々にも、いろいろ教えてもらいました」と学びの姿勢で、様々な試練を乗り越え、鹿児島県に転勤したときには奥様と出会い、ご結婚もされました。

準備期間を経て、いよいよ独立!

 8年勤めたリクルートを退職した後は、リクルート時代の先輩が立ち上げた、香川県の人材紹介の会社に就職。ここでは、人材紹介のビジネスモデルの勉強と、スタートアップして間もない会社での経営の勉強をさせてもらったそうです(ここでもだいぶ挫折はあったみたいですが)。

 ステップアップのための転職、そして、活躍や挫折も経験しながら、2016年1月、横内さんは四国中央市の活性化に繋がる人財サービス事業を展開する「四国中央キャリア」を設立しました。人事の3領域に重点を置いて、契約企業の「採用と配置」を考えたり、「教育×育成×評価」を掛け合わせながら、人材のモチベーションアップを図り、会社が成長するいいスパイラルを生み出していくというビジネスです。「収益の柱は法人中心ですが、自分のやりたいことの方向は、キャリア教育ですね」と横内さん。

 「僕の原点にあるのは、小学生の時の職場見学で(やる気なく働く大人たちの姿を見て)残念な思いをしたことですが、そんな会社ばっかりじゃなかったと思います。だから、子どもたちにはネガティブなことより、会社が生き生きと存続していることや、楽しそうに働いている人がいること、そして、面白そうな仕事があることなど、ポジティブな面を知ってもらって、四国中央市でもいい仕事や、やりたい仕事があるんだよ、ということを感じてもらいたいなと思うようになりました。それには”キャリア教育”という教育の手法があって、地元企業と連携して、地域の産業や企業の魅力を、子どもたちに伝えていくことで、地元の魅力に気づいてもらえます。そこを全力でやっていきたいと思っています!でも、収益化は難しいので、こちらはボランティア的な感覚でやりながら、メインの収益は法人で成り立つようにしていかなきゃ、と思っています」と熱く語ってくれました。

 そのキャリア教育のひとつが、2019年2月に行った、母校の中学校の少年式記念行事での企業合同説明会です。18社の地元企業に協力してもらい、中学校の体育館に会社ごとのブースを設置。生徒はあらかじめ下調べをして興味を持った仕事や会社のブースを2~3社回って、直接話が聞けるというもの。「子どもにとってはすごくワクワクする体験ですよね」と横内さん。この18社のうち1社は校長先生からの紹介だったそうですが、17社は横内さんの選定で「この経営者さんや従業員さんの声を聞いてもらいたい!と自信を持ってお勧めできる大人たちを連れてきました」とのこと。当日の「血沸き肉躍る」様子は、横内さんのブログでもたくさんの写真付きで紹介されていています。

 「日常生活を送っていたら大人と関わる機会は、なかなかありませんが、こういう授業を通して、キラキラしながら話す大人を見て、子どもたちにもワクワクした気持ちが心に残り、記憶に留まると思います。そして、高校や大学での就活のタイミング、また、子育てや親の介護などでUターンを考える年代になったとき、そう言えば、地元にワクワクする仕事があったなと、ポジティブに地元での就職を選んでもらえることが、人口減少問題に関わってくると思って頑張っています」。

そして、市議会議員に

 そんな思いをさらに広く叶えるために、横内さんはある決断をします。2021年の四国中央市議会議員選挙に立候補して、市議会議員となりました。その選挙活動は選挙カーを使わず、登りを立てた自転車で市内を駆け回るというもの。理由は、市税が投入される選挙カーやウグイス嬢の費用を少しでも抑えるため。「新人としてはリスクが高いですよね」と当時のことを振り返ります。

 一般的に、選挙活動には莫大なお金がかかるイメージですが、それだと、志のある若い人たちが立候補しづらいため、できる限りの低予算で市議選に当選するという実例を自らつくることで、若い人たちのチャンスの扉を開きたいという思いもあったようです。

 四国中央市議会議員となった横内さんのテーマは「子どもたちの未来に元気な故郷を」というもの。「子どもたちが将来地元に帰りたいと思えるような街にしないと、この街の未来はないと思います。人口減少問題の課題解決策には、移住推進などもありますが、四国中央市はまだ移住政策が弱く、近隣の市町村と比べて、来たくなる環境や魅力が強いわけではありません。まずは、地元で育った子が、地元に帰ってきてくれるようになったら、産業にしても、地域にしても活気は保たれます。今からの時代、人口を増やしていくのは極端に難しいので、減らす速度をいかにゆるやかにしていくか。そのためには、キャリア教育がひとつのキーワードだと思います。いろいろな人に協力してもらい、市としてキャリア教育の分野に特化した街、子どもたちにすごい学びをしてあげられる街として、広報できるような街にしていきたいです」と明確なビジョンを語ってくれました。

 具体的なプランとして、横内さんはこんな構想も話してくれました。「四国中央市は紙産業クラスタで、すごくいい素材が揃っています。紙の材料となるパルプを輸入し、紙を製造し、紙を加工し、その紙に印刷し、製品化したものを出荷し、輸送するという、産業の一連の流れを体系的に学べる貴重な地域です。夢物語かもしれませんが、他県から、修学旅行に来てもらって、産業を楽しみながら学べるようにできたらなと考えています。さらには、その子たちが就職するタイミングで、合同説明会などを行えば、四国中央市での就職につながるかもしれません」

 また「財政面でも子どもたちに負担を残してはいけないと思っています」との言葉の通り、選挙活動のときから、その意識を強く持つ横内さん。「限られた市の財政の中で、無駄のない、効率的な運用ができるよう、早めに改善していかなければいけない」と使命感が燃えます。他にも、消防団の詰所の老朽化に伴う立替案件や、現在150か所の要請がある、道路補正や信号機設置の交通案件など、あらゆる課題を抱えながら「現場に足を運んで、担当部署に話を聞いて、勉強していかなければ、フットワークがどんどん鈍くなります」と、精力的に活動されています。

 さらに、近隣の市町村に比べ、やや出遅れ感のある四国中央市のSNS発信も、他の市議から「横内君やっといて」と任せられているそうで、「市議会議公式ユーチューブチャンネル」も開設準備中とのこと。個人的にも、毎週1本の動画アップを課しているそうで、「みなさんがお休みの土日に見てもらえるように、金曜日の12時から土曜の6時にかけてが、編集ゴールデンタイムです」と、まさに寝る間も惜しむ忙しさ。

 その一方で、3人のお子さんを持つ横内さんは、日々、お子さんの寝かしつけをされる子煩悩パパさんでもあります。さらには、四国中央キャリアの代表取締役でもありますが、こちらは、市議なって活動時間を1/4程度に抑えたそうです。それより「市議として、市政に声を届けたい!」という思いを強く持って、ノンストップで突っ走る日々です。

 そんな横内さんに今後の展望を聞くと「とにかくアウトプットが多いので、インプットする時間を作りたいです。これまでは、インプットしてそのままアウトプットするという方法で勉強していましたが、今は、インプットの時間が少ないので、インプットして、考える時間を取っていかなきゃなぁと思っています」

 そして、「市議として、1年目はまず、幅広い知識をつけながら、プラスアルファで自分のやりたいことを実現していきたいです。いろいろ勉強させてもらいながら、市民の声を伝えられるようになりたいと思っています!」と、2時間のインタビューを締めくくってくれました。

受け継がれるDNA

 インタビュー中、横内さんは、質問に対してそれはそれは、とても丁寧に答えてくださいました。そして、子どもの頃の話などを鮮明に覚えていらっしゃる記憶力にも驚きました。きっと、幼いころから物事を見る解像度と、感受性がとても高かったのだと思ます。

 最後に、そんなDNAを横内さんに授けられたお父様のことを、ご紹介したいと思います。

 横内さんのお父様は、父親から工務店を引き継ぐも、経営がむずかしくなり、会社をたたんで、運送会社に就職し、長距離ドライバーになったそうです。でも、年齢と共に仕事がきつくなると、横内さんが中学生のころ、会社を辞めて家に引きこもって勉強を始めたとのこと。数年かかって土地家屋調査士や、社労士、行政書士などの資格を取得し、「若手が少なくなってきているから、自分がやるんだ」と土地家屋調査士になったそうです。

 そんなお父様のことを横内さんは「大人になって思うのは、子育てしながら会社を辞めて、勉強のために家に引きこもって資格をとるって、めちゃめちゃ覚悟がいることじゃないですか。そこをやっていた父親ってかっこいいな!と思いましたね。背中で見せるタイプですね」と語ってくれました。

 お父様の話を聞きながら、ステップアップのための転職や転勤を繰り返し、挫折を乗り越え、地元で会社を立ち上げ、市議に立候補するという、歩みを止めないポジティブなチャレンジ精神は、お父様から受け継がれたものなのかもしれないなと思いました。

 そして、そのDNAに突き動かされるような、横内さんのご活躍がそのまま、子どもたちの未来に元気な故郷を作っていくのだと思います。


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横内博之さん  四国中央キャリア 代表取締役 四国中央市議会議員




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