見出し画像

つづる。

このノートは人や地域の紹介がメインでしたが、2023年4月18日、私にとってターニングポイントとなるような日がやってきたので、ここからは、日々の気持ちをつづりたいと思います。

昨日の午前中、超多忙な友人たちが私のために時間をつくってくれた。ある決断のためだ。この流れは、4月9日の偶然の遭遇から急展開を迎え、昨日もまた新たな流れが生まれた。

私は何にせよ「決断」や「覚悟」というものが苦手だ。というか、よくよく考えると、今まで一度もちゃんとそれをしたことがない。就職活動や結婚も、覚悟や決断をした覚えがなく、なんとなくの直感や流れでイマココにたどり着いている。そんな私に友人たちが作ってくれた流れによって、私はとうとう人生初のある決断をした。覚悟はこれから。

これまでの人生は、楽しいことも素敵な人との出会いもたくさんあって幸せだなと思う一方、流れに身を任せてきた人生の折り返し地点に差し掛かると、1年後や数年後のあやうやさに不安になったりする。自分の足で歩いている実感もないままだったから、ちゃんと自分で決めた道を自分の意志で歩かなきゃと思うようなタイミングでもあった。

さて、そんな自分の意思のない人生に気づいたその日の夜、こんな投稿を目にしてしまった。

生活をさぼるな

この記事の著者がインドに行った際に言われたそうだ。
「君は仕事をしているかもしれない。でも生活をしてないよね」

私のことだ。仕事や活動など、目の前にあるタスクをこなすことに必死で、生活をさぼってばかり。なんて貧しい人生だろう。自分の足で歩いている実感のなさも、生活をさぼっている現れだ。

先日、自分の言葉に涙したことがあった。
母から電話がかかってきて、ちょっとタイミングが悪かったせいもあり、手短に話して電話を切ることになった。申し訳なさを感じながら咄嗟に出た言葉は「お母さん元気?」という言葉だった。

今月頭、3年ぶりに娘たちを連れて実家に帰省した。80歳になった母は、よくそれで独り暮らしができるね、というほど体にガタがきていた。実家でのんびりしようと持ち込んだ本は一冊も読めず、私は朝から晩まで家事や掃除に追われた。だからあまり元気でないことは知っていたにも関わらず、そんな言葉しか出なかった。でも、その言葉は今まで自分が放ったどんな言葉より優しかった。私もこんな気持ちで言葉が放てるんだと、心が熱くなって、その熱が目頭までこみ上げた。

心を使ってこなかったんだな。
思えば、それは子どものころからだったのかもしれない。

両親のいない従妹と同居していた私は、あまり自分の感情を出さないようにしていた。両親がいる自分の環境に申し訳なさを感じていたから。生まれ持っての気質だったのかもしれないけど、そんな環境の後押しもあって、友達や、職場の人たち、恋人に対しても日常的には感情を出さずに接してきた。というか、今現在主人に対してもそうかもしれない。生活を共にしているので、いよいよどうしようもないときには爆発しているが、それ以外は感情をぽろぽろと小出しにすることはない。そんなパートナーどうなの?ってときたま思う。

そんな私にとって、自分が優しい光を放った言葉を母に言えたという感動はすごく大きなものだった。今思い出しても涙がでる。ただ、この涙はどういう心の作用なのかはわからない。

感情を出せない分、あえて、自分の内側をさらけ出すようなことはよく、書いたり言ったりしている。そこまでふさいでしまうと、とても人と関わってもらえないと思っているから。だから、オープンな人と思われることもあり、ありがたい反面ごめんなさいという思いがある。

さて、こんな風に昨日は
決断してこなかった自分に気づき、生活をさぼってきた自分に気づいた。
感情を抑え、目の前のタスクをこなすことで、充実を装っていることにも気づいた。
入院中の義母様の優しい顔も拝めた。
夜には山好きの仲間と集まってある計画も立てた。

4月18日ありがとう。

今日から、覚悟の準備、はじめました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?