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真実と感情で、わかり合う

私にとって、他人や社会は、英語の発音くらい意味がわからない。

私は同じようにThを発音しているのに、「それ!」「ああまた違う。」「そうそれ!」「だからそうじゃないって。」「できてない。」「違う。」と英語の先生に直され続けた挙句泣いたことがある。

私にとって、あまりに理不尽だったからだ。同じようにやっていて、どうすれば良いかどころか、何がだめかすらわからないのに、延々と怒られる。

理不尽な常識と、常識的な真実

社会の常識も、これと何が違うのかわからない。

素直に正直な意見を面接で言えばいいと言われて、試しに本音をぶちまける。「そうそれが君の本音だよ、それを書けばいいんだ!」と言われたり、「いやまさかそんなこと本番で言わないよね笑」と笑われたり。良い本音と悪い本音があるのなら、本音で話せばいいなんて言わないでほしい。

他人の気持ちもそうだ。

私が言って欲しいことが、相手を傷つける。相手が良かれと思って言ったことで、私は傷つく。私は誰のことも傷つけたくないし、傷ついて「善意だったのに」とさらに怒られるなんて最悪すぎる。だから人との関わり方は、やっぱりよくわからない。

その点、真実は真実だ。1+1=2とかいう話ではない。いや数学も好きだが、もう少し「新しい発見」感があるもの。例えば、人間は生まれながらに社会的だとか。科学的や数学的に正しいと主張するのは、押し付け感がある。誰も否定のしようがないから。けれど、もう少しふわっとした哲学的な真実であれば、私もそう思うという仲間と、そうじゃない人に分けられる。その仲間たちとは、感情は共有できないけれど真実を共有できる。

私が絶対に正しいと実感した、この世の真理。それだけで、私はこの世界と繋がってきた。それがわかる人、それが見つかれば人生が楽になる人がきっといると信じる気持ちだけで、発信してきた。

発信と、伝える

「発信」が得意で、「伝える」のが苦手なのは、前者は好きな時にできて、後者は二人以上の息が合わないとできないからだろう。昔から、気分屋だし気分を大切に生きてきた。押し殺した感情の代わりに、その時の気分は信じることができたし、私を人間にしてくれていた。

だから、誘われるより誘いたいし、電話されるよりラインされたかった。誰かに直接伝えるより、その時たまたま必要な人に向けて、私がしたいときに言葉にして発信したかった。「気分」だけは感覚として残しておきたかったのかもしれない。

私は私を一生懸命、私のために生きる。それは変わらないから、誰かが気が向いたときに、私を使って幸せになってくれ。そういう利己的な利他があった。

とはいえ、発信にも多少、他人のことを考える作業が伴う。自分と相手の言葉の意味をすり合わせ、内容が役立ちそうな人にあなたに向けた文章ですと伝えるために、自分の状況を改めて書いたりする。それは利他的な利己で、他人のことを想像しながら自分の発見を書いていると、書くうちに発見がアップデートされる。他人に伝えようとすることで、真実がより多くの人に当てはまるものになるのだ。

利己的な利他と、利他的な利己。両方生まれる言葉を紡ぐ作業は、天職かなと思っていた。

ここに、感情が入る余地はあるのか

ただ一つ疑問なのは、なぜ私は感情で他人とわかり合おうとしなかったのだろうかということ。

真実は伝わる仲間だけいればいいと割り切れたのに、感情が伝わらなかったときは、理不尽だと感情で分かり合える仲間を探さなかった。

映画や絵のように、感情を伝える術を持っていなかったからだろうか。言葉の中でも、言語化は得意だけれど、心を動かすのは苦手なのかもしれない。泣けば理由を説明しろと言われて、理由を説明するようになったら感情が見えないと言われる。それこそ理不尽だなと思いながらも、後者の方がまだ社会で生きやすいと思ったんだろう。

伝えようとすることもやめるうちに、私の感情はたくさん氷漬けになっていた。

自分のことを感情を覚え始めたロボットみたいだと思っていたけれど、私は普通に人間で、たくさんの感情を感じるたびに封印してきただけだった。

私はまず、自分の感情に目を向けることから始める。

感情が入ったら、完結していた利己と利他がどう形を変えるのか、全然想像もつかないけれど、その時を待ってみようと思う。


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