始まりの終わり方
『つまらない大人になってしまったな』
二つ歳の離れた従兄弟と久し振りに会って話をした帰り道、不意にそう思ってしまった。
故郷の新潟で建築会社を営み、夢のマイホームとやらを購入して奥様と三人の子供達と幸せに暮らしているらしい。
次は車を買い換えて、四人目の子供の事も考えていて、会社は順風満帆で、来週は家族でプールに行くんだ……と、どれも自慢気に語っていた。
自分には考えられない事なので、従兄弟の事は尊敬している。少し羨ましくもあって、そういう人生がもしかしたら"成功"と呼ばれるのかもしれない。
しかし同時に強く思ってしまった。
『つまらない大人になってしまったな』
と。
反対に、僕はといえば……
朝陽が顔を出す水平線に向かって服も脱がずに海へ入って、余裕で乗れる終電をわざと見送って徒歩八時間かけて自宅まで歩いて、生きている実感が欲しいが為にコンビニで珈琲を買って、急に世界から忽然と姿を消して初めから実在していなかったように終わる方法を考えて……
「よくわかんねぇよ」
と従兄弟が話を遮って、僕もまったく同意見だとその発言に肯定した。
一時期は『何者かに成りたい』と思っていた。
漫画家だったり小説家だったり喫茶店のマスターだったり、そういった一言で言い表せられるような人間になりたかった。憧れていたし、格好良いと思っていた。
しかし、いざ実際に周囲からそう呼ばれるようになった時に激しい違和感に襲われたのを覚えている。
なんというか「それしか出来ないんでしょ?」と言われ続けているように感じてしまって、とても窮屈な箱に自ら収まりに行ってしまったみたいで辛かった。
何者かに成る、という事は同時にそれ以外の何者にも成れなくなる……謂わば終着地点のようなモノだったのだ。
それからというもの、必死になって『何者にも成らない』という一心で未経験、未体験の事に次々と手を出しては足を洗い……を繰り返して何者でも無い人間で居続ける努力に終始した。
けれども、それは端から見たら浅瀬でぴちゃぴちゃ遊んでいる子供の児戯くらいにしか思われない、残念な人間に成り下がってしまうという事に気が付かずに居た。
結果的には『何者にも成らない』=『何者にも成れない』という……それこそ二十歳以前に感じていた踠きの時期に酷似した状態で、大人の皮を被った子供に"成った"だけだった。
僕は泳ぐ事が不得手で、海やプールに入る事は苦手だった。
それでも海もプールも大好きだった。
いつも海へ行っては、砂浜や浅瀬の水際でも楽しめる事を探してはそれを面白がった。
プールへ行った時も、プールの縁に座っては足だけを水に入れて足湯の様に楽しんだ。
だったら、今の現状も同様に面白がって楽しめる筈だと思った。
また『何者かに成りたい』という考えに戻るよりも『何者にも成れない』状態をどれだけ楽しめるか。
思考や行動の切り替えの早さには自信がある。
それは、そうしなければ生き残れなかった幼少期から青年期頃を生き延びた……という強い自負があったからだ。
頭も身体も、一瞬でも止まったら死ぬ。
そういう毎日を生きていた。人生も人間も狂ってしまったあの時期があったからこそ、今もこうして頭も身体も動き続ける事をやめない。やめさせてくれない。
考えてる間に死ぬ、動かない内に死ぬ。
死ぬ事は怖い事だから……考えて動き続けて止まらないで何処かしらへ進み続ける。
ある種の"諦め"だと自分では思っている。
何をやっても何をやらなくても、何が出来て何が出来なくても、何に成って何に成らなくても、なんでもいい。
"なんでも"楽しめるなら、なんでもいいじゃないか、って。
「よくわかんねぇよ」
と従兄弟が言って、僕もまったく同意見だとその発言に肯定した。
『わかんねぇ事って、知りたくならない?』
と僕は返した。
従兄弟は少しだけ逡巡して……
「いや、それもわかんねぇ」
と言って話は終わった。
その会話のやり取りの前の他愛無い近況報告も含め、従兄弟とするべき会話は全て終わり……僕らは別れた。
『つまらない大人になってしまったな』
そう思った帰り道。
それは従兄弟と自分、どちらに向けて思った言葉だったか……
僕は、解らない事は知りたくなる性分だ。
だから今日も、自分がつまらない大人かどうかを知りたくて鏡を見て人と会話して机に向かって筆を走らせている。
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