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【遺ば書】

初めて瞳を閉じた日の事を覚えている。それは自分がまだ四歳の時、両親がりこんをすると聞かされた時だった。

僕にはまだりこんという物は理解出来なかったから、父とは二度と会う事は無くなって母とは毎日会えると教えてくれた。

そう教えてくれたけれどそれまでも殆どの日々を母と一緒に過ごしていたので、結局りこんという物は理解出来なくて"両親がりこんをする"という事が僕と何の関係があるのかも想像すら出来なかった。

そうして父は、初めから居なかったかのように忽然と姿を消した。
その時「もう二度と会えない」という意味をぼんやりと理解して、僕はそっと瞳を閉じた。

父が居ない。
それが僕の人生と何の関係があるのかについては議論の余地だらけだった。


二十歳の夏、祖父と新潟へ行った。
新潟は祖父の故郷で、毎年決まって夏になると祖父は新潟へ足を運んだ。

僕は毎年では無かったけれど、二十歳の夏……特に理由もなく祖父にくっついて行った。

祖父は工事現場の足場を組む際に使用される鉄骨やボルト等を運ぶ仕事をしていた。
その関係で、自家用車は仕事と兼用のいすゞのトラックだった。
当然新潟へも、そのトラックで向かう。

祖父の運転するトラックの助手席で聴く、ラジオの音が好きだった。座席が高く、周囲の車より見通しの良い車窓からの景色が好きだった。僕は煙草が苦手だったけれど、運転しながら煙草を燻らす祖父の横顔が好きだった。

新潟へ向かう道中、約四時間の道程の中で普段は寡黙な祖父が新潟に住んでいた頃の自身の武勇伝を交えながら目に映る山々や建物の名前を教えてくれるのが好きだった。

新潟の夏の夜空が好きだった。星が丁度腕の長さ位の距離にあって簡単に掴めそうな程で、街灯一つ無い山奥なのに本当に明るかった。視界が星に遮られて、何処を見ても星だった。

それから一年経たずに、祖父は死んだ。


小学五年生辺りからイジメの内容は過激さを増していった。上履きをゴミ箱に捨てられたり、ノートを破られる……という日常から突然、クラス全員の前で全裸にされ帰り道に砂利や泥水に顔を突っ込む事が日常に変わった。

特に女子や男子に関係無く、他人だけれど毎日顔を合わせる人間の前で洋服や下着を脱がされ局部を露出する行為は精神的にかなり堪えた。
それからは動物園に行っても、もう動物達の前で笑顔にはなれなかった。


母は僕が産まれる以前から、極度のアルコールとタバコの依存症だった。
当然、妊娠中にそれらを止める事が出来る筈も無く……胎内の僕に深刻な影響を及ぼした。


二十歳の夏、祖父と新潟へ行った。
その小さな旅から帰った数日後、僕は「免許が欲しい」と家族に伝えた。
新潟には二つ年下の従兄弟が住んでいた。その従兄弟は既に免許を持っていて下手な運転技術ながら好きな音楽をカーステレオで流しながら楽しそうに車を走らせていた。

それを見て羨ましいと思うよりも一瞬先に、悔しいと思った。


中学一年生の夏から、本格的に不登校になっていた。
産まれた時から病弱だったので、それまでもずっと学校を休んだり早退したり遅刻したりとほぼ不登校に近い状態ではあったのだけれど。
完全に『行かない』と自分の意思で不登校になった。
不登校にはなったが、引き籠りにはならず毎日の様に外出した。

が、そんな生活は長くは許されなかった。

家族に学校、市役所の人間までもが総動員して義務教育の"義務"で縛って引き摺り、どうにかしようと躍起になっていた。

祖母は、いつでも優しかった。
僕に対して怒った事等は一度も無かったし、初孫という事もあり文字通り溺愛されていたように思う。
しかし二十歳以前の自分は、優しさを受け入れる器が無くて事ある毎にその優しさを「鬱陶しい」と邪険にした。


まだ父と母と三人で暮らしていた時の事を、僅かな記憶ながら断片的に覚えている。
自宅の前に四方をフェンスで囲われた大きな空き地があり、そこでは馬が放し飼いで毎日気持ちよさそうに走り回っていた。
自宅は人がギリギリ住めないくらいのボロ家で、風呂場や台所ではよくネズミが走り回っていた。
俗に言う貧乏な家庭だった。


地元の桜祭りが好きだった。
じゃんけんをして勝ったらもう一本貰えるチョコバナナが大好きだった。
大好きだったので最低でも二本は食べたいと思い毎回二本買うのだけれど、必ずじゃんけんで勝って毎年四本食べるのが自分の中で恒例だった。


祖父の葬式では悲しみよりも緊張が上回っていた。
いつだって初めての物事を行う際は緊張をする。葬式も例外ではなかった。
周囲の動向に集中して、それに倣い同じように動いた。
最後に棺の中の祖父の周囲を花で埋め尽くしてあげるらしい。花の名前は忘れてしまったけれど、僕は中でも一番綺麗だと思った大きくて白い花をいくつか手に取って祖父の顔の左側面にそっと添えた。
この後、棺の蓋をしたらもう祖父の顔を見る事は出来ないという旨を告げられた。
その瞬間の事を、今でも思い出す。それまで緊張から半ば他人事のように葬式を傍観していた僕だったけれど『最期に声をかけてあげて下さい』と言われ、そんな言葉を用意していなかった僕は祖父の顔に触れ「ありがとう……ばいばい」と口にして、暫くの間、泣き続けた。


市内に住む不登校の子供達だけを集めた児童施設のような所に通い始めたのは中学一年の夏だ。
中学一年から三年生の男女で、学年も性別もバラバラの子供が合わせて15名程が在籍していた。


母の事が苦手で嫌いだ。
今現在、この文章を書いている瞬間も変わらず苦手で嫌いなままだ。
顔を見れば苛立ってしまい、会話は持って数分しか成立せず、一緒に居たい等と思った事が無い。今後、一生会わないのならそれでも良いとさえ思う。
ただそれでも、母が先に死んだ時には僕はやはり泣くだろう。
苦手でも嫌いでも、本能的に解るのだ。
愛しているという事が。


二十歳の内に運転免許を取得した。
夏、新潟から帰り直談判をした直後から僕は連日自転車で四十分近くかかる教習所にほぼ休まず通った。
学校もろくに行かなかった人間が、数ヶ月間も学校の様な所に通う……という事は家族を含め周囲の人達に少なからず衝撃を与えた。

教習所の費用は全額祖父が出してくれた。
祖父としては、僕が免許を取得する事で毎回自分が運転する面倒を減らしたかったというのもあったみたいだ。

取得したばかりの免許証を見せて、一番喜んでくれたのも祖父だった。意外だった。
祖父は人の事を褒めたりするような人間では無く、自らを含め身内には厳しく……他人には優しい、そういう人だったからだ。


祖父が死んでから暫く経ち、家族で食事をしている際にふとしたタイミングで僕の話になった。
両親が何故りこんしたのか。
笑いながら誰かが言った言葉が、頭から離れない。
「お父さんはお母さんの事が大好きだったんだけど……子供が産まれたらお母さんは子供の事が一番でお父さんは二番になっちゃうじゃない?で、お父さんは子供に酷く嫉妬して家にも帰らず女と遊び酒に溺れちゃったのよ」

そして急に思い出したのだ。
母親の口癖を。

「私は子供なんて欲しくなかったのに、お父さんが欲しいっていうから産んだのに。私だってもっと遊びたかったのに。」

食事の最中、僕はトイレに行くように席を立ち上がって店を出た……用を足すように、命を断とうと思って。


児童施設から卒業して半ば強引に高校進学の話をトントン拍子に進められ推薦状を書くからと入学試験を受ける運びになった。
県内でも名の知れた公立高校だった。

教科書や参考書を読めばある程度は理解出来たり答えが導き出せたりして、僕は学校に通わず独学でも特に問題の無い人間だった。吸収力や応用力が異様に高い、とはその後の運転免許取得の際にも言われる事になる言葉だった。


その日は寝起きから何かが変だった。
普段から立ち眩み等の症状が比較的多く出ていたけれど、目が覚めた瞬間からずっとバランスが保てなかった。ずっと足場の悪い平行棒の上を歩いている様で、左右に揺れながら身支度をして家を出た。少し酷い目眩がするだけで、暫くすれば治まると思っていた。
電車に乗って数分後、電車の揺れとは別に既に座席に座っていられない程に目眩は酷くなっていた。
これは明らかに異常だ、とその時漸く悟った。生憎、乗車している電車が快速で次の駅までは10分近くあった。
もうほぼ座席二つ分を使い横たわる様にしながら、なんとかその時間を耐え切りふらつく足取りで到着した駅のトイレまで這った。
個室トイレの便座の蓋を下ろし、静かに腰掛ける。まずは職場に電話をしなければ、と考え定まらない視点と覚束無い指先で電話を掛ける。
どう説明したものか自分でも状況が解らないので「目眩が酷くて職場まで辿り着けそうにありません……正直、今もどうすれば良いか、このまま引き返して帰宅するのも難しい状態です。」とパニックに陥りながらも状況を伝える。取り敢えず仕事は休んでも良い、という言葉を頂けたので少し安堵する。
様子を見て帰れるようなら帰って、何かあったらいつでも連絡するように……と言われ電話は切れた。
電話が切れたのと同時に混乱と緊張と不安が一気に綯交ぜになっていた所で、その絡まった糸も切れたようで……目眩が爆発した。
天井が地面に落ちて、地面は壁を這って天井を流れていた。
遊園地に【コーヒーカップ】の乗り物があるのを知っているだろうか。
コーヒーカップ状の円形座席に座り、くるくる回るアレだ。
中央にはハンドルが付いていて、それをふざけた仲間達が力任せにぐるんぐるん回して回転スピードが上がったコーヒーカップは目眩製造機と化す。
アレに今朝からずっと乗せられている、と言えば目眩の度合いが伝わると思う。
そこから、帰宅する選択を選ぶのだけれどそう簡単に帰れるとは思っていなかった。コーヒーカップに乗りながらの帰宅は、困難を極めた。


結局そのまま帰宅する事は叶わず、折り返し乗った快速電車の到着駅からタクシーで総合病院へ向かい診察と検査を受ける事になった。
結果は【良性発作性頭位めまい症】というモノだった。
これ自体は、一般的に誰にでも起こる症状の一つで、例えば勢い良く後方へ振り向いた時に一瞬目眩のようなふらつきは誰もが経験する類いの事だろう。
それの最高に酷い症状がたまたま自分に当たってしまった、という事だった。
ストレスや睡眠不足、運動不足やら色々と条件が重なると酷くなり易いという事で「なるほど……」と納得した。

それから2週間近くは、少しでも動くと目眩が誘発される状態だったので殆どの時間をベッドの上で、しかも同じ体勢で過ごした。
仕事の方が遥かに楽だと思える程、辛く修行のような2週間だった。

旅行に行く目的は、主に3つあった。
一つ、人々との交流。
二つ、未経験の"未"を取り除く。
三つ、祈りを捧げる。


僕の誕生日は3月11日。
記憶にも記録にも残る、東日本大震災が起こった日だ。
あの後、自分は被災された方々の為に何が出来るか……と考え、しかし何も行動を起こせずに居た。

父は子供が欲しかった。けれど邪魔になった。
母は子供が欲しくなかった。から邪魔だった。
じゃあなんで僕が産まれたのか……解らなかった。


肉体的、精神的なイジメで完全に人間不信になっていた。
イジメてくる男子も、優しく接してくる女子も、話を聞くだけの大人も、何処を見ても……誰を見ても良い印象を抱けずに居た。ずっと。ずっと。長い間。


免許証を受け取り、正式に公道を自家用車で走行出来る許可を得た。
その足で急いで帰宅すると、祖父が「車買ったぞ」とHONDAのオデッセイという中古のワゴン車を自慢気に見せてきた。
僕の為に……ではなく、祖父自身の趣味である釣り用に荷物を沢山積めるように大型ワゴン車を買ったらしい。
スポーツカー、とまでは言わないけれどそれなりに格好良い車に乗りたかった僕は今日からワゴン車に乗るのかと内心ガッカリしていた。


母は、僕が小学生の頃から二十代半ばになるまでスナックを転々としながら生計を立てていた。
そこで知り合った客と恋仲になったり、喧嘩別れしたり、再婚話が持ち上がったりが幾度もあったが結局は僕の義理の父には誰もならなかった。


ずっと兄弟が欲しかった。
違う、話し相手が欲しかった。
母は夜の仕事に就いている事もあって毎日のように帰りは夜遅く、それに加えて酒に酔っていてまともに会話が出来なかった。

祖父は口数が少なく仕事から帰宅するとすぐに趣味の畑仕事に夢中で、祖母はそんな中で炊事洗濯等の家事全般に追われ、たまに祖父母の畑仕事や家事を手伝ってはいたけれどその時に交わす会話というのは残念ながら僕がしたかった会話ではなかった。
僕は僕の話を聞いて欲しかったのだ。ただ、学校や児童施設でこんな事があったとか野良猫が懐いてくれたとか昨日の夕日が綺麗だったとか……そんな僕の会話がしたかったのだ。


児童施設で比較的仲の良かった女の子から、数年ぶりに携帯電話へメールが届いた。
『最近メイド喫茶で働き始めたんだけど、良かったら遊びに来てよ』
それは奇しくも祖父が死んだ直後で、僕は思いの外精神的にダメージを負っていて自室で塞ぎ込む様な日々を送っていた最中の事だった。

今思えば恐らく、正常な精神状態だったなら自分の性格上はいくら仲の良い女の子からそんなメールが届いたとしても「ゴメン」と断っていた。


東日本大震災の後、千葉県にある鋸山のロープウェイが震災の影響で暫く運転休止していたらしいが、安全確認が取れた為に運転再開されるというニュースを目にした。
何故かは覚えていないが、それを目にした瞬間に「じゃあ行かないと!」と謎の使命感みたいなモノが芽生えてしまい、翌日には鋸山へと向かう電車に乗って揺られている自分が居た。


自らの子供に彼女を取られたと嫉妬し、酒や女遊びに溺れた父に呆れた。
胎内に居る子供の事を考えもせず酒や煙草も止めず毎晩踊りに夜の町に繰り出していた母に呆れた。
どちらも内心、子供が欲しかった訳ではないのだから当然と言えば当然だと思った。

その子供が居なければどうだっただろう。
今からでは遅いか。いや、居なくなってみなければ解らない。


メイド喫茶への入り口へ続く階段の前で、既に10分以上右往左往している。
結局、僕は比較的仲の良かった女の子からのメールに「なんていう名前のお店?」と返信をして、仕方無いから一度だけ遊びに行ってやるか……等と少し上から目線で教えられた店の前まで来ていた。
その店は地下一階にあり、外階段を下った先に入り口の扉がある造りの店だった。
初めての店、初めてのメイド喫茶、久し振りに再会する女の子……不謹慎だが、その時の僕は祖父の葬式の時以上に緊張していた。


人前では決して声を荒げたり激昂したりという事は無かったけれど、二十代までの自分は何かにつけて苛々していた。
歩き煙草をする人間、突然降りだす雨、強引に割り込んでくる車、切れかけて点滅する電球、眠る直前に部屋を飛び回る蚊……本当に些細な事に対して怒ってばかりいた。心の中で。


『信頼というのは一度失ったらおしまい、時計の針と同じで戻す事は出来ないと思って生きなさい』

という言葉を、児童施設の先生の一人から言われた。
失礼ながら、特に尊敬していた訳でも好きだった訳でも無い先生だったけれど……この言葉は忘れてはいけない大切な言葉だと思っている。きっと死ぬまで。


初めて真剣に"観た"映画はトム・ハンクス主演の【APOLLO 13】だった。
一人で遊ぶ事が日常でその中でも特に様々な物事を空想する事の多かった僕は、常に海外や宇宙という自分からは遠い存在に想いを馳せ憧れを抱いていた。
そんな中で海外の人の、宇宙をテーマにした映画という物はもはや観る運命にあったのかもしれない。
実話を基に作られた映画で、観ていない方にはネタバレになってしまい申し訳無いけれど……大雑把に説明すると、ロケットのトラブルにより本来の目的であった月面着陸を断念したクルー達は無事地球へ帰還出来るか、という内容の映画なのですが今でもその初めて"観た"映画が一番好きな映画だ。
その映画を観るまでは【諦める】という行為は他人からでも自分の中でも、許されない行為という認識がとても強かったし実際に諦めて許された試しも無かった。
けれど、その映画の中では一番大切な核となる月面着陸というミッションを【諦める】事が大きな意味を持つと同時に、許されるどころかそれが正しい事として描かれていた。
映画を最後まで見れば結果論だろうという見方もあるけれど、自分の中では一つの革命が起きたかの様な衝撃があり同時に感動があった。

だからと言って、何事も諦めが肝心……みたいな考えにはならず、基本的にはそれまで通り諦める事は許されない事という考えを持ちつつも、時には諦める事が正解の物事も存在するという考えも持てた事は僕の中でとても大きかった。


2012年、夏。
旅先の仙台で倒れる。
直前まで元気にずんだ餅なんか食べて、夕食は有名な牛タン屋さんで牛タンをたらふく食べるぞと意気込んでいた矢先であった。
運ばれてきた何処を見ても牛タンばかりの豪華なセットに心踊らせ目を輝かせ、いざ……と一口食べた所から、猛烈な体調不良に襲われる。一瞬で首から上の血の気が引いてゆくのが分かった。貧血の酷い時に似た症状だったが、冷や汗や呼吸困難も加わり視界は真っ暗になっていって「コレは只事じゃないぞ」と慌ててお手洗いに行こうと重たい身体を無理矢理立ち上がらせ歩き出して、10歩は進んだか進んでいないか程度の所で意識を失った。
瞬間、店員さんが店長さんを呼ぶ声が聞こえて「あぁ、倒れてしまったか……迷惑かけて申し訳無い」と思いながら、介抱して頂いた事を思い出す。
猛暑日だった事もあり、周囲の人達は熱中症や日射病を疑い塩水やスポーツドリンクを飲ませてくれたけれど、自分の中では確実に違うという感覚があった。

これ以降、外食をする事を躊躇い避ける事が増えた。
色々と検査もしてもらったけれど、原因の特定には繋がらなかった。
これから6~7年後、漸くこれが【迷走神経反射】という精神的な問題で症状が出易い病気だという事が判明する。
簡単に言えば世間一般での【トラウマ】と呼ばれるものに近いらしい。
海で溺れた事があるから、海を見るだけで吐き気がする。魚の骨が喉に刺さった事があるから、魚の匂いも味も駄目になってしまった。そういった類いと同様『あの時、食事中に今まで感じた事の無い程の体調不良に襲われたから、外食するのが怖い』になってしまったのだ。

実際、その後何度も外食はしていて確率としては100回に1回症状が出るか出ないか程度の、割合として低いけれどそれでも何処かで「もし今日あの症状が発症したら嫌だな」という気持ちが頭の何処かにあって、本当に気心が知れた人間達だけしか居ない空間では無い場所での外食は難しくなっていった。


音楽を聴く事が好きだった。
それはジャンルも国籍も問わず、ロックにポップス、ジャズにヒップホップ、クラシックからEDM、民謡もフォークもメタルもアニソンも、何でも有りだった。

初めて買ったCDは安室奈美恵のBody Feels EXITだったし、その後はPENICILLINのロマンスを経てナンバーガールの鉄風鋭くなってに辿り着いたかと思えばラッパ我リヤのIt's A Show Timeにぶん殴られてサイモン&ガーファンクルのSounds of Silenceに心を奪われ、SlipknotのSpit It Outが世界一格好良いと絶賛し、いずこねこというアイドルの曲に人生を捧げても良いくらいの気持ちになったりする程には何でも聴いていた。


修学旅行というモノに憧れていた。 
そして21歳の9月、ついに取り戻す時が来たのだ。
僕だけの、僕の為の、一人きりの修学旅行を決行した。
それは初めての一人旅で、結果的には7泊8日という中々の長旅になった。
青春18きっぷを握り締め、行き方も、行き先も、宿泊先も、全てを自分一人で選んで決める。
緊張と不安で、当日の朝……いや出発してからも体調不良で所々で途中下車しながら吐きながらと散々な出だしだったけれど、それを乗り越えて到着した【京都駅】という文字と、駅前から見上げた意外と控えめなサイズ感の京都タワーは一生忘れられない。


十代を終え、もう誰も僕の事をイジメる人間や辱しめる人間は居なかった。
正確に言えば、周囲に人間が居なかった。

知人も友人も恋人も無く、ギリギリで家族との繋がりがある位で孤独だった。
それでも、それまでの日々を思えば孤独という居場所に、僕は楽園と言っても過言では無い程の居心地の良さを感じていた。


結果的に僕は死ねなかった。
「死ぬのなら、高所から飛び降りて死にたい。」
と常々思っていた。

昔から高い所から飛ぶのが好きだった。
桜の木、中二階の窓、ブロック塀、ジャングルジムの天辺……兎に角、飛んで飛んで飛んでいた。
足の裏の痺れ、膝の痛み、足首の違和感、それらを感じていつも笑っていた。


成人式の会場に行った。
絶対に、完全に、行く気は無かったのに、行った。
全員の顔を見ておこうと思ったのだ。
僕を全裸にして教室の中央に立たせた人間達の顔、哀れみ目と優しさで接してきた人間達の顔、関わらないと決め込んで一切の接触を断った人間達の顔、自力で解決出来なかった僕の顔も見る為に手鏡も持参していた。

遠くから愛想良く手を振るやつ、あからさまに嫌な顔をするやつ、気付かないフリで乗り切ろうとするやつ、普通に話し掛けてくるやつ。

色々な人間の顔を、見た。

その中の一人が不意に……。
『中学の時のアレ、ゴメンな?』
と言って近付いて来た。
謝って欲しくなんかなかった。当時も、今も。
やめてほしかった。やらないでほしかった。

式には出ず、僕はその場を後にした。
考える事や悩む事を放棄したのだ。
全員の顔は見れなかったけれど、その日を境に全員を忘れる事にした。


運転免許を手にしてすぐに『浦安に、海辺から富士山が見れる所があるから今日はそこまで行こう』と、祖父が言った。
祖母もそれは良いわねと同行する事になった。僕は呑気に(初心者の僕にお手本を見せてくれるんだ!)などと浮かれて「いいね」と言って車に向かった。

運転席に僕が座る形で。

初めての運転で浦安まで(自宅から車で最低1時間半はかかる距離)行くなんて、馬鹿げた話だと思う。
しかも、運転経験者なら分かると思うが教習所で習うのはあくまでも一般的な乗用車の運転方法であり、ワゴン車の運転はその習った事の半分以上は役に立たないと言っても良い程に異なる。

車高の高さもギアハンドルの位置も車幅も何もかもが一回も習った事の無い、同じ"車"ではあるが完全に未知の乗り物だった。

そんな状態で片道2時間弱はかかるであろう場所まで運転するのは不可能だと思った。何より、本当に事故を起こしてしまうんじゃないかと不安と恐怖で一杯だった。


鋸山にはハイキングコースがある。
下調べもせず純粋にロープウェイに乗るという事だけしか頭になかったのだけれど、いざ現地に到着して地図を見てみると、行きはハイキングコースで山を登り下山の際にロープウェイで下りるというのが効率良く鋸山を巡って見れるという事だった。
楽しげなイラストと共に【ハイキングコース→】という看板があり、案内されるがまま進んで行った……15分もしない内に(もしかしたら、ここで人生が終わるかもしれない)と悟った。何の予備知識もない身軽な格好をした人間がフラりと登る山ではなかったのだ。


21歳の時に交際していた女性が、外食好きで旅行好きな方だった。
当時はただ振り回されながらも楽しい日々を送っていたが、その影響を多大に受けた僕は以降外食好きで旅行好きな人間になった。
更にその時に、外食した数々の料理が悉く美味しくそれまで食の好き嫌いが激しかった僕は気が付けば食べられない物は無くなっていた。


『最近メイド喫茶で働き始めたんだけど、良かったら遊びに来てよ』
のメイド喫茶は【cafe&dimension】という名前のお店だった。
意を決して入店した店内は、一般的なファミリーレストランの座席の仕切りを取り払った"見通しの良い縮小版ファミリーレストラン"みたいな印象だった。
想像していた「お帰りなさいませ御主人様♪」というノリでは無く、ピンク色でキラキラした内装でも無く、何よりとても静かだった。
何を期待して何に拒否反応を示していたのか見失っていた所に、僕をメイド喫茶に誘った張本人がキッチン内でニヤニヤしているのが見えた。
そもそも、友人はメイドさんですら無くホールには殆ど出て来ないキッチン担当だった。
色々と騙されたと思ったがそんな事よりも戸惑いのほうが大きく、分かりやすく僕は慌てふためいていた。


鋸山に登った事が、人生の転機になるとは思っていなかった。
険しい山道を自力で登り切れた事もだが、登り切った先のお寺(鋸山は山全体が【日本寺】というお寺の境内という凄い所だと後々知る)で初めて御朱印というモノと出会った事が、自分の生き方の標となった。


成人してから、話の流れで仲間内で温泉旅行に行くという出来事があった。
人前で裸になる、という事にまだ抵抗があったものの自分一人が裸になる訳ではないので温泉や銭湯等はどちらかと言えば好きだった。
その日も温泉を楽しみ、料理やお酒も嗜み、改めて皆で温泉って良いなぁ……と、しみじみ思っていた。

部屋に戻り暫く皆で談笑している中、誰かがふざけて浴衣を脱がせようとして来た。
何かの話の流れでそうなったのかは覚えていないが、それは完全にあの時の……教室の真ん中で裸にさせられる記憶を呼び起こさせるのに十分な行為だった。

そこからの事は殆ど覚えていないけれど僕はかなり取り乱していたらしく、相手は永遠と僕に謝っていて、全員がその状況に困惑し、その場の空気は恐ろしい程に最悪だった。と思う。

それから僕は極度の男性恐怖症になった。
女性としか接する事が出来なくなり、男の友人は勿論……女性の友人達にも変に勘違いをされ、周囲に誰も居なくなっていった。
そして何度目かの孤独が、始まった。


祖母は祖父の事を愛していた。
それは間違いようもない事実だ。
だが一方で歪んだ愛だった、という事もまた事実だ。
いつ頃からだったか定かでは無いが、祖母は『祖父が近所の人と浮気をしている』という被害妄想に駆られていた。
その考えが頭を支配して行き着いた先が【祖父を監禁する】という行為だった。
今思えば明らかに異常で、精神疾患があったと言えるのだが当時の僕は小中学生で何が正常で何が異常かを認識出来ずに居たのだ。

監禁と言っても、日中は祖父は仕事に出ている為にそれが実行されるのは深夜のみだった。

祖父と祖母は夜、同じ寝室で眠る。
その際に祖母は毎晩、南京錠で内鍵をかけその鍵を自らの懐に入れて眠りについていた。
それ自体、特に困る事も無いのではないかと思いそうだがよくよく考えれば例え夜中急に目が覚めてトイレに行きたくても祖父は行けなかったのだ……と思うと相当厳しい筈だ。精神的にも肉体的にも。
それでも祖父は、何を言っても聞く耳を持たない祖母に対し諦めたのか呆れたのか優しさなのかは不明だったが、何一つ文句を言わずに何年間もその状態を受け入れて過ごした。

祖母曰く『夜中、こっそり会いに行っている』らしい。

家族全員が"おかしい"と思いながらも、何故か誰一人としてそれを止めさせる事も出来ず「へぇ、そうなんだ」と見過ごしていた。
この行為を強引にでも止めさせて、祖母を病院へ連れて行くべきだったのではないか……という後悔が、ずっと残っている。


祖父が死んでから15年近く経ったある日、祖母が僕の住んでいるアパートに泊まりに来た。
それ自体は珍しい事ではなかったので、その日も普段通り夕食の出前なんかをとり談話をしながら過ごした。

夜、そろそろ寝ようかな……と思い、お手洗いに向かった時に急に祖母が切羽詰まった勢いのまま『ごめんね、○○くん(僕の本名)ごめんね、私もう今日死ぬからね、ごめんね、急でごめんね、先に逝くけどごめんね』と何度も何度も謝りながら自殺すると伝えてきた。
僕は咄嗟の出来事で頭が混乱しながらも、いつも通りの口調を保ちながら祖母に声をかけ落ち着かせようと心掛けた。
しかし祖母の鬼気迫る言葉は止まる事は無く、何かに取り憑かれたように同じ事を口にし続けた。
その瞬間もう無理だと思い僕は祖母に対し、先に死んだ祖父を引き合い出して半ば怒り気味に捲し立ててしまった。

自分でも何が正しくて、どうする事が良いのか分からなかった。

結局、夜が明けるまでそのやり取りは続いて……僕は叔母さん(母の妹)に電話をして一度車で迎えに来て欲しいと伝えた。
叔母さんも状況が理解出来ず混乱していたけれど、もうそれしか無かった。

「このまま病院に連れていくしかない」


鋸山の日本寺で御朱印という物の存在を知ってから、僕は日本全国に赴きそれを集めながら祈る事が東日本大震災の被害者の方々へ対して自分に出来る事だと思った。非常に強引なこじつけを含む考えではあったけれど、何故か祈りは必ず通じるという強い考えも持っていた。


鬱病患者の特徴の一つに、高所に立つと理由も無く飛びたくなるという物があるらしい。自分なら飛べると思い込んでしまう感覚があるらしい。
僕は、まさにいつもその感覚だった。
高層ビル等で、吹き抜けになっているエントランスを上階から見下ろす瞬間等は毎回ぞくぞくしていた。大型ショッピングモール等へ行った際にも3階から1階までなら飛べるだろう、と今でも思ってしまっているので自分でも危ないなと気を付けている。


祖父が死んでからというもの僕は仕事が休みの日は、旅行好きになった事も相俟って頻繁に祖母を誘って旅をした。
祖父に出来なかった孝行をしよう、という思いや……祖母がいつか祖父の元へゆく時に思い出話が沢山あった方が良いな、という思いが強かった。


祖母を精神科の先生が常駐する施設に入所させる事に決めた。
家族で話し合った結果ではあるけれど、その決定を強く推したのは僕だった。
祖母は……祖父が死んでしまってから、ずっと耐えて耐えて耐えていたのだ。
それが限界に達してしまった。
深夜に半監禁してしまう程病的に愛していた人を失ったのだ。そんな人が、死んでしまいたいと言う事を……思う事を誰も責められない。
責められないが、だからと言ってそれを肯定する事もまた出来ない。

家族である僕達に、祖母を止める事は出来なかった。
一度、他人に委ねるしか無かった。のだと考える他ない。
家族は自分達だけで祖母の面倒を見ながら生活出来る、という意見だった。
僕は夜通し「ごめんね」と「しぬから」を繰り返す祖母が頭から離れず、面倒を見る以前の問題だと思っていた。
面倒なら見れる。介護なら出来る。でも、あれは心の病だ。心の病は僕には治せないし、対処も出来ない。

僕は祖母をこの世で一番愛していた。

施設に入所させる手続きを行う最後の確認の時、祖母はとても不安そうな表情で僕を見ていた。
その時は祖母はまだ情緒が安定しておらず、自分がなんでこうなっているのか理解出来ていない状態だった。
家族全員の意思統一が条件で、僕以外は皆意見が揺らいでいた。誰もが積極的に祖母を施設に入れたいとは思っておらず、どうにか祖母を施設に入れずに済む方法をギリギリまで探していたと思う。
改めて最後に家族一人一人の意思を、受け入れる施設側の先生が確認してゆく。

最後に祖母が口を開き……。

『○○くん(僕の本名)は、どう思う?お婆ちゃんは施設に入った方が良いと思う?』

最後に僕は答える。

「ごめん」

きっと、その言葉は間違っていた。その場での適切な言葉ではなかった。

そう言った僕を見て、祖母は今まで見た事が無い悲しい目をしていた。


奈良が好きだった。
京都に"修学旅行"を取り戻しに行った際、近いからついでに奈良にも足を伸ばそうと決めた。
初めて行く地に『ついで』という理由を付けて申し訳無いとは思うが、その当時の自分には奈良という場所はそういう一ヶ所に過ぎなかったのだ。
京都を体験してから奈良に行ったのが良かった、と思う。

京都に対しての憧れが強過ぎて、だけど京都はその憧れのハードルを次々と簡単に越える程に素晴らしい地だった。
ただ、素晴らしいの連続がゆえに疲労の溜まり方も半端では無かった。

そんな中、一人修学旅行4日目に思い立って奈良で一泊する事にした。

京都疲れしていた事もあるけれど、何より一番感じた事は【生きる速度が自分に合っている】だった。
奈良の人々や町の雰囲気にそれぞれの主要ポイント等、それら全てが近過ぎずむしろ若干遠いな……と思うくらいの距離感。
それが、奈良に居る間とても自分に合っている感覚がずっとあった。

余談だが、猿沢池に程近い所にある【大松】さんというたこ焼き屋の、見た目はべっちゃべちゃで丸い形を保てていないたこ焼きが人生で3本の指に入るくらい美味しくて、それを猿沢池のベンチに腰掛けて食べるのが人生で一番好きな時間かもしれない。


変形性膝関節症という持病がある。
僕は左膝だけに症状が出るのですが常に膝の曲げ伸ばしの際に違和感があり、その違和感の原因は膝の曲げ伸ばしの際に膝軟骨が磨り減っていて……ある時、急にその磨り減って欠けてしまった軟骨が関節に引っ掛かり、膝がロッキングされてしまうのだ。
膝がロッキングされると、膝を曲げた状態から伸ばす事が出来なくなり暫くの間(大体2~3週間程度)は左膝を常に曲げたまま生活しなければならなくなる。
例えるなら、膝を曲げた状態のまま強力なゴムで縛られた様な感覚だと思う。
膝を伸ばそうと力んでも、ゴムの強い反発力ですぐに曲がった状態に戻されてしまうのだ。

『変形性膝関節症』
『良性発作性頭位めまい症』
『迷走神経反射』

主にこの3つの症状が、全て突発イベント的にいつ起こるのか分からない状態で生活する事は、相当な行動制限になると共に大きなストレスの要因でもある。

膝が伸ばせなくなるかもしれない。
めまいで歩行不能になるかもしれない。
食事中に気を失うかもしれない。

それらを外出時、常に頭の片隅に置いて生きる事。人と比べる事に意味は無いけれど僕より生き易い人も居れば、僕より生き難い人も居る。

だから僕は人の幸せな話が好きだし、逆に人の不幸な話も好きだ。もっと言えば何気無い話も好きだし、どうでも良い話も好きだ。

どんな人の、どんな話にも、各々に物語があって生き様がある。
それらを共有出来る瞬間が好きなのだ。

僕はどちらかと言えば不幸な人生を送っていると思っている。
けれど、ただそれだけ。

それが僕の過去の物語であって、今後幸福な人生に繋がってゆく事もあるだろう。
現に、不幸だと思っている中にも数々の幸福な出来事もあって、生き難い事実はあるけれど生き難さというモノはそのまま不幸には直結しない事を知っているから問題を抱えつつも僕は今日も生きている。


僕は典型的な"人の為にしか行動出来ない人間"だ、と思っていた。
どんな時でも、誰かの為を思うと何でも出来る気がしていた。目に見えない不思議な力が働くのだ。


一人修学旅行の後も京都(と奈良)を気に入った僕は、何度目かの京都の地を踏んでいた。
御朱印を集め始めてからは、既に7年近く経っており全国の社寺を訪ねた数は300を越えていて、御朱印帳の数も1年1冊ペースで増えていて8冊目に移っていた。


僕は、怒るという事を知らない。
正確には知っているし、二十代中頃までは日がな何かに対して常に苛々していた。
いつから変わったのかを掘り下げてみると、なんとなく東日本大震災が関係している気がしている。ずっと何処かで考えていた。
震災後暫くしてから見たあの凄惨な映像の数々は、僕にただただ【諦める事】を植え付けていた。
諦める事、それは僕にとって非常に大きな意味を持つモノの一つだった。

諦める事とは、ただ諦めるだけでは無い……そう、それは映画APOLLO 13と同じで月に着陸するのは諦めなければならないけれど、地球に帰る事は決して諦める事が無いように。
強大な自然災害を前にしては時に人間は諦めなければならないけれど、しかしその後の復興や教訓を活かして生きてゆく事は決して諦めてはいけない。
そういう意味で、諦める事とは諦めた先に繋がる大きな決断であると思う。

『怒るという事は、怒りの対象に変化を求め期待しているから』という話を耳にした事がある。
それを鵜呑みにする訳ではないけれど、確かに自分が苛々している時はその感覚があった。

「連絡一つ入れてくれれば問題無かったのに、なんで何もしなかったのか」

こういう小さい事の積み重ねで、連日苛々していたけれど。
この時は、まだそういった物事に対して怒りつつも『でも、次からは大丈夫だよね?』と裏では今後は変わってくれるだろうと期待していたのだ。

その感覚(怒りも期待も)が消えてしまったのが、震災の日……3月11日。
運命という物を僕は無いとは言い切れない人間だ。そして、ソレは運命なのではないかと考えても仕方の無い事だと思う。
僕の誕生日は3月11日だった……。


それまで紅茶やハーブティーばかり飲んでいて、珈琲はどちらかと言えば苦手な部類だったのだけれど……突然、急転換して珈琲ばかり飲むようになったタイミングがある。
これは本当にキッカケ等、何も思い出せなくて初めて飲んだ珈琲が何処の物かも美味しかったのかすら解らない。
今では生活の中に無くてはならない存在になっている。珈琲。
ただ中毒になっている、という訳ではなくて全然飲まない日が3日、4日と続いても特に異常は無い。
『あれば飲む』
そして今の世の中は、コンビニエンスストアを筆頭に珈琲チェーン店等の至る所で比較的安価で気軽に珈琲が飲めてしまう。
むしろ無い状態に陥る事が極端に少ないので、結果として毎日飲んでしまっている感じだ。


ファッションが好きだ。
その日の行き先、天候、気分、会う人に合わせて色々と考えるのが好きだ。
服装にも自分なりにストーリーを与えて、自分自身がメインストーリーだとするなら、服装はサイドストーリー。どちらも見て『!?』となるような服装が理想だ。
【個性的】と言われたい、という自我が強いように思う。僕は。
自分の思う個性的というモノは、自分だけの宝物のような感覚だ。
例えば僕は、結構女性物の洋服をよく着ていて……それ自体、異性の服を着るというのは希に見掛ける事があるので、まだそれだけでは自分の思う【個性的】になれていなくて。
そこから更に和服の羽織を着流して遊んでみたり、レザージャケットで雰囲気を強めに引き締めたり、靴だけはCONVERSEのスニーカー縛りでCONVERSEの中からその日の服装に合うものを選ぶ。
そんな事をグダグダ考えているから、いつも予定の電車より二本程後に乗る事になっているのだけれど。それでも楽しくてやめられない。


毎日、必ず家から外に出る。
一般的な学生や社会人は、特別に意識せず息をするのと同じ様に行う事。
それが一般的な枠から外れた生活をする僕にとって、いつからか大切な日課となっていた。

ある時……朝に目が覚めてからまったく動けない日があった。
起き上がろうにも身体に力は入らず、というよりもその時は特に起き上がりたいという気持ちにすらならなかった。
『何かをする』という事が何も考えられなくなってしまって、ただ天井を見上げては目を閉じて寝返りを打ち時間だけがただ過ぎていった。
飲食を一切せず、トイレにも行かず、携帯電話も手に取らず、たまに「あーぁ」とか「ふぅ」とか言うだけの肉の塊になっていた。

それが30時間程続き急に、川に飛び込んだ後の様に全身びしょ濡れになる程汗が吹き出して、呼吸が乱れ継続的に小さな咳払いが止まらなくなる。
朝起きた瞬間から普通では無かったのだけれど、その時漸く自分の身体に異常事態が起きている事に気が付いて自ら救急車を呼ぶ事となった。


14歳の頃から心療内科に通っている。
病院自体は何ヵ所か変わっているけれど、殆ど継続的に20年以上通っている。
その時々で様々な薬を試し、合う薬があればそれを飲み症状が落ち着けば薬の量を減らしたり一段階弱い薬にしたりした。
今では睡眠導入剤と軽めの抗うつ剤等、合わせて3種のみで生きられるようになっている。
酷い時は10種近い薬を連日飲み1日の中で気持ちが何度も明るくなったり暗くなったり、まるで梅雨空の様な人間の時もあった。
薬が切れて悲しくなり、薬が効いて楽しくなり……完全に薬に寄生されているような人生だった。


読書が好きになったのは、20歳を過ぎた辺りだったと思う。
幼少期から成人を迎える頃までは、僕の中での読書とは『体調を崩した時にやる事』の一つでしかなかった。
学校の朝礼中に倒れては、保健室で本を読んでいた。
深夜に体調を崩し救急で病院へ運ばれ点滴を打って貰っている際に、簡易ベッドで本を読んでいた。
何度も入退院を繰り返す中で病院でも家でも安静にしていないといけない時間、窓辺の椅子に腰掛けて本を読んでいた。

だから、読書という物はいつも体調不良とセットで……読書をする時は常に憂鬱な気持ちだった。


「ありがとう」という言葉が好きだ。
「ありがとう」と言う自分が好きだ。
本来は【有り得ない程、信じ難い事】という、今の時代とはまったく別の使われ方をしていたらしい。
主に目上の者に対し「有り難う事で御座います」と平伏す様に使用されていた。

もし今もそういう使われ方をしていたら、この言葉を好きになれていなかったかもしれない。

僕は純粋にこの言葉を発するのが好きなので、事ある毎に「ありがとうございます」と言ってしまう。

昔の人達とは重みが違うかもしれない。
それでも僕は何気無い日常だと錯覚しがちの【有り得ない程、信じ難い事】の繰り返しの日々の中……息をする様に、挨拶をする様に、心を込めて「ありがとうございます」と言える自分が好きだ。


ミステリアスな人間に成りたかった。
職業も不明、年齢も不詳、性別も不確か、私生活も不透明で何者でも無い人間に成りたかった。
実際には半分の"ミステ"くらいの人間には成れているように自分では思っているが、どうだろう。


未だに男性が怖いと思ってしまう。
ある程度の関係性を築き、悪い人間ではないと自分の中で認められた人であってもどうしても恐怖感を覚えてしまう瞬間がある。
学校生活での数々のイジメの件に加えて、実家に住んでいた際の家族構成が僕と祖父を除いて女四人……祖父が亡くなってから男は僕一人であった事もあり、より男性との接し方が解らなくなってしまった。

決してコミュニケーション能力が高い訳でも異性に対しての接し方が上手い訳でもなく、ただ純粋に男性よりも女性と会話をする方が自然で安心で良い意味で緊張感が無い。

そういった事もあり、きっと僕と『メイド喫茶』という場はとても相性が良かったのだと思う。

そしてこれを書いておかないと誤解を招きそうなので記しておくけれど、僕が勝手に恐怖心を抱いてしまうだけで……男性女性関係無く、仲良くしようとしてくれる人間の事は好きです。
なので、話し掛けてくれたり挨拶してくれたりニコニコしてくれたりする方々には性別なんて関係無く感謝、というか嬉しく思っています。ありがとう。


旅行の際は宿泊先を可能な限り【ゲストハウス】にする、と決めている。
ゲストハウスって何ですか?という方の為に簡単に説明すると……
ドミトリータイプの宿泊場所(二段ベッドが何個も置かれた部屋で知らない人達と一緒に一夜を共にする宿)である。
語弊があり過ぎる。

近年では【女性専用ゲストハウス】等もあり、男女が一緒の部屋になる事はあまり無いけれど、それでも場所によっては男女共同部屋という所も珍しくはない。

僕は睡眠に関して正直とても神経質なので、知らない人間が同じ二段ベッドの上(もしくは下)に居る状態というのは苦行とも言える行為だけれど。
それでもゲストハウスに泊まる大きな理由がある。

"他人との交流"である。


父親の写っている写真を見せてもらった事がある。
似ているな、と思った。
そしてずっと思い続けている事がある。
僕は母親と似ている所がまったく無い。
顔も体型も性格も言動も何も。
なんとなく、僕は父親の血を濃く受け継いだのだと思っている。
そういう意味では、母親に引き取られて育てられるのは必然だったのかもしれない。
父親に引き取られていたらどうだったか、両親が離婚しなかったらどうだったか。
そういった類いの想像や妄想は小学生の頃で止めた。
ただ当時の僕は、父親とは似た者同士だからきっと仲良く出来るんじゃないか……なんて事を考えていた気がする。


結局、メイド喫茶に通う日々が続いた。
約二年程は、ほぼ毎日のように秋葉原を訪れていたと思う。
祖父の死という深い喪失感に包まれていた僕に届いた友人からの一通のメール……最初は悲しみを埋めるように、寂しさを紛らわすように我武者羅にメイド喫茶に行く事で、ある種の現実逃避をしていた。
しかし気が付けば顔見知りが増え、知り合いが増え……いつからかその人達に会う事、その人達が居る場に行く事が目的になり日常になっていた。
現実逃避の先に新しい現実があるとは思わなかった。
非日常の筈だった空間に、日常として過ごすなんて考えてもいなかった。

大袈裟ではなく、僕はメイド喫茶に救われた人間だ。
祖父の死もそうだが、それまでの二十年余の人生での負の部分を僕はメイド喫茶という文化、コミュニティに救われたのだ。


アイドル等の"現場"と呼ばれる様な場所へ赴く事が苦手……というか、ハッキリ言ってしまえば嫌いだ。
コレには一つ……たった一度だけのキッカケがあり、その経験で"現場"というライブやイベント等の共通意識を持った多人数が集う場が嫌いになってしまった。
元々、多人数が集う場が得意では無い人間だったけれど、それでも好きなモノに対する熱意は人並みかそれ以上に有る人間でもあったので基本的には【好きなモノ】の為には苦手を越える力が働いた。
その出来事が起きるまでは……。


ココまで約二万文字書いているらしい。
そうなると、もう最初の方の千文字辺りに何を書いたのか思い出せなくなっている。
けれど、何度も同じ事を書いても「まぁ良いか」という気楽さがこの【遺ば書】というモノだ。
なので『これ……さっきも読んだぞ』という既視感に襲われたとしても、二度三度と書いてしまうくらい印象深い事だったんだ、と思って読んで欲しいと思いつつ書き続けます。


"優しさ"を理由の一つに、女性にフラれた事が三回ある。

「いつでも優し過ぎて正直怖い。優しさが圧に感じちゃう。」
「優しいから、なんでもやってくれるけど……それじゃ私は成長出来なくなる。」
「誰にでも優しいから特別感が無くて嫌だった。」

"優しさ"だけが別れの理由では無い事は当然解っているけれど。
そう言われて別れた事は、流石に堪えた。
僕の中の【人に優しくする】というのは、生きる上で大きな一つの核となるモノだからだ。
しかし、とも思う。
僕の"優しさ"とは大体が自己満足なのではないかという考えもある。
相手が優しさを求めている時に優しさを与えてあげられるのが本当に必要な"優しさ"であって、それが必要の無い時だってある。むしろ必要の無い時のほうが多い可能性すらある。

ただ、だからどうすれば良いかという答えも無いまま……結局は【人に優しくする】を軸に人と付き合う事しか出来ないのが僕だ。
人生は実験だ。
自己満足の"優しさ"で、自分は幸せになれるのか。人を幸せに出来るのか。
今際の際でその答え合わせを、可能なら微笑みの中で行えたら嬉しいな……と思っている。


楽しみな事を数日先と、数ヶ月先と、数年先の三段階に分けて散りばめる事で少しずつ余命を延ばして生きている。
例えば好きな作家の次回作、例えば決まった時期にしか食べられない旬の物、例えば土日だけ営業している喫茶店、例えば通信販売で注文した商品……そういった楽しみな事を短期、中期、長期に分けていくつか頭の片隅に置いておく。
唐突だけれど、死ぬという事を僕は幸福な事と捉えている。
正しくは、死が幸福なものであって欲しいと思っている、だ。
個人的に、今の所は不幸と感じる事の方が多い人生の……その最後の死というものまでが不幸だとしたら、救われない。
自分を救ってあげる為に、僕は死を幸福なものとしなければならない。

変な話だけれど「楽しかった」「夢が叶って良かった」と達成して死ぬよりも……「あれ楽しみだなぁ」「あの夢は叶うかなぁ」と未達成のまま死ぬ事のほうが幸福だと僕は思っている。

実際の所、悔いの一つも残さず終わる事なんて無理なのだから。

だから……せめて僕は楽しみな事を散りばめて、その中でワクワクしたまま死ねるように今日もまた延命治療をしながら生きていく。


小学生の頃、母親に殺されそうになった事がある。
夏休みだった。
その日は朝からとても暑い一日で、その暑さに耐えきれず僕は従兄弟と二人で空気で膨らませて水を溜めて作る簡易プールで遊んでいた。
暫くして『そろそろ終わろうか』と簡易プールの中に溜まった水を一気に流す為に、従兄弟と二人で勢い良くプールをひっくり返す。
その時は気にも留めていなかったのだけれど、水の上にスポンジ状の玩具がいくつか浮かんでいて……プールをひっくり返した勢いで、水と同時にその玩具も全て流れてしまったのだ。
流れてしまった、とは言っても別に散らばったその玩具を広い集めれば問題無いと思っていたし、実際にはほぼ問題は無かった。

"ほぼ"

自宅の敷地内で流れたプールの水は、勢いが良過ぎて若干だけれど道路の方まで流れてしまっていた。
その道路の方まで流れてしまった水の勢いに紛れて、いくつかの玩具も道路上に投げ出される形になった。
更に、そのいくつかの玩具の中の一~二個が運悪く側溝の小さな穴に吸い込まれてしまったのだ。

一~二個……たったそれだけの被害で済んだ、と僕は安堵した。

が、母親にとっては"たったそれだけ"では無かったようだった。

突然激昂したかと思うと、何を言っているのか解らないくらいの金切り声で怒鳴り散らしながら僕の首を掴んで床に投げ飛ばし、そのまま全体重をかけて首を絞めてきたのだ。

その瞬間の事は何年経っても鮮明に覚えていて……僕は絞められた喉の奥からどうにか「ごめんなさい」と言う事しか出来なくて、従兄弟は何が起こっているのか理解出来ないまま近くで立ち竦んでいて、異変に気付いた従兄弟の母親が止めに入ってくれるのが見えて、母親は本気で僕を殺す気だった。

後から母親にその時の事を話しても覚えていない、そんな事していないと冗談気味に笑って終わり。

日頃から母親は母親で様々なストレスを抱えていて、たまたまその時に爆発してしまったのかもしれない。

それは理解出来る。

でも……ずっと思っている。
「何であの時、殺し切ってくれなかったんだ」って。



長くなり過ぎたので【遺ば書2へ続くよ!】

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