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鯖のままごと 終編

このオハナシは続き物です。
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冷たい鉄板の上にホッカイロを置くと、
だんだん鉄板が暖かくなるでしょう。
ホッカイロの持続性が強いと、
その暖かい時間は長くなるのよね。

人の噂も同じよ。

一か月半という時間は会社の中に噂が広がり切るのに十分だった見たいです。
何の噂かって、それは乙姫様と部長が不倫したって噂。
私は耳を塞いでいたからその広がり具合は知らなかったけど、
実は一か月半で色んな所に広がっていたみたい。
後から聞いた話なんですけどね。

乙姫様が私に「広めて下さい」って言った事。

乙姫様が実は男で――、
あのでも、乙姫様の心は女性なんです。
でも身体はまだ男性で、あの、ごめんなさい、
私、こういう知り合いを持った事が無いからどう説明するのが良いのか判らなくて。

結論から言うと乙姫様が男性の身体を持っているから部長との不倫は無いって、
そういう事を私以外にも方々告知したようなので、
部長と乙姫様との不倫の噂は最終的に死滅したのでした。

乙姫様が実は男だからって、
じゃあ部長が実はホモかバイなんじゃない?
そうしたら本当に不倫していたって可能性はまだあるよね。
そんな事を話す人達もいた様だけど、
その方々は皆他人の事を口汚く言う人間ばかりだったので、
その手の噂は広まることなく萎んでいったようでした。

乙姫様が噂と共にいなくなり、
私にとって気兼ねなくトイレに行ける日々が戻ったのですが、思うんですよ。
乙姫様があんなに美人じゃなかったらこんなに噂は広まらなかっただろうな、と。

人間は妬む事が出来る生き物なのは、皆さんもご承知ですよね。
その点に関して、妬むと言う行為はどういう時にするのかと考えると、
それは相手が何かで自分よりも秀でている時に他なりません。
その点乙姫様の美しさは凄いものでした。
きっと誰かが妬んでしまったのでしょう。
清掃員の誰かか、部長の近くで働いている誰かか。
誰が発生源になって不倫の噂が大きく広まったのかは私には判りませんが、
この広まり方こそが、乙姫様の美しさを表しているのだと、
そう、今になって思うのであります。
私もある意味、
彼女の美しさに『苦しめられた』人間の一人ですから。

もう年末も近くなり、
会社で一年の幕引きに向けて忙しくなる日々ですが、
私の不倫ライフは無事に元に戻りました。

「僕は何処にも行かないよ」という言葉と共に部長が戻って下さり、
また私はこの身体の全てを部長に任せる日々を送れるようになったのです。
人でごった返す電車の中でも不貞を犯して頂き、
会社から家に帰る途中でもホテルに連れ込んで頂けるようになりました。

ただ、一つだけ変わった事があるのです。
それは(妄想の中での)部長との不倫の最中、
あの乙姫様が出てくるようになったという事と、
その乙姫様は部長と一緒に私を攻めてくるようになった、という事です。

あの美しい乙姫様が男だったという事実は相当私の中で重く、
あの美しい顔に一体どういった男性器が混在しているのだろうか、
などと考え始めたのが全ての呼び水、
もう乙姫様の未知の肢体に思いをはせてしまうのも当然のこと、
そうしてあれよあれよと私は乙姫様をそういう対象として思うように成り果てました。

あんなに美しいのに、男。
あんなに美しいのに、体は男。
部長は(妄想の中で)私を優しく扱ってくれていたのですが、
それと相反するように乙姫様は(妄想の中で)私を強く抱くのです。
この緩急に脳の中を絞り切る様に蹂躙され、
私の生活は琵琶湖の水を全部浴びせられたように潤いを取り戻したのでした。

かくして無事に社会人として命を繋ぎとめた私。
会社での生活と言えばいよいよ年末近く、
今年の勤務も残す所あと一週となりました。
十二月の三回目の金曜日を終え、
翌週を終えれば年末年始の連休に突入という頃合い。
そんな事を考える本日土曜日、
少し浮かれながら午前を過ごすうちに昼を迎えたのです。

今日もアップルパイを買おう。
ただでさえ甘い林檎に砂糖を加えてパンの中に包んだあの最高の食べ物。
甘さに甘さを加えて最後に炭水化物で包むなんて私の体重が増えて仕方がない。
でも美味しいからいつも買ってしまうのアップルパイ。

近所のコンビニ、セブンイレブンなんだけど、
そこでアップルパイを購入する人間は限られているようで、
私が買いに行くといつも棚で待っててくれるの、アップルパイが。
マフラーに首を守らせ財布をポケットに。
天気予報では雨だと言っていたけどここではまだみたい。
今の内だと家を出てコンビニに向かう最中、
近くの公園で子供と遊ぶお父さんの姿が見えた。
今の私では掴む事の出来ない光景。
でもいいの、今の私には部長と乙姫様がいるから。

親子の姿にただ微笑んで公園を横切り、
コンビニに入るとアップルパイを無事手に入れる事が出来、
さて、Youtubeでなんの動画を見ようかと思いながらレジに向かった。

差し出すアップルパイ、告げられるお値段。
開く財布に取り出す硬貨は百円と少々。
カタカタとレジを打つ音が聞こえた後に店員さんが手際よく袋にアップルパイを入れると、

「あっ」

という声が。
声に反応して視界をあげると私も、

「えっ」

と声を出した。
レジをしてくれていたのは他でもないあの乙姫様だったのだ。

神様、
これは
どういう意図で?
もしや妄想を現実にしなさいと、
そう仰っているのですか?

「あの、いつお仕事終わりますか?」

男を花火大会にも誘った事の無い口は柄にもなく、
本当に柄にもない事だったのですが、そう口走っていました。

「えっ時間ですか?」
「あっ、ハイ、もし御迷惑でなかったらお話を……」

勇気を出して言葉を発した訳でも無く、
正しく例えるなら『脊髄反射』が適当なのでしょう。
なので私の声はみるみる小さくなり、
乙姫様は語尾の方を無事に聞き取れたのか。
それでも乙姫様が、

「判りました、十七時です」

と言って下さったのです。
砕き壊れました、不安が。
流れ押し寄せました、喜びが。

コンビニを出て公園を横切った時、
行く道で微笑ましく見えた親子達が帰り道では眩しく輝いて見えました。
家に帰って頬張ったアップルパイはいつもよりとても美味しく感じ、
画面に流したYoutubeは内容が全然頭に入って来ません。
脳味噌が浮かれております。脳高度約二千米。

でも話すとしたら外は寒いからうちまで来てもらおうか、
でも知らない相手の家に行くなんて事をするだろうか、
でも外は寒いからお茶の一杯でも出さないと申し訳ないし、
でも、ああ、でも、でも。
無駄に脳が回転して色んな『でも』が沸いては消える。

早く十七時が来ないかなと何度も何度も時計を見て、
その度に全く進んでない時間にため息が出ます。
もしや時間を見ない方が速く進むのではないのか、なんて、
そんな聞いた事も無い理論を考えついて実践したり、
もう浮かれに浮かれ、こんな気分になったのは何時振りだったのでしょうか。

十七時になる少し前、
再びコンビニのドアを開けると乙姫様がこちらを見つけて笑いました。
こちらも精一杯の笑顔を作ってレジを横切り、
買う当てもない商品棚を行ったり来たりしてその時を待ちました。

「お待たせしました、三門です。」

乙姫様は三門(ミカド)さんと言う。
自分も宗長(ムネナガ)です、と返し、
お話ししましょうという約束を取り付けた私達は初めて自己紹介をしたのでした。

良ければ散歩にしませんか。
そう提案したのは乙姫様の方なので、
ええ喜んでと私は言い、
家に用意したコップと紅茶を思い出しながらコンビニを出て、
年末の空の下へ歩き出したのです。

「まさかこんな所で出会うなんて……」

そんな歯切れの悪い言葉、言ったのは私。

「私前からここの近くに住んでたんですよ。宗長さんは?」
「えっ、そうなんですか。私九月に引っ越してきたばかりで」
「つい最近じゃないですか」
「そうなんですよ。ちょっと前の所で住居トラブルがあって」
「まぁ……」
「面倒だったんですけど、貯金もあったし思いきりました」
「ようこそ」
「どうも、へへへ……。
 ところであの、」
「あっ、体調は大丈夫ですか?」
「私ですか?」
「あの最後の日、本当に顔色悪そうでしたから」
「ああー……もうすっかり良くなりましたね。」
「よかった、気になってたんですよ」
「どうもご心配を……。
 あのー三門さん、部長と話し込んだ事があるって仰ってましたよね。」
「はい」
「どんな事を話されたんですか?」
「そーですねー…あの日は私が部長室の中のゴミとか集めてて、
 その時に部長さんがいきなり言ったんですよ。
 もしかしたら君は男か?って。」
「えっ、いきなりですか?」
「そう、別に私から体は男ですとか言ってないのに。
 それで吃驚してどうしてですかって聞くと、
 知り合いの仕草にとてもよく似てるからって。
 その知り合いが私と同じ境遇らしくて、
 ハッとして思わず聞いたみたいなんですよ」
「突然そんなこと聞かれたらびっくりしますよね」
「本当、心臓が肋骨の隙間から噴き出るかと思いました。
 でもそれから色々と話して、
 私、色を転々としてるんですよ。自分で望んでしてるんですけど、
 その話とかジェンダーの話とかして、
 話がついつい長くなっちゃいましたね。
 だってあの部長さん、良い人だったから。」

良い人。
部長をそう評されて、何処か嬉しく思う。

「だから、ですかね。私があそこ辞めたの。」
「え?三門さんが辞めたって…辞めさせられたんじゃ?」
「うん、実は私から辞めたんです。
 噂があったじゃないですか、私が部長さんと不倫してるって。
 誰が流した噂かは判らないですけど。
 私があの会社に居続けて噂を消す方法もあったでしょうけど、
 それも何か長くなりそうだったんで、ああいう方法を取りました。
 部長さんに迷惑かけたくなかったから。」

相槌が、出てこない。
なんて言葉を言えばいいのか、判らない。

「部長さん良い人だったんでね。
 私だけあれこれ言われるのは慣れてるんですよ。
 でも部長さんまで巻き込んであれこれ言われるのは駄目ですよ。
 だから一番分かりやすい方法で解決する事にしました。」
「……でも」
「ん?」
「でも…もっと良い方法があったかも…。
 だって三門さんも職を失っちゃった訳だし」
「あー大丈夫大丈夫、今コンビニでバイトさせて貰ってるし!
 あそこ、前にやってたお店なんですよ。
 んで無職になっちゃいましたーって挨拶に行ったら、
 なんだじゃあまたウチでちょっと働きなよ!って言ってくれて」
「でも……」
「これでいいんですよ。
 私はどこでも働けますから。
 でも部長さんは違うでしょ。
 もうあの人はあそこでしか働けないでしょ、きっと。
 あんなに大きな会社のあんなに偉い地位に頑張って辿り着いて。
 あの人はあそこじゃなきゃ、もう駄目なんですよ。
 人間ってそんなもんですよ。
 でも私は違うから。
 あの仕事じゃなきゃ生きて行けないって事は全く無いし、
 今は別の働き口もちゃんとあるし、
 女なのに男だし、
 昔働いていた女の人にナンパもされちゃうし」

それを聞いた私の唇が内側に巻き込んだのを見て、
乙姫様が目を瞑る程に顔を崩してニカリと笑ってくれた。

「私は割とどこででも生きていけるんですよ。
 だから私の方が出て行っただけ、
 今、部長さんはどうしてます?」
「……もう不倫の噂は聞かなくなって、前の状態に戻りましたね」
「ああ、良かったですー。
 これで噂が消えてなかったらどうしようかと思っちゃった。
 私最後の方かなり噂の鎮静化に尽力しましたからね。
 身体が男だって言うのをカミングアウトして。
 まぁ、別に隠す様な事でも無いんですけど」
「三門さん、強いですね」

今日の冬は優しい。
日差しを沢山くれて、風は一つも巻かない。

「そうですか?」
「ええ、強いです、とても」
「はは、綺麗って言われて、強いとも言われたら、
 もう私、最強ですね。」
「あの」
「はい?」
「実は私、不倫してて」
「  えっ」
「相手があの部長で」
「  えっ、 え!?」
「あの、妄想の中でなんですけど」
「      え ?」
「あの時、三門さんが私を心配してくれた時、
 私、部長と三門さんが――」

同じ会社で働いているという枠組みが消えたからか、
ただ個人個人の繋がりになったからか。
私の口はそれまで誰にも話した事の無い事を話し始めた。
誰に話すべきでないと思っていた事であり、
誰に知られても自分を貶めるだけと思っていた事だった。
何故話し始めたのだろうか。
冬の寒さに頭がやられたのだろうか。

「――という訳で、あの時は精神的なもので……。
 その後顔色が良くなったのは、
 三門さんが実は男で不倫は無い、と教えられたからです、きっと。
 ……ごめんなさい、こんな変態の話を急に聞かせてしまって。」
「いや……へー、聴いてて面白かったです」
「…面白かったですか?」
「ええ、こういう事考えてる人も居るんだ~って」
「……どうしたら私も強くなれますか?」
「え?」
「どうしたら、
 こういう妄想せずに済むようになりますかね…」
「え……いや、そういう話じゃありませんよね」
「?」
「だって宗長さんの楽しみなんですよね。
 また、その…妄想不倫って言ったら良いんですか?
 するようになって気持ちの調子も戻って来たって言ったじゃないですか。
 だったら別にそれを卑下する事は無いんじゃないんですか。
 宗長さんにとっては大切な事なんでしょう。
 私が女の身体になりたいのは心との整合性を手に入れる為で、
 そう、私はおちんちん付いてるのが我慢ならないんですよ。
 でも、今はまだどうしようも無い状態です。
 これからおしっこも出るし、色々とやらなきゃいけないし、
 お金も必要だし。
 でも、もし、
 宗長さんが、
 あー……私は宗長さんじゃないから本当は判らないけど、
 もし本当は、部長さんと恋愛とかしたくて、
 それが出来ない状態で…ほら、部長さん結婚してるし。
 それで妄想を、『仕方なくしてる』、というのなら、
 一回、スッキリしましょう。」
「……スッキリ?」
「好きって言いましょう。」
「部長に?私が?」
「部長さんに。宗長さんが。
 毎日アナタとセックスする妄想で忙しい程、
 アナタの事が好きなんですって言いましょう。
 それでスッキリ振られましょう。
 そして次の恋、行きましょう。」
「いや、でも」
「人生なんて普通に生きてるだけで精神削れていくもんです。
 好きな事やっても嫌な事やっても。
 だったら好きな事やって削れて生きましょうよ。
 一発ドン!と思ってる事やったり伝えたり、
 自分の好きな事して生きて行きましょうよ。
 ていうか、私はそういう生き方しかできないんで、
 宗長さんにもそういう事しか言えない訳です。
 だって自分が思ってない事は言えないし、
 やってきてない事は言えませんから。
 だから宗長さんにとってちょっと無理があるような事を言ってる自覚はありますんで、
 ただ聞き流してくれる感じで良いですよ。」

私は鯖。
鮪にも慣れない鯖女。
妄想の中での不倫ばかりを追い求め、
男の身体の温もりも碌に知りはしない。

「でも宗長さん、これだけは言えます。
 人間は魂とか心とか、そういうのをゴリゴリ削り合う方が面白いですよ。
 あくまで私の人生経験においては、ですけどね。」
「……いいなぁ」
「いいですか?」
「ええ、本当にいいなぁ、と思います、そういうの。」

『うらやむ』と『欲しがる』は表裏一体。
うらやんだものは欲しくなる。
ままごとの前に本物が来ると、欲しくなる。

今やってる事はままごとだとしても。

まだ、ままごとだとしても。


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筆者あとがき:

けんいちろうです。
なんでこんなに時間がかかったのでしょうかね。
作中の前編と中編の間にそこそこの時間経過がありますが、
実際の投稿期間にもそこそこの時間経過があります。
そこの相似性を調べてみるとちょっと楽しめるかも知れません。

筆が遅かったファクターを考えてみたのですが、
今回の主人公、鯖女さんがとにかく後ろ向きな方で、
思考も行動も後ろ向きなので、
それを書き出すこっちも一緒にネガティブになった、
という線はかなり強い要因ですね……。
これからこういう人物を描く時は一気にやるのが吉と学びました。

いよいよ年末、
皆様いかがお過ごしでしょうか。
ちなみに予定ではこれから毎日更新する予定なので、
また是非、お楽しみに来て頂けると冥利に尽きます。

年末まであともう少し、頑張っていきましょう。
けんいちろうでした、ここまでの読了感謝致します。

お楽しみ頂けたでしょうか。もし貴方の貴重な資産からサポートを頂けるならもっと沢山のオハナシが作れるようになります。