鯖のままごと 後編
このオハナシは続き物です。
前回から随分と時間が空きましたので宜しければ過去回をどうぞ。
続きが遅くなり待って下さっていた皆様には申し訳ありませんでした。
―――――――――――――――――――――
聞き耳を立てた。
今私を支えてくれている便座の感触は一旦忘れて、
この顔の両端に付いている耳に意識を込めた。
「えっ、不倫って誰が」
「あの子あの子、あのちょーカワイイ子。
清掃のさ、ホラ」
「トイレ子ちゃんの事?」
トイレ子ちゃん。
それはもしかして乙姫様の事だろうか。
トイレから連想する「子」なんてこの会社じゃ乙姫様しかいらっしゃらない。
あの子ぐらいしかトイレで特別な注目を浴びる存在なんて他にない。
あくまで、私の中の話だけど。
だがこの会社の中をひっくり返してみても、
現状「トイレ」と「子」という二つの単語で連想されるお方は、
あの女子を於いて他にはやはりいるまいよ。
いやさ、そんな議論は一先ず横に乙姫様と不倫がどうしたっての。
右手に握ったトイレの紙を握りしめ耳にいよいよ神経が走る。
「あの子不倫してるらしいよ」
「誰?相手」
「本間部長」
「本間部長と?」
「なんかね、」
と話を続ける女性社員だが、
本間部長というキーワードを聞いた私の全身が総毛立つ。
そう、本間部長と言うのは私が不倫しているあの部長と同一人物。
そんなまさか、あの本間部長が?
「部長室でヤってたらしいよ」
「うそ!?マジ?」
「ホントホント、
清掃員の人ってトイレだけじゃなくて他にもやってんじゃん」
「うんうん」
「それでこの前部長室の中、掃除で入ったのがあの子だったんだって。
それで出てくるのが変に遅いから?なーにしてんだろって耳済ませたら」
「聞こえてきたの?」
「らしいよ」
「へにゃー」
「何よその声」
女子社員の片方が出したのは甘え下手な猫が出したような声だった。
恐らく不意に出た声なので制御が整っていなかったのだろう。
私はと言うともっと制御が出来ておらず、
なんと触ってもいないのに髪の毛が一本、ハラリと目の前に落ちてきた。
毛穴が緩んだのだろうか。
でもそりゃ毛穴も緩むわ。
だって部長が不倫を。
私以外の女と、不倫を。
いや待って、不倫をしている私とだって実は不倫をしてないけど、
でも部長、あなたには愛する奥さんが居て、尚且つ愛妻家だった筈でしょう。
不倫なんてしなくても愛情の注ぎ口は奥様で手一杯の筈でしょう。
きっと嘘に決まってる。
私は知ってるもの、人間の流す噂なんて半分くらいは嘘。
小学校の時にケンジ君の家の風呂がぶっ壊れて、
身体を洗う為にアキナちゃんの家に行ってるよって噂も嘘だった。
中学校の国語の寺田先生は水曜日にパンツを履いてこないんだってって噂も嘘だった。
高校の時も大学の時も同じような噂が耳に入っては抜けて行き、
こんな真実にそぐわない噂は一体誰が流すのか。
しかし噂が漂っている間はその真偽が判らない。
本人に聞かない限りは判らない。
まるでシュレディンガーの猫。
けれど決定的に違う。
シュレディンガーの猫は本当に知りたい事が検証できないが、
部長の不倫疑惑はまだ検証できる可能性がある。
それには本人達の発言と、それを得る為の勇気が必要なのだけど。
だけど聞けるの?
「あなた、不倫しましたか?」なんて台詞を。
しかも同じ会社に働いている上司で、
こんな下手な事は避けて生きてきた私が。
んな事出来るわきゃねぇだろが、とトイレの個室がなじってくる。
壁板三つ、背後には壁、狭いのがトイレの特徴。
俯いて黙っているとまるでいじめられっ子に囲まれているようでしょう。
部長が不倫を、という言葉が私の心を揺り動かし、
それからヘロヘロと戻った自分の机でも動きが鈍って満足な仕事が出来なかった。
帰り道なんて言うまでもない、頭の中で雲の上を歩いているようだった。
人とは不思議なもので、
昨日まではありえないと思っていた事でも、
今日誰かに真逆の事を囁かれれば「そうかも」と思ってしまう。
心とは柔らかくて変化しやすい。
特に、私という人間は。
まるで抜かれたようだった。
この世の生きる楽しみを。
不倫なんて声に出せる趣味じゃない事は重々承知、
その上自分の妄想の中で、なんて指をさして笑われる。
きっとそう、決まってる。
でも私にとってはそれが今の唯一の救いなの。
憂鬱な通勤電車の中の救いとなり、
一人寂しく寝るベッドでの救いとなり、
水の様なものなの、それのお陰で今まで笑って生きていたの。
楽しみが無くてどうして人は生きていけるというの。
それからの日々、
案の定通勤時間はまるで砂漠を行くかのように渇き果て、
夜の時間は孤独が全身を舐め回してくる。
涙が出たら余計に悲しくなるから瞼を必死に閉じて、
このままの生活を続けると涙袋が筋肉でバキバキになりそう。
会社での生活もトイレを嫌うようになった。
生きているから結局出るものは出るのだけれど、
出来る限り我慢していかないようにしている。
全てはあの乙姫様と鉢合わせない為なんだけど、
それでも出会ってしまう時は出会ってしまう。
別にトイレの掃除だけをしてらっしゃる訳じゃないから、
廊下でのすれ違いとか、他の場所の掃除とか。
でもトイレで出会うのが一番嫌だからそれを避けるための努力をするの。
だってトイレって個室でしょ。
出会って逃げ出すのも、なんか嫌な物でしょう。
しかしてそうやって避けている乙姫様も、
神様が私に嫌がらせをしていらっしゃるのがちょくちょく出会うのでした。
その度に笑顔で挨拶をされて、
必要最低限文化的な生活をしている以上、こっちも挨拶を返すのよ。
だって私は挨拶をされたら絶対返事をしなさいと言われて育った大和撫子。
たとえ憎い相手だって挨拶を返す、それが私の人生の断片なの。
でも挨拶をする度に私の中の何かが壊れていくようで、
日に日に鏡の中で見る女の顔(要するに私の事)がやつれていくわ。
だって、そりゃあそうよ。
人生の楽しみが精神的なもののせいで出来なくなって、
その根源とちょくちょく出くわして挨拶してりゃあ、
そりゃあこんな顔にもなるわ。
神様、どうしてこんな事するの。
私はただ妄想の中で憧れの人と不倫してただけなのよ。
誰に迷惑をかけましたか。
ヤってる最中だって極力声を我慢してるんですよ。
二人でアンアンギシギシやってる連中よりも遥かに近所迷惑に配慮してるのに。
判りました。
もうこのままやつれ果てて、この東京の砂の一部になりましょう。
会社と自宅とコンビニを永遠と輪廻し続け、
衣住食以外に使う当てもない御給料を無意味に貯金し続け、
楽しみで潤わない心をすり減らして遂には孤独に死にましょう。
オナニーする事もなくなったのでティッシュの年間消費量も十分の一になるだろうし、
もう、私は噛み応えの無い女になります。
きっと鯖すらにもなれないんだわ。
そんな日々が一日、二日、一週間、
一か月、一か月半と経ったある日でした。
また運悪くトイレで乙姫様に出会ってしまったのです。
だってもうしょうがない、秋はとうに去り冬真っ盛り。
ぴゅうぴゅうと寒い風に足やらお腹を激しく撫でられて尿意も来る。
こりゃもうたまらんと駆けこんだ先に乙姫様が居たのでした。
もう掃除から引き上げる雰囲気だったのですが、
私の顔を見るなり一言こういうじゃありませんか。
「大丈夫ですか、顔色悪いようですけど」
冬の風に吹かれただけじゃないですもの、
楽しみを封じられて乾いていくこの人生、
それがいよいよ顔にも出始めたのかも知れません。
「はぁ、ちょっと、まぁ」
そう言って腹を抱えて個室に入りました。
そこまでお腹が痛かった訳じゃないんですが、
苦しいからそこをどいて、というアピールをしたかっただけなんです。
それからカタンカタンと道具を揺らしてトイレから乙姫様が出て行く音を聞いて、
私はようやく膀胱の筋肉を緩めました。
ああ、私はあと何回あの乙姫様の顔を見たら良いんだろう。
そう思って個室から出てトイレの敷居を出た時、
「あっ」
という声が聞こえたのですが、
それはまさしく乙姫様でした。
掃除道具を持った乙姫様がまるで、
彼氏の部活の終わりをまつJKのように壁に背を預けていたのです。
それから乙姫様が大丈夫ですか、と仰る。
私はそれを聞いてたじろぐ。
トイレから出てきて大丈夫と聞かれる事は私の人生ではなかった。
あっ、だの、えっ、だのぐにゃぐにゃの言葉で反応を示していると、
「顔色が本当に悪かったので心配で無事に出てくるか待っていたんです」
とこちらを探る様な視線で仰られる。
そうか、私の事を心配してくれていたのだ。
ごめんなさい、最近人生の楽しみの妄想不倫をしてないもので体調が優れないの。
そんな事を言える訳も無いので何回も小刻みにお辞儀をしながら大丈夫ですと返事をしました。
「良かった。」
乙姫様、本当に美しい顔をしてらっしゃる。
でも、その美貌を武器に部長と不倫をしてらっしゃるんでしょう。
そんな天使の様な笑顔で、私に笑い掛けないで。
「私、今日でここの仕事辞めるんですよ。」
「………え?」
「だから、最後の日にトイレで誰かが倒れたりとかなったら大変だと思って、
それで気になって待たせてもらって」
「えっあの」
「え?はい」
「辞めるって、え?」
「そうなんです、ここでの清掃の仕事、私今日が最後なんですよ」
「 ぇっ えっ?なんで……なんでですか?」
「うーん。
私実は身体が男なんですよ。」
「 え?」
「心は女なんですけど。神様がちょっと間違えちゃって。
ここでの採用でもちゃんとそれを説明して採ってもらって、
こうして女として働かせて貰ってたんですけど、
まぁ、ここ、大きな会社じゃないですか。
ちょっと色々な意見が実はあったらしくて、
それで大人の事情って奴ですかね~、居られなくなっちゃって。」
全身を液体窒素で瞬間冷凍された気分。
指先の一つも動かないんです、ショックで。
頭の中はハンマーで殴られたみたいに働いてませんでした。
「あ、そうだ、一つ広めて欲しい話があるんですけど、いいですか?」
「 」
「あの?」
「えっ、あっ、ハイ?」
「……なんか私がある人と不倫してるって噂が出たらしいんですけど…。
私、体はまだ男なんですよ。おちんちんついてて。」
「付いてる……」
「ええ、付いてて。取ろうとは思ってるんですけどね。
それまでは誰ともそういう事はしないと決めてるんですよ。
だから私が誰かと不倫したって事は無いです、嘘の噂です。
噂の相手になった部長さんは、私の話を聞いてくれただけなんですよ。
ただそれがちょっと長話になっちゃって、
それで部屋から中々出てこない私が悪かったんですかね、
なんか変な噂になっちゃったみたいな。」
「………」
「こっちの話が本当なんで、広めて貰って良いですか?」
「……あの、本当に」
「はい」
「本当に、男性なんですか……」
「身体はそうなんですよ。心は違うんですけど。
まぁ、人生って色々ありますよね。」
「あの……女性にしか見えませんでした……」
「あっ、本当ですかぁ!?うれしいー」
「話を聞いた今でも信じられないです……凄いですね……」
「凄いですか?」
「はい……凄く綺麗です……」
「あははっ、そんなに言われると照れちゃいますねっ!
でも、あっ、なんか顔色が良くなってきましたか?」
「えっ、あっ」
私の両手が私の頬に伸びると、
掌が頬の暖かさを知った。ほんのりと温かかった。
「でも良かった大丈夫みたいで。
じゃあ、私も残りの仕事やりに行くんで、
お姉さんも頑張って下さい!じゃあ!」
嗚呼、美人の笑顔って本当にズルイ。
また何度でも見たくなるから、また何度でも会いたいって思うんだわ。
でも、今は頭の中で整理する事が多すぎて。
私はただ乙姫様が振ってくれた手に、また手を振り返す事がやっと。
誰かにそうやって手を振るなんて事も久しぶりの事。
最後に手を振った相手はお母さんだっけ。
そんな事を思う私の思考回路はもうわちゃわちゃになっていた。
―――――――――――――――――――――
次回終編
お楽しみ頂けたでしょうか。もし貴方の貴重な資産からサポートを頂けるならもっと沢山のオハナシが作れるようになります。