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ソロモンの裁き

「産まれてくれてありがとう」と言った相手に、
「パパとママ、どっちと暮らしたい?」と聞くなんて、
親も所詮は自己都合の塊だと罵られてもしょうがない。

息子の悟(さとる)が生まれたのは十年前。
苦しむ妻の何とも言えない声を耳にしながら半時間、
立ち合い出産の果てに桜餅のような肌の息子を見た時、
心が大慌てしたのか、涙が勝手に目から漏れた。

子を授かって男はようやく父になる。
大卒で入社して六年目、
エントリーシートに書いた志望理由なんてとうに忘れ、
川に流される蛙の様に仕事に飲まれ続けた日々が嘘のよう。
生まれたての息子の写真を携帯の待ち受けに納め、
部長に「なんかお前変わったな」と言われた時には、

「やっぱり、男から父親になりましたから」

なんて答えて部長に背中を叩かれた。

労働の楽しさを親になるまで自分は知らなかった。
自分の給料が息子の未来につながる。
そう意識して励む労働が嘘のように心地良くなった。

社畜がひしめく通勤電車も、
『悟、パパ頑張ってるぞ』と思えば以前よりも苦ではない。
自分で一番変わったと思うのは「有難う御座います」だ。
電話越しの相手、同じチームの仲間、労ってくれる上司。
口から出ていく感謝の声が以前よりも張っている、
まるでデカい大根が口からスポンと抜けていくみたい。
それが周囲からも評判が良かったので、
ますます仕事への快楽に拍車がかかった。

妻の目から見ても夫の働きぶりは変わったのだろう。
悟の保育園入りが決まって少しした頃、
妻がそろそろ私も復職したいと言った。
元々妻は「働くのが生き甲斐」と言うような人間で、
妊娠が判った時も心中相当な葛藤があったのは見て取れた。
最近楽しく働く夫を見て尚更我慢出来なくなったのだろう。
こちらが渋る事も無く、

「一緒に働く事、楽しもう」

と言った時の妻の顔と言ったら。
その日は夫婦の夜が長かった。

悟は保育園、幼稚園、小学校と順調に通う場所を変えてゆき、
誰が教えたのか生意気な言葉も随分と喋る様になったが、
夫婦にとっての天使である事に変わりは無い。

だがその頃からだ、
『毒』が回り始めたのは。

我が社はそれまで管理プログラムを納品するスタイルだったが、
その頃突然、『周辺機器』まで納品するという案件に手を出した。
何でも新しく立つ大きなホテルの内部システムのみならず、
テレビや冷蔵庫も一緒に納品すると初めて聞いた時は、
そんなプロジェクトの担当に誰がなるんだかと思ったものだ。

だが白羽の矢が当たったのは不運にも我がチーム。
「何とかなるよ」とリーダーが周囲を鼓舞し、
各自の役割を決め始めたが、従来通りにスルリといかない。
何せ今まで無かった『現場管理』のポストが出来てしまったせいで、
現場まで出て常駐し諸々の管理をする人間が必要になり、
慣れない仕事を誰かがやらなくてはならない事に。
その枠が二人分必要と言う事で、
自分が目をつけられてしまった。

「こういうちょっと変わった事やっとけば、
 後々人事でも有利になるかも知れないから」

リーダーにその時言われた言葉が今になって恨めしい。
しかし頭に過る『出世』と『金』と息子の顔。

よし、パパ頑張るからな。
仕事頑張っちゃうからな。
そりゃもう当然だよ、だってパパなんだから。

そう意気込んで臨んだプロジェクトが『毒』の始まり。
納品物の管理や外注職人達の管理はまだしも、
取り付けテレビのサイズの変更は大変だった。

既に取り付けたテレビを「変更してくれ」と言われた時には頭が真っ白に。
当然全てのテレビは現場に持ち込んでて幾つかは箱から剥いている。
そんなものを今更変更というのは流石に無理があると言ったが、
施工主が「でも見た目が貧相だから譲れない」と言い出し、
まるでハンマーで頭をぶん殴られたような気分だった。

この件に関しては方々に電話をかけまくり何とか納めたが、
もうこんなのは二度と体験したくないトラブルだと断じて良い。
しかも、そんな現場仕事に加えてシステム構築の仕事もあり、
激務と呼んでも過言ではない忙しい日々、
プロジェクトが終わった日にどれだけ肩の力が抜けた事か。

だがまるで『わんこそば』。
味を占めた営業が同じような案件をチームによこす。

「一回やったでしょ、またヨロシク。」
「『アガリ』は良いんだから今回もやってよ。」

そんな二つの言葉で案件を押し込まれ、
こちらも所詮はサラリーマン、イヤとは言えない。

この頃から家に帰る時間は格段に遅くなり、
悟の顔は寝ている時しか見れない日が続きだす。
そして妻の方も仕事が激務になり離婚する事になった。
悟が小学五年生の時の話になる。

自分はただのサラリーマンで、
文章を書く事なんて得意じゃない。
学生の頃に小論文ってのがあったでしょ。
アレなんて先生から酷い言われようだった。
言いたい事が伝わる様に書きなさいなんて言われて。
ここまで書いた文章も大学時代にちょろっと読んだラノベの真似で、
いや、真似になっているのかどうかも怪しいもんだろう。

ここから離婚の話になるので、
格好つけない自分自身の言葉になるので御容赦願いたい。

要するに不器用だった。
どうしようもなく不器用だった。
転職すればいいのに、とか、
奥さんともっと話し合えばいいのに、とか言われたけれど、
全部終わった事なのでただ俺が情けないだけの話になる。

こっちの仕事が激務になり始めたと同時に、
まるで示し合わせたように妻の方も激務になったのは前述の通り。
お互い家に帰るのは深夜になって、
妻も俺も「酷い顔してる」と何度言い合ったか覚えてない。

悟には鍵を持たせ、
冷蔵庫には冷凍食品をみっちり詰めて、
家に帰るとシンクの中に悟が食べた夕飯の皿がいつもあって、
それが綺麗に洗われてるようになったのは小学三年生頃。

あの日の事は今でも覚えている。
夜遅くに帰ってシンクを見ると汚れている皿が一枚も無いから、
心配になってソファーで寝ていた悟を起こした。

「おい晩飯食べないと病気になるぞ」って言うと、
「食べたよ」と悟が言う。
「いや、でもシンクに皿が一枚も無いじゃん」と言うと、
「そりゃそうだよ、だって僕が洗ったもん」と言うんだ。

悟が初めて立った時みたいに感動したね。
かなり大きな『父親の感動』ってやつをさせてもらった。

でも妻とは離婚したんだ。
お互いいつまで経っても激務の波が収まらなくて、
家でたまにゆっくり出来たと思えば互いの仕事の事を突き合う。
ちょっと仕事の量を減らす事は出来ないのかと探り合う。
そして最後はいつも喧嘩になる。
「そっちがもっと早く帰って来いよ」の言い合いになって、
「だって悟がいつも家で一人でしょ」の責め合い、批難し合い。

どちらかが柔軟だったらどちらかが転職したんだろうけど、
二人とも十年近く務めた会社から去りたくは無かった。
双方の両親が見かねて一緒に住もうかと言ってきた事もあったけど、
妻も自分も突っぱねた。
大丈夫、ちゃんとやれてるからと毎回言って、
その度に深いため息を吐いたもんだ。

でも本当はちゃんとやれてなかった。
離婚という結果がその証拠。

でも聞いて欲しい、
不倫や浮気は二人とも一切無かった。
ギャンブル癖も無かったし、そもそも酒は下戸もいいとこ、
浪費癖もそんなに無くて風呂にも入って歯も磨く。

ただ、仕事を熱心にやっただけだった。
二人とも息子の為にお金を稼ぎたかっただけ。
そして一人前の大人になりたかったし、親になりたかった。

双方の実家の申し出を断ったのもそういう気持ちがあったから。
子供も生まれたのに、今さら親が出てきて同居するとは、
まるでまだまだ半人前だと言われてるような気分になる。
妻も自分もだから突っぱねた。馬鹿だった。
親の優しさに気付けなかった。

挙句の果てに悟には「どっちと暮らしたい?」と聞くなんて。

現場に出る仕事をするようになり多く得られるようになった物が二つある。
それは給料と理不尽だ。
給料は言うまでもないが、理不尽は本当に多い。
自分に非が無い事でも馬鹿みたいに怒鳴られ、
親の仇であるかの様に冷徹な扱いを受ける。
いや、以前の仕事形態でもそのような事はあった。
でも以前の比じゃない、現場には大人の悪い心が渦巻いている。

通勤で乗る東京メトロ丸の内線が怖くもなった。
一緒に乗り合わせる社会人は全員自分より仕事が出来るように見えて、
それが笑ってようものなら自分が笑われてるんだと思う日すらあった。
一時期は楽しく思えていた仕事がいつしか俺を貶めて、
家に帰っても妻との絶えない喧嘩が待っている。
悟はいつも帰る頃には良い子に寝ていて、
いつか自分の顔を忘れてしまうのではないかと何度も思った。

仕事での楽しみを失い、
愛していた筈の妻とは離婚、
その上、息子の悟を手放してしまったら、

俺はどうやって『大人である事』を保てばいい?

社会人として気を病み、
配偶者としては失格、
親として落伍者の烙印まで押されてしまったら、

俺はただの『歳だけくったオッサン』だ。

出来るか、それを認める事が。
俺には出来ない、精神が崩壊してしまう。

だから妻に「悟は俺が育てる」と言った。
きっと声が少し上ずっていただろう。

妻は自分のお腹を痛めて産んだ子供だ、
勿論悟は自分が育てると引き下がらない。
悟が十歳になっている事もあり、
遂に俺達は「親を選ぶ」という子供には無茶な選択を迫った。

「悟、パパとママ、どっちと暮らしたい。」
「どっちと暮らしたいかって、離婚するの?」
「そうだ、パパとママ、離婚するんだ。」
「一緒に暮らせないの?」
「そうだ、ごめんな」
「……パパは僕と暮らしたいの?」
「勿論だ、一緒に暮らしたいよ」
「ママも僕と暮らしたいの?」
「当たり前じゃない、悟、ママと暮らそう?」
「うーん、んー……ちょっとトイレ行ってくる」

トイレで考えたいんだろう。
一人になれるからな。
パパとママの顔を見ながらじゃ流石にきついか。

「いいよ、ゆっくりおしっこしておいで」
「うんちし」
「うんちでもいいよ、行っておいで」

悟がいなくなって妻と二人きり。
いや、もう暫くしたら妻じゃなくなる。
俺だって夫じゃなくなる。
きっと『毒』は俺達二人の中に知らぬ間に入り、
離婚が唯一の解毒方法だった。

「ちょっと見てくる」

悟の戻りが遅い。
トイレで泣いてるんだとしたら変に刺激したくない。
トイレの前に立って一声名前を呼んでみたが返事は無く、
コンコンとドアを叩いてみても返事は無い。
安否が不安になってドアノブに手をかけると、
鍵で止まらずにそのまま回る。
えっ、と思って回るに任せてドアを開けてみると、
トイレの中には悟が二人いた。

慌てる夫が別れる予定の妻を呼び、
久しぶりに夫婦息の合ったうろたえぶりを見せる。
夢幻の類である事も念頭に入れ、
試しに妻に頬をひっぱたかせるとこれが余りに容赦なく、
「ちょっとは加減しろ」と言うと、
「ごめんもう離婚するからちょっと力んだ」とか言って、

いや、そんな事はどうでも良い、
一人しかいない筈の息子が二人居る。
そしてこんな事を提案してきた。

「これでパパとママのどっちも、僕と一緒に暮らせるね」

古代イスラエル王国の三代目、ソロモン王の有名な裁き。
二人の女が一人の親権を争っていたのでソロモンが、

「剣でその子を二つに切ってそれぞれ半分こしなさい」

と言った。すると片方の女が、

「それは余りに不憫なのでその子は相手の女のものにして下さい」

と言ったので、
ソロモンはその女を子供の本当の母親だと見抜いたという。

だがこれはなんだ。
子供の方が本当に二人に増えるなんて話は聞いた事が無い。
しかも身体が猟奇的に二等分されてる訳でもなく、
本当に二人に増えている。

妻も俺も悟が研究所か何かに連れて行かれたり、
ハイエナの様なマスコミに連日追い回されるのが忍びなく、
それぞれが何食わぬ顔で一人ずつ悟を引き取り暮らす事にした。

「パパ、本当は一緒に暮らさない方が良かった?」

余りに常軌を逸した出来事に戸惑が隠せなかった。
子供と言うのは親の事をよく見ているもので、
引っ越しのダンボールをあらかた開け終えた夜、
俺が引き取った悟がふいにそんな事を聞いてきた。

「馬鹿だな、何言ってるんだ、そんな訳が無いだろう。
 お前が二人に増えたからちょっと驚いただけだよ。
 でもこれで良かったんだ、きっと神様が助けてくれたんだ。
 今頃ママももう一人のお前と仲良くしてるよ。」

妻はもう妻じゃない。
でも悟にとってはママである事に変わりはない。
多分、これから俺は離婚した妻をママと呼び続けるのだろう。

離婚と引っ越しの免罪符で、
暫く会社も仕事の内容を加減してくれていたが、
悟がもうすぐ中学生になるという事もあり、
間もなく以前と同じように激務に戻った。

相変わらず人がごった返す朝の東京メトロ丸の内線。
終電ギリギリで帰る車内はそれでも人がまばらに乗ってて、
このうちの何人が子供を家で待たせてるんだろう。
それともみんな独身なのかな、
などと考えるのは俺が離婚したからだろうか。

家に帰るとシンクの中には何もなく、
水切りカゴに濡れた皿が入っている。
寝室を静かに覗くと息子が子供らしく眠りこけ、
そこで漸く一日の終わりを知る。
そして息子が起きる前に家を出る、の繰り返し。

電車に揺られ仕事をして、
疲れて電車に乗って帰宅して、
眠って起きたらまた電車。その繰り返し。
土日も仕事に駆り出される事が多く、
本当にいつか悟は俺の顔を忘れてしまうんじゃないか。

いや、まて。

これ、悟と一緒に暮らしている意味、あるのか?

離婚してから暫くは会社も父子家庭に気を遣ってくれてたが、
そんな優しさも一か月程度でそれ以降は親子らしい接触は殆どない。
そもそも、悟の運動会を見れた事も二回しかない。
今年悟は六年生だ。六回は見れる筈なのに、二回しか。

この先、悟が中学に入ったとして、
俺は何回悟の運動会を見てやれる?
文化祭や部活の試合や、授業参観に行ってやれる?

悟と親子らしい事をする為に転職するとして、
会社は俺に転職の為の時間をくれるか?
面談まで漕ぎ着けてもその日を有給にしてくれるか?
一旦退職するとしても絶対に他の会社が俺を採用してくれるか?

くれるか、くれるか、くれるか。

そうか、
俺の人生はもう、
俺がコントールできない状況なんだ。
他者の『お情け』がなければ、
今の俺は満足に悟の父親でいることすら出来ない。
ごめんな悟、こんなパパでごめんな。
パパももっと良いパパになるつもりで頑張った筈なんだけどな。
ママとは離婚するし、どうしてこうなったんだろう。

珍しく休みが取れた日曜日、
悟が食べたいと言ったスパゲティミートソースを昼食に食べ、
「僕が洗う」と流しに立った悟の背中を見て、ぽつりと口が開いた。

「なぁ悟、ママのところ、行ってみるか」

パパも行くかって?いやパパは行かない。
悟が一人で行くんだ、電車は乗れるだろう。
それでママが優しくしてくれたらママと暮らさないか。
実はちょっと心配なんだ、お前が二人に増えただろう。
そのせいで変な病気とかにこれから罹ってしまうんじゃないかって。
出来たら一人に戻る方が良いとパパは思うんだ。
いや、決してお前の事が嫌いになった訳じゃない。
パパだってお前と暮らしたい。
でもパパ、いつも仕事で忙しいだろ。
会社がな、もっと働けってパパを帰してくれないんだ。
いつも悟、家で独りぼっちだろ。
パパはパパ出来てないよ。
このまま続けていくのはきっと悟にも、パパにも良くない。
だから一度、ママの所へ行ってみないか。
うん、そう、今日でも良い。試しにな。

皿を洗い終わった悟が服を着替え靴を履き、
玄関から出かけるのをにっこり笑って見送った。
良い、これで良いんだ。
出来ない事を無理にする必要はない。

大人になって結婚して子供が出来て、
頑張っていたら幸せな家庭を築けると思っていた。
でも現状、離婚して子供との十分な時間は無くて仕事に追われるだけ。

幸せな家庭を築いてる皆さん、一体どうやってるんですか。
結婚した相手が不満を全く言わない相手だったんですか。
入った会社が早く帰れて給料もガッポリ貰える会社だったんですか。

じゃあ子供が生まれる前に離婚して別の女と再婚すれば良かったんですか。
『良い会社』に巡り合うまで転々と転職すれば良かったんですか。

でも妻は離婚こそすれ良い女だったんですよ。
俺が「この女と結婚したい!」と思う位には良い女だったんですよ。
会社だって仕事はクソだけど良い人が沢山いるんですよ、
この人達と仕事をするならと、そう思えて今でも働いてるんですよ。

何がいけなかったって言うんだ。
効率だけ求めて他の都合は全部無視しろって言うのか。
じゃあ無理だ。だって俺は人間なんだよ。
『俺』と言う人間らしく生きた結果がこれなら、
もうどうしようも無い。

悟を『ママ』の所へ行かせるのも覚悟がいった。
だってそれは俺が『父』である事を放棄するという事だ。
でも今の状態でどうやって『父』でいられる。
どうしようもない。
誰かが俺にポイと都合の良い職でもくれるってのか。無理だろう。
しょうがない、良いパパじゃなくてごめんな、悟。

もうそろそろ悟が駅に着いた頃だろうか。
悟が洗ってくれた皿を拭いていると携帯が鳴った。
悟からこれから電車に乗るよというチャットだろうか。

〈もしもし〉

ママだ。
いや、元妻だ。

「ど、どうした?」
〈……ごめんなさい、悟の事でね〉
「え?お、おお、謝る事ないよ、俺が悪いから。」
〈そんな事ない〉
「いや、駄目だった、何もかも。
 俺から連絡いれるべきだったよな、ごめん。
 でも悟からそっちに連絡いったろ?あとは出来れば」
〈え?〉
「え?」
〈連絡って……え?私が悟から?
 あなたの方こそ悟から連絡貰ったんじゃないの?〉
「なんで?いや、何も貰ってないけど」
〈……今朝、悟と話をしたの。
 もし良かったらパパの所で暮らしてみない?って。
 そうしたら悟の身体も元に戻るかも知れないからって。
 ごめんなさい……私結局仕事の量が減らせないまま、
 今でもずっと悟と一緒にいる時間増やせてあげられなくて……。
 もしかしたらあなたの方が『親』を出来てるんじゃないかって、
 それで……もうそろそろそっちの駅に悟が着く頃だから、
 遅くなったけど悟の事よろしくって言いたくて〉

通話を切って机に放り投げた携帯。
拭きかけでまだ水滴が付いている皿。
つけっぱなしのテレビ。
全てがどうでもいい、
着の身着のままに靴だけ加えて、
駅まで全速力で走った。

悟、悟、あのな、パパはお前の事大好きだぞ。
ママもきっとそうなんだ。
でもパパもママもあんまりうまくいかなくってな、
お前への好きがよくお前の所まで届かないみたいだ。
二人とも不器用でごめんな、
お前は器用に二人に増えたりしたけどさ、
別に一人のままでもきっと良かったんだよ、
本当ごめん、他の親はどうやって上手く子育てしてるんだ。
どうして俺とアイツと悟だけこんなに上手くいかないんだ。
ああ悟、悟、ちょっと待ってろ、待ってろ。

階段を駆け下りて改札を走り抜け、
ホームまで降りると双子の様な子供が二人いた。
でも知っている、その子達は双子じゃない。
元は一人の、俺の子供なんだ。

「ねぇお父さん」

手前にいる悟が振り返ってそう言う。
歳のせいかこっちは呼吸するのが精一杯で声も出ない。

「こっちの悟、
 パパと暮らしてみたらってママに言われたんだって。
 でも僕はママと暮らしてみたらってパパに言われたでしょ。
 僕達、どこに行けばいい?」
「……悟っ、あのな、」

パァン

と甲高い音と共に疾風がホームの中を駆け巡る。
少し遅れて電車が轟音と共に横を掠めて、
思わず驚いて目を閉じた。

パシュウ、というドアが開く音がする前に目を開くと、
双子の様な俺の子供はどこにもいなかった。

「お降りのお客様は御手荷物を――」

開いたドアから客がわらわらと降りてくる。
目で探すもホームには悟の姿が『一人も』見当たらない。
客がすっかりいなくなっても見つからない。
ただ涙が勝手に目から漏れた。

悟が生まれた日も丁度こんな感じに泣いたのだった。


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