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アラームは何時鳴らす

「Next station is うえの うえの」

きっと声の主は金髪の女だ。
紅い口紅をしながらマイクに向かって録音したに違いない。
彼女の唇から洩れる紅い吐息がスピーカー越しに聞こえてくる。

いっつもそう思いながら乗るのは東京メトロの日比谷線。
北千住駅を越えて南千住駅を通過したらそこから先は空が見えない。
それが会社への行き道。
帰りは当然逆になる。

都営大江戸線の両国駅から上野御徒町駅までは大体六分、
それから日比谷線に乗り換えて、
一日の疲れを満員電車で増幅させる。
満員電車は疲れる。

師走の今にこれまでの社会人生活を振り返る。

一年目はただ我武者羅に。
二年目は慣れに身を任せて甘さを身につけ、
三年目は後輩に恰好を付けたくなって変に先輩振った。
四年目は変に冷静になって、

「ああ、このままグルグルとずっと仕事で時間が回って、
 この人生は過ぎてゆくのか」

と、
嫌な「先」が見えた。

北千住駅にやって来る日比谷線の東武動物公園行き。
相変わらずの満員電車が毎度の如く多くの人間を鮨詰めにしてるから、
こっちも「またかい」と眉間にしわを寄せるいつもの挨拶。
何とも言えず、乗り込んだ矢先に更に後ろから人が乗って来るもんだから、
一瞬だけ高まるこの血圧、平常は上が百を切って下は六十台、
そんな俺の血管、圧力には慣れてないんだ、
満員電車で血管破れて脳梗塞も多分に起こせちまうぜ、これは。

なんて馬鹿な事を考えるようにもなってしまった社会人四年目、
昔の自分が背中の奥でせせら笑う声を必死に無視するのが大変だ。

電車が走り出せば、
地下鉄は窓を暗くする。
黒い窓に映ったのは勿論自分で、
そんな事は地下鉄に乗った誰もが体験している事なので、
いちいちあれやこれやと言うのもおかしい話だ。

そんな電車の中で今日のオハナシはどうしよう、なんて考え始めるが、
話の種なんてこれっぽっちも転がってねぇよ。
ただ見えるのはお仕事を終えて疲れ果てた社会人の方々の顔、顔、顔。

俺、もうやめた。

物書きとしてあがこうなんて、もうやめた。

今日からは、一般のサラリーマンとして精一杯、社会の歯車になりましょう。

そんな事を思って視線の角度を三十度俯角に下ろした時にふと目の前で、
この満員電車で一緒に鮨詰めになっている白髪のご年配がスマホを取り出した。

俺の特技は盗み聞き。
加えて、趣味はのぞき見。

何を打つの?何を打つの?
あ、メール打つの?
あ、違うな、予定表?

そうやって覗き込む先で彼の指がディスプレイを押しながら、
真っ白なカレンダーの部分に平仮名が一つ二つ三つ増え、
それが感じに変換されて一つになって、
また二つ四つ増えた平仮名が、また漢字変換で一つに減って。
まるで水前寺清子の曲じゃないか。
三歩進んで二歩下がる。
英語じゃ起きない現象が日本語では起こる。
なぁんだ水前寺さん、今の現代にも根強くアンタの歌が残ってるじゃないか。

白髪の年配が『スケジュール』は『アラーム』の設定で、
00:00きっかりに時間を合わせる。
深夜の真夜中午前零時。
そんな時間に一体なにがあるんですか?

疲れた頭がオハナシの構想を放棄して、
古びた手がトントンと動く様を注視する。
すると、

『定年退職』

と、彼の指が、
白い背景を背負う黒い文字が四つ、
唯それだけがこの視界を支配した。

日付を見た。
2018年の12月29日。

打ち終わった彼の指から、時が待つのが見えた。

彼の周りの時が、
彼の心を待っている。
色んな事が巡り巡ってきっと七色が遠くに揺らいでいるような、
そんな彼の心の中の色が眼球の奥から聞こえる。
だから俺も少しだけ時間に待ってもらって、
固まった体でじっとそのスマホの『定年退職』の文字を見た。

大体一分だろうか。
彼が二回、スマホをトントンとやると画面が小さな子供に変わり、
そしてそれを一瞬だけ確認したのか、
その手はスマホをポケットにしまった。

「お疲れ様でした」

そう呟いても、
きっと良かったのだけど。

だけど電車の中には俺と彼の他にも沢山の人が群がっていて、
俺の口から漏らした「お疲れ様でした」と言う言葉は、
彼の鼓膜を揺らすよりも早く、
左前に居る目がトロンとした男の耳に響いてしまいそうだ。
そうなってしまうのが嫌で、そしてきっとそうなってしまうから、口をつぐむ。
駄目だ駄目だ、俺の「お疲れ様でした」はそんなに安くないんだぞ。
本当に頑張った人間にしか聞いて欲しくないんだ。

それから俺は勝手に一人で12月29日の日付が変わる頃に

「お疲れ様でした」

と言おうと決めたのだけど、
そんな事を彼は全然知らない訳で、

『定年退職』をアラーム設定した彼の口は、
俺の疲れて力が入らなくなった笑顔の表情筋とは違い、
「何かをやり遂げた」という言葉が似合う笑みを見せた。

この笑みは彼が意図したものなのか、
それとも、彼のこれまでの「時間」が自然とそうさせたのか。

東京メトロ日比谷線、北千住駅。
必ず人がドバッと降りて行くその波の一つになって、
彼は俺の目の前から降り去って行った。

大きく息を吸っても、
彼の匂いがどんな匂いかは知る事が出来ず、
今は唯、

彼が笑みを見せたその仕事を、

この心で、ただ、想うだけ。

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