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八・約束

 勘定をすれば丁度ケイルがシーアを出発するかしないかという頃になるようだ。
 永い眠りから覚めかけたロウコの意識に、自分に繰り返し呼び掛ける声が聞こえてきた。
 “目覚めたまえ・・君。目覚める前の目覚めだよ・・。”
 それはどうやら少年の声のようだった。若いが堂々とした、美しい発音をしている。
 “目覚めてくれ・・君に頼みがあるのだよ・・。”
 俺に頼み?
 そこでロウコはまぶたをあげた。まだ身体は動かない。あたりは湿った闇に包まれ、上下左右の別もよくはわからない。
 そんな中、彼の左手にほんわりと小さなやわらかい光が灯った。その中にはやはり声のとおり、十四、五歳かあるいはもう少しだけ年上に見える、白に近いさらさらした髪を首のあたりまで素直に落とした、青白い顔の少年の姿があった。襟の立った黒い、金釦のついたマントのようなものを羽織っている。
 「俺に用か。」
 ロウコは少年に尋ねかけた。少年はロウコを見たままこっくりと一度うなづいてそうだと答えた。
 「頼みがあるのだ。」
 少年はもう一回そう言った。
 「何の頼みだ。もっとも俺はこのザマで大して何もできそうもないがね。」 
 「大丈夫だよ。もうすぐ君はそこから解放されることになる。今準備を進めている者たちがいるのだ。君を目覚めさせるためのね。」
 「俺を?何でまた。そもそも俺は“塔の大院”に逆らってこんな目に遭っているのだ。そんな者を目覚めさせたりして、そいつら巻き添え喰っても知らないぜ。」
 「心配は要らないさ。君を起こそうとしているのはその“塔の大院”の連中だ。腕の立つ者に用事が出来たとあって、昔、総長に封じられた君を目覚めさせようとしているのだからね。」
 「“大院”の連中が?」
 そんなことがあるのか。それも期日が来たとか赦しが出たとかいうのではなく、用があるからといって俺を起こすようなことが?
 「世界は変わったのさ・・いや、ほんの狭い世界の話だがね。とにかくきみはもうじき表に出る。そうしたら彼らは君にひとつの依頼をするだろう。それはシーアの大院から“塔の大院”・・“石造りの塔”を目ざして旅をする小さな修道者、ケイルの首を落としてほしいという依頼になるはずだ。」
 「小さな修道者?」
 ロウコは訝し気にそう言った。
 「子どもか。」
 「わたしより年下だろう。」
 「ではそいつらに言え。俺は子どもは殺さん。」
 「ただの子どもではない。」
 「そうだろう、シーアからこちらに来るのであれば、それはあっちの修行を終えたものだ。おまえより小さな子どもがそんなことをしたのならばそれはまさしく普通ではない。」
 「そのとおりだ。」
 「しかしなんだって“大院”の連中がシーアの修道者を?大切なお客ではないか。」
 「今の“大院”には彼は大切なお客ではないからさ。」
 「今の、か。さっきおまえは、世界は変わったと言ったな。“大院”に何があった。」
 「“大院”は最早清廉な学びの場ではない。よくある話だろう?」
 「ふん、何を売った。」
 「はじめは紫の数珠を、次は黄金の帷子を。緑の三重輪も青の手袋もあれもこれもだ。」 
 「そうかずいぶんやったな。あそこには金になりそうなものがごろごろしていたからな・・いつかそんなことになるのではと思っていた。闇商人の粘り勝ちか。」
 「君がいた頃とは随分変わっただろう。しかし相変わらず上の命令は絶対だよ。今の時代に君がいてもやはり封印されてしまっただろうね。長老達の命に逆らって仕事を放ったらかしにして帰ってきたのだから君もかなり思い切ったことをしたものだ。」
 「よく知っているな。」
 「わたしは何でも知っている、ここのことならね。資料にも君のことは残っているよ。今の大院の連中はそれを辿って君のことを思い出したらしいがね。」
 「こんな前歴の奴にもう一度仕事をさせようというのがよくわからんな。まともにやり遂げると思っているのだろうか。」 
 「大方、封印を解いてやるからとでも言って言うことを聞かせるつもりだろう。」
 「平凡だな。」
 「平凡だ。まあ・・君がどういった者かよくわかっていないのだろうね。」
 そこでロウコはすこし可笑しそうな調子になった。
 「おまえなら解るとでも言うのか。」
 しかし少年の方はごくまじめに頭を右に傾けて、解るような気がする、とあっさり答えた。
 「君は、君の時代で言う先代の総長のような人が好きなのだろう?だから頼まれて大院の守護役になった。しかし次の代の総長のことは嫌いだったようだね。」
 「別に嫌いじゃないさ。人が変わったから逆らったわけでもない。言っていることが気に入らなかっただけだ。もっとも先代なら間違っても、はなからあんなことは言わなかっただろうがな。」
 「うん、大した信頼だね。でも罪人を見逃して来たのだろう?」
 「あんなのは罪人じゃない。」
 「思想犯だったって。」
 「俺には思想犯は罪人じゃない。」
 「ふふ、冷めて見えるが頑固だね。」
 「先代のようなことを言うのだな。」
 「それ、誉めてもらったのかな。」
 妙な奴だ。
 ロウコはいつの間にか、少年との会話を少しばかり楽しんでいる自分に気付いていた。しかしそろそろ本題に入るべき頃ではないだろうか。
 「・・俺に頼みがあると言ったな。」
 「ああ・・頼まれてくれるかな。」
 「内容次第だ。」
 「そうだろうね。さっき大院の連中が君を起こして、修道者を殺せと頼むだろうと言ったよね。それを・・」
 「助けてやってほしいのか。」
 「いや、その話を受けてもらいたい。」
 ロウコはずいぶん意外の念に打たれていた。
 「俺に・・その子を殺せと?」
 「気は進まないかもしれないがぜひ頼みたい。」
 「何故だ?」
 「“石造りの塔”を守るために。」
 「塔を守る。」
 「ああ。このまま彼を迎えれば間違いなく彼とこの院は争いになるだろう。そして多分・・彼は勝つのだ。彼にはシーアの秘蹟の力があるからね。一方こちらにあるのはもはや堕落し弱体化したものばかり。秘蹟の石の力だって汚され曇らされてかつての輝きはもうないよ。あれらはここにいる人間の精神と呼応しているのだから・・。
 だからこの戦い、こちらの負けだ。しかし連中はとりあえず戦うだろうから、秘蹟の石を持ち出すのは明らかだ。その結果、彼によってあの石が割られてしまえば、この塔は瓦解しかねない。あの石ともうひとつの力でこの塔は呪術的に支えられているのだから。あの石が無くなればこれは苦しい・・かなり苦しいだろうね。
 塔が倒れれば大院は終わりだ。大院が崩壊すれば・・ゴレルは滅亡する。」
 「ゴレルが?」
 「この世界はもうずいぶん前から終末期に差し掛かっているのだよ。このまま滅亡になだれこむか持ち直すか、その結論はまだ出ていない。
 しかしその、滅亡への下りの坂道の途中でこの世界・・特にゴレルを支えているのが大院の知の不思議と術の不思議だ。そして徳の不思議・・これはまあ話したとおりずいぶん怪しくなっているがね。
 それでもこの大院はゴレルを支えている。それがなくなればこの世は荒れる。荒れて荒れて・・遂には滅びる。わたしとしてはそれだけは避けたい。というよりやはりこの塔だけは何としても守りたい。」 
 「どうしてだ。どうしてそこまでしておまえが塔を守る。」
 「わたしがもう半分以上、塔そのものになっているからだ。」
 事も無げに少年は言った。
 「・・なんだと?」
 「この塔は・・遥か古えよりあったものだが、終末の時代を迎えた頃大幅に強化され建てかえられた。今から五百年ほど前の話だ。
 ああわかってもらえるだろうか・・この世界の歩みは悠久の流れの中にある。世界が終末期を迎えてから五百年、全てはゆっくりとゆっくりと・・一方では終わりに近付きつつある。この世の始まりがそれはゆっくりだったようにね。
 そう、そしてこの塔を建てかえるにあたり、大院はその礎の下にこの塔を支え続けるあるものを埋めた。それが・・わたしだ。」
 「なっ・・。」
 ロウコにはその言葉が、俄には信じられなかった。
 「おまえ・・人柱か。」
 「まあね。もっとも、一般に行われる人柱は無意味で野蛮な忌むべき風習だ。もう残っていないことを祈るばかりだよ。
 しかしわたしは・・違ったのだ。わたしは学問を修め秘蹟のための石にも触れた。そして半ば志願してこの塔の下に入った・・シーアに赴くのを取り止めてね。この塔を・・ゴレルを世界を・・ああおこがましいな・・支えるために、だ。」 
 「おまえ・・。」
 「わたしの肉体はもうほとんど残っていない。」
 少年がそう言い始めると、光の中の彼の身体にふたつの透ける像が揺れてかぶさり見えるようになってきた。ひとつは乾いて縮んだミイラのような姿、もうひとつは茶色く変色している骸骨の姿。
 「しかしわたしの精神は・・こうして残っている。というよりも、肉体さえ、朽ち果てた姿でなおも生きていると思ってもらった方が良い。精神と肉体は全くの別物ではないからな・・いやその話は今はいい。
 わたしは・・自分の肉体を賭け、時間を賭け、すべてを賭けて守ろうとしたこの塔がそう簡単に崩れることが耐えられないのだよ。
 塔を守り、ゴレルを守り、世界を・・それが滑り落ちてしまうのを、少しでも、少しでもまだ食い止めていたいのだよ。頼む。ケイルの命を・・奪
ってくれ。彼がやって来るのを止めてくれ。」
 「・・ケイル・・。」
 ロウコはその名を口の中で繰り返した。そうか、それがシーアから来る小さな修道者の名前なのか。
 「ケイルと大院を戦わせないわけにはいかないのか。」
 「まず無理だろう、大院の連中は保身で頭がいっぱいだし・・。何よりケイルは戦う意志がなくても来るだけでこの塔を破壊してしまう。彼の宿す力そのものがこの弱った塔をおびやかすのだよ。
 彼の力は彼がそうしようとしなくても、石の曇りをあばくだろう。や
はり“石”は崩壊する。その前に“石”が彼を攻撃するかもしれないな・・防御のために。」
 「大院の裏切り者どもを粛清する方がすじじゃないのか。」
 「まあね。しかしそれでも彼らは一応はまだ塔の長老たち。それなりの知と術の力でやはりここを支えているのだよ。彼らを一時に失えばやはりこの世界はバランスを失うのさ。」 
 「ケイルというのは話の解らん奴なのか?ここに来るのをやめるか・・せめて少しは待つように言って聞かない奴なのかね。」
 「どうかな・・どんな人間かは知らないけど・・。まあ基本的には無理だろうね。向こうだってそれなりの決意と心づもりで目標を持ってやってきているんだから。
 シーアの秘蹟の術を受けようと決めた時、ここまで旅をしようと決めた時点ですでにその気持ちにはなみなみならぬものがあるはずだよ。それに彼には彼の事情がある。わたしも少しばかりはそれを知っているからね。
 第一彼がシーアに戻ればシーアの大院が絶対に黙っていないよ。シーアは“塔の大院”に討伐兵を出すだろう・・そこまで見逃しちゃくれないさ。まあ確かに許すまじき大罪だからな。彼らはゴレルの“塔の大院”を制圧して自分たちがこの世のすべてを治めればそれでうまく行くと思うだろう。そんなことは不可能だ、とは思わないだろうね。この世が一つの院のみの力で支えられるものではないことを、理解することはできないと思う。
 大院の権威を守る戦いということになればわたしかその他の者の説得が効を奏する可能性は低い。説得を試みるのはあまりにリスクが大きすぎるのさ。大院というのはね、君・・そういう所なのだよ。この世を支えているそのわりにはね。」
 「ケイルにシーアに戻らないように頼むことは・・。」
 「そこまで頼まれてくれるかなあ。まあもしや彼がそこまで聞いてくれたとしても彼はいつかはシーアに戻らないわけにはいかないだろう。彼を収められる“箱”は最早この大院かもしくはシーアの院しかない。ここでももう無理だろうことはさっき言ったとおりだね。
 野放しにするには、彼は既に危険な存在なのだ。しばらくは野にあっても大丈夫かもしれない・・けれど彼の中に吹き込まれた救世主となるための不思議の力は、昇華されずに置いておかれれば行き場のないまま膨張する一方さ。それを抑えられる“場”は世界広しといえど今やシーアの大院しかない。そこでなければ彼の力は、在るだけでやはりいつかは世界のバランスを崩すだろう。
 多分行き着く先はこの世の終わりだ。彼はこの世を救わず・・ただこの世に審判を下す。シーアの秘蹟の力とはつまりそのようなものなのだよ。この末期の世界においてはね。」
 「ではいっそのことケイルをとっとと救世主にしてしまってはどうだ?奴はこの世を救うだろう。」
 「それは不可能だよ。彼を救世主にするもうひとつの秘蹟の道具、ゴレル側の“秘蹟の石”の力がもうすでに失われているからね。」
 「・・そうだったな。」
 しかしそれでは・・。
 「では、つまるところこの世はどうなる。そしておまえはどうなることを望んでいるのだ。」
 「そうだな・・何なのだろう。要するに自分のことしか考えていないのかもしれない。自分が守ってきたこの塔を、ただ単に壊したくないのかもしれない。しかし・・しかしできればわたしは、この塔の自浄をまだ待っていたい。そして世界にもまだ審判の時を迎えてほしくはない。この世界はまだ立ち直れる。きっと、自らで・・。
 彼のせいではない、彼は少しも悪くはない。どう考えても汚れを背負ったこの“塔の大院”に責任がある。しかし今のこの、この状況に於いてケイルが手にしてしまった大きな力は、バランスを崩す以外の何ものでもないのだ。彼の力は・・清すぎ、強すぎる。この世にはあり得べからざる力なのだ。」
 「勝手な言い草だぞ。」
 「わかっている、しかし・・。全ての罪はわたしが負おう。ケイルを消し去ってくれ。わたしが暗闇の中でわたしの身体を溶かしながら過ごして来た五百年・・その時間、その意味を今ここで無駄にはしたくない。頼む。この仕事、引き受けてはくれないか。」
 「・・。」
 「きみには累が及ばないようにするつもりだ。わたしの最後の力をもってこの罪は・・。」
 「罪の所在などどうでもいい。」
 ロウコは静かに、そしてきっぱりとそう言い放った。
 誰が罪を着ようがそれが自分だろうがこの際それはもうどうでも良いことだ。そして世界が滅ぼうと滅ぶまいとそれもロウコには至ってどちらでも良いことだった。世界というものはいつかは滅ぶものだと彼は思っていた。滅んでそしてまた生まれる、この世はそれを繰り返していくのだろう。はるか悠久の昔から彼方の未来までずっと・・
 しかし。
 目の前のこの少年の姿はロウコの心を強く動かしていた。まだ幼ささえ残る凛々しい顔だちをしてはっきりとものを話すこの賢そうな少年が、五百年・・五百年もの間、たったひとり冷たい暗闇の中、己を削りながら守ってきたもの。一日一日、一時間一時間を、彼はどんな思いで今まで過ごしてきたというのだろう。その重ねてきたものを・・そうしようと決めた時の彼の胸のうちを・・測って測りきれるものではないとしても。
 「いいさ。」
 ややあってロウコは言った。
 「この仕事、引き受けた。」
 「・・やってくれるのか。」
 「ああ、心配するな。今度は投げない。」
 「信用はしているよ。」
 そこで少年は初めて笑った。そのやさしい顔に、相変わらずミイラの顔と骸骨の顔が入り乱れてかぶさり、現れては消えていく。
 「なぜおまえが俺を信じるのだ。」
 「さあ・・なんでかな。」
 少年は、本当によくわからないんだけど、という風に小首を傾げた。
 「なんででもいいや。」
 こんな大した少年のわりに、彼はそこだけなぜかひどく大雑把な様子であっけらかんとそう言った。
 そしてそれから・・ロウコは少年の言葉通り、“塔の大院”の長老たちによって目覚めさせられ、ケイルを探す旅に出た。
 だから・・だからリュート、俺はこの仕事を途中で投げ出すことはないのだ。
 俺を止めたければ、俺の命を断つしかない。手足の動く限り俺はこの仕事を全うする。
 だからリュート・・俺を殺せ。
 おまえを殺さなくてはならない俺を・・
 殺すがいい。
 それが出来るのはこの広い世界でもおまえひとりしかいないのだから。

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