十一・決着
はっと意識を取り戻した、と同時にリュートの神経を、締め付けられるような痛みが襲った。全身がやたら重い。なんだか鈍いものにべったりと貼り付かれている感じだ。
よく見るとリュートは仰向けに横になって、上身をセイラに抱きかかえられていた。向こうではレイラがそこに膝を折って座り込み、やはり横になったロウコの上身をセイラがリュートにしているのと同じように抱え持っていた。
「セイラ・・。」
「リュート。」
「あらリュート気がついたわね。じゃセイラ、その子にこれ、飲ませて頂戴。」
レイラがぽんとセイラに投げて寄越した錠剤を見て、リュートは大きく顔色を変えた。
「そっ・・それは・・。」
「?」
「セイラいいから飲ませちゃって。」
「だめだっそれは勘弁しろっ。」
「セイラいいから無理矢理飲ませちゃって。」
痛みをおして為されたか細い抵抗も空しく、リュートはセイラにあごを押さえ付けられて、口の中に錠剤をねじこまれてしまった。そこでとん、と彼に背中を叩かれて、薬はそのままリュートの喉を伝って、その胃の中に滑り落ちていった。
「・・!!」
顔をしかめてやたらじたばたするリュートをセイラは不思議そうな顔で見下ろした。レイラはそれを見て一寸笑って、
「まあロウコさんと同じお顔。」
と屈託ない様子でそう言った。
「奴にも飲ませたのか。」
半分咳こみながらどうにかこうにかリュートが言うと、
「ええもちろんよ。でもロウコさんはあなたみたいに見苦しくばたばたはなさらなかったわよ。」
とレイラはちょっとつんとして見せて応えた。
「悪うございましたね。」
「元気になったみたいね。」
「あの不味さに耐えといて治らなかったら口惜しいだろ。」
「減らず口まで復活。」
そんなリュートとレイラのやり取りに反応したのか、レイラの腕の中でロウコが薄く目を開けた。顔色は土のようで血の気がなく、声もずいぶんかすれていたが、その目の奥には確かな光があった。
「リュート・・。」
「おまえも災難だったな。底無しに不味いだろう、あれ。」
「・・そうだな。」
「でも秘薬中の秘薬よ、たちどころに何でも治るわ。文句ばっかり言ってないで少しは感謝しなさい、ふたりとも。」
自分の頭の上でそう言うレイラの顔をロウコは上目に見て言った。
「今度こそいいだろう、そろそろおろしてくれ。」
「あらまだ駄目ですわ、その傷にはこの姿勢の方が絶対らくですわよ。わたしは特に重たく思ってません、お気遣いなく。」
言われてロウコの眉のあたりがすっかり当惑しているのを見つけ、リュートは何だか可笑しくなった。奴もあの姿勢がまんざら嫌でもないのだろうが、それにしてもどうやら落ち着かないものらしい。照れるなんてがらか、とリュートは胸の中でロウコをからかった。
そこでリュートの目がふと、少しむこうのケイルの立ち姿を斜めに捉えた。ケイルはリュートの視線に気付いたように、頭を少し傾けると、にっこり笑ってリュートを見返した。
「セイラ、わたしの方は本当にもういい、立たせてくれ。」
「大丈夫か。」
「ああ。ケイル様のところへ行く。」
それを聞いてセイラは、自分も立ち上がりながら手を貸してリュートを立たせた。ふたりは連れ立つようにややゆっくり歩いてケイルのそばに近付いていった。リュートの身体はやはり全身引き攣るように痛んだが、気分はなぜかひどくすっきりしていた。全くよく効く薬だ、相変わらず。こんなに効くなんて、何か身体に悪いものでも入っているに違いない。
「お帰りなさい、リュートさん。」
ケイルはリュートとセイラがごくそばにやって来ると、もう一度にっこり笑ってそう声をかけた。
「セイラもお疲れさまでした。」
ケイルのねぎらいにセイラは黙って一度頭を下げた。リュートもその隣で深々と頭を下げると、お手数をおかけいたしました、とひとことケイルに告げた。
「今は一体・・。」
「睨み合いといったところでしょうか。取り合えずここのまわりは安全です。しきりに攻撃は受けていますが、どうにかわたしの力でも持ちそうですね。ただこのままでは、この中にいて無事にすむというだけの話です。まさか永遠にこうもしてはいられませんね。」
「うって出ましょう。」
リュートはそう言って遠くあちらの方を見遣った。今現在ここでの視界は至って狭く、ぼんやり明るい空間の中に、ケイル、リュートにセイラ、そしてレイラとロウコが点のように立ち、或いは座っている。彼らの姿からひとまわり遠くからはもう全くの闇になっていて、むこうの様子はさっぱりわからない。この光の外にはあの、妙な武者たちがうざうざといて、刀を振りかざしているのだろうか。
自分で言っといてなんだがそんな所に無暗に出て行って勝ち目があるとも思われない。出るなら出るでやり方の目途くらいはつけておかないと、わたしに至ってはやっぱり怪我人だし、さっきの二の舞にならないとも限らないではないか。
“うーん。”
例によっていきなりひとりで考え込んでしまったリュートを微笑んで見て、ちょっとゆっくりケイルが言った。
「最終的にはリュートさんがおっしゃるとおり、うって出なくてはならないでしょうね。ではその下準備はわたしにさせていただけますか。」
「下準備・・ですか。」
「ええ。たとえばあの武者たちや、ここに満ちているおかしな気などは、言ってみればまやかしです。いえ、実害は確かに被ってはいますが、真に実体のあるものに攻撃されているわけではありません。
“彼ら”は呪いを唱えてはいる・・けれどその呪いに実際の力以上に効果を与えているものがいます。彼ら自身も意識していない、彼らの陰に隠れている者・・とりあえずそれと何とか話をつけましょう。」
「かくれている・・者?」
「ちょっと待て。」
いきなり背後でロウコの声がしたのでリュートとセイラは振り向き、ケイルも首を回してそちらを見遣った。
そこではロウコが、まだ土気色をした顔をこちらにむけて、レイラの膝の上で上身を半分起こしかけていた。レイラは後ろから彼の背中に腕を回して支え、心配そうな顔でロウコを見下ろして、そのあと顔をあげて彼と一緒にケイルたちの方を見上げるようにした。
「おまえが言っているのはあの子のことか。」
「ご存知でしたか。」
ケイルはロウコの方に向き直って静かにそう言った。彼の顔には相変わらずの微笑みが乗っていたが、彼のその言葉はいつになく冷たい響きを含んでいたようで、リュートは思わずケイルの顔を見直した。
「あの子をどうする。」
「それはあの方次第です。」
「戦う気か。」
「そうお望みになれば。」
「戦わないということができるのか。」
「できます・・あの方が抵抗なさらないと仰るのであれば。」
「そうか。」
ロウコは胸から大きく息を吐き出し、肩の力を抜いた。勧められるままにレイラの腕に上身を預ける。やはりまだ自分で身体を支えるのは難しかったらしい。
「おまえはどう転んでもあの子を葬るつもりなのだな。」
「はい。」
「・・ケイル様!」
話がよくわからないまま、“葬る”という言葉に反応してリュートがケイルに一歩近付く。そんな彼女をいつにも増して滑らかに見える肌の中の、透き通る目でケイルは見つめ返した。
「リュートさん、この塔には“人柱”がいます。それがこの塔を守ろうとしています。わたしが来ることで・・崩れてしまうかもしれない、この悲しい塔を守ろうと。
ロウコさんもきっとその人のためにわたしを消そうとなさっていたのですよ。そして今あの方たちに力を貸しているのも・・その人です。」
「人柱・・。」
“トーランは・・。
リュートの顔色を見てとったケイルは、莞爾として微笑み、うなづいて言った。
「ああ、わたしのことをご覧になったのですか。いつかお話しなくてはと思っておりました。その人とトーランは、少しは違うかもしれません。それでも確かに同じような立場にあると言うことができるでしょうね。
この世とはそんなものだったのでしょうかね。誰かを下敷きにしなくては立ち行かないような、終末の時代とはそのようなものだったのでしょうか・・それは・・いえ、さておき。」
ケイルは一度息をついて視線を下に落とすと、また目をあげて今度はロウコの顔を見た。
「わたしはあの方を倒します。そしてこの塔も倒すことになるでしょう。わたしたちは最早相容れないものだからですよ・・それはあの方もおっしゃっていたことでしょうね。」
「やめ・・ろ・・。」
「・・。」
「やめるんだ!」
ロウコは再度上身を起こし、慌てたレイラの手がそれを追った。
「あいつを倒すことは・・。」
「お許しが出ませんか。」
ケイルは伏せがちにした目でそう言った。次の瞬間ロウコの身体が固められたように動きを止め、その頭がどさりとレイラの膝の上に落ちた。リュート、セイラ、レイラの三人は半ば呆気に取られてケイルを見た。
「ケイル様・・?」
「ロウコさんにはしばらくお待ちいただくことにいたしましょう。」
ケイルは何歩か前に進みながら、顔色を変えずに、誰にともなくそう言った。うす紅の唇の、両の端にだけ小さく微笑みを残してはいるが、しかしそれはすでに微笑みと言うにはあまりにかたちだけのものになっていた。その目はどこかここではないところを見遣り、彼の意識にはそこにいる誰の姿も、もはや像を結んではいないように思われた。
残る三人が息を呑んで彼を見つめる中、ケイルはひとこと、はっきりとした口調で言った。さほど大きな声ではなかったはずだが、それはその、一種異様な短い静寂の中に、あまりに高らかに響き渡った。
「・・お越し下さい。お待たせしてしまいましたね。」
ふうっと空気の動く気配がした。
「お呼び立ていたします・・。」
そういうケイルの言葉が終わるか終わらないうちに、ケイルら三人と、レイラとロウコの間に、ぐるぐると大きく風が巻いた。やがてその風の中にうっすらと何かの影が現れ出でて、とうとうはっきりとした人の形となるまでにそれほどの時間はかからなかった。
「あれは・・。」
リュート、セイラ、レイラの三人は目を見張った。小さな竜巻の中に現れたのは、十四、五歳と見える、白に近い色の髪をした、まっ白な肌の少年だった。すでにその肌の色ときたら白を通り越して透けそうな位、色味というものがなかった。襟の立った、黒い、膝までの丈のマントを羽織っている。
少年はケイルとまさに対峙するように真正面に立ち、もって極めて落ち着き払った態度で、ちょっとだけ澄ましてケイルに視線を投げかけていた。ふたりの、作ったような顔の少年たちが相対して立つ姿は、まさに一幅の絵のようだと言えば言えた。竜巻きはすでにやみ、あたりの空気は止まっていたがなぜかどこか遠くで風がうなるような音が高く低くし続けているのが皆の耳に入っていた。
「・・来てしまったのだね。」
少年はそうケイルに言った。さすがにケイルよりは大人びた声だった。
「はい。お気持ちに背いてしまいました。」
「そうだね・・でもわたしの言うこともずいぶん無茶だ。そう思うだろう?」
「立場が違いますので・・。」
「そうだな、わたしたちは立場が違う。そして立場が違うというただそれだけのことなのに・・。」
そこで少年はすこしだけ微笑った。どこか自嘲めいた、寂し気な笑みだった。
「気持ちは決まっているのだね?」
「はい。わたしはあなたを倒します。倒して・・この世を救う者となります。」
「そうだね。」
一気にふたりの少年の身体から、それぞれ強烈な光が空に立ち上った。
「・・そろそろ終わりにしようか。」
「ええ。」
二人の光が上空でばちばちと音をたててぶつかりあった。
「ケイル様!」
「ケイル様!」
ケイルの方に足を踏み出そうとしたリュートとセイラに、ケイルは小さく首を振ってみせた。
「ふたりとも来てはいけませんよ。ここは危険です。巻き添えを喰ってはなりません。」
「でもケイル様・・。」
「リュートさんお願い致します。セイラ、リュートさんをよく見ていて下さい、頼みますよ。」
「・・かしこまりました。」
「ケイル様・・。」
ケイルはふたりにうなづくと、視線をまた向かいの少年の顔に戻した。もう一度、彼らの頭上でばちばちと凄まじい、空を引き裂く音がした。
突然、一同の足元が大きく揺れ始めた。揺れはおさまる気配も見せず、それどころかますます大きく、弾むようにうねりだした。リュートとセイラはどうにか体勢を保ち、レイラは動かないロウコの肩を、庇うように固く抱きすくめた。
「・・ケイル様!」
ぱっと空中に鮮血が散った。ケイルのつるりとした頬に、赤い血がしぶきになって模様をつけた。ケイルは一瞬目を細め、しかしすぐに元の落ち着いた表情に戻ってあの少年をずっと見ていた。ふたりとも、指先ひとつ動かしもせずに、しかもこの揺れの中足元をわずかも乱さずに、そしてその目は揃ってどこまでもどこまでも静かなままで、ただ黙って互いの顔を見つめ続けていた。
またも火花が散るように、ケイルの白い衣服に赤いしみが点々とついた。リュートはセイラの顔をさっと見上げた。
「おい、あれは・・。」
「ケイル様が傷を・・。」
「あいつは?」
「見たところ血は出ていないな。」
「そんな・・。」
確かに、黒を着ていてわかりにくいかもしれないが、ケイルに対してかの少年には、どうも血痕などついていないようだ。
ぐいと半身を乗り出しかけたリュートの肩を、セイラが掴んで軽く抑えた。
「セイラ!」
「待て、リュート。」
「おまえよくそんな・・。」
「俺たちが行って何になる。」
それを聞いてリュートはぐっと詰まった。
「役にはあまり立ちそうにないぞ。却ってケイル様のお心を乱すだけだ。おまえケイル様の邪魔になりたいか?」
「だからって・・。」
「耐えろリュート、それもお役に立つ術だ。いよいよになるまで待つんだ。ケイル様がそうお望みだ。」
「おまえ・・。」
「それも勤めさ、違うか?」
こんな時でもセイラは動揺の色さえ見せない。リュートは一回ふっと強く息を吐くと、乗り出しかけた身体を戻した。しかしその目は妙にすわっていて、噛み付きそうな風にケイルとその相手の少年を見据えていた。
と、今度はどおんと音がして、今までとは違ったひどい揺れが一度加わりそれはすぐに止まった。しかしややあって一度、また一度、ほぼ一定の間隔を置いて同じような揺れが繰り返され始め、当の少年二人以外はその度に全身の筋肉を緊張させた。ただ、今度の揺れはどうも発信源がはっきりしておりしかもそれは各所を転々としているようで、身体にかかる衝撃の具合が毎回微妙に異なっていた。
「何だ・・。」
「まるで塔に砲撃でも喰らっているみたいな揺れだな。」
「砲撃?まさかランナンか?」
「どうかな。わざわざ本国から砲撃隊なんか呼んだりは・・おっと。」
「お、セイラ大丈夫か。そうだな第一こんなに早くそんなものがここまで来られるわけがない。」
「するとこれは?」
「これは・・。」
二人がそう言い合う間にも、波のような継続する揺れと打ち付けるような激しい揺れは、ほぼ一定のリズムで途絶えずに続いている。
ケイルと件の少年は、相変わらずそんな騒動をよそに見つめあっていたがふたりの表情にほんの少し、違う色が入ったようにリュートにはその頃見えていた。件の少年のほうにはすこし、ごくわずか、動揺に似たものが見えてきていた。それは焦りに近いものかもしれなかった。一方ケイルの方にも、こちらは疲れに似た、わずか苦し気な色が目元のあたりに伺えるようになっていた。それは怪我の痛みに苦しんでいるのとはまた違った表情ではないかと思われた・・そのケイルの手の指先から、つうっと赤い血のひとすじが流れてしたたり、玉になって落ちた。彼がずいぶん身体に傷を負っていることは間違いがなかった。それを見たリュートは何だか頭の芯がじんじんしてくるのを感じていた。
「間に合うかな。」
少年が言い
「どちらが先でしょうね。」
とケイルが言った。
ふたりの様子をいたわし気に見ていたレイラの腕の中で、ロウコの身体が少し動いた。
「待て・・。」
「えっ?」
「待・・待て・・。このままでは・・。」
「ロウコさん。」
「揺れが・・。」
「揺れが何ですの。」
「これは・・奴が、ケイルがこの塔を破壊している揺れだ。あの子の身体は・・ここに溶けて・・この塔そのものが半ばあの子の身体だから・・。
あの子の急所に対応する箇所がこの塔にも必ずある。ケイルはそこを崩そうとしている・・そこを・・探しているんだ・・。」
「そう・・。」
そうだったのか、とレイラは思った。彼はケイルの生身に傷をつけ、ケイルは彼のもうひとつの身体に傷をつけている。一歩も動かず触れあわないままで、ふたりはそうして、互いの馘を掻く瞬間を狙っている。
“あの方たちが・・。”
「いかん!」
とうとう見えない力を振り切るように、ロウコはレイラの膝の上で大きく上身を揺り動かした。
「ケイルを止めろ!あいつは・・」
そこでロウコはうっとうなって一瞬目を固く閉じた。限界近くにまで傷んだ身体でなおケイルの呪縛を振り切ろうとするのだから無理はなかった。
「だめ・・だ・・ケイルはもうすぐ・・それはあの子にも・・あの子にもわかって・・。」
「ケイル様が・・。」
ケイル様が勝つ。もうすぐあの方を・・。
「やめろっ!」
ロウコは再度、跳ね上がるようにしてレイラの腕を振りほどき立ち上がりかけたが、すぐに叩き付けられたようにその場に臥せった。レイラが慌てて彼の肩を抱き起こす。再びレイラの腕の中でロウコはしかし、そこから逃れたがるように身体をよじった。
「あの子は・・死ぬ気・・」
「ロウコさん動いてはいけませんわ。」
「放してくれ、俺はあの子を・・」
「ロウコさん!」
「俺には聞こえる!放してくれ!俺はあの子を倒させるわけには・・」
「ロウコさん、傷が開いて・・」
「放すんだ!」
「いけませんっ!」
「何故だ!」
「どうしてでもっ!」
ロウコはレイラの顔をさっと見上げたがレイラはそう言い放つなり、ロウコを抱えたままケイルの方に顔をむけた。
「ケイル様!」
レイラが大きな声をあげた、その反響が不思議なふうにロウコのそばでふくらんで揺れた。
「・・ケイル様!」
再度そう呼ばわったレイラの方にちらりと顔をむけたケイルは、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ微笑んでみせた。しかしそれは何だか今にも泣き出しそうな淋し気な影のある微笑みで、見ていたリュートははっと胸をつかれる思いだった。
「ケイル様・・!」
「ケイル様!」
リュートもセイラも彼の名を呼んだ。
「ケイル様、もう・・」
“やめ・・”
ざくっと音がして、ケイルの背後で大きく一度、風が動いた。その風はケイルの背中を斜めに切り裂いて彼の皮膚をさっくりと割った。彼の白い衣の背が一息に朱に染まり、一緒に切られた金の髪がさあっと宙に舞って落ちた。リュートはみぞおちあたりを突かれたようなショックと共に、何も考えずに一歩、足を前に踏み出していた。
「ケイルさ・・。」
があんとそこで、全くひどい音がした。
塔が崩れる、と誰もが思ったほど破壊的な揺れが短く起こった。そのあと、揺れも音もないしんとした空白が一瞬あって、すぐに再度、今度はかなり細かい揺れがまた始まった。それはまるで塔自体が身震いしているかのような、寒気のする揺れだった。その揺れの中、ケイルはがくりと床に膝をついた。件の少年の方は、それを見ようともしないまま、口元にうっすらと微笑みを浮かべてまっすぐに立っていた。その目元は今までに見られなかったほど温和でやさしくて、それが今やこの少年を、この世の何にもまして美しい者に見せていた。やがてゆっくりとあまりにゆっくりと、彼はその表情のままで膝からその場へ崩れ落ちていった。黒いマントがふさりと広がって、そのまま羽根になってしまいそうだった。しかしやがて彼の輝くような白い身体はぱたりと控えめな音をたててその場にすっかり倒れこんだ。ひと一人倒れたのにしてはあまりに軽やかな、軽やかすぎるさまだった。
「・・!」
ロウコは痛みをおして無理矢理上身をまっすぐに立て起こそうとし、ケイルも力を振り絞るようにして立ち上がろうとした。リュートとセイラは同時にスタートを切って、リュートが少年の方へ、セイラがケイルの方へ、揺れる足元の中、それぞれ走って近付いていった・・そうする彼らの頭の中に、静かなやわらかい声が流れ込んできた。
“やはり・・強いな、ケイル。見事なものだ。”
「・・。」
“それでいい・・そうきっとそれでいいのだろう・・。”
「待てっ!」
ロウコの声がして、数秒、間があった。セイラはケイルの側に膝をつくとその小さな身体を抱き込むようにしてかかえた。リュートは少年のそばにかがみこんでその背中をやはり抱えあげようとした。床に頬をぴったりとつけて目を閉じる少年の顔は、どうしたわけかほんのりとばら色の血色を含んで穏やかだった。リュートが彼に触れようとした瞬間、少年の身体からかっとまぶしい光が放たれた。くらまされた目の下で、リュートは再度少年の声を聞いた。
“大丈夫・・だ。わたしは大丈夫。わたしに触れてはいけない。わたしは・・君にはよくないものだよ・・黒い髪の女よ。”
「なに・・。」
“ロウコ。”
あ・・。
“ロウコ、すまなかったな。”
「待・・」
“ありがとう。”
「おいっ!」
少年の身体から射す光がそこでまた一段と強くなった。そしてその光の中にまさに溶け込んでしまったように・・少年の姿がそこから消えた。
「おいっ!」
ロウコの叫ぶ声が聞こえた。
「行くな!おまえ・・」
俺はおまえの・・
「名前も・・」
名前も言わないままひとりで・・。
「!」
今度は違った角度から、黄金色の厳しい光があふれ出て来て、一同の目をまたくらませた。リュートが再度視界をとり戻すとそこは、先程とは少々様子の違う風景になっていた。
まず彼女たちがいる場所が、石造りの壁に囲まれたどちらかといえば広い部類に入る、暗い一室になっていた。部屋の形は不思議な円形をしていて窓はない。
リュートら五人はその部屋の一方のはじの方に固まって居り、リュートは立って、ロウコは横たわって、レイラはそのロウコのそばに膝を折って座り込んで彼の肩を右手に抱えそれに左手を添えていた。
セイラもまた立っていた。彼はケイルのそばにいつものように、控えるようにそうしていた・・件のまぶしい黄金色の光はそのケイルの身体から発されていた。
ケイルはもうセイラに支えられてはいなかった。毅然と高く上げられた頭の中に、二つの、全てを射抜くような強い眸が、まっすぐに前を見据えていた。光は彼の全身から、情け容赦ないと言えそうなほどの勢いで放出され続けていた。ケイルはゆっくり前に進んでいた・・一歩一歩、その場を踏み締めて、揺るぎのない足取りで彼は身体を前に押し出していた。その視線はある一点から動くことなく、まるで彼は何か・・何者かを一足ごとに追い詰めていっているように見えた。リュートは振り向いて、ケイルの見据える先を見た。そこはこの部屋の反対側のはじで、そこにはうす暗い中に、何かもやもやした黒い霧のようなものが妙な具合にうごめいていた。彼女が目をこらすと、その霧のようなもののうしろに、どうやら数人分の顔が認められるのがわかってきた。
“あのうしろに隠れている。”
あれが今の元凶連中か。
リュートは二度ほど、彼女の棒を頭の上で器用に回すと、身構えてさらに目をこらし、霧の中を見た。と、その彼女のわきを、意外に早い速度でケイルがふいとすり抜けていった。
「ケイル様。」
「リュートさん。」
振り向かないままケイルは彼女に言った。
「ここはわたしにお任せ下さい。あとを・・頼みます。」
「・・はい。」
リュートは一旦は棒を下ろしたが、その目は油断なくケイルとそのまわりに配られ、彼の安全を図っていた。ケイルは相変わらず一歩一歩、迫るように歩みを続けていた・・不揃いに切り取られて以前よりは短くなった金の髪が、彼の血染めの背中で斜めに揺れていた。
「・・もう逃げ場はありませんよ。」
いつになく冷たい穏やかさでケイルはそう告げた。
「それで隠れているおつもりですか・・出ておいでになりませんか。いえ、その必要は特にございませんけれども。」
黒い影の中はケイルの言葉に応える気配も見せなかった。
「そうしてあなたたちは隠れているのですね。隠れる・・何のうしろに隠れていらっしゃるおつもりなのです?
そんなにもいろいろなことがわからなくなってしまっているのですか。わたしがお知らせ・・いたしましょうか。すべての穢れをその身に引き受けてひとりで行ってしまったあの方のお気持ち・・黙ってあなた方の代わりに行ったあの方のお心をお見捨てになるとおっしゃるなら・・」
ケイルの髪がふわりと風にあおられるように舞い上がった。リュートたち四人は息を呑んでその様を見つめた。
「思い知りなさい。あの方のお心あの方の悲しみを・・。あの方にわたしが犯した罪、それはわたし自身が負いましょう。あの方を葬った罪は全て・・。
けれどあなたたちをただ放っておくことはわたしにはやはりできません。身をもって知るのです。あの方の痛み・・苦しみ・・そしてお心を。何をしてもあなた方には」
ぼうっとケイルの身体から火柱があがった。
「その十分の一も伝わりはしないでしょうけれどね。」
ケイルの身の丈いっぱいから、炎が一気に黒い影の方へ押し寄せた。見る間にその影は猛り狂う紅蓮の炎に包まれ、責め立てるように灼き炙られはじめた。
「・・!」
と、すぐに、どこからわいたのか、今まで姿を消していたあのうすぼんやりとした武者たちの影が、ふっと現れ出でてケイルを囲んだ。ケイルはちらりとそちらに視線を流した・・が、彼がわずかも動かない前に、武者たちとケイルの間に、一陣の風が割って入った。
「すっこんでいろ、わたしが相手だ。」
その風、黒い髪のリュートは、例の棒をきれいに構えてもの言わぬ影どもにそう告げた。いつの間にか彼女の、ケイルを挟んだ向こう側に、あの長身のセイラも刀を手にゆらりと立ってまわりを睨めている。
「・・ケイル様には触れさせぬ。」
もう血は乾いた、しかし痛々し気な傷を全身に負った姿で、けれどリュートは凛としてそう言い放った。自らの怪我のことについてはすでに全く意に介していないようだった。
「・・来いっ!」
まるでリュートの声に応えるように、武者どもは一斉に彼ら三人に向って斬りかかってきた。ケイルを間に、リュートとセイラはいつものような滑らかさで次々に武者どもと刃を交え、それらをうち倒していった。様子を見てとったレイラは素早く自分たちの前にさらりと粉を素早くまいた。あっと言う間にレイラとロウコのまわりをつるんとした透明な壁が囲み、ふたりを固く覆い包んだ。
「俺は・・。」
身じろぎするロウコにレイラが言った。
「あなたはまだまだ。せっかく我慢して飲んでくださったけれど、あの子ほどあの薬の効きがいいわけではありませんのよ。あの子は百合の谷育ちの体質ですけれど、あなたはそうじゃありませんものね。」
「しかし・・」
「見守ってあげて下さる?わたしのリュートのこと。」
「見守る?」
ロウコはそんなレイラの顔をまた見上げた。
「ええ。あの子、あなたと決着をつけるのを楽しみにしていると思うわ。」
「決着・・。」
「まあそんなもの、いつまでたってもつきやしないと思ってますけどね、わたしとしては。とにかく今はあの子の味方をして下さるわ、ね?」
レイラはこんな時だったがロウコに微笑んでみせた。
「あの子たちきっと勝ちますわ。そうお思いになるでしょう?」
ごおっと音がして炎が空を赤く割った。ケイルの発した炎は風にあおられたようにうなり、身震いし、その勢いをまた一段と強くした。渦巻いてそこらに散るその炎はいつの間にか七色の光を帯びていた。炎の雄叫びの向こうに、うめき惑う声がかすか聞こえてきているように皆には思えていた・・しかしそれを敢えて気にとめる者はその場に誰もいなかった。リュートとセイラは戦い続けた。ケイルは静かに黒いもやを見据え続け、レイラとロウコはそんな三人を黙って見守り続けていた。しかしやがてふと、リュートが意識をすこし裂いてセイラを見遣った。
“おい。”
“減ってるな。”
あれほど際限ないと思われた武者たちの数がそこに来て目に見えて減ってきていた。とうとうか、とリュートは思った。とうとうこの争いにも終わる時がやってくるのか。
“・・が・・”
“・・まい・・”
“を・・”
何だ?
今度聞こえてき始めた不思議な音には、一同の全てが関心を示した。よく聞けばそれはどうも複数の人間の声のようである。
「これは・・。」
「現在の声ではないな。」
「そうですの?」
レイラはロウコの顔を見下ろした。
「ああ。多分これは記憶だ。塔に染み込んでいる記憶が流れ出てきている。あの子がいなくなったからか、それとも・・。」
「塔の最期が近いから・・?」
レイラは再度ケイルの方を見遣った。彼は今までとほとんど変わらない表情のままでそこに立ち続けているようであったが、しかしその目のあたりが、少し悲し気に曇っていると見れば見えないことはなかった。彼らを取り巻き渦巻くそれらの声は、だんだんと明瞭になり、ついには何と言っているのか誰の耳にも明らかに捉えられはじめていた。それは多くの人間の声で、かわるがわるに様々な言葉を述べていた。
“・・致し方あるまい。”
“しかし宝物を売り捌くなどとはやはり・・。”
“だがそうせねば最早ここの修道者たちがひとりも残らず屍となり果ててしまう。”
“塔の宝物に手をつける位ならば坐して死を待つのが修道者たるものの・・”
“我々だけならばそれでも良い。しかしあの大勢の若い者たちをこのまま失うことはわたしには耐えられないのだよ。”
“かと言って・・。”
“ここより出でて養生せよと言って聞く者たちでもない。先程おまえが申したとおり、道を修めるためならば生命も問わぬ者ばかりだからな。それに、すでにあらゆるものを捨て多くの犠牲を払い血の滲む苦労をしてこの大院に入ってきておるものばかりでもある。今さら流行り病だからだとてここを出るとは一人も言うまい。だからこそ我々が彼らの生命を救わねばならぬのだ。”
“他に手はないのでしょうか。”
“あればな・・しかしこればかりは如何ともできん。金が用意できなければ薬は手に入らぬ。今やこの大院にそのような大金の貯えはない。以前のようにこの学舎に寄進をするような領主は久しく絶えておるのでな。”
“人心も地に落ちたものだ。”
“致し方あるまい。ゴレルが乱れてすでに久しい・・。学問に心を砕く余裕のある者はすでにここにはおらぬ。もとはと言えば我々がこの地に徳を広め得ず、乱世を許したことにも遠因がある。”
“しかし宝物に手をつけるとは思いもよらぬ大罪、いかに徳を積まれた長老と言えどその身が汚れることに・・。”
“構わぬ。そのようなことを問うている場合ではない。この身ひとつで修道者たちの命が救われるというのなら安いものだ。彼らがきっとこの道を修め、伝えていってくれるであろう・・いづこかの領主が宝物を買いたいと言ってきておったな。”
“はい。そのような申し出は多数ございます。”
“それではそのうちのどこと話をするのかを・・”
“こんなことが・・。”
“こんなことが・・。”
“こんな・・。”
一度小さくなったそれらの声が、またもう一度大きくなって甦ってきた。
“・・長老。テーテルの国の領主がどうしても宝物を売れと言って軍勢を・・!”
“宝物は売れぬ。七年前のことは先代のご判断による特例であったのだ。今はもう・・。”
“しかしメサに売れたものを当国に売れぬとはと申しまして・・。”
“長老、デイサンからも宝物を買いたいと申し出が・・。”
“トウジの商人が何度も・・。”
“いかほどでも金は払うと・・。”
“売らぬならば院を焼くと・・。”
“宝には魔力が・・。”
“他国より良い宝を持とうと・・。”
音量がまた絞られ、再度大きく広げられる。
“今度はどこの国だ。”
“はい、テセストの領主でございます。”
“どれが欲しいと申す。”
“あの、緑玉の冠だそうで・・。”
“ふん、あれに目をつけたか。さすがだな。”
“いかがいたしましょう。”
“よかろう。交渉はおまえに任せる。”
“この頃少しやりすぎではないか。”
“仕方あるまい。売らねばやはりうるさいことになろう。”
“それに大院の権威を保つにはある程度の財力もやはり必要だ。”
“宝物はまだまだごまんと貯えられている。そのうちのいくつかを金貨に替えたからといって、実質いかほどの違いがあろうか。”
“事実、宝物を売却するようになってから領主どもとのつきあいも円滑になっている。寄進も増えた。やはり大院たるものある程度の権力は必要なのだ。”
“すべては大院のため・・”
“すべては塔のため・・”
“すべてはここを安らげるため・・。”
安らげる・・ために・・。
ケイルの瞳がかっと見開かれた。彼らを囲んでいた武者どもが一気に消え、一層燃え盛った七色の炎の中に、今やもやもやとしたあの黒い影がすっぽりと飲み込まれて隠れきってしまった。
やがて炎の中から三つの姿が、転がるように相次いでこちらに飛び出し、そのまま床に次々と倒れこんだ。すでにそれらはほとんど形をとどめてはいなかったが、どうやらすべて人であったらしいと思われた。三体は一旦床に転がったままもうぴくりとも動かなかった。ケイルは黙ってそれを見下ろし、リュートとセイラも彼のそばに控えて同じくそれらを見下ろした。
「長老たち、だったのでしょうか。」
かすれるような声でリュートが言った。そうかもしれません、とケイルが応えた。
「終わったのか?」
ロウコがそっと目を閉じて言った。
「どうかしら。」
レイラは言って、彼女たちの前に張った結界をほどこうとした・・が、すぐにその手は止まり、膝がぴくりと動いてその目が大きく開かれた。
「いけないっ!」
その声にロウコは再度まぶたをあげた。
彼の視界に最初に、三つのうごめく得体のしれないものが飛び込んできた。よく見るとそれらはそれぞれ、床に倒れる人体の残骸から、ひとつづつ立ち上っている悪い霧のようなどす黒いものだった・・それらはあっと言う間に巨大な体躯に膨れ上がると、三体の巨人となってケイル、リュート、セイラの三名に襲いかかってきた。リュートとセイラはさっとケイルを挟むと、巨人の攻撃を刀と棒で受けて弾いた。ずしりと重いその感触に、ふたりとも一瞬その眉をしかめた。その三人の頭上に、一体の巨人の身体がぐうっとゴム細工のように伸び、高くから周りこんで真上よりかれらに体当たりを喰らわせようとまっさかさまに落下してきた。
「!」
「・・!」
きっ、とケイルがその顔を天井にまっすぐ向けた。
ケイルの両目の視線をまともに浴びて、巨人は凍らせられたようにその動きを止めた。顔も視線もそのままにして、ケイルはリュートとセイラに言った。
「これはわたしが何とかしましょう。あとの二体は・・。」
「お任せ下さい。」
リュートがそう言って棒をしっかりと握り直した。
彼女とセイラはそれぞれケイルを中心にして二手に分かれ、巨人を引き付けて一体づつと向かい合った。
“しかしこいつ実体はないに等しい。”
“残留思念。最後の怨念か。”
“ただでは逝かんというのか。つくづく往生際が悪い。とはいえ・・”
どう戦う?
どうやらこの巨人も、先ほど手を合わせたところを見ると物理攻撃が主ではあるらしい。それにはこちらとしても対応はできる。ただむこうを倒すには・・
「リュート、よく見て!急所があるわ!」
レイラの声に、そう思って巨人の身体をよく見てみると、丁度腹のあたりにちかちかと、ブロンズ色に瞬く光がリュートの目に捉えられるようになってきた。向こうを見遣るとどうもセイラにはそれがわからないらしく、目を少し細めて難しい顔をしたままでいる。
「セイラ!丹田を狙え!そこが急所だ!」
言いおいてリュートはどうにか巨人の腹に潜り込もうと深く身体を沈めた。その試みは巨人の太い腕に一旦阻まれてしまったが、一度身を引いたリュートは軽くステップを踏んで位置を変えると、再度敵の懐に、するりと入り込もうとした。
「・・!」
そこを、上からがん、と頭を殴り落とされて、さすがのリュートもつんのめり、二、三歩前にたたらを践んだ。一瞬くらくらと目眩がしたが、すぐに立て直すとその場から離れて身を翻し、再度巨人の方に向き直る。参ったな、存外に動きが早い。
“もう一度・・。”
体勢を低くし、リュートは棒を掲げて素早く巨人の腹に突っ込んだが、敵もさるものでその丸太ん棒のような腕をまたも身体の前に渡し、彼女の棒の先をあっさり受けて払いのけた。一度、二度、三度、打っては弾かれる打ち合いが続く。リュートは撥ねられた勢いを借って棒を両手にくるりと回ると、またも膝を柔らかく曲げて、巨人の側に潜ろうとし・・その身体をはね飛ばしにかかった巨人の腕がふと空を切った。
リュートの身体はその時すでに、巨人の身体のま後ろにあった。はっとそちらを振り向く巨体の腹に、リュートの自慢のまっすぐな棒が、ものの見事に深くめりこんだ。
巨人は両腕を中途半端な高さに上げかけたまま、その動きをぱたりと止めた。リュートは低いうなり声のようなものを聞いた気がした・・が、すぐにその音もその場からかき消え、巨人の圧倒的な身体がだんだんとその姿を影のように薄くしていくのを彼女は目にした。
リュートはその視線を、肩越しにあちらに回した。そこでは丁度、セイラがその刀をもって、自分に対する巨人の丹田を、刀の柄近くまで差し込んで刺し貫いているところだった。少し角度を変えた向こうにケイルの優雅な小さい姿があった。彼の視線の先に浮いたまま固まっていた巨人の姿は、リュートがそれを見遣った時まさに、すうっと墨色の雲のように流れて空に散ってしまおうとしているところだった。
リュートは少しだけほっとして、肩の力を抜きかけた・・が、すぐにその頬が再度固く強張った。三体の巨人は確かに消えたが、今度は床に並んで転がったままであった三体の焼けた棒杭のような身体が、その姿のままでむくりと起き上がり、両手を差し伸べてこちらにむかって歩いてき始めたのだ。
“う・・。”
きっちり黒焦げになったその顔や身体の皮膚はまさに炭のようで溶けて爛れたあとが見えぬだけまだましではあったが、それでもそれはなかなか不気味な場面ではあった。
「リュート!」
レイラの声にまたもはっとして彼女が辺りを伺い見ると、先程一気に焼き消された黒いもやがあった近くの壁際からうぞうぞと、大勢の人影がこちらに進んできているのが目に入った。先刻の武者たちかとも思ったがよく見ると今度やって来るのはもうすこし異形のものどもだった。魔物・・ロウコがよく率いていたような、爬虫類に似た、二足歩行の、鎧のような肌をしたあの連中だ。
そうだろうな、とリュートは思った。ロウコの一派の他にも連中は、ケイルへ刺客を差し向けていたに違いない。リュートがいつも不思議に思っていた、ケイルを狙う魔物たち。彼の血や肉を欲するわけでもなさそうだった魔物たちは、この塔の黒幕どもが放った魔物たちであったのだ。修道者ともあろう者たちが魔物を使おうとは全くもって言語道断に思えたが、他方、魔物を操る術を持っているのも、考えれば修道者たちのように、魔術の心得のある者たちならではと言えば言えた。
“またぞろ数が多い・・。”
リュートは改めて彼女の棒をしっかりと持ち直した。けれどきっとこれが最後、これで最後の大乱戦だ。
「行くぞっセイラ!」
リュートは我知らず、セイラにそう呼び掛けていた。セイラはちらりとリュートに目をやり、判るか判らない位に小さくうなづいた。
「ケイル様、お退がりください!」
リュートとセイラは素早くケイルのそばに駆け戻ると、魔物たちとケイルの間に立ちはだかった。ケイルはおとなしく数歩後ろにさがったが、その目は普段の彼とは最早少し色が変わっていて、相変わらず明るく澄んでいながらも、若干の強い気配を見せていた。
「あぶない真似は、なしですよ。」
そんなケイルにリュートはそう言って小さく苦笑いをしてみせた。
ケイルは目をくるっとさせてリュートを見返し、彼女にいつものように、こっくり愛らしくうなづいて返す。何だかやる気になっちゃってるぞ、ケイル様ったら・・。
「!」
ついに最初に刃が交えられ、あとは上を下への大乱闘が始まった。
「・・。」
ロウコはレイラの結界の中で、相変わらず横になったまま、目をあげて頭上のレイラの顔を下から見上げた。レイラは心ここにあらずという感じでロウコの頭を膝に乗せたまま、あちらを真剣に注視している。その目の先でケイルがセイラが何よりあの黒い髪のリュートが、例によって呆れるほどの強さで魔物どもを次々打ち据えている。ロウコは少しだけ、ため息に似た息を吐いた。レイラの膝がわずかだが、ゆらりゆらりと揺れている。全くこいつらはどいつもこいつもだ。
「・・止めても無駄なんだろうな。」
「えっ?」
「あんたさ。あっちに行きたいんだろう?」
「・・。」
「一応とめとく。とんでもなく危険だからな。だが聞くか聞かないかはあんた次第だ。」
「・・。」
「くどいようだがもう一回とめとくぞ。」
「ええ・・。」
レイラは少し首をうなだれてみせ、床をみやってからまたリュートたちの戦いに目をやった。相変わらず三人はかなり強かった・・数では敵とは話にならないほど劣勢にあるというのに、リュートは棒をふるい、セイラは刀を突き出し、ケイルでさえ全身からよくわからないが空恐ろしい光を放って、五分以上に張っている。敵のうちでも例の三体の燃えた身体はやはり一段上の力を持っているようで、武器も持たぬのに腕を振り回して時折リュートやセイラを脅かしてはいるが、今のところふたりとも大したダメージを受けないままに、それらの攻撃はうまく躱しているようだった。二人揃って、時折ケイルの援護に回るほどの奮戦ぶりである。
“それでも・・。”
レイラは時にひやりとして、自分の胸や頬に手を当てながらリュートたちの戦いを見守っていた。やっている方は感じないだろうがこうして見ている(しかも心配して)方からすると、あの多勢が次々彼女たちに打ちかかっていくさまは、とても危険で黙って見ていられないのだった。リュートうしろっ、今度は横、二匹来てるわよ・・ああ・・わかってたのね・・。セイラ、足元見て、ケイル様そんなにリュートたちからお離れになってはいけません・・。
「あの・・。」
レイラは膝の上のロウコを見下ろし、彼はちょっと妙な顔でそれを見返した。レイラはそのまましばらく逡巡していたが、やがて少し照れたようなばつの悪げな顔になると、何かを決心したようにきゅっとくちびるを引き締めた。そしてやわらかい両の手で膝の上のロウコの頭をそっと包み抱えてそれをゆっくりと下におろした。
「・・ごめんなさい!」
レイラはそう言うと膝を床につけたまま、ぴょこんとロウコに頭を下げた。そしてじりじりとそのまま若干後退してから、突然ぱっと立ち上がると、あとは足早に、そこから結界の外へと半ば弾むように駆け出していった。
残されたロウコはひとり、もう一度、やれやれとでも言いたげに胸から息をついた。そしてゆっくりとゆっくりと身体のはじから順に力を入れて、どうにかひとりで立ち上がろうと試み始めた。
「!」
自分に近付く複数の気配に、リュートがきっとした視線をまたも送った時である。
視界に捉えられた魔物どもの前にいきなり閃光と小さな煙が広がり、一瞬リュートにはそこで何が起こったのか理解できなかった。しかし彼女はすぐに事態にあたりをつけると、鋭い目で左右をざっと見回した。予想されたものは確かにそこに、森の小鳥のように俊敏にきっぱりと、素早く彼女の近くを飛び回っていた。そうと思って見なければよくわからないかもしれない。それは小さな小さな、リュートの手のひらに乗ってしまいそうに小さな、甘く若い女の姿だった。
「レイラ!」
リュートの声に応えてレイラはついと空を横切り、彼女の顔のすぐそばまでやってきた。
「レイラどうしてこんなとこに来たんだ。危ないからさがっていてくれないか。結界があるだろう。」
「ロウコさんは結界の中にいらっしゃるわ、心配いらなくてよ。」
「きみの話だよ。」
「わたしがどうするかなんてわたしに決めさせて頂戴。」
「レイラ。」
「立ち話してる暇はないわよ。」
リュートはひょいと身体をそらすと、打ってきた魔物の刃をかわし、逆にその腹に棒で一撃をくれてそれを倒した。
「レイラ、もう一度言うけど・・」
「わたしももう一度同じこと言ってもいいわよ。」
向こうをみやったレイラの横顔は、ふとリュートに、幼い頃にいつもそばにいた、少女のレイラの顔を思い出させた。
「あなたたちが余裕で勝つって思ったらむこうに帰ってもいいわ。」
「わたしたちは勝つに決まってるじゃないか、心配ないよ。」
「ご本人にはよくわからないかもしれないけど、見てる方には、はらはらものよ。援護するわ。」
「はらはらするのはこっち・・」
「また来るわよ!」
今度ふたりに襲いかかったのは、例の、炭のようになった焼けた身体の一体だった。リュートは身体を引いてそれを一旦よけ、回りこんで棒をかまえて膝を落とし、相手にさっと足払いをかけた。レイラはリュートから少し離れて宙を舞い、手製の爆弾をあちらこちらに、身軽に投下してまわり始めた。
最初にリュートがかけた足払いは、半分決まって相手の動きをかなり乱した。その首の後ろにリュートの棒が勢いをもってきびしく打ち付けられた。それは見事に当たって焦げた身体は前につんのめり、リュートの前に後頭部と背中を半分さらけだした。リュートはくるりと彼女の棒を手の中で一回転させると、相手の左の肩甲骨あたりを、上からまともに貫き落としてのけた。すぐにリュートがそれを抜くと、焦げた身体はふらふらと足元を散らし・・ついに上身を起こすことは叶わず、がくりとその場に両膝をついて、かたかたとその身を震わせ始めた。
“やったか。”
リュートがちらりとそう思った時、不意にもう一体の焦げた身体が、うずくまる一体の傍に現れた。それはあっという間に上半身を急に丸めて深く沈みこんだ・・とそのまま二体の奇妙な身体は融合し、変形して、ふたまわりほど大きな身体の、同じく焦げきった人の身体となって立ち上がり、両腕をふりかざしてリュートの方にくるりと向き直ってきた。
“うわ。”
まさか合体するとは思わなかった。厄介な。
襲いかかってくるそれのさらに太くなった腕を棒で受けてはね返し、リュートはすこし顔をしかめた。全くもって厄介な。当たり前だろうが相当なパワーアップをしている。でかい分動作が緩慢になったという感じも受けないし、そういえばボルドラの兵隊もいつかくっついて強くなってたっけ・・・そういうもんかな。
“待てよ。”
リュートは、やなことに思い当たり胸の中でうなっていた。この二体が合体する。ということは当然のようにあとの一体も合体してくる可能性は大いにある。ということは数は減ってもパワーは三倍増くらいの奴ができあがるというわけで・・できたらこれ以上、こいつらが強くなることは避けておきたいものだった。並の力の三体のほうがばか力の一体より、リュートとしては相手をするには遥かに好ましかった。
“合体される前にとっとと潰してしまわないと。”
リュートはさっとあたりに目を配って、残りの一体の在り処を探した。それは丁度、今はケイルと、少し距離を置いて正面から睨み合っているところだった。あの距離があればいかな奴でもケイル様にその腕は届かない。一方ケイル様は距離があっても攻撃はできるから、しばらくはあちらはお任せしても大丈夫だろう。さっさとこっちを片付けてしまい、あっちの奴と合体もできないくらいに叩いておいてからケイル様の前の奴を倒しに行こう。
“よし。”
リュートは一旦目の前の敵から少し離れると頭上で愛用の棒を二、三度大きく回した。それから猛然とまっ正面から黒い巨体に飛び込んでいき、火花も散るかと思われる壮烈な打ち合いを丸太ん棒のような黒い腕を相手にやり始めた。速度と強さが尋常でない。
“・・まだまだ!”
こんなに本気出しているのにこいつもなかなかねばるなあ。でもこのリュートさんの本気の本気は全然こんなもんじゃないからな。
“これならどうだ!”
リュートは十何度目かに相手の腕を棒で弾き飛ばすと、一歩踏み込んで棒をほぼ垂直に立てた。そしてそれをむこうの顎の下にするりと滑り込ませ、顎から喉へ繋がるあたりを、鋭く容赦なく突き上げてのけた。
なんだかどろっとするような音が聞こえた。
リュートは思いきり自分の棒を引き抜くと、今度はそれを水平に振って、相手のずいぶん太い胴をまっぷたつにする勢いで素早く薙いだ。両手にずっしりとした密度の濃い重みがかかる。リュートは身体いっぱいを使って刃のついた棒の先を焦げた身体の真ん中からぐいとひっぱり出し、すぐに肘を引いた。相手の動きが若干速度を落としてきたように思えた。リュートはそのまま一度回ると、その流れのまま今度は相手の肩口にざっくりと斜めに斬りつけた。
久しぶりに手応えがあった、と思った。殴りかかる相手のこぶしを軽くよけると、一瞬、むこうの正面がきれいに空いた。しめた、腹ががらすきだ。
“ええい!”
リュートは渾身の力と気合いをこめて、正面の身体の腹のど真ん中に、自分の獲物を正確に九十度の角度で突き刺してのけた。
それは案外抵抗もかからず、するりとそこにめりこんでいった。
ふいと手元が軽くなる感じがして、リュートは自分の棒が相手の背中につき抜けたのを知った。彼女は身体をまたくるりと翻らせて、勢いにのせて棒を一気に引き抜いた。相手の動きがそこで全く止まったのがわかった。
家具が倒れる時のようにばったりと、焦げた大きな身体が顔から床に倒れていった。遠慮のない音がして一度それが床ではずんで落ち着き、とうとうぴくりともしなくなったのを確かめると、リュートは弾かれるようにそこを離れて、ケイルと、もう一体の敵がいる方へ、まさに脱兎の如く駆け出していった。
そちらではまだ、ケイルと黒焦げの身体の二者による睨み合いが続いていたが、情況は少々変わっていた。ケイルの正面に立つ例の身体は、今は黄色がかった白い光にその全身を包まれており、その光の中で不気味な身体は、どうも動こうとして動けずにいるようであった。
それでもしきりにもがきかけるその身体を、ケイルはじっと立って両の円らな瞳をぱっちりとさせて、穏やかにけれどけして逃れられないと思わせる強さをもって、瞬きもせずに見つめていた。
光の中で、例の身体の輪郭が、わずかずつ絞られていき始めているようにリュートには思えていた。間もなくケイルはこの相手を、いつかのボルドラ王のように握りつぶしてしまうだろう・・自分の出る幕はなさそうだな、と、走りながらリュートは一瞬のうちに判断した。
気付けば部屋の中の魔物の数はすでにめっきり減少していた。そういえば今まであのでかいのと一対一でやりあっていた時も、何の邪魔も入らなかったなあ。
これにはどうもセイラとレイラが多大な貢献をなしていたようで、ちらりと目に入っただけでも、セイラは一時に三匹を相手にしてまだ余るほどの立ち回りを見せていたし、レイラはレイラであんなことまでできたんだ、とリュートが妙な感心をするほど、小さな身体で素早く賢く飛び回り、彼女の特製の爆薬を投下して、魔物どもを次々と倒し消し去り続けていた。
リュートがケイルらのそばに辿り着くまで殆ど時間はかかっていなかったが、その間に、光の中の黒焦げの姿の方に、急に大きな変化が起こった。それは突然、紙に書いた像をぐにゃりとねじった時のように、妙な具合な見え方をした・・それはほんの一瞬でその像もすぐに元に戻りはしたのだが、今度はそれが目では捉えにくいほど細かく震え出しているのにリュートは気付いていた。そして何かがぐうっと中心に向って激しく収斂していくような感じ・・
「ケイル様っ!」
リュートは躍り懸るように飛んでケイルの前に行くと、彼に覆い被さってすっぽりその身体を抱きすくめた。そこにどん、という音と激しい突風がいちどきに襲いかかり、ケイルを抱いたリュートの髪がうしろから前へ大きく持ち上げられ、長くなびいてざわざわと揺れた。
彼女の背中にばらばらと、何だかさっぱり見当のつかないものがたくさんぶつかってあたりに散った。それはあんまり硬くはなく、当たったからと言ってリュートにそう怪我を負わせるというものでもなかったが、とにかく彼女はケイルを抱いて、ものが飛んで来なくなるまではそこにそうしてじっとしていた。実際大した規模の騒ぎではなく、セイラもレイラも目を丸くしてそちらを見ただけで巻き込まれることはなかった。
「リュートさん・・。」
リュートの胸の中で小さな声がした。
「大丈夫ですケイル様。まさか奴が爆発するとは・・」
リュートがいたわるようにそう言った時、レイラの叫ぶ声がした。
「リュート、あぶないっ!」
・・えっ?
リュートが顔をあげると、そこにはもう、黒い、なんだかでかいそして妙に見たことのある何かがのっそりと立って右手を高々と上げていた・・ぞわぞわと殺気が押し寄せてきた・・あれは、例の、さっき倒した焦げた巨人だ。倒し切っていなかったのか・・まさかもう復活してきたと・・手にしているのは・・
“ばか力・・。”
反応しようとしてももう遅すぎた。リュートにできたのはせいぜい抱いていたケイルを両手で突いて、なるたけ遠くへ逃がしてしまうことくらいだった。全ての動きが、なぜだかとてもゆっくりであるように見えていた。
確かに、確かに先程倒したと思ったのに、二人分が溶けて固まったあの大きな焦げた身体が、右手に魔物を一匹、その胴をぐっと掴んで槍のように持ち上げ、構えていた。魔物の手には厚い刀が握られている。焦げた巨人は魔物の身体を槍の長柄に、その手の刀を刃のついた穂に見立てて、それを使ってリュートの身体をひと息に刺し貫こうとしているところだった。そして、何の偶然だか知らないが、それが狙っているのはまさにリュートの喉笛だった。また選りに選って人の急所を・・。
これが強いというものかもしれない、とリュートは思った。相手を倒すツボが嗅覚で判る。なるほどおまえは並じゃなかったさ。サークのリュートも最早これまで・・
「・・!」
リュートが反射的にまぶたをおろそうとするそのほんの一瞬前に、彼女の目の前で何かがくるりと回りふわりとほどけた。ついで絹を裂く悲鳴があがり、リュートの目が、呼吸が、血が背中が凍りついた。
「きゃああああっ!」
「・・レイラっ!」
信じられない速度で魔物の刃とリュートの身体の間に滑り込んだ小さなレイラは、そこで瞬時に人間の大きさになった。リュートを庇うように広げられたその背中に、振り下ろされた魔物の刀が深々と突き立てられ貫き通った。飛び出した刃先がリュートの二の腕に触れて、そこにざっくりと傷をつける。
音も空気のかすかな揺れも失われた世界で、レイラは長い睫毛の目を見開き、しなやかな曲線を身体で描いてのけぞった。わずか開けられた、水をたたえたようなふくよかなくちびるはしかしすでに血の気が引かれ始め、妙に強張った細い肩に、乱れたやわらかい髪がはらはらと散りかかった。やさしいすらりとした腕が、差し伸べられるように空に伸ばされ、発光するのではと見える白い細い指が頼りなく空をさまよった。
「レイラあっ!」
凶刃は引き抜かれ、レイラの身体は突き放されて空に躍った。そしてリュートの胸に落ち込んだ瞬間、レイラの身体の質感が変わった。やわらかい背中に回されたリュートの腕の中で、レイラの姿はぱっと散って空気に溶けた。まるで粉が散るように・・そしてあとには何も、何ひとつも残らなかった。
「あ・・。」
リュートのくちびるが白く退色し、ケイル、セイラ、ロウコの三人は息を詰めた。空を抱えてリュートはしばらくの間(実際はごく短い瞬間だったのだが)固まったように動けずにいた・・が突然彼女はおそろしい勢いで全身の筋肉を躍動させた。さっと上げられた顔の中の、二つの瞳が病的なまでにぎらぎら輝いていた。彼女はその目で、例の棒を手の中でくるりと回して固く握ると、文字どおり目にも止まらぬ早さで正面の焦げた巨体に向って突っ込んでいった。その巨人は右手にした魔物を放り出し、固そうな左のこぶしをリュートのわき腹めがけて打ち込んできたが、すでにリュートはそのようなことに、一切構いはしなかった。
「うわああああ・・!」
気合いとも叫び声ともつかない声を発して、リュートは全身の力を込めて彼女の棒で相手の胴を貫き通した。そこで向こうの拳がリュートの腹に食い込んだが、彼女は足元ひとつ揺らしもせずに、まるで何ごともなかったように、棒を引き抜いて今度は高く飛び上がった。
「はあっ!」
渾身の一撃とはまさにこのことだった。縦に大きく振りかぶられたリュートの棒が、彼女の全てのばねの力を込められて、もろに焦げた巨体の脳天に降り下ろされた。鈍いいやな音とともに棒の先の刃が黒い頭部にめり込んだ。リュートはそれをさらに縦に引いて、割れた傷口を刃で舐め直すようにして棒を手元に引き寄せた。
ついでリュートは眉毛ひとつ動かさずに、棒で大きく空を薙いだ。ぐらりと妙な動きが起こった・・リュートと対していた大きな焦げた身体から、さっくりと切り取られた首が大きく傾いで向きを変えたのだった。
リュートは棒を払った姿勢のまま、しばらく微動だにしなかった。その彼女のすぐ脇に、すとんと、丸い、真っ黒いものが、枝からちぎれた実のように無抵抗に落ちて床をごろごろと転がった。リュートはそれにさえ気付いていないかのように見えた・・彼女の目はまっすぐに虚空を睨みすえ、顔面は蒼白でくちびるは固く噛み締められていた。
が、突然、リュートの身体がまた、けもののように素早い動きを見せ始めた。彼女はその場に立っていた数体の魔物の群れの中に飛び込むと、荒れ狂う風のように獲物を振り回し、次々と相手を屠り続けた。
リュートが焦げた身体の首を落としてから、塔の揺れの具合がまた変化していた。今度の今度は本当に塔が崩れると、ケイルもセイラもロウコもそう確信するような、激しく振幅の大きな揺れだった。地響きの音がひどくなり、どこかがまた崩れ始めた音も聞こえてきていた。室内の魔物は次々とその姿を消し始め、数がどんどん少なくなっていっていた・・にも関わらず、リュートはまるで見境のないように、手当たり次第に魔物の姿に襲いかかり、それをうち倒し続けていった。
“!”
そんなリュートの身体がふとうしろから抱きすくめられた。リュートは濡れたようなぎらつきを湛えた目のままで、もがいてその力に抗いながら首をねじってそちらを見た。
「セイラ!」
「リュートもういい!もういいやめるんだ。奴らはどうせいなくなる。そろそろここから脱出・・」
「放せ!放せセイラ!」
「リュート!」
「放せ、放してくれ!」
「リュート、何やってんだ、落ち着けっ!」
「放せ、放せえっ!」
リュートはセイラに捕まえられたまま、無暗やたらとじたばたしだした。
「殺せえっ!わたしを殺してくれえっ!」
「リュートっ!」
「レイラあああっ!」
レイラ・・。
リュートの動きがふと弱くなり、彼女の身体から勢いが抜けていった。セイラはリュートを捕まえていた力をかなり緩めた。リュートはやがてすっかり動かなくなり、その場にぶらんと棒立ちになった。セイラはリュートに回していた腕をほどいたが、それと同時にリュートは激しく咳き込んで、その口からまっ赤な血が開いた花のように彼女の手の上に散って床にもこぼれた。
「リュート・・。」
リュートは返事をせずに、こぶしで自分の口の端をぬぐった。先程の、巨人に殴られた一撃は、確かにそれなりに効いていたようだった。しかしリュートはそれ以上もうそのことには頓着せずに、うつろな目を空に遊ばせて、それからはもう、まばたきのひとつもしなかった。
「セイラ!リュートさんを!」
いつのまにかロウコの傍に寄っていたケイルが大声でそう呼んだ。セイラはリュートの肩を抱くようにすると彼女の向きを変えて軽く押した。リュートは押されるまま二、三歩前に進んだが、すぐにその場に立ち止まってしまった。それを見たセイラはするりとかがんでリュートの足をすくいあげると、そのまま彼女を両の腕に抱きかかえて、ケイルの方まで運んでいった。
「おろせ・・。」
リュートが言ったような気がしたがセイラはしらん顔だった。彼女の手はぶらりと下に流されていたが、そこに例の長い棒がきちんと握りしめられているのを見て、セイラは少しだけ安心した。
「出ますよ!」
いつの間にかケイルの足元には、真円に近い、白い光を噴き出す不思議な口が開けられていた。セイラたちが近付いてきたのを認めると、ケイルはそばに座ったままだったロウコに身を寄せて屈みこみ、彼に肩を貸して立たせようとした。ロウコは手を振ってそれを断りかけたが、ケイルは半ば強引に彼のわきの下に身体を押し込んで、もう一度、ロウコを立ち上がらせようとした。
「あんたには無理だ。」
「そうでもありません。」
ケイルがあまりに懸命に彼を持ち上げようとするので、ロウコは力を振り絞り、ケイルの肩を少し借りてどうにか上体を折りながら立ち上がった。そこにリュートを抱えたセイラがやって来たのでケイルは目で足元の光を指して彼に言った。
「これは外に通じているはずです。あまり長くはもちません、続いて下さい!」
ケイルはロウコと、セイラはリュートと、光の穴の中へ飛び込んだ。彼らは光り輝く筒の中をどんどん落ちて行く感覚を味わっていたが、その筒のはるかはるか上に、何かの気配を感じてケイルはふとそちらをふり仰いだ。
それは本当にただの気配だった。しかし明らかにある人間の気配、つい先程彼が対峙し退けた、あの涼しい目元の少年の気配だった。ロウコとセイラもそれを感じ取ったらしく、同様に頭上を仰ぎ見ていた。
“別れを・・”
告げているのか・・。
そこでケイルがふと、顔を上にあげたままで小さくつぶやいたのをふたりは耳にした。
「おいで下さい。」
確かにこの幼い修道者は、彼方にそう告げていた。
「わたしと共に・・。」
一同が滑り落ちる速度を上回る速さで、流星のような強い光の塊がふわっと飛んで来て、一度、ケイルの胸の前で止まった。それは、猫がそばにいる者を見上げるような感じでちょっとだけ、ケイルの傍で身じろぎしたが、やがてふいっとまたその身体を持ち上げると、当たり前のような様子でまっすぐに、ケイルの胸にぶつかって、そのまま中に溶け込んでしまった。
「・・!」
「!」
目を見張るセイラとロウコの前で、ケイルの身体が周りの光をかき消す勢いで、青白く強くかあっと光った。それはすぐに治まったが、目をあげてロウコの顔を見たケイルの表情の中に、ロウコはあの少年の面影を見たように思い少しはっとした。ケイルは微笑み、その上にあの少年のちょっと気取った微笑みが重なった・・しかしそれはすぐに消え、あとにはケイルのあの、ひたすら愛らしいやさしい笑みが、やはりロウコの顔を見つめていた。
そろそろ出口が近いことがロウコにもセイラにもそしてもちろんケイルにも確かに感じられていた。
リュートは黙って、セイラの腕の中でまだぼんやりじっとしていた。彼女がその時何を感じていたかということは、そこにいる他の三人には、どうも伺い知ることができなかった。
「・・揺れがひどくなりましたな。」
一方、こちらはランナン王国の一行の方。終末的な塔の揺れを受け、侵入した方もされた方も、おのおの戦いの手を止めて、一様に辺りを見回し始めた。自分にそう言うシンムに頷き、すうっと息を吸い込んで、ジュンナは突然大きな声で、なぜかその場に言い渡すように堂々と告げた。
「よし諸君、退却だ!ここはもう崩れるぞ。怪我人を置いていくな、仲間で肩を貸しあって行くのだ。急げ!」
するとさらに何故か、彼らと戦っていた修道者たちが機敏な動きで倒れている同輩を次々肩に担ぎ、ジュンナに言われた通りひとりも残さずにあっと言う間に見事にその場から撤退してしまった。
「おまえたちも表に行きなさい。」
周りを確認するように見通しながら、ジュンナは自分の六人にもそう言い渡した。
「いえ、まず陛下からお越し下さい。」
「いやいやおまえたちから。わたしは一番後ろについていこう。」
「我らが陛下より先に逃げるわけには・・」
「わかんないな君たちも。責任者というものは常に全てを見届けてから現場をあとにするものなのだよ。さ、行った行った、おまえたちが行かないといつまでたってもわたしが外に出られないぞ。困るなあそういうことでは。」
「陛下・・。」
「おおっ崩れている崩れている。さっ、こんなところとっとと出て行くぞ。急げっ!」
「ぎ・・御意!」
彼らを見て大きくシンムが頷いたことも手伝い、ついにランナン国王の親衛隊六人はばらばらと、締まった身のこなしで連なるように階段を降り始めた。あとに残ったシンムとジュンナは揺れの中、ちょっとの間その場に並んで立ち尽くしていた。
「上階をご覧になりにお出でですか陛下。」
シンムがジュンナにそう言った。
「うん?うーんそうだなあ・・まあやめておこう。わたしの妻たちは、戦いに破れていなければきっと無事だ。何と言ってもあの空恐ろしい修道者が傍についているからな。」
「左様でございますな。」
「ではそろそろわたしたちも退却するとしようか。こんなところで潰されてはかなわん、可愛い妻たちの顔も再び見ぬでは死にきれんからな。」
「御意、陛下。」
そしてジュンナとシンムは相次いで揺れる塔をあとにした。もう既に壁や階段はところどころ崩れ、揺れに地響き、砂埃が充満して辺りはかなりひどい状態になってはいたが、ジュンナもシンムもそんなことは特に構わないという風に涼しい顔でするすると、あっさり塔の出口まで、息をぴったり合わせて走り続けていた。
彼らが塔から抜け出し、少し行ったところで振り返ると、それを待っていたかのように塔全体が、がらがらと崩れ落ち、崩壊していった。
聴覚を占領する物音の中、ジュンナは誰かの叫び声をどこか遠くで聞いたような気がした。それは誰の声ともつかない、人のものかどうかさえ定かではない音だったのだが、細く、いつまでも引っ張られるように空に響き続けたそれは、妙に胸が塞がれるようなとても苦いものを、ジュンナの胸にしみ込ませていったのだった。
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