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九・懸命
はあはあ、と荒い息が、がらんとした暗い部屋に響いていた。リュートの胸に、足元の床に、返り血がかかり黒い斑となっている。
リュートはからからになった喉に無理矢理唾を呑み込ませた。まだ例の青い光は部屋の隅、棚のそばで妖しく伸び縮みを続けている。ふん、どうにか間に合ったな。
「リュート・・。」
ロウコの絞り出すような声がした。
リュートはそちらをちょっと頭をはすにして横目で見遣ると、半ばからかうような調子で彼に言った。
「動くなよ、微動だにするなよ、痛いぞお。実際に経験済みのわたしが言うんだから間違いない。」
「おまえ・・。」
ロウコの胸にはリュート愛用のあの棒が、ぐっさりと突き刺さり背中を貫通して後ろの壁にまで達していた。我ながら大した力を出したもんだ、とリュートは思った。多分自分の力というより、この棒の性能が高いのだろう。
壁に刺し留められたロウコに向かって、リュートはさらに言葉を続けた。
「この棒の木の粉はレイラが持っている。百合の谷の近くに生えている木で出来ているからな。あとからケイル様たちと一緒に来るからあの子にこの棒、消してもらえばいい。そのあとも少々痛むが、ま、治らないこともないから。」
「それではおまえの獲物がなくなることに・・。」
「ん?いいさ、その棒、おまえにやる。わたしは・・まあ今度また作るさ。」
「丸腰で先に行く気か。」
「それもずいぶん心もとないんでこれ、借りてくことにする。」
言うとリュートはロウコの左手から、例の三日月刀をさっさと取り上げた。
「心配するな、あとで返すから。わ、重い、おまえこんなの振り回してたのか。」
「リュート・・。」
「なんだ。」
「おまえ・・。」
リュートはちょっと生真面目な顔になって三日月刀を右手にロウコを見た。
「まああんまり喋るな、痛いから。レイラたちはおまえを助けるだろうがケイル様には手出しするなよ。もっともその身体じゃあ棒が取れてもセイラとレイラには勝てないと思うけど。」
「リュート。」
「じゃあわたしは行く。時間がないんだ、あとでな。」
「おまえこの先を見くびるな。そんな不慣れな刀ひとつで・・。」
「なんとかするさ。」
最後に笑ってリュートはすたすたと、部屋の隅の青い光の方に歩み寄った。そのまま彼女はもう振り向きもしないで、散歩にでも行くような足取りのままでするりと、光のただ中に踏み込んでしまった。
「リュート!」
我知らずロウコは彼女の名を呼んでいた。リュートはその声にふと振り向くと、やっぱりさっきのように笑って、そのまますうっと消えてしまった。
あとにはひとり、ロウコが残された。
彼は固く手を握りしめ、口元をきつく噛み締めながら、珍しく強い感情を見せた顔で、リュートが消えた青い光をまばたきもせずにじいっと見つめ続けていた。
リュートが出た先は何だかとても妙なところだった。ただただ茫漠としていてとても暗くて、前後左右上下のいづれにも何もなかった。足元にも何も見えないので自分がどこかに立っているのか浮いているのかもわからない。ただ、浮いているには不安定な感じがしなかったので、多分自分はどこかに立っているのだろう、と彼女は思った。
何か・・隠れている。
リュートはその何も見えない空間に、何者かが息をひそめているのを感じていた。この気配はひとつやふたつではない。ふうん、そっちが出て来ない気なら、こちらから暴き出してしまうまでだ。
「・・!」
リュートが右手でロウコの三日月刀をきちんと持ち直したのと、ざわざわと彼女の周りで妙な音がしたのがほぼ同時だった。
おいでなすったか。と言ってもこれは先程隠れているのを感じた何者かたちではどうもないようだった。護衛兵みたいなものか・・者ども出会えってとこなのかな。いいさ、出会ってもらおうじゃないか。
“来い!”
リュートは三日月刀を構えてきれいに腰を落としあたりを見遣った。構え方が少しロウコに似ているようで我ながらちょっと可笑しかった。
暗い中にぼうっぼうっと青白い炎がそこここに灯る。灯りの中には変に古めかしい甲冑を着けた、生気のない目をした武者たちが、おのおの刀を振り上げ、リュートに打ちかかろうとしてきていた。時代がかった格好だな、誰の趣味・・
“うっ。”
刀を交えたリュートは思わず土のような武者の顔を見直した。こいつ・・こいつら・・存外に強い。
“意外に骨がある。”
しかも炎を纏った武者たちの数は、ひとつまたひとつとゆっくりではあるが増えてきている。
いや、こんな奴ら多少の数でも負ける気はしない。今までだってもっと強い奴らもっと大勢な奴らの囲みを何度も抜けてきたリュートだった。
今まで・・そう、いつものリュートなら・・。
彼女はちらりと自分の右手のものに目をやった。しかしそれは一瞬、ほんの一瞬のことだった。
すぐにリュートはその手の中のロウコの三日月刀を振りかざすと、群がる土色の肌の武者たちの中へ、自ら一気に斬り込んでいった。
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「レイラ!」
「セイラ!」
ケイルを抱えたセイラはしばらく塔の中を走り、それほどの時間は要さずに、レイラと行き会うことができていた。それは良いのだがどうも先程から俄に階下がやたら騒がしい。
「セイラ、ケイル様はどうなさったの?」
「秘蹟の石と戦われたそうだ。すこし疲れていらっしゃるので。」
「すみませんレイラさんご心配おかけして。セイラ、もう大丈夫です、下ろしてください。自分で歩きます。」
「ケイル様、まだお疲れのご様子ですわ。それに失礼ながらこのままの方が今は早く進めますでしょう?セイラ、リュートは?」
「先に行った。ケイル様と戦ったものが逃げたので追って行ったんだ。」
「まあ・・じゃあ早くわたしたちも。」
セイラはレイラの言葉に頷くと、ケイルを抱いたままとって返して、先程の小さな部屋にレイラを先導してまた駆け戻っていった。
「ところで何だか下の方が騒がしくない?」
レイラはセイラにそう言い、ケイルも小さく首を傾げた。
「どなたかお見えなのでしょうか?」
「この場合、ここにお見えになりそうな人というと・・。」
セイラとレイラはちらりと目を見合わせた。この尋常ではない派手な訪問。これはどうも・・。
「ランナンの方々でしょうか。」
「多分・・。」
まあ他の答えはあまり考えられるものでもなかった。
そしてまさにそのランナン王国の方々は、策も弄せずごく正直に真正面から、この“石造りの塔”に乗り込んできていた。
彼らの歩いていた砂漠をしばらく行くと、大院の裏門ともいえる、リュートたちが通ったものよりもひとまわり小さい、しかしやっぱりやたらばかでかい門に達する。それを抜ければ“石造りの塔”はごく近い。
申し訳のようにジュンナは裏門の前で二、三度おーいとか誰かーとかあんまり意味のないことを呼ばわり、ろくに返事も待たずに一同に、塀を乗り越えるように命じて自分が一番にさっさと向こう側に行ってしまった。慌てて六人の親衛隊も彼の後を追う。あちらに回った彼らが閂を外して門を開き、呆れ果てた顔のシンムをそこから迎え入れた。
「おーい、らくするなよ。この位越えられるだろう。」
「陛下、何度も申し上げておりますように、先が見えないところに御自ら一番にお越しになるのは・・」
「おおそうだったな、過ぎたことは気にするな。さあ行こう、目指す塔は間近であるぞ。」
言うなりジュンナはやはりまた一番に、軽やかな足取りで“石造りの塔”の方に向かって駆けていった。例の六人はやはり慌ててあとを追い、シンムはしかつめらしくこちらは歩いて塔に向かった。
シンムが塔の入り口についた頃はもうジュンナが親衛隊に命じて、がっちり閉じている塔の入り口を遠慮なく、強力な爆薬で吹き飛ばしているところだった。
「おお開いた開いた、さすがナージを使った爆薬はひとあじ違うねえ。」
「陛下、あちらから修道者たちが参りますが。」
「そうか、まじめに来たな。お、本当に揃いも揃ってまじめそうな顔をしているぞ。」
「どうします。」
「構わん、中に入る。大事な妻たちが先決である。追って来たければ来させよう、中にも誰かいるかもしれんな。」
「御意。」
「ここの武術ってどんなのかなー。楽しみだな、なあシンム。」
「わたくしは特に・・。」
ともかくもランナンのご一行八人は、連なるように“石造りの塔”の中に飛び込んでいった。続いて拳法着を纏った修道者たちが彼らを追って塔の中に流れ込む。
ジュンナら八人はしばらく追手には構わず、見つけた階段を上っていった。塔の中からは数人の修道者が彼らを迎え討ちに出てきたきりだった。それらを軽く退け、八人はしばらく、ひとかたまりになって階段を上り続けた。
「人がおらんな。」
「普段は中には人が立ち入りもせぬ場所でしょうから。」
「そうだな、悪だくみには絶好の場所だ・・よしそろそろよい。諸君、ここで立ち止まって追手を食い止めるように。これより先に行かせてはならん。我が妻たちの邪魔はさせんぞ。塔の中の掃除はあまり必要なかったようだ。」
「御意、陛下。」
「殺すなよ。殺さなければ遠慮はいらん。たまの実戦である、大いに活用するように。」
「御意。」
「よおし。では諸君。」
次第に階下から大勢の足音が近付いてきた。
「健闘を祈る。」
固まっていた八人の影が、ぱっと一遍にそこらに散った。
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・・参ったな、どうも。
肩で息をしながら、リュートは声に出さずにそうつぶやいていた。
右手の三日月刀がすでにずいぶん重たい。やっぱりどうも苦手なんだなあ、こういう獲物。
さっきうっかりざっくりやられた肩口の傷がここにきてかなり痛む。他にも傷口は全身にかなりあるはずだが、あまり余計なことについては今は考えない方がいい。
もしかしたら、何かがおかしいのかもしれない。どうも何者かに頭を押さえ付けられているような気がしなくもない。
しかし例えどんなことが起こっていようとも、自分はここでは、何をしてでも負けるわけにはいかないのだ。とすれば誰が何をしているのか、なんてことに今ここで頭を悩ます必要もないし余裕もない。とにかく勝つこと、今は勝つこと。元凶が判りでもすれば話は別だが、要はそんなものより自分の力が上回れば良いのだろう。
“・・えっ。”
しかし、リュートとしては全く信じられなかったのだが、その時突然彼女の膝からがくんと力が抜けた。そのままよろめいた彼女に武者の刀がまた降り下ろされたが、それはリュートが三日月刀で、きれいに受けてふり払ってのけた。
そのまま二、三歩たたらを踏んで、どうにかリュートは体勢を整え直した。寝とぼけてるんじゃない、しっかりしろ。自分を内心でそう怒鳴りつけておいて、リュートは首を数度横に振り気を入れ直した。そこにまた三、四人の武者たちが揃って襲いかかり、リュートは妙に重い身体を無理に引き摺って、彼らと次々に刃を交えていく。どうにかそれを撃退してもすぐに後ろから別の刀がリュートの背中に斬りかかってくる。これではどうもキリがない・・珍しく弱気になりかけている気持ちに気付いてリュートはまた自分で自分を叱りつける。
“わっ!”
一人と刃をぶつけ合った拍子に、彼女の足元がまたぐらりと揺れた。そこに新たな刀が降り掛かり、妙な体勢でそれを弾いたリュートはバランスを崩してその場にどっと倒れこんでしまった。
ちっ、とリュートは小さく舌打ちをした。今ので少々足首をひねったらし
い。
立ちかけるリュートの身体に執念深く四、五本の刀が一斉に襲いかかる。床に左手をついたまま、リュートは三日月刀を握った右手を大きく振ってそれらをはねとばした。一瞬のスキに彼女は跳ねるように立ち上がり、痛めた右足を半ば庇いながら三日月刀を構え直す。しょうがないな、相変わらず数が多い・・。
「リュート!」
“えっ。”
思いがけず彼女の名を呼ぶ声がしたのと、リュートの目の前に何か細長いものがまっすぐに飛んできたのがほぼ同時だった。反射的にリュートはその長いものを左手で掴んだ。ぐっと握った感触が、妙に懐かしく有難かった。
“これはわたしの・・!”
彼女はその棒を利き手の右に持ち替えると、威勢良く振り回して辺りの敵を一気に蹴散らした。ああやっぱりひと味違う。これなら何とかなるかも・・って・・
「ロウコ!」
リュートは振り向いて、そこにうつ伏せに倒れるロウコの姿をすぐに見つけた。何だってこれがこんなところにある。消されもせずにわたしの手の中にある?まさかあいつ・・。
「ロウコ!」
リュートは右手に棒を左手に三日月刀を握ったままロウコの側に駆け寄りそこに膝をついて身をかがめた。ロウコは顔を少しひねると、倒れたままリュートの顔をどうにか目で見上げてなぜか自嘲するように彼女に少し笑ってみせた。
「おまえ・・抜いたな。」
「ああ・・こいつはおまえに返さないと・・返さないとと思ってな。リュート・・しかし・・ひとつ言っておこう。おまえは真似をするな。こいつは・・こいつを抜くのは、かなりこたえる・・ぜ・・。」
「ロウコ・・。」
「すまん、リュート。俺にかまう・・な・・。」
本人の必死さにも関わらず、ロウコの意識はすでに彼の手から離れつつあるようだった。
「かまうな・・。」
彼のまぶたがすうっと閉じられそれを見てリュートは心底ぎくりとしたが、よく見ればロウコは気を失っただけで、若干弱くはなっているものの、確かにまだ呼吸は残っている。そんなロウコの姿に例の武者の影が鋭い一撃を与えようと腕を振った・・それを見たリュートの瞳がちかっと燃えた。
「・・手をだすなっ!」
三日月刀を足元に置き、棒を両手にしてリュートは、下ろされる刃とロウコの間に無理矢理入り込むと渾身の力を込めて武者の腹のどまん中にその棒をひと突き打ち込んでのけた。一瞬我を忘れたため痛めた足首に遠慮のない力がかかり、リュートの背骨を痺れるような刺激が駆け抜けたが、彼女はすでにもうそんなことにも大して頓着しなかった。ひとりを消し去りぐるりを囲む武者たちを睨めつけ、リュートは堂々と啖呵を切った。
「こいつには指一本触れさせない!来るなら来い!」
・・ちょっと無理かな。
言い終わったあとでふっと冷静になって、リュートは頭の後ろでそう思った。
とはいえここは戦うしかなかった。足が痛もうと相手が多すぎようと気を失った者をひとり抱えていようとやるしかなかった。さらに何か妙な気配が彼女を縛り付けようとも・・やるしかない・・けれど・・。
立ち回る最中に、こほっと咳とともに何かを吐き出すとそれは血の塊だった。それに気が散ったほんの一瞬に、またいくつかの刃がリュートの背中と腕を切り裂いた。生ぬるいものがリュートの身体を伝い、細くどこまでも流れていった。ぽとり、と何か滴が落ちる音がしたように思う。痛いなんて・・思ってはいけない。しかしこんなに傷を負ったのは、多分はじめてのことだろう。
リュートは自分の息がずいぶん乱れてきているのを感じた。吸っても吸っても空気が足りない気がする。痛いというより身体が重い。棒がどうとか刀がどうとか言うよりも、すでに今は自分の身体自体を支えているのが重いのだ。
「!」
リュートの黒く長い髪がふわりと空に乱れて舞った。刃のひとつが彼女の背中に突き立って、そのあとひどく無遠慮に抜かれた。ばかな・・反応できないとは・・一体なぜ・・。
リュートは膝を折って床に崩れ込んだ。そうしながら彼女は倒れるロウコの身体の上に覆い被さってそこにうずくまるように丸くなった。
ちょっとやそっとでは死なないと思っていた、喉を掻き切られさえしなければ。しかしここまで傷を負わされてはいかなわたしでもそろそろおしまいなのかもしれない。
もうこんなに・・動けない。ぼんやりする。いろんなものが何だか遠くにある気がする。だけど・・。
リュートは両の腕でロウコの身体をなるだけ大きく抱え込んだ。こいつは・・こいつだけは何とか残しておかなくては。斬るならばわたしの身体を斬り刻むのだ。どうやらもうあまり使い物にならない・・この身体を。
“ふふ。”
リュートはロウコの身体に押し当てた顔で少し笑った。
“なんだ案外もろいじゃないか。”
所詮わたしなどこの程度・・。
“すこし、苦しい。”
指がぬらぬらするのを感じながら、リュートはほんのわずか、身じろぎして喘いだ。
“頭、割られたらいやだなあ・・。”
最後に意識が暗転する前に、リュートが考えたのはそんなひとことだった。
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