こぬか雨のあと
ひどく蒸し暑い日のことだった。
小さなメモ用紙を片手に、初めての土地に苦労しながら、どうにか目指す家の近くにまでは来たようだった。
手紙で済むものを、突然教えられた住所をじかに訪ねるなどと多少非常識にも思えたが、何故かためらいはほとんどなかった。
手紙なら出さないだろう。手紙に書く内容はひとつも持っていない。
この土地を訪ねると決まったときに、長く気になっていたメモ用紙の住所に、立ち寄ってみようと考えただけだ。
あの人を見かけたら手紙をくれ、とあの日彼女は言って残した。
ぼくはあの人など知らないのに。
古地図がそのまま使える、と言われる古い城下町は観光地でもあり、ここからやや離れたところには観光ゾーンも控えている。
先程立ち寄ったそこは、平日のせいかそこまでの人出はなくややしんとして、時折観光バスで訪れたのだろう、団体客がいっとき溢れてはまた引いていた。
静かになった町には夏の日が差して、道に落ちた影に、ひっそり、という言葉が立ちのぼっていた。
その静けさこそがこの町の魅力のような気がして、胸いっぱいに、しんとした気配をたっぷり詰め込んで楽しんだ。
どこかで風鈴の音がしていた。
目指す家は古い日本家屋で、門から庭に入り、短い石畳を抜けた先に玄関がある。門扉の脇には小さな郵便受けがあって、メモにあった名の名字だけが書かれていた。
門のそばに何の呼び鈴もないので、ためらいながら石畳を踏む。
鬱蒼と茂る木々の下、石畳の周りは陰になっていた。蝉の声が降るようだ。
玄関前に立ったがやはり呼び鈴はなく、引き戸が軽やかに閉じたきりだった。
子供が前の道を、駆けて遠ざかる音がした。
「ごめんください。」
ぼくの声に返事はなかった。
「ごめんください。」
どうしたわけか、ぼくの手は、目の前の引き戸を引いていた。
あとから思えば驚いたことだが、引き戸はあっさりと、そのまま開いた。開くと同時に、呼び鈴のような音が響いた。
「ごめんくださあい。」
さすがに三和土に踏み込む勇気はなくそのまま立っていると、
「はあい。」
と、奥から声がした。
声の主がはだしで廊下を歩いてくる音がする。
出て来たのはひとりの女性で、地味な色合いの、涼しそうなワンピースを着ていた。薄暗い玄関の間で、彼女の白い肌がほんわりと光を放っていた。
彼女はぼくの姿にやや戸惑ったようだったが、二の句も次げずに立ち尽くしているぼくの顔を突然ふっと思い出したようで、
「あら。」
と言って、少し笑った。
・ ・ ・ ・ ・
彼女に遭ったのは三年前の、春も進んだ頃のことだった。
彼女が住む町からバスで2時間ほど行った、そこも歴史のある城下町をひとり歩いていたところ、急に雨に見舞われた。
ごくごく細かい水滴がふんわりと満ちるように降るこぬか雨は、それでも油断すると全身びっしょりになってしまう。
ぼくは、今日は必ず雨が降る、と、宿の人が持たせてくれた傘を、有り難く差して歩いていた。
道にはほかに誰もいなかった。
雨で視界にややフィルターがかかる。
その中、ぼくの目は、何やら赤い塊を認めた。
それは、古い家並みが続くからっぽの道のはじに、うずくまるようにした、人の後ろ姿だった。
どうやらそれは女の人で、今どき珍しく、赤い和服を身につけていた。
ぼくは足早にその人に近づいて、ふと傘を差し掛けた。
彼女は最初それに気づかないようだったが、はっと振り向いてぼくの顔を見て、やはり驚いた顔をした。
姉さんと同じくらいの年ごろかな、とぼくは思った。
降り始めの雨に濡れてきた彼女の着物の、ところどころが濃く湿った色になっていた。
見れば彼女はどうやら切れた鼻緒を直していたところのようだった。
まずい、ぼくは鼻緒なんか直せない。
妙なところでどきまぎしていると彼女は急に安心したような顔になり、すみませんが、と言い始めた。
「ごめんなさい、肩を貸してくださいませんか。片足ではバランスが取れなくて・・・。」
ぼくは言われたとおり、傘を差し掛けたまま、彼女のすぐそばにしゃがんみこんだ。彼女の小さな肩がぼくの肩に寄りかかり、 彼女はそうして身体を支えて、あっという間に切れた鼻緒を直してしまった。
「ありがとうございました。」
傘から出て深々と彼女がお辞儀をするので、ぼくは慌ててふたたび彼女を傘に入れた。彼女は顔を上げて、少し笑って・・・それからぽろぽろと、笑ったままで涙をこぼした。
ぼくは完全に固まっていた。
そんなぼくを見て、彼女は済まなさそうに照れた笑顔になり、白い指で涙をぬぐって、顔を背けた。
雨は音もたてない。
「あのひとが」
「え?」
「あのひとがここにもいなくって」
「あのひと。」
「・・・ここにお住いの方ですか。」
「いえ、旅行で・・・。」
「いろんなところに行かれるんですか。」
「ええ、まあ。」
「では」
彼女は、濡れた目でぼくを見て、言った。
「あのひとを見たらわたしに手紙を下さいませんか。住所を書きますから・・・どうか。」
彼女はぼくが持っていたメモ用紙に住所を書くと、一礼して、また傘から飛び出そうとした。
「あの、送ります。」
「いえ、いいんです。姉のうちがすぐそばですから、走って行きます。不躾なお願いでしたのに、ありがとうございました。本当に助かりました。」
「いえ、あの・・・・。」
「ありがとうございました。それでは。」
と言い残して彼女は、まだやむ気配もない雨のなかに駆け出していった。和服の女性相手だというのに、ぼくは彼女を追うこともできなかった。追えば必ず追いつけたのに。
四つ辻で彼女は足を止め振り向くと、もう一度お辞儀をして、それから角を曲がった。
もうずいぶん水を含んでいた彼女の髪が、いくぶん重そうに彼女に張り付き始めていたのがぼくにわかった。
・ ・ ・ ・ ・
彼女はぼくをうちに上げてくれて、畳敷きの広い客間に明かりを入れ、重そうな座卓の前に夏の座布団を置いてくれて、そこを勧めた。
茶托に乗ったガラスの器に香りの立った麦茶を注いで出してくれたのを思わず三分の二ほど一気に飲んでしまったら、彼女は微笑んで、冷蔵庫から出したままのような麦茶の容器を持ってきてぼくの器につぎ足し、暑かったでしょう、と言って、麦茶の容器はそのまま自分のわきに置いた。
「あの時は本当に、変なお願いをしてしまって」
彼女はそう言うと、また、あの時のように深々とお辞儀をした。ぼくもつられるように、座卓越しにお辞儀を返した。
「メモはもう、とっくに捨てていらっしゃると思っていました。」
「いえ・・・あの、そうだ、すみません、こちらこそ、突然来たりしてしまって。」
「いいえ、来て下さって嬉しいです。」
そして彼女は、今日はたまたまおやすみで本当によかった、と言った。デパート勤めなので、休みは基本平日なのだそうだ。
「ひとりで住んでいますから、留守でしたら誰もいないところでした。」
「おひとりですか。」
「はい。」
ここは彼女の育った家だが、残っているのはもう彼女だけだと話してくれた。でも玄関に鍵がかかっていなかった。不用心では、と言うと、夜にはちゃんと鍵をかけると言う。そういう問題だろうか、とぼくは思ったが黙っていた。
「・・・あのひとには」
ぼくが切り出せずにいるのを見抜いたかのように、彼女は言った。少し困ったような笑顔になっていた。
「あれきり会えないままです。」
そしてさらにぼくの疑問を読んだかのように、会えれば会えた方がいいんですけど、と小さく続けた。
あの時彼女は、あのひと、がどんな人なのか、ぼくに話した。ここまで話しておけば、見ればわかるという口ぶりだった。
あの時本当に、彼女がそう思っていたのかどうかぼくにはわからない。
ぼくが、そのひとを見たらわかると自分でも思っていたかどうか自信もない。
彼女はそのことも思い出したようで、あんなお願い、無茶でしたよねえ、とまた笑って言った。
そして、本当にすみません、と笑顔で言ったが、その笑顔がちょっと、明るくなったようにぼくは思った。
縁側のむこうには、草がいっぱいに生えている庭が少し見えた。
手入れが行き届かなくって、と彼女は言ったが、庭は荒れているようには見えなかった。
濃い色の花が数輪覗いていた。
そのあとしばらく、ぼくたちは主に、彼女の住んでいる町について話した。
いいところだと思うんですけど、と彼女は言った。
最近はあまり、こういうタイプの観光地は人気がないのかもしれませんね。
すごくすてきな場所です、とぼくは思ったとおりを熱心に言った。
そしてこのうちを訪ねる前に立ち寄ったそこここがいかに印象的だったかと、わざとらしく聞こえないように一生懸命に語ってみた。町並みや歴史、そして海辺。
あの海岸の夕焼けは、本当にすっごいですよ、と彼女は言った。
濃い緑の木の葉が覗く、白壁の道についてぼくが話すと、彼女の微笑みに、澄んだ青の色が載ったように見えた。
あのひととの思い出の場所なのかな、とふとぼくは思った。
玄関から去るぼくを見送りながら、また来てください、と彼女は言った。
ぼくは、また来ます、と言った。本気だった。
ぼくたちは友達のように笑って別れた。
門を出ると、夕焼けの色を含み始めた空気が、むっと濃く、重たかった。
もう一度身体が汗ばんでくるのを感じた。
次にその土地を訪ねることができたのは、それからさらに三年経ったあとのことだった。
彼女の家があったところには、出来たばかりらしい、大きなマンションが建っていた。
〈終〉
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