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第十二章 女優

 すでに浅く日は落ち、夜の闇が街中を覆い尽したばかりだった。
 大きな宿場街であるそこでは、日没とともに店々に強い灯りがともされ、繁華街の賑わいはすでに日中をも凌ぐかとさえ思われた。どの店も食と酒を求める人々の姿で溢れんばかりで、それらの店を並べるいくつもの道筋の路上にもまた、大勢の人々が繰り出して、祭りかとまごうばかりの喧騒を繰り広げていた。
 その人込みの中を、ひとりの若い男が、それらの騒ぎとはまるで関係はないといった風情で姿勢良く足早に通り抜けていた。のみが彫り出したように整った、芸術的な美しさの細く白い顔をしたその男は、しかし横に切れた涼し気な目元と血が透けてうす紅に見える口元に、冷たいとさえ言えそうなつんとすました無表情さを乗せて、視線をまっすぐに上げ、周りには誰もいないと思ってでもいるかのような様子で歩き続けていた。速度は早いが物腰が優雅なのでさほど目立った動きとはならない。黒く長いまっすぐに落とされた髪が、彼の歩みにつれしゃらしゃらと背中で小さく鳴っていた。
 男は何度か角を折れ、とある広場に差し掛かった。ずいぶんと広いその場は時に催し物が多く行われるところで、その日も大きな旅の芝居小屋がかかり、夜の公演の開幕を控えて、客をその中にぼちぼち飲み込もうかとしているところだった。
 「ちょっと、そこの様子のいいお兄さん。」
 そちらには目もくれず小屋の前をやはり足早に通り過ぎようとした黒髪の男に、そう、若い女の声が掛けられた。すると男はぴたりとその歩みを止め、表情のこもらない目で声のした辺りを見遣った。
 そこには一人の、どちらかと言えば背の高い部類の華やかな女がひとり、すんなりと立って男を眺めやっていた。派手な舞台用の化粧と衣装を着けているがそれがなくても充分美女であることは容易に伺い知れた。すらりとした縦長の身体の、絶妙の曲線に沿ったつやのあるドレスを身につけたその姿は、憂いを含んだ切れ長の瞳とあいまって、強力な色香を醸し出している。
 大きくくれた胸元からのぞく滑らかな白い自分の肌にほっそりとした指を乗せて、女は斜に立って男に視線を送っていたが、やがてぶらぶらと、といった風に黒い髪の男に歩み寄ってきた。男は最初に彼女を見遣ったそのままの姿勢で、何ひとつ動かさないまま女を迎えた。
 「今から舞台が始まるの。」
 女はあだっぽく男を見上げてそう言った。男は黙って女を見返していた。
 「わたしも出るのよ・・・どう、寄って見ていらして下さらない?きっと面白いと思うのだけれど。」
 女は甘えるように首を傾けて優雅に微笑んだ。男はそれをまともに見ながらやはり黙って動かない。女はさっぱりその男の態度には頓着せず、こくのある茶色の長い髪をこなれた仕草でかきあげながら続けて言った。
 「もちろんそれだけでお帰しはしなくてよ。舞台がはねたらこの辺りで待っていていただければいいの。そんなにお待たせはしないつもりよ・・・どうかしら?」
 女の美しい顔がとびきりの甘い笑顔を作る。今まで黙りこくっていた男はその時点でようやく重い口を開き、席はあるのか、とそれだけ素っ気無く女に尋ねた。
 「木戸銭はあちらでどうぞ。入場券の販売をいたしておりますわ。」
 彼女がドレスの裾をつまんで丁寧なお辞儀をすると、かたちの良い胸がドレスの襟から深くまでのぞいた。男はそれに冷たいままの目をちらりとくれると、しかしそのまま何も言わずに示された窓口の方に歩いていった。女はちょっとの間そのうしろ姿を見送っていたが、すぐに軽やかに身を翻し、男のあとを追うと彼の横から頭を突っ込んで窓口の係に、ふたことみこと何かを告げた。
 その日の芝居はサスペンス仕立ての、凝った演出のものだった。美しいトリックの使われたその舞台に大方の観客が満足して小屋をあとにし、そこらががらんとすっかり淋し気になってしまった頃、例の男はやはりただひとり、小屋の前の、女に声を掛けられたあたりに相変わらず愛想なく佇んでいた。
 ほどなく芝居小屋のむこうの角を折れて、先程の女が彼の視界に現れてきた。小屋の裏口から出てきたのだろう、彼女は小走りに、暗がりの中を男に向かってまっすぐに駆けてきた。舞台化粧も衣装も当然ながら外されて今は普段の装いといったところだったが、それでも彼女に施された淡い化粧も衣服も、シンプルながらセンスのいい、目に心地の良い取り合わせで、それがやはり素に戻っても美しいこの女を一層洒落た様子に見せていた。女は男の側で立ち止まると、ほんの少し弾んだ息の中で彼を見上げにっこりと笑った。小ざっぱりとした装いに身を包んでいても彼女のにおいたつような女っぽさに変わりはなく、形の良い頬にもやわらかそうなくちびるにも切れ長の瞳にも、清水がいっぱいに含まれているようなみずみずしさが感じられた。
 「待っていて下さったのね。」
 女はそう言うと、男を少し追い越してご案内するわ、と言い、半歩ほど彼の先に立って石畳の広場をまた歩き始めた。男は例によってまた黙って彼女の後ろについていった。ふたりは途中一度も口をきかないまま、一軒の小さなレストランの前に行きついた。庶民的だが気のきいたしつらえのその店の扉を開いて、女は中に入り、男もすぐにそれに続いた。
 店は外観同様内装も、重厚ではないがずいぶんと趣味のいいゆったりとした造りになっていた。女は店の者と顔見知りらしく、明るく彼らに手をふって、奥の席は空いているかと尋ねかけていた。席は空いていたのでふたりはその、半ば個室のような場所におさまりこんで心地良いランプの光を斜めに浴びた。遅い時間とて店に客はもう一組、あちらの方にいるきりだった。
 女は男にはろくに相談もしないでアラカルト料理を手早く選んで注文した。一番に運ばれてきた酒の壜に女は片手を伸ばそうとしたが、男が先にそれを取り上げ、女のグラスに注いでから自分のグラスにも中身をそそいだ。
 「乾杯。」
 と言ったのは女の方だけで、男は黙ってグラスを傾けてみせただけだった。彼女は相変わらずそんなことには構いもしないで、ルビー色の液体でくちびるを湿すとほうっと胸から大きく息をついた。
 若干の沈黙のあと、めずらしく男が先に、女にむかって声をかけた。
 「・・・いつもこんなことをしているのか。」
 「こんなこと?」
 「客引きだ。」
 「あら、ええそうね・・・あんまりしないわ。でも時には、ね。ほらやっぱりわたしたちも、お客さんには来ていただかないといけないもんだから。」
 「芝居後こみでか。」
 「あらそれはよりけりよ。」
 女は楽しそうにくすくすっと笑った。
 「よくやっていそうだな。」
 「どうかしら。」
 「答えられないのか。」
 「あら、やきもち?」
 「ばかな。」
 「うふふ、そうよね。」
 女は手にしたグラスをくるりと回して中の液体がゆらゆらとゆらめくのを面白そうに見つめた。
 「やきもちなんか焼かれる理由が見当たらないわ・・・まあ今夜は今夜のお客様を精一杯もてなさせていただくわよ。とりあえずお食事ね。ここのお料理は絶品よ、この街に来た時はいつも寄るの。」
 彼女がそう言った時、前菜の二品がふたりのテーブルに運ばれてきた。女はうきうきした様子でカトラリーを取ると、大皿にふたり分一緒に並べられた繊細な作品たちを、自分の皿にさっさと取った。
 「ね、おいしそうでしょ、召し上がって。」
 女は自分の取り皿の料理に手をつける前に、すでにずいぶん減っていたグラスの中の酒の残りをとうとうすっかり干してしまった。男は大皿から自分の料理を取る前に、女のグラスをまたルビー色の酒で満たしてやった。
 「ありがと・・・さ、どうぞ召し上がって。お先に取らせていただいて失礼したわ。ね、見事にお好きなものばかりでしょ。このあとのお料理も全部そうよ。わたしちゃあんと覚えてたってわけ・・・いじらしいでしょ、嬉しい?お兄さま。」
 「そうだな。」
 お兄さま、と呼ばれた男は例によって素っ気なくそう言った。
 「ま、なあにそのお返事。相変わらずね。あんまりふくれてるとお料理全部わたしが食べてしまってよ。」
 「おまえならやるだろうな。」 
 「ええできるわよ。でもサラダに入ってるコトラの実は全部あげる。あれわたし苦手なの、何だか妙に甘いから。」
 「おまえこそ相変わらずだな。」
 「懐かしいでしょ。感涙にむせんでちょうだいな。」
 「それほどのものでもないさ。」
 「ごあいさつ。」
 食事は絶妙のタイミングでもって次から次へと運ばれてきた。ふたりはそれほど口数の多くはない会話をぽつぽつと交わしながら、旨い料理をゆっくりと時間をかけて楽しんでいった。   
 「で・・・大魔術者のエスタニ様ともあろうお方がまたどうしてこんなとこに?普段はあの真新しいできかけのお城から出もしないくせに。」
 女がそう言ったのは、メインディッシュが恭しくふたりの前に運ばれてきたあとだった。男は一度口を拭うとグラスの酒を一度ふくんで、それからまたカトラリーを持ち上げ、目の前の料理に手をつけながら言った。
 「わたしがイネミアに居ることを知っていたのか。」
 「お兄さんのことならいっぱい知っててよ。今度はね、お兄さんを主役にした芝居を書くの。近日上演するわ。」 
 「よしてくれ。」
 「わたし、お兄さんの役していい?」
 「よせと言ったぞ。」
 「じゃあマルソあたりにやってもらおっかな・・・で、何だってお兄さんほどの方がこんなところをふらふらしてらっしゃるのかしらって話だったわね。どうして?でもどうせ御用でおみえなんでしょうから訊いたところでお返事してはいただけないと思いますけど。」
 「わかっているなら訊かぬが得策だぞ。」
 エスタニはすまして肉を口に運びながらそう言った。
 「そうでもないわ、そうおっしゃるってことはやっぱり天下のレンダ王の御用だってことがわかりますもの。またどーせろくでもない用事させられてるんでしょ。お兄さんの忍耐力にも頭が下がるわね。わたしじゃホントに勤まらないわ。」
 「だからやっていないんだろう。」
 「そうそう・・・わたし本当に不思議に思うわ、あの時どうしてお兄さんがあそこに残ったのか。どうして今もあんなところに仕えているのか。」
 「・・・。」
 女の眼差しがまた、グラスの中のルビー色の酒の表面にふと注がれた。彼女はその時のことを思い出していた・・・故国がレンダに征服され、貴族はおのおのの屋敷に蟄居させられてレンダ政府の沙汰を待っている時だった。
 ある日、魔術の家系で名高い彼女たちの家の屋敷に使者が来て、彼女たち兄妹に以後レンダ王に仕えるようにとの通達を残していった。それを受けたふたりのうち兄のエスタニは以後レンダ王に召し抱えられる道を選び、妹の彼女はそれを拒否してひとり夜陰に紛れ出奔して、そのまま行方をくらましてしまったのだった。
 「・・・おまえ魔術は使っているのか。」
 エスタニが突然、妹にそう尋ねかけた。
 「いいえ、滅多に使わないわ。」
 「皆無ではないのだな。」
 「そうね。」
 「使うなとは言わないがあまり目立つな。見つかればすぐにレンダ政府に連れていかれるぞ。彼らはまだおまえを探している。それほど積極的ではないにしてもな。」
 「あら・・・まだ・・・?」
 つぶやくように女は言った。
 「ああ。」
 「そう・・・ねえお兄さん。もしかするとわたしが逃げたことで、お兄さんに迷惑をかけてしまったのじゃないかしら?」
 「迷惑?」
 「そんなに魔術者を欲しがってるような人たちじゃあ、あの時ひとり魔術者が逃げたってことに相当ご立腹だったんじゃないかって思ったの。」
 「そうだったかな。」
 「ひどい目にあわせられなかった?」
 「叱責は受けた気がするがその程度だ、覚えてもおらん。それ以後は彼らの役には充分以上立ってやっている。わたしに文句を言う者はもうあそこには殆どおるまい。」
 「ま、自信があるのね。」
 「事実だからな。」
 「さすがお兄さま。」
 からかうように彼女は言って、口をぬぐい、グラスの酒に手を出した。
 「おまえ、術を封印する気はないのか。」
 「ないわ。」
 「そうか・・・。」
 「するべき?」
 「そうは言わないさ。」
 「よかった。」
 女は上品にグラスをつまんで中身を口に含むと、またカトラリーを両手で持ち上げた。
 「何がいいんだ。」
 「説得されるのかと思っちゃった。封印しろって。」
 「言ったところで聞かないだろう。」
 「わかってるわね。」
 「おまえが生まれてからのつきあいだ。」
 「お兄さんもわたしそっくりだものね。」
 妹は笑い、兄はそれを黙殺した。
 「・・・やめないわ、わたし。」
 彼女は短い明るい笑いをすぐに止め、余裕のある、しかし少し含みのある微笑みでグラス越しにアイボリーのテーブルクロスを見ながら言った。
 「今となっては」
 “魔術だけが・・・”
 お兄さんとわたしを。お父さまとお母さまとわたしを・・・。
 彼女はうしろの言葉を飲み込んで、野菜を切り取り口に入れると慎ましやかにもくもくやり出した。
 食事はそのあとも静かに和やかに進んだ。ふたりが席を立つ時も店はその場では勘定を受け取らず、異議を申し立て始めるエスタニを、妹は笑って無理矢理店の外にひきずり出した。
 「つけで食べているのかおまえは?」
 けしからんという風にエスタニは妹に言った。
 「今日だけよ。払う払わないって野暮よお兄さん。」
 妹は店内に極めて愛想良く手をふると、丁寧にその、凝った黒い扉を音をたてないように閉じた。
 ふたりは並んで、先程の広場の方へ歩いてむかった。エスタニの宿は広場を通り越したむこうにあったし、妹の常宿は、あの大きな芝居小屋の裏手にあった。
 ふたりの行く手に例のあの今や寂し気な広場が見えてきた時、エスタニがぼそりと妹に声をかけた。
 「クローネ。」
 「なあに。」
 「あの服はやめておけ。」
 「あの服?」
 「さっきの服だ。」
 「ああ衣裳・・・無理よあれ舞台衣裳だもの。」
 「舞台では構わんがあれで客引きをするな。肌を見せねば客が呼べない芝居でもあるまい。」
 「肌?・・・ああ・・・胸?見えてた?」
 クローネは自分の胸元を指差して目をくるっとさせ、エスタニはしかつめらしくうなづいた。
 「どきどきした?」 
 「ばかを言え。」
 「はーい気をつけまーす。でも嬉しいわ、お兄さんお芝居誉めて下さったのね。」
 「今日の脚本はおまえが書いたな。」
 「あらわかる?」
 「台詞回しが子どもの頃から変わっていないぞ。」
 「次はお兄さんの物語よ。」
 「よせと言ったろう。」 
 「わたしがお兄さん演るの。」
 「認めんぞ。」
 そしてとうとうふたりは広場の隅で立ち止まった。エスタニはクローネを見下ろし、クローネはエスタニを、生まれつき愁いを含んでいるように見えるかたちの目で甘く見上げた。
 「元気でな。」
 「お兄さんこそ・・・また会える?」
 「多分。」 
 「多分。そうね・・・たぶん。」
 クローネはその言葉を味わうようにゆっくりと繰り返した。
 「そろそろ行きなさい。わたしも戻らねばならない。」
 「ええ・・・ええそうね、お兄さん。わたしも明日も舞台だわ。・・・ねえお兄さん。」
 「何だ。」
 「何のご用でお越しなの。」
 「・・・。」
 エスタニは黙ってクローネの目の中を見つめた。
 「・・・おまえは反対しているのか。」
 「何を?」
 「わたしがレンダに与していることだ。」
 「どうかしら。」
 「そう思うのも無理はないがな。」
 「わたし何にも言わないわよ。言ったって聞いてくれないでしょう、お兄さん。」
 「おまえと同じ性格なのでな。」
 「そうね、わたしと同じ性格だものね。」
 クローネは小さく息をついてエスタニから視線を外した。
 「またね、お兄さん。」
 「ああ。」
 クローネはふわりとエスタニの首に両腕を巻き付けると、彼のつるりとした頬にそっとくちづけをしてすぐに離れた。そしてこの上なく優雅なお辞儀を彼に見せると、そのままくるりと身を翻して宵闇に黒々と佇む芝居小屋目がけて、ひとり足早に歩いていった。
 彼女は小屋に近付くと、その壁に沿ってそのままどんどん歩を進めた。最後に壁の端に辿り着きもうそこを折れるばかりとなった時に、ようやくクローネは身体全部で後ろを振り向いた。彼方に背の高い兄の姿がまだ見えていた。どうやら彼は彼女が歩いている間、一歩も動かず彼女を見守り続けていたようだった。彼女は思い切ったように彼に大きく手を振った。彼の影が頷いたようなのを、こんなに暗くてこんなに遠いのにクローネは確かに見た気がして、そのままくるりと小屋の角を曲がった。
 そこはまた、ひっそりと暗い、からっぽの空間だった。すぐそこに石造りの壁が並んでいて、鎧戸の降りた窓が何層にもなって道ばたのクローネを見下ろしていた。
 クローネは細い路地に入り込んで、そこからまたすぐ、それよりは広い、石畳の通りに出た。そこはまたもやからっぽで誰の気配もなく、建物の戸口の灯りが道に点々と光を落としているばかりの淋しさだったが、彼女がそのうちの一つの建物の扉を開こうとした所で、頭の上すぐで何やら動く気配がした。
 「クローネ。」
 「・・・マルソ。」
 玄関の扉の真上すぐの小さな窓がそっと開いて、中から若い男の首がひょっこりと出て来た。彼の背後は真っ暗で、どこかに灯りがついている様子もない。
 「何やってるのよ、そんなとこで。そこ廊下でしょ。」
 「廊下だからいるんだろ、あんたの部屋だったらどうするのさ。門限破りだぜ、もう宿中灯りは消えちまったよ。」
 「わかってるわよ。静かにしなきゃ。」
 「はい、門限破りさんは静かに静かに。」
 「はいはい。」
 クローネはなるべく音をたてないように重い玄関扉を開けると、隅にぽつりと灯りの点った小部屋の中の、守衛係に愛想良く手を振って、暗いホールを突っ切り正面の階段を足音をひそめてのぼっていった。
 吹き抜けに沿ってぐるりと巡らされた二階の廊下を進むと、玄関の真上の窓の前に渡されていた廊下から、先程の男がやはりこちらに進んで来ていて、ふたりはそこで鉢合わせの形になった。彼らはそのままその宿の客室棟へ繋がる廊下の方へ、肩を並べて歩き始めた。
 「どうだった、逢い引き。」
 「逢い引き?レトロな言葉使うわね。」
 「めちゃくちゃ美形だったじゃない。」
 「あら、見てたの?」
 「たまたまあんたが小屋に引きずり込む時にね。」
 「いい男でしょ、わたしそっくりで。」
 「あんたそっくり?ああ・・・そうだ誰かに似てると思ったらあんたじゃないか。じゃあ・・・。」
 「そうそう。」
 クローネはマルソと連れ立って歩きながらこくこく彼にうなづいてみせた。
 「あれが噂のバカ兄貴よ。」
 「おいおい。」
 「いいのよ・・・だっていっつも勝手ばっかり。いつまでも性懲りもなくあんなところにいて・・・今度だってどうせくだらない指令でも受けてろくでもないことやってるんだわ。」
 「そんなに心配なら止めてくればいいのに。」 
 「言って聞くような人じゃなくってよ。」
 「ははあ、兄妹だねえ。」
 「そうなのよ。」
 ふたりは廊下を渡り終え、階段に行きついた。右手がのぼる階段、左手が降りる階段、じゃあね、と言ってクローネは右に身体を寄せ、マルソはそれに従った。
 「あら、男の子は下でしょ。」
 「や、さみしそうだから添い寝してやろうかと思って。」
 「つけこむんじゃないわよ。」
 クローネは笑ってマルソの肩口を突っついた。
 「じゃあね、おやすみ。明日もよろしく。」
 「ちえー。じゃあな。」
 マルソは大仰に肩をすくめてみせて、ちょっと笑うとそのまま階下に降りていこうとした。そこにふと、クローネの言葉が頭の上から降ってきた。
 「・・・マルソ。」
 「うん?」
 「わたし・・・さみしそうに見える?」
 「まあね。」 
 「そう。」
 クローネは階段の途中で立ち止まって足元を見、マルソは下りの階段の途中から彼女を見上げてやはり足を止めた。
 「大丈夫?」
 「大丈夫よ、へんね・・・・さみしくなんて全然ないのに。」
 「お慰めいたしましょうか?」
 「つけこむなってば。」
 クローネはそこでやっぱり笑って、マルソに片目をつむってみせると、今度はそのままためらいなく軽やかに階段を上っていった。マルソはそれを最後まで見送ってしまってから、首を振り振り、足音を忍ばせてこちらも自分の部屋にむかってぶらぶらと階段を降り始めた。
 クローネは静かに廊下を進み、自分の部屋に入り込んで扉を閉めて、窓から射す街灯の光を頼りに部屋の灯りをつけた。そしてそのままきれいに整えられた寝台の上にばったりと倒れ込んでしばらく身動きをしなかった。
 彼女の両の瞳はぱっちりと開かれたまま、まばたきひとつもされることはなかった。クローネは長いことそのままじっと動かなかった。一度だけ、彼女のくちびるがかすか動いたようではあったが、それも確かな音にはならず、言葉は彼女の胸の中をぐるぐる回ったまま、どうやらどこへも行き場をなくしてしまったようであった。


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