五・さらば愛しの君よ
「おおっこれはえーっとあの、セイラ、そうだセイラとかいう者ではないか。」
何やらほとんど不吉な声がした。
セイラは一瞬、思いきり気付かないふりをしてそのまま行こうかと考えたが、声の主が彼のすぐ隣に来て、その顔を覗き込む方が早かった。
「わたしを覚えているかね?いやまさかもう忘れたりはできんよな。わたしの妃たちは元気かな。まだ一緒なのだろうねえ、全く許せんことだ。」
「・・。」
妃って誰だ、と言いたかったが見当はついたので黙っていた。ここは相変わらず旅の途中のニテアの街。賑やかで明るく活気のあるこの街は、地域の交易の中心地となっているらしい。
人々が繁く行き交う広場の中を、ひとり平和に歩いていたセイラを突然の不幸が襲ったかたちだった。ケイルを落とし穴に嵌めセイラとレイラを軟禁しリュートに暴行を働こうとしたわりにはちっとも悪びれたところも見せずに、そのジュンナ王はあくまで明るく気さくに、当然のようにセイラと並んで歩き出した。
「ふーん明るいところでよく見るとおまえもなかなかいい男だよな。」
「・・。」
そう言われてもなんだか誉められている気がしなかった。
「困るなあ、これはいよいよ我が妃たちと一緒に置いてはおけんな。おまえ手を出すなよ。まさかもう出したとか・・いや・・それはなさそうだな。」
「・・。」
それにしてもこの男、放っておいてもひとりで機嫌良くよくしゃべる。
そのよくしゃべるジュンナはそこでふと、何かを思い付いた様子になりセイラの顔に自分の顔をぐっと寄せてさらにまじまじとそれを見つめこんだ。
「・・?」
「ふーん、おまえほんっとうにいい男だなあ。・・実はわたしな、いろんなことはやってきたのだが、男を相手にしたことはまだないのだ。したいとは特に思わなかったが興味がないこともなくってな。おまえならいいかも知れないなあ・・どうかな、ひとつ新しい経験をしてみる気はないか?わたしならきっと悪いようにはしないだろうと・・」
「・・。」
すっかりセイラが途方にくれてしまった時、二人の後ろからさも可笑しそうな笑い声が聞こえてきた。セイラとジュンナはきっちり同じタイミングと速度で、そちらを振り向きそして同時に声をあげた。
「リュート。」
そこにはそのとおり、例のリュートがもう本当におかしくてたまらないという顔をしてひとりで立って、二人を見ていた。ふたりに見られた彼女は、しょうがないなとでも言いたげにふらふら彼らの方に近付いてきた。すると、まるであとは彼女に任せた、とでもいう風に、するりとセイラがさりげなくジュンナから離れ、そのままあっという間に雑踏の中に紛れ込んでしまった。
「あ、逃げた。」
「そりゃ逃げるさ。」
「うーんまあ急な話だったからな。気が向いたらいつでも歓迎すると言っといてくれ、遠慮はいらんぞ。」
遠慮はしてないと思うけど・・とリュートはそこでもう一度くすっと笑った。
「しかし驚いた奴だな、両刀使いだったのか。」
「常に研鑽たゆまぬという奴さ。喰わず嫌いはいかんよ、喰わず嫌いは。」
「喰いすぎだ、身体こわすぞ。」
「おや、おまえに心配してもらえるとは。」
「別に心配しているわけじゃないさ。」
そういやわたし、何こいつと仲良く歩いているのかなあ。リュートは我ながらこれは妙だぞとそこで気付いた。このにっくき極悪人とこんなに簡単に馴れ合っていいわけないじゃないか。でもまあ・・まあいいか・・何でいいのかな・・。
「しかしどうしてまたおまえこんなところでふらふらしてるんだ。信じ難いが仮にも一国の王だろう。」
「どうしてまたっておまえたちを連れに来たに決まっている。おまえたちはわたしのものになるのだから一応の手順は踏ませてもらっておかないとな。」
おまえたちって誰だわたしのものって何だ手順って一体何のことだ?
今の発言には突っ込みどころが山とあったがとりあえずリュートは話を本題に沿わせた。
「おまえ、国の方は大丈夫なのか。」
「うむわたしもそこまで無責任ではない、ちゃあんと手は打ってある。どうかすると今の方があの国もきちんとしている。」
「?」
「実は大きな声では言えないのだが、うちの国には影武者がいるのだ。これがびっくりするくらいにわたしと瓜二つでな。よく調べたのだが血の繋がりは本当にないらしい、不思議なことよな。」
「はあ。」
「奴は名をリョクマという。品性才覚ともに申し分ない立派な男だ。普段からひそかにだが国政に参加させているのでいつでもわたしの代わりが勤められる。あいつはわたしより慎重派だからわたしが政治を司るより今リョクマにさせている時の方が我が国は堅いといえば堅い。あいつはまず間違わんからな。」
「ほお。」
「さらに面白いのは、リョクマは素顔がわたしに一番良く似ているということだ。むしろ、影武者をやっていない時にこそ変装をしておる、よって替え玉だとばれる可能性が非常に少ない。これは実に良い、実に良いだろう?」
「そうだな。」
「おかげでわたしも安心して、こうしておまえたちを迎えに来られたというわけだ。という事情なので心配はいらん。安心したか?」
「とりあえずわかった。」
いや、はじめからそんなに心配はしていないから。それにしてもそのリョクマとかいう男、実に絶大なる信頼を得ているようだ。これは本当にすごいことかもしれない。
「で、おまえ、ひとりで来たのか。」
「信じ難いと思われているようだがわたしは一国の王なので一応そんなことはしない。ほらあれ・・。」
ジュンナが親指でちょっと指し示した方を見たリュートは、ははあと思った。路上の木陰に椅子とテーブルを並べちょっとした飲み物で一息つける街角の店に、思いっきり商談の旅でございますと言わんばかりの風情に整った一人の男が、やたら落ち着き払って優雅にお茶を飲んでいる。あれは確かにこの間ランナンの城でこのジュンナ王の脇に控えていた、参謀風の男だ。
「ああ、あの人か。」
「あれはシンム、わたしの片腕、というより両腕だ。あれがおらぬとわたしはどうにもならなくてね。普段から大抵のことは奴に任せている。国政もほとんどは実は奴が仕切っていてね、あとブレーンがもう一人、そいつは今国に残ってリョクマの手伝いをやっている。」
「おい、黙ってきいてりゃ国王のおまえは一体何やってるんだ?」
「うーんカリスマってとこかなあ?」
またほざく。
「ま・・物見遊山には良かろうが、追って来ても誰もおまえについて戻る者はおらんぞ。わたしたちは旅の途中なんだからな。どこまでもケイル様について行く。」
「うん、それはわかる。わかるのでいざとなったらわたしも最後までついて行く。」
「はあ?」
「何事も中途半端にしない態度まことに見上げたものだ。よってわたしも無理にすぐ連れて帰ろうとは思っていない。最長でおまえたちの旅が終わるまで、わたしも付き合う覚悟があるぞ。有り難いだろう?」
「おまえ・・暇でも持て余しているのか?」
「手に入れると思ったものは必ず手に入れるとわたしは決めているのだ。」
大した骨折り損だな、とリュートは思ったがそれは一応、口には出さなかった。
それより・・。
「あれもおまえの手の者か?」
「あれ?」
「あれと・・あれと・・あれとあれとあれ。それからあれも。」
リュートはあまり目立たないように注意して、人込みの中の六人の男を順に指し示した。ジュンナはそれを目で追って、感心したような声をもらす。
「ははあ、わかるか、大したもんだな。それともあいつらの手並みがお粗末だったか。減俸ものだなこれは。」
「よせよせ、たまたまだ。彼らに落ち度はないさ・・ボディガードか?」
「ああ、わたしの一番身近な親衛隊だ。精鋭六名、わたしとも常に懇意にしている。どうだ、いい男揃いだろう?」
「確かに。おまえやっぱり、男の方にも、その気があるな。」
「あーそうだったのかもしれないなあ・・。」
ふざけた奴。リュートはその日何度目かにくすくす笑った。と、そこでふたりは大きな装飾品の店の前に差し掛かる。
「お、ここでいいかな。では妃よ、今日はこれで失礼するぞ。」
「何だここ女ものの店じゃないか。おまえ女装もするのか。」
「面白いこと言うなあ。生憎それもまだ未体験だ。うむ存外それもいいかもしれない。わたしならずいぶん美しくなれるぞ。ま、それはともかくとして今日は自分のための買い物ではない。今夜はちっと約束をしてな。」
それを聞いたリュートはまたもからからと笑い出した。
「なんだおまえわたしたちを迎えに来たなどとは嘘っぱちではないか。ひとを口実にして遊興三昧の旅に出たな。」
「こらこら誤解をしてはいけない。あの女はそれは確かに美人だが、今夜一晩贅沢に遊んでやろう位の気持ちで近付いてきただけだ。こちらもそのつもりだしな、互いに望みを叶えて楽しく過ごせればそれで良いだろう?
それとこれとは話が別だ。わたしはおまえたちを手に入れたい。何をしてもいくら時間をかけても手に入れる。おまえたちはわたしから逃げおおすことはできないのだ。それはよく覚えておくがよい。」
ジュンナの顔は、そこで妙な具合にまじめになった。それを見てなぜかリュートはひやりとする。
「ではまたな。レイラとおまえの師匠によろしく伝えてくれ。」
「ケイル様はわたしの師匠ではないぞ。」
「あ、おまえ弟子じゃなかったのか。そりゃよかった、連れて帰るのにまた一つ障害が減ったな。」
「せいぜい楽しんでこい。」
「おまえもいい夜をな。」
そこでリュートはジュンナと別れ、ひとりで宿の方へ戻っていった。いい夜を、か。そうだ今日は特別にいい夜にしなくてはならない。今夜はレイラと過ごす最後の夜。明日は彼女とは道を分けてしまうのだ。
ジュンナに教えてやらなくてよかったかな。
リュートはちょっとそう思ったが、ま、いいかと思い直した。あいつはあいつでお楽しみのようだし。
さあ今夜はどうして過ごそうか。レイラはおいしいもの食べたいな、なんておよそ植物とは思えないようなこと言ってたけど・・。
いい店でも探そうかな。リュートはそう決めて、道をひとつ折れ、さらににぎやかな区画へ向かった。レイラってば一番何が好きだっけ?と、そんなことをあれこれ考えながら。
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「じゃあ気をつけてね。今までありがとう。」
二つに分かれた道の前で、レイラはそう言うとにっこりと笑った。
これからレイラは北への道を辿り目的地のボルドラ国へひとり向かう。ケイルら三人はまだまだ道を西へ進み、“石造りの塔”を探さねばならない。
「ありがとうはこっちだよ。レイラ本当にひとりで行くの?」
「行くわよ、始めからそうだったんだもの。」
「やっぱり城下町くらいまで一緒に・・」
「だめだめひとりで来いって厳命なんだから。誰か連れて来たなんて向こうに知れたら話がこじれにこじれちゃう。」
別れはいくら惜しんでも惜しみきれないくらいだったがそれでもどうにかレイラとリュートたち三人は分かれた道を別々に進んだ。リュートは何度も何度も何度も後ろを振り返り、レイラはそれがわかるのか、その度にきちんと自分も振り向いて手を振って返していた。
「・・。」
とうとうレイラが見えなくなってしまうと、リュートは今度はえらく黙り込んで、めずらしく下を見ながら歩き始めた。何だかちょっと苛立ってさえいるようにも見え、ケイルはそれを気遣う顔になったが敢えて言葉はかけないでいた。
何が気になるって・・レイラが最後までボルドラに何の用事で行くのか、ボルドラとのもめ事って一体何なのか、語らなかったことである。いくら女王ったってもめ事の落とし前つけにたったひとりでよその国に行くなんてなんだかとっても、とってもとっても変だと思う。
話さないのがレイラの意志だと思って尊重しようとしたのだけれど、やっぱり無理矢理にでも聞けばよかっただろうか。心配で・・良くないことになるような気がして・・心配で、心配で・・。
それでもリュートは、ケイルとセイラに気を遣わせまいと、そういう心配は胸に押し隠す努力をしていた。ただ努力は努力であり、けして結果は伴っていなかった。時間が経つにつれリュートの苛々はますますもってひどくなり、二人にあたることはけしてなかったけれど、抑え込まれたエネルギーはどんどん彼女の内部を蝕んで、リュートは目に見えて疲労していった。
「大丈夫ですか、リュートさん。」
「もちろん大丈夫ですよ、ケイル様。」
「お顔の色がずいぶんすぐれませんよ。」
「おおかたゆうべ食べすぎたのでしょう。」
リュートは無理にケイルに笑ってみせたが、その笑顔が却って痛々しかった。その日はそのまま一日歩いて宿をとり、次の日半日歩いたところでとうとうケイルがにっこり笑ってリュートに言った。
「そこから道を折れることにいたしましょう。」
「?。ケイルさま、そちらは西ではありません。」
「いいのです、川に出ますので。」
「川。川に何かご用ですか?」
「ええ、そこから舟に乗ります。川を下ってボルドラに行きます。舟を使えばすぐですよ。今夜はボルドラに宿を取れるかもしれません。」
「ケイル様・・。」
リュートは半分泣きそうな顔になった。
「けれどそれでは旅が遅れてしまいます。」
「大した遅れではありませんよ。やはりわたしもレイラさんのことが気になって、このままでは落ち着いて先に進めそうにありません。とにかくレイラさんがどうしていらっしゃるか、それを確認するだけでも良いと思います。ボルドラに参りましょう。セイラ、よろしいですね?」
セイラは黙ってその言葉にうなづいた。
三人は川に出て舟に乗り、その日の夕方にボルドラの城下町に無事に着くことができた。レイラと別れた場所からこの城下町まではそう大した距離はなく、たとえレイラが雲を使わず徒歩で行ったとしても、彼女はもうすでにこの町に入ってしまっている計算だった。
町の人にそれとなく訊いてみたが、どこかの女王陛下が国王を訪ねてくる(もしくはきた)なんて話は誰ひとり露ほども知らず、とすればこれは極秘裏に行われた、けして正式ではない訪問ということになる。
ますます・・ますます怪しい。
リュートは胸がどきどきして、いてもたってもいられなくなっていた。
もうすでに夜は更け始めていたが、リュートはケイルに、ちょっと城に忍び込んできます、と早口で告げた。ケイルはひどく心配そうだったが、止めても無駄と判っていたのか短くお気をつけて、と彼女に言った。
夜陰に紛れるかたちでリュートは、見るからに堅牢なボルドラの城に忍び込んだ。警備もかなり行き届いていたが、リュートをもってすればそれもかいくぐるにけして難いものではなかった。
塀を越え、広い広い庭の中にもぐりこむ。しんと静まり返ったそこはよく手入れされており、あちらこちらに小さな洒落た離れが点在していた。客間か食堂かざっと見てそんなところだろう。さて、問題のレイラは一体どこにいるのだろうか?
「・・!」
リュートはそこで、この広い場所に、自分以外に誰かが身を隠していることに気がついた。誰だろう。こんなふうに隠れているところを見ると、向こうの手の者ではなさそうだけど・・。
ちょっと迷ってリュートはそれがどのような者なのか、確かめてみようと思い立った。なるべく音をたてないように、気配を読みながらじわじわとその誰かの方に近付いていく。問題の気配はリュートがそばに来るに任せ、今のところは動かない。しかし多分きっと、わたしが来ていることには気付いているだろう・・用心して・・。
「!」
「!」
気合いを入れてぱっとその気配を覗き込んだリュートは、ちょっと意外の念に打たれて目をぱちくりさせた。
「これはまた・・姫ではありませんか。」
「シンム殿・・。」
リュートがそうつぶやいたのを聞き、シンムは少し目元を和ませた。
「わたしの名前をご存知でしたか。」
「はい、先日おたくの国王陛下からじきじきに・・。ああご覧になっておいででしたでしょう?」
「あの時ですか。ニテアの広場で。」
「そうですそうです。・・ところでシンム殿、なんだってまたこんなところに。ジュンナ・・おたくの陛下はどうしました。」
「その陛下を迎えにこちらに参ったのです。どうやら陛下はこちらの城に囚えられてしまったようでして・・。」
「囚えられた・・。」
あれまあ、とリュートは思った。
「何だってそんなことに。」
「はい、昨夜になります。ここの城下に宿を取りわたくし共が寝みましたあと、陛下はおひとりでこの城に潜入なさったようなのです。お恥ずかしいですが今朝になって、陛下の書き置きを発見しこのようなことと知った次第で・・いや全くあの方をおひとりのお部屋にしてはいけませんでした。しかし陛下はいつもおひとりのお部屋をご所望でしたから。」
家臣がいたんじゃ女のひと好きに引っ張り込めないもんな、とリュートはそこで妙な納得をする。
「しかしどうしてまたよその国の城に忍び込んだりしたんです。」
「ええそれが・・すべてお話しますと大変ことが複雑になりますのでこの場では省きますが、ご承知のようにこのゴレル地方は小国が割拠する土地柄、また国同士もけして安定して共存しているというわけではなく、スキさえあれば他国を屠り領土財産を奪い取ろうと虎視眈々と狙い合っているような有り様です。
特にこのボルドラの国王は野心強く争いを好み、さらに我がランナンの金脈に関心を示して今までも我が国と幾度か小競り合いを続けて参りました。先頃陛下はこのボルドラ国に、ある秘密があるそうだという情報を掴んでおいででして、大方その辺のことを探りにお入りになったのだろうと思います。」
「秘密・・というと、ここが人間の国ではないとか何とかそういうことですか。」
「ご存知でしたか。」
「ええレイラ・・レイラがそんなことを・・。」
少し口籠ったリュートの様子にシンムはわずか目を細くする。
「そういえばもうお一人の姫君はどうなさいました。」
「ええそれが・・。」
どこまで話をしてしまっていいものか、一瞬リュートは判断に苦しんだ、が、妙に彼女はこのシンムという男のことを信頼している自分に気付いていた。根拠なんてさっぱりないのにな。でもまあこの位なら・・。
「レイラもこの城の中です。あの子の目的地ははじめからここでした。でもその目的は・・わたしにも言ってくれませんでした最後まで。
それでわたし気になって、一度別れたのですけれどやっぱりあの子を追ってここまで来たんです。何だか・・何だかとてもあの子に良くないことが起こっているような気がして。」
リュートの言うことをじっと聞いていたシンムは少し目元を曇らせると首を傾けて言った。
「それは・・少々心配ですね。よその国王陛下のことをとやかく言うのも申し訳ないことですが、この国は幾分危険です。国王陛下には・・その・・若干仁に欠ける振舞いがあると伺っておりますし。
レイラ様はどちらの国のお方なのですか?とはいえわたしもチェンダの情勢にそれほど明るいわけではないのですが。」
「レイラは・・。」
リュートはまた不安で胸が早鐘のように鳴るのを感じながらそれに正直に答えていた。
「女王です。百合の谷の女王・・。」
野心家の国王、侵略されかけたランナン、精の国の王。ああまさか百合の谷にあの国に・・。
「お急ぎ下さい、リュート様。」
リュートを見るシンムの目にも一段と厳しさが加わっているようだった。
「わたくしにも良くない予感が致します。あの国王がレイラ様のような方をお呼びつけになるとは・・しかも女王陛下だったとは・・。
何か無理難題をかけられていらっしゃるのかもしれません。わたくしもジュンナ様のご無事を確認させていただき次第すぐにお手伝いに参ります。」
「心強いお言葉です。わたしもレイラのことが判ればすぐにシンム殿の加勢に参りましょう。」
「ご無事をお祈り致しております。」
「あなたにも。」
そう言ってふたりはそこで別れた。リュートはむこうの白壁の、王族の私空間とおぼしき建物群の方へ、シンムはすこし東の、もっと重々しい建物の方へ向かう。
“レイラ・・レイラ無事でいて。”
リュートは無闇に速度を上げて走っていた。
“わたしが聞いてさえいれば、やっぱり無理にでも聞いてさえいれば・・!”
天空にちりばめられた星も、池の水面に揺れる月も、目に映る全てがリュートの不安を掻き立てた。
“レイラ、どこだ。”
走りながらリュートは眉間に意識を集中させた。レイラの気配がどこからか、感じられてくるかと思ったのだ。
レイラ、レイラ、どこにいるのだ。無事でいるのか?いてくれるのか?
“レイラ・・!”
急いで・・!
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それより少し時間を遡る。
明るい色の細い髪を甘く結い上げ、後れ毛が夜風を受けるのを感じながら、レイラはひとり月を見ていた。
やたらと広い、このやっぱり装飾過多な部屋には、小さいながらきれいな庭がついていて、壁の一面が大きくガラス張りの引き戸になっており、今は開け放されたそこから直接庭に下りることができる。というより部屋にいる時点ですでに庭との境はほとんど感じないほど、ここは開放的な造りとなっていた・・一見。庭と部屋の丁度境界上に立ち、戸口に片手をおいてレイラはもう一度ため息をつく。なんてこんなにきれいな月。
風が揺れると自分からちょっと甘いいいにおいがしているのがわかる。今着ているこのするするの長い服、どこかで見たと思ったらいつかリュートが着ていたのとよく似ている。でもあれよりこの方がなんだかとっても透けてるみたい。よくもまあ・・ま、肌触りはいいけどね・・。
我ながら迂闊だったと思うのだが、こんな展開になるとは思わなかった。もっとあっさり、もっとあっさり・・
“殺してくれると思っていたのに。”
ゆうべは一旦この城下に宿をとって、城を訪れたのは今日の午前中だった。紋章入りの書状を持っていたため中にはすんなり入ることができた。そしてボルドラ国王の面前に通され、何言ったんだかさっぱり覚えていない挨拶を交わした。それからレイラはこの部屋に入れられ、女官たちによってたかって世話を焼かれた。身体も髪も洗われて着替えさせられ、食事も与えられた。今日一日はどんなぜいたくも許そうと、あの、下手に精悍な男はわたしに言った。いくつくらいなんだろう。わたしよりきっと倍は生きてる・・精の時間の経ち方の中としても。
ある日突然やってきた彼らの軍に半日も持たずあっと言う間に征服された百合の谷。滅ぼされることは免れ、属国となることに決まったけれど・・滅亡を許す代わりの忠誠の証しとするために彼らが求めたのは女王レイラの馘だった。彼女はここに、自分の馘を差し出すために・・ひとり旅をしてやってきたのだ。ボルドラはレイラをさらう代わりに、彼女に、自分自身の足で、この国にやって来るようにと告げたのだ。一歩一歩、死に近づく旅を、たったひとりで通り抜けてから来いと・・彼らはそう言い渡していった。
“だっていうのにいよいよあの人も欲深い。”
浅ましいって言うのよね、と妙に落ち着いた気持ちでレイラは思った。彼女の姿を改めて見たボルドラ国王は、その身体が冷たくなってしまう前に、一度味わっておくことを思い付いたようだった。
“・・結局、こうなる。”
レイラはその日何度目かのため息をついた。どうしてこんなことにばかり巻き込まれてしまうのだろう。どうしてそんなことを、男は求めてばかり来るのだろう。今までさんざん逃げて、逃げおおせてきたのに、最後の最後でだめだったわね。今度ばかりはたとえ簡単に逃げられたとしても、逃げるわけにさえいかないわ・・。
まあ、もう、いいのだ何でも。明日にはお別れする身体だもの。
“リュート・・。”
わたしのリュート。ケイル様にセイラ。彼らは今頃どこをどうして旅しているのだろう。お願いだから無事に塔に着いてね。お願いだから、しあわせでいてね。
“この同じ月の下の・・。”
と、そこまでレイラが思った時、何やら騒々しい人の声が聞こえた。それはけっこう遠くから聞こえてきているようではあったが、あたりの静けさのせいかレイラの耳にもよく届いた。あら?なんだかこの声知っているような気がするわ。何だったかしら。誰だったかしら・・。
「あのひと!」
はっとレイラはその声の主に思い当たった。そうだあれはジュンナ王の声、少なくともとてもよく似ている。あのひとがこんなところにいるかしら?でもあのひととニテアで会ったってリュートが言ってたからまんざらないとは・・。
レイラは椅子にかけてあったガウンを掴んで羽織って着ると庭に飛び出し、突っ切って庭のはじの小さな戸から外に出て行こうとした。その戸には簡単な錠前がひとつついていたが、その鍵は戸のそばに打ち付けられてぶらさがっていたため、彼女はさっさと錠前を外して戸を大きく押し広げた。戸のむこうはがらんと何もない、草もない空き地が大きく広がっている。ここは当然のことながら城の敷地内で、レイラから見て左手の塀の中は庭園とたくさんある食堂のいくつかが、右手には政治を行う棟が並び、丁度正面はなんだかとても暗い建物さらにちょっとおどろおどろしい塔。あちらは確か、囚人やら何やらの収容をしていると言っていたけど・・。
目の前のこのなんにもない剥き出しの地面はあるいは閲兵式会場となりあるいは闘技場となり、芸人を呼んでは芸をさせたり、どうかすると処刑場としても使っているらしい。問題の声は正面の、牢の棟から聞こえてきているようだった。そちらに行こうとするレイラに、部屋に詰めていた女官が数人駆け寄ってくる。
「お出になってはなりません。」
「お戻り下さい。」
「今日一日は何でもわたしの自由になるはずです。何ならあなた方ついていらっしゃい!」
彼女たちの制止を振りきり、レイラは空き地の白っぽい土の上を走り出した。女官たちはちょっとの間互いに顔を見合わせていたが、すぐにレイラのあとを追って、ばらばらと広場の中に走りこんでいった。ずいぶんレイラよりは足が遅い。
牢の棟の塀は網状になっていて中が透けて見えていた。その一部が扉になっているのを見つけたレイラはそこにとりついたが、やはりというかそこには鍵がかけられていた。彼女はそこで、ぽんと小さくなるとふわりと塀を飛んで越え、あちらについてからまた人間の大きさに戻った。レイラの後ろについてきていた女官たちはさすがにその真似はできずに塀のむこうで右往左往していたが、そのうち二人がそこを離れていづこへかまた走り去っていった。
牢の棟に入ったレイラは、くすんだ背の低い建物の間を走り抜けて、その後ろ側へと進んでいった。さっきからずっと、人の争う物音がそちらの方から続いている。
角を曲がると、そこには小さな空き地が開けていた。月の光と、あちらに焚かれたわずかな篝火に照らされたその真ん中で、一人の男が数人の男によってたかって暴行を受けている。
「・・おうさ・・ジュンナ様!」
ここで彼の素性を言っていいものかと配慮したレイラは、敢えてジュンナを名前で呼んだ。そしてまっすぐにその騒動の中に割って入ると、細い腕で男たちを掻き分けて、ジュンナを庇うように彼の肩に手をかけその場にうずくまった。
「何だおまえ・・あっ。」
ジュンナを取り囲んでいた兵士たちはレイラに気付いて二、三歩下がった。今夜一晩はレイラは国王の第一の愛妾であり、どんな言葉も尊重するように厳命されている。まして間違って彼女に少しのキズでもつけようものなら、そのあとどんな刑罰が待っているかわからない。
自分に触れるやさしい手の感触に、ジュンナはふとその顔を上げた。
「え・・あ・・これは我が姫、今日もきれいだねえ。ところでどうしてまたこんなところに。」
「ジュンナ様こそ。」
「いや一寸スパイ行為を働いていたらうっかりドジを踏んで捕まってしまったのだ。」
「スパイ行為って・・。」
血と殴られたあとですこし汚れているジュンナの顔を見て、レイラは何だか泣きたくなった。なんだってまた、国王陛下ともあろうものがスパイ行為なんか好き好んでやるのか。それでも、そんな目に遭っているというのにジュンナの顔は相変わらず人を喰ったように余裕たっぷりで小憎らしくって、それだけはちょっとレイラをほっとさせた。
「お離れ下さいレイラ様。」
そう言った声に彼女がそちらを見ると、昼間ボルドラ王のそばに控えていた、一の大臣と呼ばれていた男がそこに立っているのが目に入った。レイラは立ち上がり、服をちょっと直してその男と正面から向かい合った。
「確かにあなたのお望みは全てお伺いすることになってはおります。しかし陛下以外の特に男と、親しくなさることはお控えいただかなくてはなりません。」
「この方はわたくしのお友だちですわ。」
さすがにちょっと語弊があるかな、と思いながらレイラはそう言い放った。
「この方をどうなさいますの。」
「囚人の分際で余計な口を叩くので制裁を加えていたまでです。この者は許し難い大罪人、近日中には処刑がとり行われることでしょうな。」
「処刑・・。」
レイラはきつくくちびるを噛んだ。
「この方の身柄をわたくしにいただけませんこと?わたくしの欲しいものは何でもいただけるとお昼間に陛下から伺いましたわ。」
「その通りです。しかし先程も申し上げましたとおり、陛下以外の男性をご所望というお望みだけはお聞きすることはできません。」
「わたくしそんなつもりで申し上げているのではありませんわ。」
「それでもです。」
レイラは視線を落とし、もう一度口の中でくちびるを噛んだ。まあそう言われればそうなのかもしれない。何と言っても今のわたしの立場は・・。
「では・・ではせめて」
彼女は顔を上げると真剣な眼差しを再度一の大臣に向けた。
「乱暴をするのをやめて下さい。そして傷の手当てをして、それから、もっとまともな部屋に行かせてあげて下さい。怪我をしたままこんなところに居ては、傷口にばい菌が入ってしまいますわ。」
レイラは空き地のぐるりを取り囲んでいる、いかにも暗い、薄汚れた、動物の檻のような牢を見遣ってそう言った。そのうちのひとつ扉が大きく開け放たれている。先ほどまでジュンナはその中に放り込まれていたに違いない。他の檻はすべて今のところからっぽで、月の光がそれらの中に斜めに差し込み、その床にものさびしいストライプの影を落とし込んでいた。
「しかしこやつは・・。」
「それ位はお聞き届け下さいませ。」
大臣がちょっとの間黙っていたが、ややあって、それではそう致しましょう、とあっさりレイラに返事をした。きっとですよ、と彼女は言って、地面にあぐらをかいていたジュンナのそばにまた膝をついた。よく見ると彼の両手首は荒縄でぎっちりと身体の前で固められ、そのまわりが黒く鬱血している。
「緩めていただけます?」
自分の指でそれを解こうとして叶わず、レイラは周りの兵士にそう声をかけた。兵士は大臣の顔を伺ったが、大臣が小さくうなづくのを見ると、そのうち二人ばかりがジュンナの側に寄って短刀で一旦縄を切り裂き、新しいものを取り出すと先ほどよりはずっとましにジュンナの両手を括り上げた。
「姫は何だってまたこんなところに。」
兵士たちの作業をおとなしく座ったまま見ながらジュンナはそうレイラに言った。
「わたし・・明日には馘を刎ねられますの。」
わりと遠慮のない言い方でレイラはそう答えた。
「何だって?」
「そのためにわたし来たのですの。わたしの国はこのボルドラに征服されましたわ。それで・・忠誠の証しとして我が国はわたしの馘を差し出すことになりましたの。」
「なぜおまえの・・。」
「わたし、女王でしたから。」
ジュンナはまじまじとレイラを見た。そしてその、白い、刺繍のたくさん入ったガウン姿に改めてよくよく目を向けた。
「その服・・。」
「あ、ええ、あの、わたし・・。」
自分の服装を思い出して、レイラはすこし顔を赤らめる。
「えー・・。」
「わかったレイラ、皆まで言うな。」
ジュンナはえらく真面目な口調でそう言った。
「このこと・・リュートには?・・言っているわけはないな。」
「ええ、あの子は知りませんわ。知ってほしくありませんでしたの。」
「そうか・・判る気もするがなんてことを・・。しかしな、しかしレイラ。」
再度縛られ不自由になった両手でジュンナはレイラの右手を握った。彼の切れ長の美しい目がまともにレイラの瞳を見つめる。
「あいつを・・リュートを信じろ。あいつは必ず来る。必ずおまえを助けに来る。」
「ジュンナ様。」
「あいつはそういう奴だ・・おまえの方がよく知っているよな。」
「ええ・・ええジュンナ様。」
レイラは鼻の奥がちょっとつんとするのを感じながら困ったように笑って言った。どうしてあの子に、こんなこと知るよすががあるだろう。それにたとえ助けに来てもらったとしても、わたしはもうここから逃げることはできないのだ。
わたし、覚悟はできていますのよ・・。
“レイラ!”
でも、それでも。今にもリュートの声が聞こえてきそう。
“レイラ!”
本当に、ジュンナの言葉そのとおり、リュートがあの空から降りて来そう。
こんなこと知られたらわたしあの子に、それはもうたっぷり怒られてしまいますわね・・。
塀のカギだろう、それを手にした女官たちがとうとうレイラに追い付いてこの広場に四人ほどやってきた。レイラは彼女たちに促され、のろのろと立ち上がるとこの暗い広場をあとにしかけた。最後にもう一度彼女が振り向くと、ジュンナは相変わらず地面に座ったまま、彼女に一回大きくうなづいて返した。
“リュートを・・信じろ。”
レイラは一の大臣の方にあらためて向くと、それではよろしくお願いいたします、と言ってきれいにお辞儀をした。それから女官たちに付き添われ、しずしずとまたあの白く乾いた空き地を進んだ。その日の月が起こしたようなやさしい風が、レイラのほほと髪とガウンの裾を撫でて過ぎた。
あのひとには迎えが来るだろうか。そうであってほしい。前に見た、あの参謀風の男のひとが、さらにリュートから聞いた六人のボディガードが、きっと来る。きっと来てくれる。
わたしには・・。
レイラは空をすこし仰いだ。リュート・・来てはだめ。来てはだめよ、ね。
“あいつを信じろ・・。”
それでもジュンナのその言葉が何度も何度も繰り返されレイラの耳から離れようとしなかった。
レイラはそっと、誰にも気付かれないように、目頭にたまった涙を拭いた。
銀に輝く月の下、この同じ月の下に・・みんなが・・。
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“うーん。”
リュートは、何だか無気味にそびえる高い塔の屋根の上に座り込んで、自分の不明さを呪っていた。シンムと別れ一旦は白い、王族の私空間の方に忍び込んだ彼女だったが、そこで見張りの兵士たちが、牢屋棟の高い塔のてっぺんに閉じ込められている美しい女の話をしていたのを聞き付けて場所を移動し、件の塔にどうにかよじ登ってみたところだった。
しかし窓から見えたその女は、確かに大変美しかったがレイラとは別人で、全くこの急ぐのに大した遠回りをしたもんだと軽く落ち込んでしまったリュートだった。が、全くもって今は急ぐので、落ち込んでいるヒマはひとつもない、と思い直し、彼女はまた勇ましく立ち上がった。
“やっぱりあっちの白い棟の方なんだ。”
まさかこの牢屋棟に、普通に閉じ込められていたりはしないよね?
塔の美女のことも気になったが、どういう謂われでここにいるのかよくわからない以上勝手に外に出すわけにもいかない。次第に寄ってはあとで迎えに来ることもあるかな、とリュートが考えていた時、急に足下の牢屋棟の中で、何やら大騒ぎが起こり始めたようだった。
何だろう。シンム殿たちかな。
よしついでだ、と思い立ち、リュートは、手持ちのロープをそこらに固定して下に垂らすと、それをつたってするすると、あっと言う間に地面に足を着けてしまった。様子をちょっと覗いてみよう。あるいはまたも見込み違いで、レイラがほんとはあそこ、あの牢屋棟にいるなんてことも全くないとは限らないのだ。
騒ぎが起きているのは三つある牢屋棟のうち、ひとつだけある二階建ての、二階部分のようだった。リュートは目立たないように、塔を登った時と同じ要領で、両手に太いカギ付きの手袋を嵌め、それで無理矢理煉瓦造りの建物の壁に足場を作ってそこを登っていった。大変器用に全身を使い、リュートは苦もなくその壁をすぐに登り詰め、二階の窓のひとつのわきに辿り着く。外に張り出した窓枠にあっさり乗って手袋を外しながら明るい内部を覗き込むと、窓からすぐは横に長い廊下になっており、廊下に面して味も素っ気もないドアが、いくつかずらずらと芸もなく並んでいるのが見てとれた。どのドアにも不釣り合いなほど大仰なカギがついているところがなるほどいかにも牢屋らしかった。ちょっと小ぎれいで清潔感だけはあったが至極殺風景で寒々としている。ドアとドアの間のいくつかや廊下の両の突き当たりにはまだ他の廊下が繋がっているようで、とするとこのフロアには、けっこう
部屋数があるのかもしれない。
そこの廊下ではやはりリュートの思った通り、大立ち回りが演じられていた。わらわらといる兵士ども、それを黒服のなかなか粋なお侠さんがたが三人で派手に相手をしている。数の点ではかなりの劣勢だが、それでもさして戦い方に遜色はない。そしてひときわ偉そうな年輩の男とあのシンムがあちらの方でこれまた派手に一騎討ちをやっていた。へえあいつシンム殿と五分に張っている、なかなかやるのもいるじゃないか・・って何でわたしシンム殿は手練れだなんて思っているのだろう?
そこまで見て、リュートは再度、窓枠から下に降りようとした。彼らがこうまでなだれこんでいるところを見ると、どうやらジュンナが捕まっているのはこの棟なのだろう。彼らならば上手くジュンナを助け出すだろう・・わたしは早いとこレイラを見つけ出さないと。
この棟にレイラがいるかどうかもっと確かめようかとも思ったが、もし彼女がいればシンムが必ず放ってはおくまい。それよりわたしはやっぱりあちらの白い建物の方へ行こう。どうしてもどうしてもあれが気になって仕方がない。何だかとても胸騒ぎがして・・。
「!?」
しかし、そこでリュートは動きを止め、もう一度窓の向こうを覗き込んだ。何かの聞き違いのような単語が聞こえた・・合体がどうの変身がどうのって・・何だ?
“わっ!”
伺い見た窓の向こうは、わずかの間にずいぶんその様子を変えていた。ランナン国の精鋭親衛隊はいつの間にやらみどりの肌をした異形の生き物と刃を交え、向こうの方にはそれが巨大化したとしか思えない、えらく場所を塞ぐ巨人が一人、大暴れしていた。斬り付けた刀を巨人の肌がキズひとつ負わずに弾き、黒服のランナン部隊の顔が一様に固く強張る。
“あれが変身と合体か。”
リュートはごくりとつばを呑み込んだ。人間ならざるものとの戦い、彼らはどのくらい経験しているのだろうか?
そこで一瞬リュートは逡巡した。わたしはとても急ぐ身だ。ここはやっぱり彼らを信じて、レイラを探しに行くのが先決ではないか。しかし目の前の戦い、シンムたちランナン側が一気に不利に置かれてしまったようであることも確かな事実である。加勢に入るか。それとも。それとも・・。
“!”
その時、シンムの左の二の腕を、相手の刀がざっくりと斬り裂いた。ぬらりと光った彼の血を見て、リュートの背中がひやりと冷えた。シンムと斬り合っていた幾分偉そうなボルドラの男は、形はあまり変化していなかったが今はその肌を全身緑色に変え、その目が先程よりひどくぎょろりとしたように見えていた。これが本来のかたちなのかもしれない。その分奴は強くなったのか?もしや多少は妖しの術でも使っているのか?
“もう・・。”
シンムの額のじっとりとした汗を見たリュートは、その瞬間に心を決めていた。
がちゃんと大きな音をたてて窓を破り、リュートは問題の廊下に踊り込んだ。そこにいた全員が敵味方の別なく驚いて注視する中、彼女は自慢の棒に刃を付け、それを見事に振り回してボルドラ兵たちに襲いかかった。兵士だろうが巨人だろうがお構いなしに、彼女と彼女の棒は嵐のように、うざうざといた緑色の兵士たちをなぎ倒し打ち倒し屠っていった。
「ここは任せろ!シンム殿をお助けするのだ!」
リュートはそこにいた三人のランナン軍人にそう怒鳴った。三人ははっとしてシンムの方を見ると、彼と対峙していた緑の肌の怪人にわらわらと走り寄り、彼をとり囲んで身構えた。リュートはまだまだわいて出るボルドラ兵を緩めることのない勢いでうち伏せていくと、フロアの奥へと廊下を辿り、ずんずんわけ入りながら大きな声で呼ばわった。頭の後ろのほうで、階下から登ってくる三人ほどの足音が聞こえる。おそらくランナン精鋭部隊の分派、別働隊がやってきたのだろう。
「ジュンナ!ジュンナはいるか!」
懲りずにかかって来る兵士を彼女は、飛んで来る木の葉でも払うように退け退け、並ぶ扉を見遣りながら歩みも乱さずに進んで行った。
「ジュンナ!どこだ!」
「・・リュート!」
すると、ひとつの扉の向こうから、妙に聞き覚えのあるあの声が彼女の名前を呼んだ。
「ジュンナ!」
そうか、奴はこのむこうか。
「ジュンナ!退がってろ!」
リュートは例の棒を頭上高くに構えると、それをひといきに打ち降ろして頑丈そうな扉の鍵を一撃で壊してしまった。
「ジュンナ!」
リュートが扉を開くとその目の前に、両手首を荒縄で縛り付けられたジュンナが、例によってなんだか気取って立っていた。彼女が一歩彼に近付くと、その時はらりとジュンナの手首の縄がほどけて、床にそのまま流れるように落ちてしまった。
「おおさすがはわが妃。助けに来たのか、大儀であったな。」
「ばか言え、おまえのために来たのではない。シンム殿のためだ、あの方に感謝しろ。そもそも縄抜けが出来るようならさっさと自力で出てこないか、手のかかる。」
「シンム?何だ、おまえああいうのが趣味だったのか?よせよせあのテの男はあれでひそかに好き者で・・」
「おまえよりマシだ!とっとと行くぞ!」
リュートは部屋から飛び出そうとしたが、その肩をふとジュンナが掴んだ。怪訝そうにリュートが振り向くと、そこには普段とうって変わって、やけに真剣なジュンナの顔が彼女を見ていた。
「リュート、おまえは急げ。ここはわたし達がやる。レイラが・・。」
「・・レイラが?」
そこでリュートの顔がすっと強張った。
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・・暑いわ。
部屋の灯りは先程よりは落とされているが、それでも充分明るいままだった。向こうの庭への口は閉じられて、今は金刺繍のカーテンが引かれている。
とても暑くて、それで苦しい。こういうのも暑苦しいって言うのかしら。そうね、今のわたしの周りはまさにそう。
ドレスの袖の中にまだ腕はあったが衣服の前はほとんどがはだけられている。むき出しの白い胸に乗せられたやはり生身の男の胸が、妙にねっとりと感じられる。重たいわ・・。
彼女と似たように半ば夜着を引っ掛けた姿でボルドラ王はレイラの上に被いかぶさっていた。何が起きているのか何だかよくわからない。ただひたすら暑いだけ・・あと、重くて胸が苦しい。
何も考えないように、何も感じないように、レイラは自らの神経に命じていた。いやだ、なんて思ったって今は仕方ないのですもの。歯を食いしばって耐えるとか、涙をこらえるとか、そういうこともしたくはなくて・・。ただぼんやり、抜け殻みたいになってここにいるだけ。でも・・とても暑い。
“リュート。”
その名がふと浮かんで、レイラは慌てて忘れようとした。だめよそんなの、思い出したら泣けてきちゃう。
全てを忘れて。遠くに飛ばして。わたしはここにいない。いない。いない。いない・・。
しかし。
突然その場の空気をうち破るように、無遠慮な大きな音が響いた。ボルドラ王は驚いたように身体を起こして頭を上げ、振り向いた。そしてレイラがはっと我に帰った時、張りのあるやわらかい音の、しかし鋭い声が彼女の耳に飛びこんで来た。
「レイラ、動くなっ!」
びゅん、と音がして、何かがこちらに飛んで来た。ボルドラ王がさっと頭を動かしよけたその何かは、ぐさりと寝台の頭部に刺さり、少し揺れた。ボルドラ王の頭を正確に狙って飛んで来たそれは、間違いなくあの、なつかしいリュートの棒・・。
「リュート!」
レイラはほとんど反射的にささった棒を引き抜くと、寝台から飛び出してその人影の方に駆け出した。
窓を破って飛び込んで来たその影は部屋の灯りに斜めに照らされながら、これ以上はないという位険しい顔をして、ほとんど仁王立ちになり寝台の上を見ていた。そうしているのは、ふんわり縮れた黒くて長い髪、つるつるの頬に艶のあるくちびる、睫の下の黒い目は、いつもまっすぐで強くてとてもやさしくて、けれど時々、風に吹かれた水面のように波打って迷ってしまうこともある・・そんなあなたが・・そんなあなたが・・
「リュート!」
「レイラ!」
レイラは服を乱したままリュートの胸に飛び込んだ。リュートはそれを受け止めるとレイラの肩に手を置いて、彼女の顔をのぞきこんだ。
「レイラ・・レイラきみ・・。」
「え?あ・・あの・・大丈夫よ、えーっとまだ・・。」
「まだ・・。」
レイラは頬を染めてそこまで言い、同じくリュートも少し顔を赤らめて諒解した。しかしすぐにそんな照れは吹き飛んで、リュートは突き刺すような視線をむこうに投げながらレイラの前に立ち、彼女に背中で言った。
「レイラ、上着を着て、そこにかかっている奴。・・それからわたしの後ろからけして離れないで。」
「ええ、リュート。」
レイラは手にしたリュートの棒を後ろから彼女に渡すと、夜着の前を手早く直し、小走りに行ってガウンをひっ掴むとすぐにリュートの後ろに戻った。リュートは寝台から出て着衣を直したあのボルドラ王と、ま正面からきびしく睨みあっていた。
「レイラは返してもらう。」
リュートが胸に響くような美しい声できっぱりとそう言った。
「・・何だおまえは?」
「おまえになど名乗らぬ。」
「ふむ、生意気な女だな。おまえ如きの出番ではない、ひとりで何に逆らっているつもりだ?わたしはボルドラの国王であるぞ。」
「それがどうした、そんなことは先刻承知だ。そんなものに何の価値がある、おまえはただのうす汚れたくず男だ。おまえこそ身の程でも知るがよい。」
「言わせておけば・・!」
「ふん、一人前に怒りおって。とにかくレイラはもらう、貴様はすっこんでいろ。よくもレイラに触れたな、汚らわしい。」
「この女を連れて行く?おまえ何も知らずにそのようなことを・・。そんなことになれば何が起こるか。軽はずみなことを言うと取り返しのつかぬ事態になるぞ、これは国同士の問題なのだ。」
「そんなことも先刻承知だ。何が国だ、レイラをひとり差し出して自分たちだけ助かろうとした、百合の谷など滅びればよい、わたしは知らぬ。」
「・・リュート!」
「貴様本気か?」
「本気も本気、人身御供など認められるか、ふざけるんじゃない。しかしだからと言って計算は違えないぞ。効率の悪いことはわたしは嫌いだ。それよりもっと上手い手がある。」
「上手い手?」
「ここで貴様のそっ首を掻き落とすことだ!」
そう言うとリュートは右手に彼女の棒を高々とあげてしなやかに身構えた。
「おまえとおまえの側近でも片づければ、誰ももうあの谷に手を出そうなんぞと言うまいさ。どうだ、こっちの方がずっと被害の数が少ないだろう?もとはと言えばおまえの至らない欲とやらのせいであっちもこっちも大迷惑だ。そろそろおとなしくさせるに限る。」
「貴様がわたしをだと?」
ボルドラ王はせせら笑ったが、それでも少しそこに虚勢の色が混ざっているようにレイラには見えた。
「やれるものならやってみるが良い・・わたしに辿り着けたらな!」
彼はそう言うのと同時に、部屋の扉を開け放った。すると、異変に気付いたらしい警護兵の一団が、どっとばかりにそこからなだれ込み、あるいはボルドラ王を、あるいはリュートらを取り囲んで、王を護り彼女らを捕らえようと鋭い刃先をリュートたちに向けた。
「レイラ。」
「大丈夫よリュート。」
「よし、もう一度言うが離れないで。心配はいらない、すぐに片付ける。」
「思いっきりやって頂戴、わたしのことはわたしで守れるわ。」
「頼もしいな、では行くぞっ!」
比べる以前の数の差で、リュートとボルドラ兵たちは刃を交えた。レイラはリュートの動きを見ながら、彼女の邪魔にならないようにうまく身体を動かしてリュートのそばに張り付いていた。ふと、リュートの倒した兵の刀がそばの床に落ち、レイラは急いでそれを拾って自らの両手に握りしめた。これでレイラも一応刀の扱い方の多少の教えは受けている。
「リュート!刀を手に入れたわ!」
「よしっ!」
これでまた少し、リュートも戦いに集中することができる。しかし実際として、やはりレイラを背負っている分、リュートの意識が多少散ってしまっていることは否めなかった。小さくなってもらって肩にでも止まってもらえればいいのかもしれないが、彼女が自らそうしないところを見ると、レイラとてこの場から自分だけ隠れる気にもならないのだろう。加勢をする気になってくれているのだ、ここはその心意気までサポートせざるを得まいさ。
若干の制限をものともせず圧倒的な強さをみせ、あるいは攻めあるいは守り、あるいはレイラに及ぶ手を振り払って果敢に戦っていたリュートの耳に、ふとレイラのあっと息を呑む声が聞こえた。彼女の息が少し遠ざかる。
“しまった・・!?”
レイラを取られたか、と振り向いたリュートの目にしかし映ったのは、予想とは違う光景だった。そこには、今は何故かとても懐かしく見える、二人の男の姿があった。彼らはレイラを挟んで颯爽と立つと大変戦い慣れた様子で、いつか見たあの不思議な構えをもってボルドラ兵士たちと向き合っていた。片方は素手だがもう片方は右手に刀を持っている。
「ジュンナ!シンム殿!」
「よお、待たせたなわが妻よ。こちらの妻は我々に任せろ。心おきなくひと暴れするが良いぞ。」
「リュート様、助太刀致します。」
「有難い。シンム殿、ジュンナ、レイラを頼んだぞ!」
リュートは頭上高くで彼女の獲物をぶんぶん回すと、一気にボルドラ兵らの中にすごい勢いで突っ込んで行った。そのまま彼女は疲れひとつ見せず、鬼神もかくやと思わせる激しさで、部屋に満ちた兵士どもをまたも次々となぎ倒していく。
とうとうリュートは、まわりを若干のボルドラ兵に囲ませながら、あのボルドラ王と再度正面から対峙した。
「よく逃げ出さなかったな、ほめてやろう。」
リュートがそう言うとボルドラ王は怒りでまっ赤になった顔にぎらつく目で、リュートを噛み付きそうに睨み付けた。
「貴様・・。」
「何が不満か知らないがその顔はよせ。成仏できないぞ。」
「たわけたことをぬかすなっ!」
「まあ・・わたしとしちゃあどうでもいいか。無理とは思うが一応言っておく。観念しろ。」
「ものども、取り押さえろっ!」
王の一声と共にまわりにいた兵士たちはわあっとリュートに襲いかかった、が、すでにその人数で彼女にかないそうもないことは明らかだった。リュートは大してひまもかけずに彼らを床に転がすと、余勢を駆って一気に棒の刃を振り上げ、ボルドラ王の首に狙いを定めた。
正直、何者かの首を落とすのは、さすがのリュートにも初めてのことだった。今まで倒した魔物はすべて消えて魔界に戻っていくだけのことだったし、人間も何かの精も、動けないほどにまで傷つけ打ち据えはしても、直接息の根まで止めたことは未だなかった。人間でも魔物でも精でも、首を刎ねれば間違いなくその者は事切れる。こんな奴の血でわたしはわたしの手を汚すのか・・。
“いいだろう!”
しかしリュートはだからといってもう振り上げた刃を下ろす気にはならなかった。この者の罪、万死に価する。レイラと、レイラが守ろうとした百合の谷を守るために、わたしはここで敢えて修羅となるのも良いさ。
戦い続けていくのであれば、どうせいずれは通る道だ・・。
“覚悟っ!”
「・・お待ち下さい、リュートさん。」
あまりにも清々しい声がその喧騒の部屋にきっぱりと響いた。
リュートを始め一同は思わず手を止め声の方を見遣った。それはどうやらこの部屋の入り口の方から聞こえており、開けっ放しになったその戸口からすぐに、さらさらの長いまっすぐな金の髪の少年と、彼につき従う背の高い黒い髪の青年の姿が皆の前に現れ出てきた。
「ケイル様・・。」
「ケイル様!」
リュートが妙に思ったことに、ケイルを見たレイラの様子はすでに只事ではなかった。どうしたことだと見守るリュートの前で、レイラは両手を胸の前で握りあわせ、ひどく心配そうな顔でケイルの方を見つめていた。一体何だって言うんだろう。そしてケイル様もセイラもどうやってこんなところにまで入りこんで来られたと言うのだろう?
「ボルドラ国王陛下、初めてお目にかかります。夜分とは申しますがわたくしの連れの方々をお迎えに参りました。ご無礼のほど、お許し下さいませ。」
「おまえの連れ・・?」
「はい。わたくしの大切なお嬢様方、そちらのリュートさんとレイラさんでございます。」
「そなた、名は。」
「これは申し遅れました。わたくしは旅の修道者でケイルと申します。こちらは弟子のセイラ。故あってチェンダの都シーアの大院より参りました。」
「・・シーアのケイル!」
ボルドラ王の驚いた様子に、これまたリュートは不思議そうな目を向ける。そういえばケイル様ってけっこう有名人だったのだけど、だからって何もそこまで反応しなくてもよさそうなものだ。
そんなリュートの視線の中、ボルドラ王はレイラの方に向き直ると、ずいぶん意外そうに彼女に言った。
「ケイルと連れになっていたのか。」
「・・。」
「だと言うのにおまえが来たのか?呆れた奴だ、一体どうした考えだ。」
「・・。」
「まあよい。お誂え向きにあちらから飛び込んで来るとはな。これでわたしはどちらも一時に手に入れることになったのだ、却って都合の良いことをしてくれた。」
「・・ケイル様、お戻り下さい!」
突然レイラが叫ぶようにそう言った。
「レイラ?」
「リュートわたしはいいわ、早くケイル様をお連れしてここを出て頂戴。皆様も早くケイル様を・・ここにいらしてはいけなかったのよ!」
「レイラ一体・・。」
「このひとはケイル様を欲しがっているの!」
「欲しがっている?」
「そうよ、ケイル様にはとてつもないパワーが宿っているの・・シーアの大院で秘蹟の石にお触れになったからよ。このひとはそれを使って覇権を握ろうとしているわ。ケイル様を捕まえて・・意識を奪って、身体にあるパワーだけを引き出そうとしているのよ。」
「何だって?」
「わたし言われていたの・・半分はわたしをいたぶったつもりなんだろうけど、旅の途中でケイルという修道者に会えでもしてこのボルドラに連れて来ることができれば生命は助けてやってもいいって。その時点では多分あなたはケイル様とまだ会ってなかったし、もし会っていたとしてもわたしとあなたが幼馴染みだってこともこのひとは知らないから、本気であてにしていたわけではなくて、ほんの偶然にわたしが必死に望みをかけるように、あるいは許された時間の中でケイル様を探し回るように、そして・・多分見つからなくてまた絶望を味わうだろうって考えて、ただそんなことを言ってみただけなんだろうと思う。
わたしはしばらくの猶予をもらってあとをきれいにして、そして旅を始めてから、あなたとケイル様が一緒に旅をしているってたまたま聞いたの。だから・・だからあそこであなたたちを待って・・待っていたのよ、リュート。わたし、死んでしまう前にもう一度あなたに会いたいって思ってたのも本当だった。最後はあなたと歩いて過ごしたいってそう思ったのも本当だた。でも心のどこかできっと・・きっともしかしたら助かるかもって思ってたのも・・本当だった・・ええきっと・・。」
「レイラ。」
「そうなのよ、わたし・・わたしケイル様を・・。」
「でもきみはそうしなかった。」
「そうよ!だってそんなこと・・できるわけないじゃない・・。」
レイラは顔を朱に染め、リュートの顔を濡れた瞳で見つめて言った。
「できるわけないわ・・リュート・・。」
「レイラ・・。」
まだまだ大勢の人がいるというのに、その場はとてもしん、としてしまった。しかしその静寂を、ボルドラ王の怒鳴る声が無遠慮に破って捨てた。
「おまえたち、何をしている!早くこの者たちを捕らえ・・」
「動くなっ!」
その彼の声をリュートの高らかな声が遮った。
「おまえらケイル様やレイラに指一本触れてみろ、即刻その首刎ね飛ばしてくれる。脅しじゃないぞ。そこの貴様もいい加減黙れ。ケイル様もレイラもおまえなどには渡さない。」
「どうしたおまえたち、早くかかれ!」
「死にたい奴だけ動けよっ!」
「・・まあまあおふたりとも。」
その場に大変不釣り合いな穏やかさで、リュートとボルドラ王の間に入ったのは、かのケイルだった。ケイルは相変わらずの礼儀正しさで愛想よくボルドラ王の前に立つと、いつもの笑顔で彼に言った。
「わたくしの力がお入り用ですか。」
「差し出そうというのか?」
「ええ、どうぞお使い下さい、お役に立つかもしれません。ただ・・お使いになれるようでしたら。」
「力の取り出し方なら心得ておる。」
「そうですか、それは何よりです。そういうことならいつでもお持ち下さいませ、レイラさんのためですから・・すぐになさいますか?」
「・・。」
とんでもないことを言っていると思われたが何故かリュートはケイルのやろうとしていることを、止めようという気にならなかった。ただ彼女としては、何だかまるで違った意味で、ケイルの言動に妙な不安を覚えないこともなかった・・このひとは一体どういう腹づもりなのだろう。何だか恐ろしいことをなさろうとしているような気が・・。
あっと小さくレイラの声がした。
にこにこ笑ってボルドラ王を見上げているケイルの身体がじわじわとたまご色の光を放ち始め、それはだんだんと強さを増して、やがてまぶしいばかりの輝きになってきた。ボルドラ王は見入られたようにケイルの顔を見つめたままぴくりともせず、ケイルから放たれる、色のある光にただその面を照らさせていた。
突然、その王の目が、両方ともいっぱいに見開かれた。
「あ・・。」
彼の顔の筋肉は引き攣ったように突っ張り、くちびるが不自然に歪み始めた。その目が底なしの恐怖の色に染まり彼はどうやらそこから逃げようとしていると見えたが、実際動かせているのはかすかにその、両の手の指先だけのようだった。
「や・・。」
辛うじて絞り出した声が何かの音のように響く。
「や・・め・・」
「さあどうぞ。」
ケイルは邪気なくさらににっこりと笑って言った。
「お受け取り下さいな。・・持てますか?」
「やめろおおっ!」
ボルドラ王の最後の絶叫があたりにこだました。その直後、彼の身体は全くあり得ない風にぐにゃりと伸びて、いきなり千切れるとそのままさあっと空に消えた。リュートは顔を蒼白にして、レイラは口元を両手で被って、しばらくは言葉を出す気にもならなかった。それはそこに居合わせた全ての者がそうだったようで、あたりは全くしんとしたまま、心底冷たいおそろしさ、というものが低く足元に積もってしまったような、痺れるような空気がただただそこを支配していた。
そんな中、ただひとり相変わらずにこやかなケイルが今度はジュンナの前に立ち、彼を見上げた。
「・・あなたもわたしが欲しかったのでしょう?」
ずいぶん親し気にケイルは言った。
「受け取ってみますか?今ここで。」
「・・そうだな。」
「陛下!」
ジュンナの返事に、シンムの咎めるような声が飛んだ。
「なりません、陛下。」
「構わぬ。わたしがこの者の力を手に入れようとしているのは本当のことだ。受け止められもせぬものを使うことなどできぬ。さあ放つがよい。わたしを試すのだろう。」
「ただの実験ですよ。」
ジュンナはよくするうす笑いを浮かべてケイルの顔をまともに見下ろしたが、内心はかなり穏やかでないのがリュートとレイラにはわかっていた。あいつ、やせ我慢などしやがって・・。
「さあ・・いつでも良いぞ。」
「陛下!」
「よいのだシンム。おまえは見ておれ。」
ジュンナは彼の前に立ちふさがろうとしかけるシンムを片手で制した。
「おまえの主人に自信を持てよ、シンム。わたしは大丈夫。必ず無事でいられる。」
「陛下・・。」
「さあ・・来るがよい。」
ケイルはまたにっこりして小首を傾げた。
この幼い修道者の身体から、再度黄味がかった光が放たれた。はじめはじんわりと、徐々に強く、やがて光はとどまることを知らぬほど強くなり、すでにボルドラ王が耐えきれなかった時点を通り過ぎた。それでもますます光は強さを増していく。熱いのではと思えるほど照らされたジュンナの額に、したたるほどの汗が溜まっていた。ジュンナは相変わらず人を食ったように微笑んでいた・・ケイルの目が一瞬、ほんの一瞬、厳しく尖り、しかしその色はすぐに消えた。
一同が固唾を呑んで見守る中、ケイルの身体から発せられていた光がふと弱まった。と、それはするするとケイルの中に戻っていくかのように、引いて引いて、とうとう消えた。ジュンナがふうっと息をつき、見ていたものたちもつられて肩の力を抜いた。
「結構です。」
お澄ましをしてケイルはそう言った。
「・・塔でお待ちいたしております、ジュンナ様。」
「“塔”で?」
ジュンナは額の汗を手の甲でぬぐってつぶやいた。
「それは“石造りの塔”のことか?」
「ええそうです。」
ケイルはそれまで言うと、今度は、いつの間にかこの部屋に来ていた“一の大臣”の方に向き直った。
「さて・・ではそろそろおいとま致しましょう。夜分にすっかりお邪魔いたしました。」
「いや・・。」
「それではこれで。ああそう、“百合の谷”にはもうお近づきにならない方がよいかと存じます。いかがでしょうか。」
「仰せのとおりに・・。」
「よろしゅうございました。」
そう言うと、ケイルはリュートとレイラの方を見遣っていつものように愛らしく笑った。
「さ、参りましょう。ずいぶん遅くなってしまいましたね。」
「ケイル様。」
「ケイル様・・。」
ケイルはふたりにちょっとうなづいて見せると、にこやかなままでセイラに軽く合図をし、このやたらきらびやかな部屋をあとにした。セイラはそれにすぐに従い、リュートとレイラは顔を見合わせると、駆け足になって彼らのあとを追い部屋を出た。
「陛下。」
シンムがジュンナのすぐそばに寄り声をかけた。ジュンナはまだ汗の残る顔の、瞳をケイルたちの消えた戸口に向けたままで
「・・わたしたちも参ろうか。」
と少しだけ疲れたような声で言った。
「あの六人はどうした。」
「表に待機させております。」
「よかろう。」
ジュンナとシンムは相次いで部屋を出、廊下を進んだが、ケイルたちがそうであったように、彼らの行く手もまた、邪魔だてしようとする者はもう誰一人いなかった。
「陛下・・ご無事なのですか。」
悠々と、出口とおぼしき方角へ進みながら、シンムは半歩うしろからジュンナにそう声をかけた。
「ああ見てのとおりだ。まあ・・正直冷や汗はかいたがな。」
「ではあの方は陛下をお認めに・・。」
「どうかな。いいとこ一次審査は通過ってとこだろう。最低ラインは突破できたようだがすっかり合格とお墨付きはいただけなかったな。あのまま続けていればあの修道者、わたしも塵みたいに崩してしまうこともできたろう。ぎりぎりのところで勘弁してもらえたってわけさ。」
「あの方が陛下を。」
「ああ・・それもこれもあの可愛い妃たちのおかげだ。やはり持つべきものは良い妻だねえ。あのふたりがわたしの心配をしてくれていたから、あの空恐ろしい修道者も、途中で手加減してくれたってわけさ。あの子、あんなかわいらしい顔してやっぱりなかなか厳しいねえ。頭いい奴って時々ああだよな。」
「“塔”がどうとかおっしゃっていたようですが。」
「ああ“塔”な。あれもよくわからん。わたしを“塔”に連れていってどうする気なのか・・しかしまあおまえも来ていいよというお許しだけは出たってことだな。」
ジュンナとシンムは堂々とした広いファサードからほとんど並んで踏み出し、白い石で出来た大きな階段を一歩一歩下り始めた。
「いかがいたしましょう。」
「うん?」
「“塔”の位置でございます。あの方々にお知らせするべきでしょうか?」
「うーんそうだなあ・・教えとくか。連れにはならないけど一緒に行くようなものだからな。こっちが知っているのなら向こうにも教えておいた方がペースが揃えられていいかもな。」
「ではこのあとわたくしがお知らせに行って参りましょう。」
「おお行ってくれるか。わたしも行きたいところだが何せこの顔だからな、しばらくはあんまり妃たちの前にも出たくはないものでね。いつ引くのかねこのアザってのは・・まあいいさ。よろしい、遣いを頼もう。しかしリュートにはあまり近付くなよ。」
「?」
「リュートはおまえのようなのが好きなのだとさ。まだ床もひとつにしていないのに、妃を寝取られてはどうもかなわぬからなあ。」
シンムはそれを聞いて思わず苦笑した。
門の外ではあの精鋭部隊が、きりりと立ってジュンナとシンムを出迎えた。シンムはそこで彼らと別れると、ひとり、ケイルたちのあとを追うべく城下町の西側への道を辿った。
さてその頃、彼らよりひと足先に城を出たケイルら四人は、しばらく黙って夜道を宿へと歩いていた。
先頭をケイルがいつものように楽し気にすいすい歩き、そのうしろからセイラがつき従う。彼らのうしろに肩を並べて、リュートとレイラが歩みを進めた。そのうちふと、ケイルがふり返って、リュートとレイラの方に声をかけた。
「レイラさん、大丈夫ですか。少し早くないですか。リュートさんもお疲れでしょう。」
「はい・・はい平気です。あの、ケイル様。」
「何でしょう、レイラさん?」
「あの、わたし・・。」
ケイルは取って返してレイラのすぐ傍らまで戻った。セイラは立ち止まり、レイラとケイルも、リュートも結局そこに足を止める。
「レイラさん。」
ケイルは澄んだ瞳でレイラを見上げた。
「・・はい。」
「あの・・有り難うございます。わたし、レイラさんに助けていただいていたなんて、全く気付きませんでした。すみません。」
「そんな、ケイル様。」
レイラは首を振って彼にそう答えた。
「わたしそんな・・違うんです、わたし、ケイル様を・・それで自分が助かろうと・・。」
「でも結局わたしを見逃して下さったではありませんか。」
ケイルは小さくにこっとして両手を背中で組み合わせた。
「ご自分のお命を賭けてまで・・本当に有難いことです。このご恩は一生かけてもお返ししきれませんよ・・レイラさん。」
ケイルは、つと両手を伸ばして、レイラの右手をそっと握りこんだ。そうして透けるような肌の顔をもうすこし上向きにし、レイラの顔をいっそうのぞきこむようにした。
「これからもわたしたちと一緒に来て下さいます・・よね。」
「ケイル様・・。」
「来て下さいね。」
「はい・・。」
レイラはその手をケイルに取られたまま、何度も何度もうなづいた。うなづくその目から大きな涙の粒が、ぽろぽろこぼれて彼女のほほをすべっていった。涙に詰まった震える声で、レイラはささやくように繰り返した。
「はい、ケイル様。はい・・。」
ケイルはいつものようにやさしく笑って、レイラさん、と彼女の名前を呼んでいた。
「あの年でなかなかやるもんだね、しっかり口説いてるじゃないか。おいきみ、きみの師匠はどうも末恐ろしいものだと思わないか?」
いつの間にか並んで立っていたリュートがセイラにそう軽口を叩く。セイラはそれにちょっとだけ微笑んで応えてみせると、いつもよりすこし穏やかな目をまたケイルとレイラに向けて、静かに彼らを眺め続けていた。
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