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四・小枝と王子様
正午をすこし回った位の日の光の下。例によってケイルたち一行は魔物の群れに囲まれていた。
と言って特にその日は苦戦をしたというわけでもない。ごく普通に戦い、ごく普通に撃退して、もうじきあらかた今回もカタがつくと思われた時である。
魔物のひとりが投げた槍が正面からまともにケイルを襲った。
「わ・・。」
「ケイル様!」
咄嗟にレイラがケイルを抱きかかえ、さっと脇に避けて鋭い切っ先をやりすごした。その槍はふたりの脇を通過してケイルの後ろにそびえていた固そうな岸壁に妙な角度で当たり、そこでぽきりとまっぷたつに折れた。折れた槍の片方が、さらに妙な角度で加速をつけて、むこうの方に飛んでいく。
それを見たケイルは真っ青になり、レイラは大声で悲鳴のように叫んだ。
「リュート、あぶないっ!」
「・・え?」
魔物を倒した直後でそちらに斜めに背を向けていたリュートがそれに気付いた時にはもう、乱暴に尖った折れた槍が、彼女の胴体のすぐそばまで来ていた。身を翻したリュートの正面から槍はぐっさりと彼女の身体を貫き、うしろの太い木の幹に文字どおり串刺しにして残酷に留めた。
レイラは絹を裂くような叫び声をあげ、ケイルは何度もリュートの名前を呼んだ。
セイラは今までの倍の速度で戦うと、魔物の残党を一気に片付け、リュートのそばに駆け寄った。
三人に囲まれて、リュートは胸に長い棒を突き立てられた無惨な姿で木を背にして立ち尽くしていた。
彼女の胸元は噴き出ししみ出すその血ですでにぐっしょりとぬれ始めていた。リュートのくちびるからじきに血の気が消え、彼女のただでさえ白い顔がますます白く蒼くなった。
やたら天気の良い午後だった。
空には雲ひとつなくどこまでも青く、そしてあたりには何の音も、鳥の啼く声さえ聞こえてこなかった。
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「痛い、痛い痛い、いたあいっ!」
「ほらまた動くから。そんなに騒ぐとかえって痛いわよ。」
「きみなあ、ホントに痛いんだから・・。」
「リュートさんじっとして。」
晴れわたった空にリュートの騒ぐ声が響く。件のリュートは木の幹に串刺しになったまま、何かの拍子に身動きしては痛いのなんのとわめいている。彼女が本当に痛い時にはぐっとこらえて黙ってしまうのを知っているレイラは半分からかい気味でもあったが、ケイルはすっかりおろおろして、手を固く組み合わせてリュートの顔を見上げていた。
「しかしあなたがこれでも平気だとは知らなかったわ。見て、心臓まともにじゃない。」
「どこ見て平気だなんて言ってるんだ。」
「だってちゃんと元気に生きてるじゃない、人間なら死んじゃうわよ。百合でも危ないわね、ここに精気の元があるから。」
「リュートさんホントに大丈夫なんですか。」
「動きさえしなければ特に問題はありません。でもちょっと動くと・・わ、痛っ。」
「あんまり喋らないほうがいいんじゃないの?」
しかしどうしよう、とケイル、レイラ、セイラの三人は顔を見合わせた。とりあえず槍を抜くという手が考えられたが、それはリュートがかなり痛がりそうだったし、抜いたあと傷口がぽっかり開いてしまうのがやはり心配だった。そんな大怪我、こんなところではまともな治療のひとつも望めない。
「かと言っていつまでもこのままにしておくわけにもいかないし・・。」
「せめて抜かずにこれだけ消すことができればな。」
「・・これだけ消す?」
セイラのつぶやきにレイラがはっと反応を見せた。
「そう、それよセイラ。リュートちょっとこの棒に触るわよ。」
「動かさないようにしてくれよ。」
レイラはわりと無造作に槍に触れたがしかし上手く加減はできていたようで、リュートも今度は大した痛みは訴えずにじっとしていた。
「ははあ、ナテックの木ね。じゃあ何とかなるか・・。ケイル様、セイラ、今からちょこっと遠足よ。“主の幹”を探しに行くわ。あれの粉があればこの槍、触らずに消せると思う。」
「“主の幹”?」
「ええ。ひとつの山、というようにひとつのエリアには、そこに自生する種ごとに一本づつ“主の幹”と呼ばれるものがあるのね。それの皮の粉とわたしの持ってる粉を混ぜて振り掛ければ多分この棒が消せると思う。本来はその木の皮を使って個体を増やすんだけど、その逆、つまり消すための粉だって、作ろうと思えば作れるわ。原理がわかっていればいろいろできるものよね。
見たところナテックはこのあたりに自生しているみたいだから、探せば“主の幹”は必ず見つかると思う。急いで行ってみましょう。」
「三人とも行くのですか。リュートさんをひとりお残しするのは・・。」
「ああ・・ええそうですね。ただ“主の幹”のそばには魔物が居がちなのでセイラには来てもらった方が・・。まさかケイル様おひとりここにお残しするわけには参りませんし。」
「でも動けないリュートさんをたったおひとりで置いていくこともできませんでしょう。魔物が来れば倒されてしまいます。」
「・・ケイル様、レイラやセイラとお越し下さい。」
そこでリュートが口を挟んだ。
「わたしなら大丈夫・・レイラ、結界を張っておいてくれ。半日くらいならもつだろう。ケイル様、しかしいくら結界があっても、わたしがじかにお守りできない以上ケイル様におそばにいていただくわけには参りません。ぜひレイラやセイラとご一緒に。わたしのためと思し召し下さい。」
「リュートさん、でも・・。」
「お願い致します。」
「リュートさん・・。」
リュートは最大級の笑顔をケイルに向けてうなづいて見せた。
「早く帰って来て下さいね。いつまでもこんな格好はごめんですから。」
「はい、リュートさん・・とにかく早く戻ります。」
「急いで行ってくるわ。耐えていてね。」
「頼むよレイラ。セイラもよろしくな。」
レイラはケイルとセイラに退がるように頼むと、手持ちの粉のひとつをリュートの留められている木の幹にさらさらとふりかけ自分もすこし離れた。するとリュートと木の周りを、透明の丸い壁がぐるりと囲んで日の光を小さく弾いた。
「まあ・・これでしばらくは大丈夫かな。」
レイラはそう言ってケイルとセイラを見回すと、行きましょうか、と声をかけ、そして三人は何度も何度もリュートの方を振り返りながらそれでも足早に、むこうの緑深い森の方へと消えていった。
「ふうやれやれ・・あ、痛っ。」
リュートは思わず顔をしかめた。うっかり深呼吸などしたのでまた傷口がびくりと痛んでしまった。この槍、消してもらったとして傷の方は一体どんな具合になるんだろう。
“全く不覚だったらありゃしない。”
言い訳するじゃないが、あれが殺気のこもった一投だったらいくら背を向けていてもリュートは気付くことが出来たと思う。かと言ってではこういう場合は気付かなくても許されるものかというと、けしてそんなわけはない。今回たまたま生きていられたからいいようなものの、こんなことで命でも落としてみろ、死にきれないとはこのことだ。
「あー・・。」
三人とも行ってしまった。待つのが長いのはまあいいとして、本当に三人だけで大丈夫だろうか。いかにセイラがついているとはいえ、魔物相手では少々彼も分が悪いのだ。
「心配だなあ・・。」
にしても、ああ何ていい天気。
リュートは木の香りをいっぱいにさせた幹を背に、青い青い空を見上げて遠慮がちに息をついた。
こんな日は雲で飛ぶとホントに気持ちいいんだよね、と、そんなことをぼんやり考えながら。
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時間が経つにつれ、リュートはどんどん落ち着かない気持ちになっていった。あの三人大丈夫だろうか。今頃危ない目に遭ってやしないだろうか。
ああわたしがついていければってそもそも自分がこんなことにならなければ彼らも森へなんか行かなくて済んでたわけで、リュートは自分の不覚をその日何度目かに深く深く悔いた。
“見に・・行ってみようかな。”
リュートはふとそんなことを思い付いた。厳密に言うと身体を置き去りに魂がどこかに行くというわけではない。知覚と意識が身体の及ばない遠くのことを感じるようになるというだけのことだ。しかし当然それをやっていればここにある身体の方は抜け殻同然、お留守になる。そんなことをやっていてもしか身体の方が何かに襲われでもしたら?いやその時はさすがに察知できるから、急いでこっちに意識を戻せば良い。レイラの張ってくれた結界もあることだし・・。
“よし。”
リュートは目を閉じて眉間にぐっと意識を集中した。ふわん、と目の前に不思議な模様が現れ、すぐにそれは像を結んで、徐々に焦点が合ってくる。さてあの三人、どんなところにいるのやら・・。
そうして探っていくうちに、ついにリュートはレイラたち三人が歩いている姿に追い付いた。それと同時にリュートの身体から生気が失われ、ほとんど人形と変わらない気配になってしまった・・無駄に傷が壊れないように、足を始めとして全身の筋肉の力はまだ損なわれずに残ってはいたけれど。
それからすこし経った頃。ひとつの薄い雲が、リュートの身体の立つあたりをすうっと通りかかり、何かに気付いたように速度を緩めて高度を落とした。
とうとうその雲は地面ぎりぎりにまで下がり、その上の人物がぽんと大地に降り立ってリュートの身体とその周りの透明な壁の方へ歩み寄った。
「これは・・。」
その男は悠々とした足取りで“壁”のすぐそばまで行くと、中の様子をまじまじと覗き込んだ。その顔には驚いたような呆れたような、彼にしてはちょっと珍しい表情が浮かんでいた。彼はしばらく矯めつ眇めつリュートの姿を見ていたが、不意に可笑しそうにひとりくっくっと笑い出した。
「大した奴だ。」
その男、ロウコはそうつぶやくと、“壁”から数歩離れてその乾いた地面にどっかと腰をおろしあぐらをかいた。真正面にちょっとだらりと木に縛り付けられたリュートの身体を少し見上げ、ロウコはその場にすっかり落ち着いて座り込んでしまう様子を見せた。肘をももにつき、あごを手に乗せて、何か飾られているものをつくづく眺めるようなそんな感じで・・。
そうしてロウコはリュートを見つめ始めた。ただ黙って、けれどとても興味深そうに、彼はもの思う目でリュートを見ていた。
乾いた大地に一度、大きく風が流れて巻いた。
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「そろそろよ、気配がするわ・・大丈夫ですか、ケイル様。道がかなり悪かったですわね。」
「ええ大丈夫、ご心配はいりません。もうじき見つかるのですか、良かった。少し早めに戻れそうですね。」
「はい、本当に。」
三人は木の根がやたら露出しているごつごつした山道を、かたまるように寄り添いあって歩いていた。そのあたりは鬱蒼と木が生い茂り、ずいぶん暗く陰になっている。何だか石ころもやたらと多く、歩きづらいと言えばそれはけっこうなものだった。
「あ、あっちですわ。」
レイラに従いケイルとセイラは少し道をそれる、と、ちょっとだけ開けた丸い空間が、三人の目の前に現れた。やはり木々の陰になってはいるが、足元が平らなぶん、かなりほっとできる。
「うーんこの辺だと思うんですけど。」
「手分けしましょうか。」
「そうですね、でもケイル様はわたしとお越し下さい。何かあったら大騒ぎするから、セイラ飛んで来てね。」
レイラはどこからか、火薬の玉を取り出して右手でぽんぽんもてあそびながら、セイラにそう言ってちょいと首を傾げてみせた。そうして彼らはふた手に分かれ、広場をまた出て、木々の生い茂る森の道を、それらしき大木(とにかく大きいから見ればすぐわかるわ、とレイラはセイラに言った)を求めて歩き始めた。
“ん?”
少し行ったところでセイラは妙なざわめきを聞いた。何だろう。何かが争っているような物音がしている。
“あっ。”
音のする方に近付くと、そこでは中型のやたら骨張った魔物が数匹、手に手に蔓のようなものを長く伸ばして引いていた。その蔓の先には少女の姿をしたものが絡め取られてもがいていたが、その少女は髪も肌もそして服も、内側から発光するようにぼんやり光る白い色をしていた。
セイラはさっとその場に踊りこむと、手にした刀で蔓を斬り裂き少女を解き放った。獲物を奪われた魔物の群れは怒ったようにセイラに襲いかかって来たが、彼はそれらを次々と難無く片付け見事に消し去っていく。
勝負はあっさりつき、辺りにはついに魔物の姿が一匹もなくなってしまった。もう潜んでいないだろうかときょろきょろそこらを見回すセイラの視線が、はたと件の真っ白い少女のそれとぶつかった。
「・・。」
そんな時の彼の常としてセイラが黙ったままでいると、不意に少女は二、三歩後ずさりをし、そのままさっと身をかえして、脱兎の如く走り去っていってしまった。
“・・ショックが大きかったんだなあ。”
それを見送るというほどでもなく見遣りながら、無理もないなとセイラは思い、しかし何か妙だなとやはり気付いた。
そもそもあの子何なんだろう。何だってこんなところにたったひとりでいたんだろう。
「セイラー!」
その時レイラが彼を呼ぶ声が聞こえた。全然切羽詰まっていないところをみると、魔物に襲われているわけではないようだ。
「見つけたわよー。」
お、早かったな。
そこでセイラはレイラの声のする方に向かった。今し方起こった小競り合いのことなどは、その時点でもうセイラの意識からすっかり消えてしまっていた。
「・・でかいな。」
「ね。」
セイラがケイルとレイラの姿を見つけると、その前方むこうには本当にそれは立派な一本の木の太い幹が、威圧するばかりにそびえ立って、距離はあったが彼らを見下ろしていた。
「ね、さっき来る時ね、とってもいいもの見つけたのよ。葉っぱや何かが堆積して養分たっぷりのほら穴。あそこにリュート寝かせれば、怪我の治りがとっても早いわ。」
「あいつはそんなもので治るのか。」
「百合族育ちだから。あの子の身体はずうっと、百合族の食べ物で作られてきたのよ、でしょ。普通の生物は違うんだろうけど、あの子は環境にとても左右されるわ。それはつまり精神に左右されるってことなんだけど・・。難しい話はまああとでね。ともかくこの幹から木の皮、いただきよ。」
レイラはぽんぽんと、よくするように軽やかに、そのとてもじゃないけど普通じゃなく太く背の高い木の幹に、弾んで近付こうとした。しかしその明るい歩みが幹のかなり手前でふととまる。
「?」
「レイラさん?」
「あれ・・。」
レイラは何も見えないところでしかし立ち往生して目の前をしきりにつついたり押したりしている。
「レイラどうした。」
「うーん進めないわ。これ一体・・。」
「・・レイラさんっ!」
突然あたりの空気が変わり、ナテックの大木の枝々が、妙なふうに勝手にしなり始めた。
「きゃ・・。」
「よけろ、レイラ!」
枝はまるで触手のようにくねくね動き、そのうちの何本かがするりと伸びてレイラの身体に鞭のように襲いかかった。レイラはそれをひらりと避け、少し後ろに並んで立っていたケイルとセイラの方へ駆け戻って来る。
「どうも参ったわね。」
頭をふりふりレイラは言った。
「皮は渡したくないみたい。何だか心が狭いわあ。普通こんなこと、まずないんだけど。」
「何かお気に入らないことでもあったのでしょうか。」
「うーん・・木にもいろいろありますからねえ・・あ。」
ふっとレイラの目が幹の途中の枝に留まった。ケイルとセイラもレイラの視線の先を追う。
「あっ。」
思わずセイラは声をあげた。そこにはひとりの、真っ白な髪と肌をした少女が白い衣を身に着けて、腰かけ三人を見下ろしていた。はだしの足がぶらぶら揺れて、長い髪の毛がふわりふわりと流れている。すこしこわいような表情のない顔をして赤い目でセイラたちを見下ろしているその少女の、しかしくちびるは血の気がないながらもふっくらと瑞々しく、頬はすっきりと締まってかたちが良かった。
「・・。」
「あらセイラ、あの子知ってるの。」
最近は妙にこなれてきて、レイラもリュートも、セイラが何も言わなくてもいろんなことを勝手に読み解いてしまうようになっていた。
「ああ。さっき魔物にからまれてたから・・。」
「あら助けてあげたの。すてきなナイトってとこね。あの子はこの木の精よ。おやおや、助けてくれたセイラが居るっていうのに、それじゃどうして皮もくれないなんて言うのかしらね。」
「精ってあんたみたいな?」
「ええまあそんなとこ。でも植物の精の在り方にもいろいろあるのよ。わたしたちはこの形が普通なんだけど・・たとえばこの精は少し違うわ。いつもこうというわけじゃないみたいね。それにひとりでいるみたい・・最近こういう擬人形になり始めたのかもしれないわ。」
「どうしましょう、何とかお願いできないでしょうか。」
「やってみましょう・・でもセイラ、あなたが行った方が良いんじゃなくて?ほらなんと言っても助けてあげちゃったわけだし、全然知らないわたしなんかが行くよりも。」
「しかしあの子は口もきかずに逃げてしまって・・。」
「あら何かいけないことでもして?」
「・・。」
「はいはい悪い冗談だったわね。それはともかく本当に何とか・・」
レイラがそう言いかけた時、件の木からひときわ長い枝が伸ばされて、乱暴に三人の立つあたりに割って入ってきた。レイラたちはそれぞれそこを飛び退いたが、その枝はぐにゃりと動いてセイラの胴にぐるりと巻き付き、ひと息に彼を引っ張ってそのまま幹の方へ寄せてしまった。
「!」
「セイラ!」
レイラは不審気にその整えられた眉をひそめた。今の枝、確かにセイラを狙ってやってきた。あの木はセイラを連れていこうとした。これは一体どういうことだろう?
枝に吊るされたセイラはそこから逃れようとあれこれもがいていたが、それも叶わぬままにとうとう大木の足元の、妙にねばねばしそうな小さな池の中に、縛られたまま、とぷんとつけこまれてしまった。
「・・セイラ!」
「いつの間にあんなもの・・。」
レイラはその光景に我が目を疑った。ついさっきまでそんな池、そこには確かになかったのに・・。
レイラとケイルは相次いでセイラのいる池に駆け寄ろうとしたが、例の見えない何かに阻まれ、またも進めない。
“ええい。”
仕方がない。手荒な真似はしたくなかったけど・・。
レイラはケイルをすこし後ろにさげると、手持ちの爆薬をぽんぽんっとそこらにむけて投げ付けた。ふっと何かがほどける気配がして、レイラはケイルにうなづいてみせると、また一目散に、セイラのはまった池の方へ駆け出していった。今度は何ものも彼女の邪魔はしないようで、レイラは無事に問題の池のほとりにたどりついてそこに膝をつき、乗り出すようにして池を眺めた。すぐに金の髪をなびかせて、ケイルもその後ろに続く。
一度頭まで池の中に沈められたセイラは、その時丁度頭と肩だけ池の上に出して息をついたところだった。彼はそのままそこに浮いたが、例の枝はまだ彼の胴にしっかり巻き付いて離れようとする様子もなかった。両腕は自由になっていたのでセイラはどうにか腰の自分の刀を鞘から抜くと、それを持ち直して、自分を捕まえる妙な枝を、なんとか切り裂きにかかろうとしていた。
「あっ。」
「・・?」
その時、ふわりと池の中ほどに、白い小さなかげが浮かんだ。それはやはり例の木の精の姿だった。水面よりずいぶん高くに彼女はひとり、とまるように浮いて黙ってあの表情のままで、冷たくセイラを見下ろしていた。
“一体何の・・。”
セイラはどうにかこうにか刀をうまく手に持つと、一度、二度と枝にその刃を突き立てた。思ったような効果はあがっていないがそれでも多少のキズにはなっている。彼は一段大きく刀を振りかぶり、できる限りの力で枝に斬り付け、するとその枝の表面はやっと大きくえぐれてざっくりと割れた。
“・・!”
三人ははっとしてほとんど同時にむこうを見上げた。そこではあの白い木の精の少女が、腕を押さえ身体を少し前かがみにして、どうやらひとり震えているようだった。
“まさか・・。”
枝がセイラの胸と腹を一層強く締めつけたので、反射的に彼はもう一度、軟体動物に似たその枝に両手で持って刀をふるった。
“・・!”
少女の身体がびくびくっと揺れ、彼女は自分を自分で固く抱きしめた。
「そんな・・。」
ケイルとレイラは困惑した顔で少女を見つめた。まあ充分考えられることではあった、が、こうもあからさまに見せられると辛い光景だった。枝を傷めれば彼女も傷付く・・少なくとも彼女に何らかのダメージはかかる。
「だけど・・。」
レイラが少女から目を離さずにひとりつぶやくように言った。
「だからって・・。」
セイラは刀を持った腕をおろし、少女の目を見上げて声をかけた。
「・・放してくれ。」
少女はセイラを見返した。黙っていた。
「放してくれ。何のつもりだ。」
少女の表情は動かなかった。
しかしもう一度セイラが彼女に呼び掛けようとした時、不思議な音が三人の頭に響いてきた。最初三人にはそれが何かわからなかったのだが、次第にその音は、彼らの使う言葉のように聞こえてき始めた。
“イヤダ。”
「え・・。」
“イヤダ、ハナシハシナイ。”
「あなた・・。」
“ハナシハシナイ、ワタシ、コレガホシイ。コノモノガホシイ。コレハ、ワタシノ。”
「なに・・。」
少女はまばたきひとつせず、口元をぴくりとも動かさずにしかし確かにそう告げていた。呆気にとられている三人の頭に、彼女の繰り返す声が聞こえる。
“ワタシノネニナレ、エダニナレ。コノミズニトケテワタシノナカニハイレバヨイ。ワタシニナレ。ワタシニナレ。ワタシニナレ・・。”
「・・。」
“ワタシコレガホシイ。ホシイ。ホシイ。ホシイ・・。”
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“・・あれまあ。”
少女の繰り返す声は意識を飛ばしていたリュートの耳にもちゃんと捉えられていた。
“こういうの女難って言うのかね、あの色男。”
呆れたようにリュートはひとりつぶやいた。とはいえ思えばもともとは自分のせいで巻き込んだ厄介であった。すまない、セイラ、とリュートは今度はひとり頭を下げる。
なんだか妙なことになっちゃって・・これどうしようかなあ。
“説得して放してもらうしかないだろう。”
まさかあんな風に痛がってるのを見せられちゃ、無理矢理枝を切り裂くわけにもいかないし。
“でもきっと今それができるのは・・。”
リュートはため息まじりに池の中の姿に焦点を合わせた。そう、それができるのはあのセイラしかいないだろう。レイラにもケイルにも、刀なんてまともにふるえはしないのだから。
その問題のセイラは相変わらず頭と肩と腕だけ池から出して、正面に浮く白い少女を見上げていた。池のほとりではケイルが一生懸命、どうにか少女にセイラを離してくれるように頼んでいたが、ダメダの一言で却下され続けている。その脇でレイラは腕組みをし口を一文字に結んで難しい顔でむっつりと立っていたが、その様子がなんだか普段セイラのする仕草に少し似ていて、リュートは場合が場合だったがそれもちょっと可笑しいと思った。
「おい。」
やっとでセイラがまた口を開いた。
「これから一体どうするって言うんだ、」
“オマエハソノママソノミズニトケル。スコシヅツオマエノ「キ」ガコノナカニトケ、ソレハワタシノモノニナル。ソシテ「キ」ガスイトラレレバオマエハシヌ。シネバソノミハマタココニトケ、ワタシハソレモテニイレル。”
怖いこと平気で言わないでよね、とレイラは顔をしかめた。
「何だって俺なんかが欲しいんだ。何にする。」
“・・。”
それには少女は答えなかった。この野暮天、とそこでレイラは思ったがそうとは知らずセイラは少女に言葉を続けた。
「欲しいからってそう簡単に好きにされちゃ納得できんな。そもそもなぜ・・ひと思いに殺さない。」
“ワタシガホシイノハシタイデハナイ。”
「死んだら溶かすと言わなかったか。」
“オマエガシンダラカラダモホシイ。シカシワタシガホシイノハオマエデアッテオマエノシタイデハナイ。オマエノ「キ」ガイル。オマエガイル。”
「どうもよくわからんな。」
あなたにそばにいてほしいって言ってるのよ、とレイラは思ったがまたまたそれも口には出さなかった。それにしてもこういうパターンは彼女たち百合族には見られない事例だが、木の恋情ってこんなものなのだろうか。人間がやると惚れた相手を監禁したうえ死体を食べるなんていう猟奇カニバリズム事件になってしまってなんともおどろおどろしいのだが、木の場合は、人間を手に入れたいほど恋するというのはこういうことしか意味しないのかもしれない。
“木が人に惚れるってのもあんまりないか。”
「・・俺がどう思うかなんてのはどうでもいいのか。」
“・・。”
「いいのか?」
“イイノダ。”
「そんなもんか。」
“ナゼナラオマエガココニノコリタイトオモウコトハ、ゼッタイニナイカラダ。オマエニマカセレバオマエハイク。ワタシハソレハイヤナノダ。”
「自分勝手だぞ。」
“ナントデモイウガヨイ。”
レイラはそのあたりで、どことなく切ないような気持ちになってきた。と同時に、これは本当に本当にまずい状況になってきたぞとも思う。どうやら木の少女は本気のようだし、とすればちょっとやそっとではセイラは放してもらえないだろう。彼女は本気のうえに必死なのだ・・ちょっと見にはわかりにくいけど。
ある日目の前に現れた、通りすがりの王子様。ここで放せば二度と会えない。また会えたりなんかけっしてしない。だから行かないで、行かないでって・・。
“それにしたってちょっと過激だけどね。”
「何をどうしたら放してくれるんだ。」
“ワタシヲタオシテコエテイケ。”
セイラ、レイラ、ケイルの三人は黙って顔を見合わせた。
今の時点ではそんなこと、とてもじゃないけどできるとは、この中の誰にも思われようがなかったのだった。
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レイラは段々苛立ってきた。あれからずいぶん時間が経ってしまっている。そして状況は膠着したままほんの少しも進んでいない。
セイラは相変わらず漬けこまれたまま何だかずいぶん顔色が悪くなってしまっているように見えた。“気”を吸い取られているためか液体の中にずっといるせいかはよくわからない。多分両方なんだと思う。
木の少女との会話はまともに成立しないしケイルの粘り強い説得も今のところさっぱり功を奏していない。いい加減ここらでけりをつけないと、わたしたちそんなにいつまでもこんなところにいるわけにはいかないんだからね。
“リュート。”
そう、リュート、あんな得体の知れない荒れ地にたったひとりで胸を串刺しにされて立っているリュート、西日が風が、どうかしたら魔物が、彼女を今にも襲わないとは限らないのだ。
リュートが待ってる、リュートが待ってる。あの胸の傷は今頃崩れてあの子を責め苛んではいないだろうか?
“わたし・・。”
もういいっ!
レイラはふわりと飛び上がると、くるりと回ってその姿を小さくした。彼女はそのまま飛んでいってセイラを掴む枝の上にまで来ると、そこで身体を人間のサイズにし、ひざ上まで浸かって水中に伸びる件の太い枝の上に、見事にバランスを取って立ってしまった。
レイラは目をきっと吊り上げると胸元から、光る石がたくさん柄に付いた短刀を取り出して、それを掴むとやおら大きく振りかぶった。
「レイラ、ちょっと待て!」
「もう待てない!」
セイラの声にレイラはひとことそう応える。あなたができないんならわたしがやる。汚れ役でも何でも引き受けようじゃないの。この枝切り取って皮でもいただいてついでにあなたも助けてあげるわ。
だってこのままじゃリュートが。
だってこのままじゃセイラも。
なんとか出来るのはきっとわたししか・・。
「レイラっ!」
レイラがはっとした時には彼女の目の前にもう、一本の太い枝がしなって襲いかかってきているところだった。彼女はよけようとしたがすでに時遅く、その枝は激しく彼女の腹部を打ってその身体を大きくはね飛ばしてしまった。
「レイラさんっ!」
「レイラ!」
レイラは咄嗟にその身を小さくしてくるくる回ると、その場で宙にぴたりと留まった。おかげで池にはまることはどうにか避けられたが、彼女はそのまま腹をおさえて身体をくの字に曲げ、細かく震えてそこから動かない。
「レイラさんこっちへ・・。」
ケイルがレイラに岸へ戻ってくるように呼び掛ける。しかし腹部をおさえたまま顔をあげたレイラの様子を見たセイラは、またも咽いっぱいの声を出して彼女に言った。
「レイラ、よせ!」
よさないわってば。
こんなことで負けるもんですか、とレイラは思っていた。何といっても全部まとめて、今ここでこの場を収められるのはどうやらわたししかいないんですからね。
セイラあなたはすっこんでなさい。自分を想ってくれる女の子になんか手あげるもんじゃないわよ。いくら相手がその・・無茶言っても。
でもだからと言ってこのまま手をこまねいて事態を静観することはまさかできない。だってそれじゃあリュートとセイラはどうなるのだ。だからわたしがやるって言ってるのよ。
わたしはね、一刻も早く帰りたいの。一分だって一秒だって早く帰りたいの。
わたしのリュート、わたしのリュートが!あんなとこであんな姿でわたしたちを待っているんですからね!
レイラはまっすぐに水の上を飛ぶと、再度セイラのそばで人間のサイズになり、枝の上に足をおろそうとした。その枝は大きく揺れてレイラを拒絶しようとしかけた、が、彼女は無理矢理そこに降り立ち、驚異的なバランス能力を見せてどうにか枝の上にとどまっている。
はね飛ばされても離さなかった短刀を右手に握りしめ、レイラはやっとばかりにそれを水中に差し込んだ。枝がびくびくっと痙攣したのがセイラの身体に伝わってきた。さすがと言うべきかレイラは件の枝に刃を突き立てる要領を、かなりセイラより得ているらしい。
「!」
そのレイラを今度は背後から木の枝の強い一撃が襲った。またもレイラはよけきれず、足場から飛ばされて回りながら、姿を小さく変え池の上、宙に浮かぶ。
“ふふん。”
一瞬止まってしまった呼吸をどうにか整えながらレイラは思った。
“やっぱりリュートやセイラみたいなわけにはいかないわね。”
確かに自分はそれほど戦いに慣れているとは言い難い。しかし、ことここに至ってそんなこと言っている場合ではさらさらない。
“もう一度・・。”
「レイラさん、戻ってください!」
ケイルの叫ぶ声がする。
ごめんなさいねケイル様。でもわたし・・わたしやらなくちゃ。
「レイラ、もうよせっ!」
セイラ、まあ待ってなさいよ。今にわたしが・・。
「おいっ、聞くんだ!」
セイラの声は今度は例の木の少女に向けられた。明らかに蒼白になってきた顔を高くあげて、彼は彼女に言葉を続けた。
「俺たちはあんたの皮をもらいに来た。薬が作りたくてな。あんたは嫌がっているみたいだが・・そうだろう?」
“ソンナモノハ、ヤラナイ。”
「そうだろうな、しかしよく考えろよ。俺は取る、皮はやらないじゃ、あんまり話が一方的じゃないか?
ここは取り引きだ。俺はここに残る。だから枝の一本でも・・皮のついた枝の小さな奴一本でもいいからそこのレイラにやってくれ。一対一の交換だ、まっとうな話だろう。」
「セイラ!」
レイラは小さいまま、セイラの顔の近くにまで飛んでいった。
「枝と俺とが引き換えだ。もしいやだと言うのなら俺はこの場で自分の喉を直ちに掻くぞ。そして身体はすぐにレイラに爆破してもらう。足ぐらいは残るかもしれないがその程度だ。おまえには大したものは与えないからな。」
「セイラ・・。」
「そんなことしないと思うなよ、俺は本気だ。そしてこのレイラにもその位の覚悟はある。できるな、レイラ。」
「え、ええ・・。」
まさかここでそんなことできないわ、とはレイラには言えなかった。
「おとなしく枝でも寄越せば俺のことはくれてやる。どうする?俺を取るか皮を惜しむか。それとも腹いせに今すぐ俺をひねり殺すか?そうなれば俺も最後の力でこのへんの皮を削り取ってレイラに渡さないでは死なないからな。そのあとやっぱり粉々になってくれる。どちらでもいいぜ、どれがいいんだ。」
「セイラ・・。」
「心配するな、レイラ。」
セイラは少し音量を落としてレイラに言った。
「今はとにかくリュートだ。そう長いことあいつをひとりで放ったらかしにはしておけん。あんたもそれ以上は無理だ。今で相当傷んでいるはずだ。俺のことは構うな、どのみちこのままでは俺は木の中に取り込まれてしまう。そう何もかも向こうの思う通りになってたまるものか。
リュートを助けてくれ、レイラ。あいつはあんたとケイル様をこの先必ず守りきるだろう。それでいい。それが一番いいことなんだ。」
「でもセイラ・・。」
「頼む、レイラ。」
「あなた・・。」
セイラはまた声を大きくして頭上の少女に語りかけた。
「さあどうするんだ。俺が自分で残ると言っているんだ、悪い申し出じゃないと思うが。」
“・・ソウデモナイ。”
「何?」
“オマエノモウシデハウケラレナイ。”
「なぜだ。」
“オマエガヒトノタメニノコルカラダ。リュートトイウオンナノタメニ、ソコノレイラトイウオンナノタメニノコルカラダ。イマノオマエノココロハソノオンナタチノコトデイッパイダ。ソノモノタチヲタスケルコトデイッパイナノダ。
ソレハワタシノノゾムオマエノノコリカタデハナイ。イマソコデジガイナドシテミロ、ソコノコドモモスグニヒネリコロシテヤル。
ホカノオンナタチノタメニノコルコトハミトメナイ。リュートトヤラヲタスケルコトハサセナイ。オマエハタダワタシノモノニナレバヨイ・・。”
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“うーん。”
ますます厄介なことになってきたぞ。
その場の様子を伺い見ながら、リュートはすっかり困惑してしまっていた。しかしこうまで話がこじれてしまうとは。とにかく何とかセイラをあそこから引き上げないことにはあのままじゃセイラ、“気”を本当に吸い取られきってしまう。
“わたしのことなら急がなくていいのに。”
今のところ何の危険信号も感じないし、意識を飛ばしているおかげで動かないから痛くもない。みんなわたしの心配なんてしなくていいのに・・と言えればいいのに。さすがにこの状態で彼らに意志まで伝えるのはちょっと難しかった。
“わたし・・出張ろうかなあ・・。”
戻ってあの棒、抜いてみるか。リュートはそんなことを検討しだした。いかな仲間のリュートのためにもなるとはいえ、今のところセイラは無理矢理あの子の木の枝を切って逃げ出す覚悟はできていないみたいだし(どうも根っからナイト精神に満ち満ちているらしい)レイラにこれ以上戦わせるのもこれはかなり無理のようだ。わたし・・わたしならあの枝を切ってセイラを解き放つことができるだろう。あの少女の苦しむ姿をたとえ見たとしても、どうにかそれを乗り越えることができるだろう。少なくともセイラよりは。
少なくともセイラを失うよりは・・。
“まあかなり痛い目みそうだけどね。”
でもこの調子じゃあ、ま、あの棒胸から抜いたからって死んじゃったりはしないみたいだし・・。
「セイラ!」
レイラの声にふとリュートが意識を彼に戻すと、池の中でセイラの身体がぐらりと揺れて頭が水にはまりこんでしまいかけていた。
セイラはそこではっとして体勢を立て直したが、その顔はすでに蒼白を通り越していて、ほとんど血の気というものが感じられなかった。
“いかん、これはかなりやばい。”
リュートが一度取って返してやっぱり生身ごと飛んでこようとした時である。白い、木の少女が突然また言葉を発し、リュートは思わずそれに耳を傾けた。
“オマエハ・・ソンナコトヲカンガエテイルノカ。”
「え?」
一旦岸に戻って人間の大きさになっていたレイラとケイルは、少女とセイラを交互に見た。セイラは少しうすぼんやりしてきた意識をどうにか取り戻して、いつもよりゆっくりと返事をした。
「あ?ああそうか、わかるんだったな。」
「何て思ってたの?」
「大したことじゃないさ。」
セイラは照れたように笑ってそうレイラに応えた。
「こないだ空飛ばせてもらった時のことを考えてたんだ。」
「ああ、リュートの後ろに乗っかった時の・・。」
「そうだ。」
セイラは小さくうなづいてみせた。
「あれは大したもんだった・・レイラ、人間は空は飛べないものなのか。」
「わたしたちの雲には本来乗れないけど・・あなたたちの雲に乗ったら飛べるでしょう。」
「人間の雲?そんなものあるのか。」
「聞いたことないけど。」
「何だそりゃ。」
「でも、ないとも聞いたことないわ。あるかもしれない。なんなら作れるかもしれない・・ね。もう一度飛びたい?セイラ。いつでも乗せてあげるわよ。わたしの雲が馬力不足だったらリュートに頼んで乗せてもらってあげる。」
「じゃあ頼むか。」
「ええ・・ええセイラ。」
レイラの声が何だか震えていた。
「わたしきっと頼んであげるから・・。」
セイラはまた、例の少女を見上げて言った。
「もうすぐ何もかもあんたの思うとおりになる。もう一度頼む。俺の代わりに枝でも何でも一本寄越してくれ。その薬がないと俺の仲間がいつまでたっても動けない。そちらのケイル様は俺の師匠だが大事な旅の途中なんだ。どうしても先に行かないわけにはいかないんだ。」
“・・。”
「頼む。何が要るのか知らないが俺のことはもうすぐあんたは手に入れる・・ぞ。せめてケイル様に先を・・。」
“・・。”
「わからない、か・・。」
“・・。”
しばらくそこを静寂が支配した。その静けさを破ったのは、少女のあの、捉えどころのないような、すこし響いて揺らぐ声だった。
“・・ナゼソレヲキラナイ。”
「それ?」
“ワタシノエダダ。オマエヲツカンデイル。”
「ああこれか。」
“キレバニゲラレル。サイゴマデニゲキレナクトモ、ナカマニエダヲワタスコトグライデキル。ワタシモタダキラレルキハナイガ、オマエハソレヲ、モハヤキズツケヨウトモシナイ。モシソレヲキレバ、イットキデモオマエハジユウニナレルダロウ。ジユウニナレバワタシトタタカウコトガデキル。マチガッテイルダロウカ。”
「たったあれだけ刃立てただけであんな顔されて切れるか。それだけだ。」
“オマエ、シヌゾ。”
「うん・・まあそうだな。」
セイラは自分を巻き込んでいる太い枝を見下ろしてつぶやくように言った。
「しかしこれがどの位あんたに大切なものなのかわからないからな・・。」
“エダノイッポンダ。”
「そうかあ?俺がキズをつけた時、レイラが刃を差し込んだ時、あんたの様子はふつうじゃなかった。俺たちの血管にもいろいろあるように、あんたの枝にもいろいろあるんじゃないかと思ってさ。」
“・・。”
「あんたを殺してまで自分が助かろうとは言わんさ。しかしリュートは・・。だからこうして頼んでるんだ。要らん枝などないだろうが、一本でも少しでも渡してやってくれないか。ケイル様とレイラにはちょっと腕づくであんたから取るってのは無理な話のようだからな。」
“・・。”
「俺に・・わかるうちに返事を・・。」
「セイラ!」
「来るな、レイラ!」
やっぱりわたしが、と飛ぼうとするレイラをセイラがひと声で制した。
「あんたにまで何かあったらケイル様とリュートはどうする。こっちに来るな。またやられるぞ。」
「だってそんな・・。」
レイラは口惜しそうにくちびるを噛んだ。こんな時にわたしなんて、どうしてどうしてここまで役立たずなの。
「あんたには・・くすりを作ってもらわないと・・あんたにしか・・できない・・。」
「いや、セイラ!」
「セイラ、しっかりして下さい!」
「ケイル様・・。」
ケイル様申し訳ありません。しかしそろそろ、そろそろ目が・・。
もうずいぶん目が利かなくなってきた。セイラの頭の中に、眼前とは違う風景がだんだんと大きく広がりはじめていた。空のただ中を、あまりに自由に駆け抜ける、あの時の風が、肌に甦る・・そんな気がする。あれは実に大した経験だった。
もう一度、飛びたかったな。
雲に乗って・・。
「?」
セイラはふっと身体が軽くなったように感じた。どうしたことかとよくよく様子を伺うと、どうやら自分は池から引き上げられ、水面より上ずいぶん高くを、例の枝にすいすいと持ち上げられ運ばれているようだった。
“何だ・・?”
そのうち彼の身体は岸辺の草の上にふんわりと置かれた。すぐにその胴から枝が外され、枝は何かに巻き取られるように、あっという間に木のそばに引き込まれて、池の中に姿を消した。
「セイラ!」
「セイラ!」
草の上に仰向けになったセイラにケイルとレイラが駆け寄った。その三人の側に何かがぽとんと、ひどく無造作に落とされた。
「?」
「あ、これは・・。」
それはほんの細い、けれどしっかりした一本の、紛れもないナテックの枝だった。レイラとケイルは一斉にナテックの木を仰ぎ見た。セイラは上身を起こそうとして果たせず、それでも視線だけはレイラとケイルと同じ方向に送る。
池の上に、もう少女の姿はなかった。ナテックの大木が風に自然に揺れてさわさわと音をたてていた。その葉の音に混ざって、あの白い少女の“声”だけが聞こえてくる。
“・・イケ。ソレハ、ヤル。”
「いいのか?」
“ソラヲトンデコイ。”
それきり誰が言葉をかけてももう少女の声は聞こえてこなかった。あの不思議な池も、現れた時と同じようにいつの間にかそこから消え、あとにはただ静かに立つ、ナテックの大木がみどりのにおいをさせてそこにあるだけだった。
「すまない・・。」
セイラがそっとつぶやいた。
「ありがとう・・。」
レイラがふうっと肩の力を抜いて、セイラに言った。
「立てる?」
「ああ、大丈夫だ。」
「手を貸します。」
「恐れ入ります、ケイル様。」
セイラはケイルとレイラの力を借りてどうにかそこから立ち上がった。
「ちょっとまだ無理じゃない?」
「いや・・いいんだ、行こう。」
セイラは二人を安心させるように微笑って、そして言った。
「リュートが待ってる。あいつもずいぶん長いこと放ったらかしにしちまったからな・・。」
三人はもう一度、揃ってナテックの大木を見上げた。それはやはり、今や静かに、堂々とした威容を誇ってそこに大きな大きな姿を見せていた。光が集い風が遊び、その木陰にはあらゆるものを宿らせる・・森の中のただ一本の大木。
あの子、泣いてないかしら、と、レイラは最後にちらりと思った。
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「わ、痛っ。」
意識を身体に戻した途端、激しい痛みがまたリュートを襲った。用心して用心して、とにかく下手に動いちゃいけない。
しかしやれやれだなあ。リュートはちょっと切な気に苦笑いをした。どうやらこの話は生涯忘れられないものになりそうだ。
「あっ!」
叫んだとたんまた痛かったがそれでもリュートは声をあげずにいられなかった。レイラの張ってくれた結界の透明な壁の向こう、彼女の丁度正面に、およそ考えられない姿がどっかりと腰をおろしてあぐらを組み、頬杖をついてしげしげとリュートを見つめていたのだから。
「貴様!・・痛っ。」
「こらこらおとなしくしろ。そんなもの胸に刺して大声出す奴があるか。」
「やかましい!おまえどうしてこんなところに・・。」
「ん?いやたまたまここらを通りがかったら近頃見知った姿があったからな。連れはどうした。」
「すぐに戻る。」
「薬でも調達に行ったのか。しかしこれはまた凄まじい光景だな。そこまで串刺しにされて平気な奴はそうはいまい。」
ロウコはそう言いながら、立ち上がり結界のすぐそばまでやってきた。
「平気なもんか、かなり痛いぞ。いや・・いや、しかし平気だ。別にわたしは弱っちゃいない。」
「確かに元気そうだ。しかし呆れたな。心臓をぐっさり刺されてもとりあえずぴんぴんしてへらず口まで叩いてる。」
「何が呆れただ、おまえだって同じことになったら今のわたしのように・・。」
ように・・。
そこでリュートははたと口をつぐんだ。こいつとわたしは同じもの・・と今わたしは思っている。しかし確認したわけではなく、こいつがそのことをどう思っているかもわからない。わたしがそう思っていることを、奴にそんなに簡単に知らせてもいいものだろうか。
この世でただひとり・・わたしがはじめて見つけた者だと・・。
ロウコは何故かそこで微笑った。何がおかしい、とリュートは言おうとしてやめにした。
「ま・・いいさ。ではな。また会おう。」
「貴様どこへ。」
「いてほしいのか?」
「そうじゃなくて。」
「もともと行くべきだったところへさ。どこか聞きたいか?」
「聞きたくない。」
「よかろう。ではな。」
彼がそれだけ言ったところで、ロウコの足元にすうっと小さな雲が舞い降りた。彼はその上にあっさり踏み込みあとはもう後ろも見ないで、あっと言う間に空の彼方へその姿を消してしまった。
“・・何だあれは。”
リュートはすっかりすわった目でそう思った。人の意識がないと思って、いったい今まで奴は何をしていたんだ。
わたしを見て・・ずっと見て・・見つめて・・いた・・。
“見つめていた。”
意識をここに戻した時、はじめに見つけたあの男の目。わたしを見ていた。じっと見つめていた。
“まさか見守って・・。”
そんなわけあるか、とリュートは思い直した。何の義理があって奴がわたしの身体の張り番をせねばならない。
“あいつどこに行ったんだろう。”
まさかケイル様のところではあるまいな。今はセイラは弱りに弱っている。そんな時奴に襲われでもしたら・・。
「リュート!」
自分を呼んだ声に、リュートは瞳を輝かせてそちらを見た。はや橙色に染まり始めた西日の中、むこうのみどりの森の方から、とてもとても見慣れた姿が三つ、彼女の方に近付いて来る。明るく笑っている白い顔のレイラ、金の髪を流した愛らしいケイル、そしてそのふたりに支えられるようにして、ちょっとおぼつかなく歩いてく
セイラ。
「レイ!・・ラ・・。」
しまった忘れてた。大声出すと痛いじゃないか。
レイラはセイラに貸したのと逆の腕を大きくぶんぶん振り回し、リュートに笑ってみせていた。リュートさあん、とケイルが言った。セイラはレイラとケイルに挟まれて、何だかちょっと照れたようにゆっくりゆっくり歩いてきていた。
リュートはもうじっとしてただただ三人を見つめて、彼らが彼女のそばまで来るのを待っていた。空の彼方が赤く染まっていた。
その赤を受けて雲が・・あの雲もその雲も全て、黄金と赤とそしてグレイとその他たくさんのたくさんの色を含み、彼女たちを見下ろすようにやさしく浮いていた。
その間にひとつ、小さな星がまたたいていた、ように見えた。
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