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三・美女と優男

 久しぶりのみどりだな。
 そんなことを考えながら、リュートは先に行かせたケイルとセイラのあとを早足で追っていた。
 ゴレルに入ってはや幾日。本日の朝より三人は、この緑深い山の中に分け入っていた。案の定、ゴレルに来てからも彼らを襲う魔物の数はわずかながら増えこそすれ減ることはなく、たった今も彼らを囲んだ魔物の残党を、ひとり残ったリュートがきれいに片付けてきたばかりのところだった。
 と、行く手でケイルの驚く声がしてリュートは早足を駆け足に変えた。何だ、また出たのか、今度はどんなやつだ。
 「ケイル様!」
 「あ、リュートさん、あの・・。」
 しかしケイルが手のひらで指した方向には、リュートが予想したのとは、ずいぶん違ったものの姿があった。
 そこは、小道の上に一本のかなり太い枝が真横にはり出したところだったが、そのいかにも立派な枝の真ん中あたりに、一人の若い女が・・妖艶とさえ言えそうに薫り立つ美しい若い女が、足の甲を引っ掛け、さかさまにぶらさがって目を閉じていた。明るい色のゆたかな髪は頭のうしろでひとつに丸く結われ、あざやかに引かれた紅と長いまつげが遠目にもはっきりと印象深く映っていた。彼女は目を閉じたまま全く動きそうにもなかった・・かと言って気を失ったり傷を負ったりしているようでもまるでなかった。
 「・・。」
 「リュートさん、あの方どうなさったのでしょう。」
 「うーん・・。」
 リュートはご心配なくとばかりにケイルにうなづいて見せると、軽く走って女の頭のすぐ斜め下あたりに寄っていった。そして、手にしたままだった彼女の棒を握り直すと、ちょいと背伸びをし、刃先のひっこめられているその棒の先端で、女の頭をこんこんと優しく二、三度小突いた。
 「こらこら起きなさい。失礼だよ。」
 「うん?」
 「起きなさいってば、相変わらず寝起き悪いなあ。」
 「あーん・・。」
 「あーんじゃない、こらレイラ、わたしだわたし。起きなよって。」
 「わたしい?」
 女は愛くるしいあくびをひとつすると、どうにかこうにかといった風にまぶたを開いた。
 「ふうん・・。」
 「まだ寝惚けてる。」
 「ああ・・あ・・あらあらっ。」
 女はいきなりぱっちりと目を開けてリュートと顔を合わせると、それは嬉しそうに明るく笑った。そして弾むようにぽんと枝から離れると、ふわりと浮いて・・そのまま、ふいと消えてしまったように、ケイルとセイラには見えていた。
 「?」
 「あれっ・・。」
 しかしよく見ると、ちょっと大きめの小鳥のようなものがひらひら空に踊りやがてリュートの出した手のひらに降り立ってふわりと座り込んだのが二人にもわかった。
 「うわあ。」
 「・・。」
 ケイルとセイラはリュートに近付きその手の上を覗き込んだ。そこにちょこなんとすっかりくつろいだ風に座っていたのは間違いなく先程の、明るい色の髪の女だった。彼女はきらきら輝く顔をリュートに向けて、身体のわりにははっきりした大きな声で、リュートに言った。
 「すごいわ、ちゃんと会えたわ。わたしきっとあなたたちはここを通ってくれるって思ってたの。でも本当にこんなにすぐに会えるなんて、ね。リュートひさしぶりねえ、もう随分になるわ。あなたちっとも変わらないわね。」
 「きみも変わんないな。人待つのに寝ながら待つなんてある?」
 「あら、あれはうっかり寝ついちゃってたのよ。本当は瞑想でもしてるつもりだったんだけど・・。」
 「だいたい危ないじゃないか、道の真ん中でひとりで寝てるなんて。襲われでもしたらどうするんだ。」
 「そんな時にはすぐ気付いて逃げ出すわ。」
 「ちっとも起きなかったくせに。」
 「あれはあなたたちだったからよ。悪意には敏感よ、知ってるでしょ。」
 「どうだかねえ・・。」
 そこで小さな女は周りを見回し、立ち上がってご無礼いたしました、とケイルとセイラに頭を下げた。
 「つい懐かしくて話し込んでしまいましたわ。わたくし、リュートの幼馴染みのレイラと申します。生まれてからずうっと一緒に育ちましたのよ。お聞きおよびでして?」
 「ああではあなたは百合の精・・。」
 「一応女王です、これでも百合の谷の。即位したのだったよな。」
 「ええそうよ、あなたったらあれより前から谷に戻ってきてないの?ホント言って呆れちゃうわ、出たら出たっきりなんだから・・。」
 「ああはい、すまないすまない。」
 リュートは楽しそうに苦笑いをした。
 「それで・・こちらが修道者様とお弟子様?」
 「そうそう、そう言えばわたしたちのことを知っているようだったけど・・。」
 「あら知らないの、あなたたちもうすっかり有名よ、人間以外の間では。サークのリュートが人間の、偉い修道者様とゴレルに入ったって・・あなたの華々しい戦暦も聞こえてるわ。だからそろそろこの辺を通るかなって思って待ってたの。」
 「そんな話が広まってるのか。」
 「ええ、みんな修道者様に興味しんしんよ。サークのリュートはもともと有名人だしね。」
 「ケイルさまにって・・。」
 「ええそう・・ね、判るでしょう。人間の修道者様といえば魔物には、ね。」
 レイラは少し言いにくそうにし、リュートは成程と二、三度首を縦に振った。喰えば魔力があがるとか何とかいうあれのことか。やっぱりその線でやってきたなあ。
 「あのお、何か。」
 「はあ、申し上げにくいのですが、魔物はケイル様を狙っているんです。その・・食べるために。」
 「わたし?おなかの足しになりますか。」
 「いえ滋養に良いらしくて。」
 「肉が足りないんじゃないでしょうか。」
 「いえ魔力の方の・・あと血とか・・。」
 「え・・ああわかりました、そういうこともあるかもしれませんね。」
 ケイルは大して怯えもせずにそう納得した。
 「それで今まで襲われてきたんでしょうか。」
 「そうかもしれません。」
 言いながらリュートは、なんだかそれもすっきりしないな、と考えていた。どうもそればっかりという感じでもなかったんだがな。特に、そう特にあのロウコという男。あの男の目的は、ケイルを喰うというわけでもなさそうだ。
 “まあ奴は、誰かに雇われているという可能性は確かに大だがな。”
 請負いのハンターといったところか。ありそうな話だ。
 それはそうかもしれない、が、それを引いてもやはりどうにも腑に落ちた気がしない。なにか、なにか違う意志が、どこかに潜んでいるような気がする。
 “と言って、では何だというと何も思い付かないんだけど・・。”
 「ねえ、皆様は西方へお越しになるのでしょう。」
 リュートの思案を破るかたちでレイラがそう言った。
 「そうですよレイラさん。ゴレルの西、“石造りの塔”を探しております。」
 「あら嬉しい修道者様、もう名前を覚えて下さったのですね。修道者様は何とおっしゃいましたかしら。」
 「これは失礼しました。わたしの名はケイル、こちらは弟子のセイラと申します。」
 「ケイル様とセイラ様ですわね・・で、そうですの、“石造りの塔”へ。あれは不思議なところですわね。」
 「どこにあるかご存知ですか。」
 「ごめんなさい、存知ませんの。ゴレルの西の西の西ということしか・・見たことがあるという方にもお会いしたことはありませんわ。もっともわたしたち精というものはもともとあまり移動をいたしませんから・・魔物の方がずっと詳しいのでしょうけれど、生憎魔物に知り合いはありませんしね。」
 「そっか、魔物かあ。今度出たら捕まえて尋ねてみようかなあって魔物は言葉で話してないからなあ、意志の疎通もできやしない。
 それはそれとして移動しない花の精の女王様、こんなとこでたったひとりで何やってるの?」
 「そう、その話がしたかったのよ。皆様西へお越しになるのでしょう?途中までわたしお連れにして下さらないかしら、お邪魔?」
 レイラはリュートの手のひらの上で、ちょん、と首を傾げてそう尋いてきた。
 「レイラさんが?」
 「どこに行ってるんだきみは。」
 ケイルとリュートが相次いでレイラをさらに覗き込んでそう言った。
 「わたしもね、西へ行くの。今おつかいの最中。ここからしばらく西へ行った、ボルドラ国までね・・ねえ通り道になっていますでしょ?だからぜひご一緒させていただきたいのよ。よろしいかしら。」
 「おつかい。女王が。ひとりで。」
 「女王女王ってリュートあなたね、うちの女王なんて大したもんじゃないでしょ、あなた一番良く知ってるくせに。それに王族なんてね、大事な時に厄介なことを代表してやらせるために置いてあるだけ、特に花の精の世界ではね。そして今がその厄介、おつかいもわたしたちの大事な役目よ。」
 「どうも言ってることがよくわからないな。」
 「つまりね、ちょっとうちの国、ボルドラともめちゃって、話をつけに女王自らお伺いしなくっちゃいけなくなってるわけ。ひとりで来るようにってのは向こうの指示よ、全くいやになっちゃうわね。でも今回少々うちの方が歩が悪いからここはおとなしく飲んどいて・・。」 
 「ボルドラって人間の国じゃないのか。」
 「人間の国、ということになっているわ、表向きはね。でも実はあそこは精の一族よ、人間界じゃ知ってる人はいないけど。人間の真似なんてそんなことして何が嬉しいのかわたしにはさっぱりわからないけどね・・まあよそのこととやかく言うもんじゃないわね。」
 「もめたって何したんだ。」
 「あらそれは国家機密。」
 「わたしにも?」
 「出たきりの鉄砲玉さんが何言ってるの。」
 「はいはいすみませんね。でも・・」
 リュートはそこで芯から不思議そうな顔をした。
 「でもきみは雲に乗れるんじゃないのか?だから国もきみをひとりで行かせてるんじゃないのか?こんなところで何やってるんだ。
 それにわたしたちとだと歩きだけの旅だけどいいの?時間かかるし・・向こうだってあんまり待たせちゃ悪いだろ。」
 「いいの、期限はまだ先よ。それまでに着いてりゃ問題ないわ。
 そうね、最初は雲でひといきに行こうと思ってたんだけど・・あなたたちの話も聞いたし久しぶりに一緒に旅でもしたいなって気になって。それにね、ほら、やっぱりちょっとあんまり行きたくなかったりするから、心の準備に、ね、すこし寄り道。もちろん、もしお邪魔でなかったらってことですけど・・。」
 レイラはケイルを見上げ、リュートもケイルを見た。彼はいつものようににっこり笑って大きくうなづくと、大歓迎ですよレイラさん、と返事をした。
 「まあうれしい、有り難うございますケイル様。よろしくお願いしますわセイラ様。」
 レイラはリュートの手からふわりと飛び立つと、くるくると踊るように空を舞いながら、今度はリュートの肩に腰掛けた。その様子を実に楽しそうに、にこにこ笑ったままでケイルは眺めていた。
 「レイラさん、空も飛べるのですか。」
 「このサイズの時だけですわ。」
 「小さくなった時だけ?」
 「ええ。むしろこれが百合の精のふつうの大きさです。けれどさっきみたいに人間の大きさになっていることも多いのです。彼らの谷では普通は人間の大きさで生活していますよ。だからこそわたしも育ててもらえたわけです。わたしは大きさは変われませんからね。」
 「でも雲には乗れるわよね。わたしたち、人間の大きさの時には自分では飛べませんけど、その時は雲に乗って飛ぶのですわ。自分で飛ぶよりずいぶん早く飛べますの。」
 「ああリュートさんが雲に乗るというお話は伺ったことがありますよ。」
 「今度お目にかけるとよくってよ。リュート、曲乗りいたしますの。」
 「あれは曲乗りじゃないよ。」
 「傍から見るぶんには一緒だわ。」
 ふたりのやりとりを、ケイルはくすくす笑って聞いている。
 「あらずいぶん時間を取りましたわ、ごめんなさい。参りませんこと?皆様は皆様でお急ぎでしょう。」
 「ええ・・そうですね、行きましょうか。」
 ケイルはセイラを振り返ってうなづき、セイラも小さく応えてみせた。
 「あれ、歩かないの。」
 「いっつもこうでしょ。」
 レイラはリュートの肩に乗ったまますましてそう言い、それを聞いたケイルがまた可笑しそうに笑った。
 「大丈夫、連れていっていただいて損はさせないわ。いざって時にはちゃんとお役に立って差し上げるから期待しておいて頂戴ね。」
 「どうだかね。」
 あらやあね。そう行ってレイラはくるくると笑った。華やかになりましたねえ、と微笑んだままケイルはセイラに言い、セイラはやはり黙ってそれに少しだけうなづいてみせた。

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 「そろそろでしょうか。」
 夜もふけて、かなりあたりが冷え始めてきた。
 少しだけ寒そうに、おこした火にケイルが両手をかざしてそう言った。セイラはそんなケイルに自分の上着を脱いでかぶせ、リュートは火からちょっと離れて彼方の空をじっと見上げた。
 「来ました。」
 リュートの言葉どおり、見るうちに、夜空に小さくぼうっとした光が、流れて三人の方へやってくるのがわかってきた。それは彼らの頭上まで来てふいと消えたが、するとすぐに何やらすばしこいものが風を切る音が、ケイルたちの耳にも聞こえてくるようになった。
 「お待たせいたしました。」
 ふわりと優雅に回転すると、天から降りてきた小さなレイラはそう言いながらリュートの肩にまた腰をおろした。
 「レイラさんご無事で。」
 「ええ、ホコリもついてませんわ。なんだかすっかりお待たせして。」
 「あぶなくなかったか、レイラ。」
 「全然、もう余裕よ。この手は実に使えるわね。」
 話は前日の夕方に遡る。ゴレルの小公国群の一、ギーデンの城下町に入ろうと一同が関所(と言ってもこの辺は手形のひとつも出されているわけではなかった。単に怪し気な人間を街に入れないために目を通すというだけのものだ)を越えかけていた時、どうしたわけか四人は関所の裏手の応接間に通され、すこし待たされたあと、車で領主の館に連れていかれてしまった。
 そこで領主とやらの前に引き出された四人に、その何だかやたら品性に欠ける好色そうな男が告げて言うには、いわくそなたたちは当地方にて手配中の盗賊団に様子が酷似しておる、ただここを通すわけにはいかないが、身の潔白の証と当国への尊敬の表現として何か貢ぎ物を差し出せば許してやろう、でなければただちにとり押え牢屋に放り込む所存である云々と。
 “あーあ、また、からまれた。”
 さっぱり訳のわからない理屈を聞きながら、リュートは黙ってそう思っていた。
 実はこんな風に並べられていい加減な話を聞かされるのはこれが初めてではなかった。単に通行税をと言われることもあったし、どうだひとつ商売をしないかこの金で“そいつ”を売ってくれ、なんて、ま、わりと素直に話をもちかけてくる場合もあった。腕づくでとばかり兵士を出してきた時にはリュートとセイラが相手をし、あっさりのしたら大抵の場合は謝られて快く通してもらえたけれど、そうでない今度のような場合には、いきなりこちらから暴れ出すというわけにもいかなかった・・ケイルの手前。
 「けれどわたくし達には特に差し上げられるものがございませんが。」
 と、これはケイルのいつもの心からの台詞である。
 「ものがなければ人がおるであろう。その女を置いていくがよい。」
 “やっぱり。”
 で、つまるところどいつもこいつもレイラが目的なんだから可笑しいというかばかというか・・。
 「そんな・・。」
 例によってこれも心からケイルは当惑し、小さく何度も首を振る。
 当のレイラは(もちろん人間サイズになっている。面倒だから小さくなってリュートの服の中にでも入っていればいいのだが、考えあって大抵こういう時は人間サイズだ)、リュートから見ればこれも白々しすぎて笑ってしまうのだが、ずいぶんとしおらしい声で、ケイル様、ご心配には及びません、わたくし残らせていただきますわ、なんて殊勝な言葉を今日も吐いていた。
 「レイラさん・・。」
 ケイルは何度この場面に立たされても、同じように心配して眉を寄せる。しかしさすがに最初の時よりは手順を飲み込んでいるようであまり長くは抵抗しなかった。一番始めの時は絶対にそんなことは認められないとさんざん言いつのったものだったが、その時はレイラがそれを振り切って、さあ早く連れていって下さいませと屋敷の奥へ自らどんどん踏み込んで行ってしまっていた。途中からレイラの腹に気付いていたのはどうやらリュートひとりだったので、そのあと三人きりになれるまでの間、ケイルをなだめるのが大変だったことったら・・。
 さてところでこのギーデンでは、もう夜もふけております、今日は仲間と一緒に宿をとってもよろしいでしょうか、最後の夜になりますから、というレイラの口車に乗せられて、領主は四人をそのまま屋敷に泊まらせた。レイラはリュートと同室になってまずはその晩は身も安全である。そうしておいて翌朝早く、レイラを残した三人はギーデンを出発し、あとは全速力で逃げられる限りの遠くへ逃げた。
 まる一日分先に行ったところでとうとう夜が来て・・リュートは炎に百合族の香を投げてレイラへの合図とし、ケイルは至極心配しながら、セイラはとりあえず顔には何の色も出さないままで、屋敷を抜け出してくるレイラを待つ、と、これはすでにいつも毎度と同じパターンの行動だった。
 「レイラさん、本当に毎回問題はないのですか。本当は命からがら逃げていらしてるなんてことは・・。」
 「全くありませんわ、いつもとっとと出て来ますの。だって誰もわたしが小さくなるなんて思っていませんもの、いつもいきなり小さくなって、消えたと思われているうちに外に出てきてしまいますわ。あとは雲に乗るだけ・・乗ってしまえばまず人間でわたしに追いつける方はいらっしゃらないと思いましてよ。」
 そんなことのあったあとは大抵その場で野宿となる。ケイルが眠ってしまい大人三人だけになると、レイラがリュートに座ったままにじり寄り、今回は何か収穫があったか、と尋ねてきた。
 「ああ、お土産がわりにたくさん食料もらってきたよ。食事の世話してくれたひとがいい人でさ、あれもこれも持ってけってそりゃどっさり。」
 「そうよかったわあ。ケイル様、お金とか食べ物とかそういうことにまるで無頓着なんですもの。何日間か食べなくったって平気です、なんて育ち盛りの人間にそれはよろしくないわよねえ。いくらお金の用意があってもいつもちゃんと宿に泊まれるとは限らないし。」
 今回は食べ物をそれもきちんと「分けて」もらうなんて可愛いもので済んでいたが、実際申し出があった時にはレイラを「売って」現金をせしめたこともあったし(その時の価格交渉は口数少ないながら「世故にたけた」セイラの役目となった・・もちろんケイルには内緒で。)あんまり嫌な相手だった時は、セイラが昔とった杵柄で、リュートに手伝わせて屋敷の宝物庫をあとも残さず破ってきたこともあった。修道者様のお弟子にあるまじき行為よ、とレイラにからかわれてもセイラはすまして笑っていたし、リュートはいいんだそもそもきみに下卑た考え抱くあたりから向こうが無礼なんだから、これはちょっとした慰謝料さ、とおよそ社会生活と縁遠かったはずなのに妙にこなれた用語を使って胸を張っていた。
 「ね、わたし、連れてきて役に立ってるでしょう。」
 レイラがにっこり笑ってそう言うと、
 「確かに。でもきみがいるからこそこうした厄介に巻き込まれてるって面もあるんだけど。」
と、リュートがわざとそう返した。
 「ああら、そうとも限らないわよ。今のとこわたしが一見派手だからこうなってるけど、例えばケイル様だって、あぶないと言えばとってもあぶないんじゃないかしら。」
 「きみ、こわいこと言うなあ。」
 「そうでもないわよ・・そういえばケイル様、どうしてわたしが欲しがられてるかなんてこと、もうわかっていらっしゃるのかしら?」
 「・・働かされるとでも思ってらっしゃるんじゃないか?まあせいぜいわきに侍ってお酌とか。」
 な?とリュートがセイラを見、セイラは小さく肩をすくめた。
 さてそんなことがあって幾日かあと。
 四人はまたも、城下町に入ってすぐに兵士に呼び止められ、領主の館に連れてこられて、やたら装飾品のあるずいぶん立派な広間の、三段高いところにある椅子の前に並べられて立たされていた。今度の国はランナンといい、今まで通ってきたところよりは全てにおいて若干規模が大きく、国としての体裁もずいぶん整っていた。
 だから今回の相手は領主と呼ぶより国王と呼んだ方が実際に近いような気分にさせられたが、四人の前の椅子に座るその国王はめずらしく年若く、丁度セイラと同じ位と思える年頃で、細面で色白で、すっとした鼻すじと眉、涼し気な目許にまっすぐでさらさらな美しく伸ばされた長い黒い髪の、ちょっと垢抜けた美青年だった。とはいえ彼の座り方といえば椅子にやや斜に掛け肘掛けに肘を置いてからかうように人を見るといったもので、これは若干、お行儀の良いとは言えない態度ではあった。
 “ふざけた奴だ。”
 彼をひと目見るなりリュートは思った。
 “しかも厄介なことにこの男、ばかではない。”
 彼女にそう評された国王は、至って明るいはきはきした声で、一同に向かって呼び掛けてきた。
 「・・ランナンへようこそ諸君、突然呼び立てて悪かったね。わたしはジュンナ王。この国のあるじをやっている。」
 「拝謁賜りまことに光栄に存じます、陛下。」
 こんなことをまずさらっと言うのはやはりケイルである。
 「わたしは旅の修道者ケイル、こちらのお二人は縁あってご同行下さっているリュートさんとレイラさん、こちらが弟子のセイラでございます。」
 「ケイル殿に、リュート殿レイラ殿、セイラ殿、とね。そうかそうか、実によろしい。」
 何がよろしいかさっぱりわからんぞ、と素知らぬ顔の下でリュートは思った。
 「さてお呼び立てしたのは他でもない。あ、ケイル殿、もすこし近くへ・・そう・・そのあたりで良いよ。
 そうそう、それでだね、わたしには一寸した蒐集癖があるのだ。で、わたしのコレクションにぜひとも加えたいものを見つけた時には、代価は惜しまず譲ってもらい、何としても手に入れることになっている。」
 「はあ。」
 「で、どうも見たところあなたはそれをお持ちのようだケイル殿。ものは相談だが是非ともお譲りいただくようお願いしたい。」
 「ええお役にたてることでしたら・・けれどわたくしは特には何も持ち合わせておりませんが。」
 「いやいや立派なものだよ、稀少かつ極上だ。それも二人も・・。」
 「二人?」
 「よい女というものはね、他のどの宝物をも凌ぐ輝きの宝なのだ・・ってのがわたしの持論でね。しかも他より多く楽しめる、実に奥が深い。蒐集する対象としてこれに如くものはあるまいよ。」
 「・・。」
 「・・。」
 「・・。」
 ジュンナの物言いにケイル、リュート、セイラの三人は思わず絶句した。レイラも同じく口を開きこそしなかったが、こちらはそういう言動の男にも慣れているのか、他の三人ほど呆れてはいないようだ。
 「というわけでケイル殿にはぜひとも二人をわたしにお譲りいただきたい。」
 「お言葉ですが陛下、リュートさんとレイラさんはわたくしのものではありません。“わたしの”でもなければ“もの”でもないのです。」
 諭すようにケイルがそう言うと、
 「あっはっは、わかっておるよ。言い方に問題があったようだ、わたしは特に女はものだと言っているわけではないのでね。しかし男にせよ女にせよそして本物の物質にせよ、わたしは欲しいと思った対象は必ず手に入れる。中でもわたしは女には特に関心が高いのだ。」
 「それは陛下のご趣味というものかもしれません。この場でそれについてとやかく申し上げるのは差し控えますがしかし先程も申し上げましたとおり、このおふたりはわたくしの一存でどうこうなるものではございません。」
 「ふむ、では聞こう。リュート殿とレイラ殿といわれたな、そなたたちわたしの宝になる気はないか?もちろんそれにふさわしい待遇の用意はあるぞ。」
 レイラは腰をかがめて、わたくしには勿体のうございます、とやんわり断り、リュートに至っては小首を傾げてきょんとしたまま、返事さえしようとしなかった。
 「そなたはどうだ。」
 「わたしはケイル様と行きます。」
 「贅沢はさせてやるぞ。暑さ寒さとも疲れとも無縁になる。」
 「そのようなものは厭いません。わたしはケイル様と共におります。」
 「ふうむ。」
 ジュンナは至って上機嫌でそう唸った。
 「あっさり袖にしたな、そうだろうと思った。おまえたちはそういう女だ。そこが実によろしい。」
 「恐れ入りますわ。」
 「敢えて教えるがわたしの申し出をそんなに簡単に断る女は珍しいのだぞ。この国の者はもとより、旅の者であっても・・。しかし手に入らぬとなると余計に欲しくなるのは人の性だ。」
 「左様ですの。」
 「ではしばらくの間だけここに留まるというのはどうだ。いずれは師匠と共に行かせてやろう。まずは一晩でもよい、おまえたちがわたしと夜を過ごすと言うのなら・・」
 「陛下!」
 リュートは思わず大声を出した。
 「場所をおわきまえ下さいませ。」
 言われたジュンナは一瞬ぽかんとしたが、すぐに、おおそうかという顔になり鷹揚に何度もうなづいた。
 「そうかそうであったな、失念していた。うん・・ではこれではどうだ?」
 嫌な予感をリュートが感じたのと、がたん、という唐突な音がしたのはほぼ同時だった。いきなりケイルの足元の床が開き、彼の小さな身体が暗い穴にすとんと落ちて、広間の一同の目の前から消えた。
 再度かたん、と音がして、床は閉じ、もとの、からくりひとつ感じさせない、モザイクの敷かれた洒落た平面に戻ってしまった。
 「ケイル様!」
 「貴様あっ!」
 リュートは気色ばんだがジュンナは椅子の上でからから笑って落ち着き払って言って寄越した。
 「心配するな、あれは只のすべり台だ。なかなか楽しいぞ。わたしも子どもの頃は無理言ってよく滑らせてもらったものだ。下の部屋も立派な客間だ・・窓はないけれどな・・一級の客としてきちんともてなす。害も与えないから安心しているがよい。」
 「これが安心していられるか、ケイル様をすぐ返せ!」
 リュートは背中の棒を右手に構え、一振りして両端に刃を装着させた。返せと言われて素直に返すわけはないからここは実力行使だろう。最早遠慮はいらない、とっとと片付け・・
 「おっと。」
 しかしジュンナは、そんなリュートに右手の人さし指を一本立ててちょっと待て、という仕草をした。
 「よく考えた方が良いぞ、大事な師匠が誰の手の中にあるか。おまえたちの出方に寄ってはあの子の身に何が起こっても不思議ではない。」
 「うっ・・。」
 「ま、おとなしくしてなさい、わたしも根は大変優しいのだ。困ったことさえしなければ無闇なことにはけしてならない。と、いうわけでおまえ。」
 ジュンナは今度は左手の、豪奢な扇子でリュートを指した。
 「今夜はわたしの相手をしなさい。」
 「なっ・・。」
 リュートは思わず愛用の棒を取り落としそうになった。
 「ばかな・・。」
 「ばかじゃないでしょ今まで一体何を聞いていたのかな。大丈夫、ちゃんとわたしが忍んで行ってやるからおまえは部屋に居れば良いのだ。なあ、わたしって優しいだろう?」
 そういう問題じゃない。
 「陛下、わたくしではいけませんの?」
 そこにレイラが唐突に口を挟んできた。いつもより心持ち鼻にかけた甘えた声になり、目元にすこし憂いの色をのせて半分ばかり科を作っている。
 くちびるに中指をかすか掛け、長い睫毛の下から意味なくうっとりと、とばかりに、けれどやり過ぎない程度に自分を見遣るレイラの視線に、ジュンナは満足そうな笑顔でうなづいてみせた。
 「やあいい女だねえ、もちろんおまえのことも忘れてはいないよ。ただ今日の気分はこっちというだけでね、おまえが彼女より魅力がないなどとそういうことはけしてないのだ。おまえは明日に取っておきたい、わかってくれるかな?」
 ま、いじわる、と言わんばかりの目をしてレイラはわかりましたわ陛下、と答えたが、内心はうーん参ったな、と思っていた。いざとなれば自分なら、本来の手のひらサイズに戻れば手を出そうったって何も出来なくできるから、最悪身体だけは守り切ることができる。しかしリュートにはそんな芸当、望むべくもないのだ。 
 「うん、では各自部屋を与えるからゆっくり休むように。セイラ殿と言ったな、そちらも歓迎する。旅の疲れでも癒して行きたまえ。
 では、こちらたちをご案内するように。食事もあとで運ばせよう。ご苦労であった。」
 リュートとセイラは一瞬目を合わせたが、ここでやっぱり暴れるわけにはいかない、という点でお互い意見は一致したようだった。
 リュートは次にレイラの目を見た。心配ないよ、と彼女はレイラに胸の内で告げると、ちょっと息をついて、彼女をいざなう女官の後ろにおとなしく従って広間を出て行った。
 次にレイラが最後にセイラが、それぞれ兵士や女官に付き添われて外に出る。三人が行ってしまったあとで、今までずっと王のすぐそばに控えていた若干年嵩の男が初めて口を開きジュンナに言った。
 「いささか強引でございましたな。」
 「そうか?いつものことではないか。」
 「人質をお取りになったのは初めてです。」
 「そうだったか?いやあしかしあれらはどうしても逃せないからなあこのわたしとしては。ま、客人のもてなしよろしく頼むぞ。第一級の扱いだ、手抜かりなきよう。」
 「心得ております。」
 「もちろん見張りもぬからぬようにな。地下の子の方も忘れるな。大事な人質殿だからな。」
 「それだけでしょうか。」
 男はそう言い、ジュンナは彼をちらりと横目で見ると、ふふんと鼻をならして笑って言った。
 「喰えん男よな、シンム。」
 「おそれいります。」
 ジュンナはさっと立ち上がると、書庫に行く、と広間に控える一同に妙に高らかに宣言した。兵士は一斉に気をつけをし直し、扉は開かれ、女官は優雅に全員同じ角度で腰をかがめる。
 広間を出るジュンナのすぐ後ろにシンムと呼ばれた男がつき、その後ろをやたらぞろぞろと、鎧を身につけた兵士の一団がついて歩いた。
 それはなかなか壮観なものだった。先頭を行くジュンナは相も変わらず至って機嫌の良い様子で歩いていたが、その腹の中が見かけほどには単純でないことを知る者はその場には、彼のすぐわきを歩くシンムの他には実は皆無に等しかった。

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 「セイラ・・セイラ!」
 その日の夜。
 自分を呼ぶ声にふとセイラが目を覚ますと、そこは彼にあてがわれた立派な部屋のソファの上で、こうこうとついた部屋中の明かりの中、気付かぬうちに彼はそこで眠りについてしまっていたらしい。
 「レイラ。」
 どこからいつの間に入ってきたのか彼の目の前にはレイラが立って、軽く腕組みをしてセイラをみおろしていた。セイラはソファの上で身を起こすと、やけにまだ重たい頭をひと振りふた振りして目を数回しばたたかせた。
 「まあ、あなたったら友だち甲斐のない。リュートの身が危ういっていうのにこんなところでうたた寝?」
 レイラがいつもの調子でにこにこ笑いながら、からかうようにそう言った。
 「いつの間に・・。」
 「食事に一服盛られていたみたいね。わたしたちが怪しい動きでもすると思ったんじゃないのかしら。」
 「眠り薬か。しかし薬が入っていればある程度俺には・・。」
 「ええ、でも新種だったから。」
 レイラは小首を傾げて考え深そうにそう言った。
 「新種?」
 「めずらしい配合よ、ここは薬学は発達してるみたいね。」
 「詳しいな。そういえばあんたは食べなかったのか。」
 「薬と言えばこのへんじゃ薬草が主原料でしょ。植物と言えばこのわたし。伊達に百合の女王やってないのよ。ちょっと舐めれば大抵のことはすぐわかるし、何より植物を使った毒の類はわたしには全く効かないわ。」
 おいしかったわよね、とレイラはまたもにっこりしてそう言った。そういや花の精にしちゃ何でもよく食べるよな、とセイラは妙なところであらためて感心する。
 「どこから入った。」
 「んー、窓がちょっと空いてたから。ちっちゃくなって部屋抜け出して飛んで来たの、毎度の手口よ。来る時見てきたけどこの辺りの廊下やたら兵士がうようよいるのよね。他所にはそんなにいないから、わたしたちったらよっぽど用心されてるんだわ。ま、でもあなたと一緒ならあの位平気・・さて大丈夫かしら、身体は動いて?よければそろそろ始めたいんだけど。」
 「始める。」
 「ええ、わたし今からあのふたりを助けに行くの・・行くわよね?」
 「ああ行くさ。」
 セイラは立ち上がってちょっと伸びをした。こういうのに備えて気のすすまない食事もあえて取っておいたのだ。薬の類いには彼も、以前の生活柄、少々の耐性は身についていた。頭も身体もすでにすっきりと目覚めている。
 下調べはばっちりよ、道案内は任せてね、とレイラはくるくると笑って彼にそう言った。

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 「・・。」
 無駄に豪華な部屋だな。
 その日何度目かにリュートはそう思った。
 女官たちに無理矢理着替えさせられた、まっ白でつやつやすべすべの、肩口のあいたドレスがどうにも着心地が悪い。リュートはその着慣れぬ衣を身にまとったまま、実に暗澹たる心持ちで、これも無駄に広いと思われる、白でまとめられた寝台のふちに腰をかけて所在なげに部屋中を眺め回していた。
 自前の服と大事な棒はむこうの衣装棚に放り込まれて、それにはこれ見よがしの重そうな南京錠がかけられている。まあこの部屋にはやたらいろんなものがあるし、どれを使ってもあのくらいの棚壊せないことはないけれど、果たしてそれをやっていいものかどうか・・それほどいけなくもないかな・・。
 “そろそろあの男、来るのだろうか。”
 あーいやだあーいやだあーいやだ。
 リュートは腕組みをし、難しい顔をして天井を見上げた。ここはひとつ、扉のわきに潜んでおいて、奴が入るなり昏倒させるというのはどうだろう。それでもって縛りあげて、そのまま出てってケイル様を探す。奴が命令をしなければ誰かが勝手にケイル様をひきずり出して楯に取るということもないだろう。その前にこっちが地下とやらを襲撃してケイル様をお助けしてしまえばなんとかなるのではないだろうか。スピーディーに事を運べば・・しかし奴の傍にはなんだか参謀のような男がいたな。あの者少々切れ者のように見えたが・・。
 “ま、とにかく。”
 リュートは寝台からぽんと降りるとつかつかと衣装棚の前まで向かった。とりあえずやっぱり持ち物くらい返してもらおう。見つかったってこの位、さして咎めだてされるほどのことでもないさ・・
 「やあ、待たせたな。」
 「うわあっ!」
 いきなり頭のすぐ後ろでジュンナの声がし、さすがのリュートもこれには心臓が止まるのではないかというほど驚いた。急いで振り向くと、そこには本当にあのジュンナ王がもって極めて愛想良く立っていて、にこやかにリュートの顔を見下ろしていた。こうして並ぶとこの男案外背が高い。
 「どこからわいた。」
 「困るなあひとを人間以外みたいに。実は内緒なのだがうちの城には隠し通路がどっさりあるのだ。もちろんこの部屋にも通じている。そもそもわたしが忍んで来るのに普通の廊下をぺたぺた歩いてくると思うか?そんな色気のない真似はわたしはしないぞ、興醒めではないか。」
 「はあ・・。」
 しまったその手があったか。そんなことならもっときちんと部屋を調べて、とっととこちらから出てってやるんだった。
 そんなリュートの思いを知ってか知らずか、ジュンナは彼女をしげしげと見つめると、例によって満足そうにうんうんと小さくうなづいた。
「昼間の服はぴったりだったがこのような格好もよく似合うぞ、思ったとおりだ。どうかな、着心地は。」
 「あまり良くない。」
 「そうか慣れぬからな。心配せずともすぐに脱ぐのだ、もうしばらくの我慢・・。」
 それを聞いてリュートは心底ぞっとした。
 ジュンナは一歩前に進み出て一層リュートに近付くと、その手をとって両手で握りこんだ。
 「さてこのお嬢さんはどういったのがお好みだろうかな。野性的に押し倒してもらいたいか、それともゆっくり甘くささやいてもらいたいか・・。」
 どっちも願い下げだ、と一応リュートは、それはさすがに口には出さない。
 「おや、こわいのだね?まあ無理もないか。しかしおまえのような女がそんなふうに何かを怖がるというのは滅多にないことなのだろうねえ。たまには良いだろう、人間の幅が広がるぞ。」
 ・・何だか猛然と腹がたってきたぞ・・。
 ジュンナはさらに一歩リュートに迫ろうとし、リュートは思わず一歩退いて、その手をとられたままジュンナとの距離を同じくに保った。ジュンナは懲りずにまた一歩近付いてくる。
 「寄・・寄るな。」
 「それはできないなあ。」 
 「寄るなって。」
 「おとなしくしなさい。」
 「う・・。」
 な・・殴りたい・・。
 リュートはこのままジュンナを殴って逃げ出したい衝動にひどく駆られていた。しかしやはり彼女はこんな時でもどこか冷静で、やたらに乱暴を働くのはこの際上手くない、とも思っていた。無闇に殴って逃げたって、ケイルの身の上が危うくなるだけの話である。
 どうせやるならせめてしっかり昏倒させてしばらく目覚めない、くらいまでにしておかなくては動きがとりにくい。とはいえ、先ほど企んだように不意をついてのすならともかく、こうまで正面から相対していて(しかも手までとられていて)声も出させずに蹴りをきめるにはそれなりの体勢とタイミングってものがある。今はだめ、今はちょっと勝算が薄い。とはいえ。とはいえ。とはいえ・・。
 “ええい。”
 リュートは観念・・しようとした。結局のところ何をされたって、つまりは身体に触られてるってだけのことなのだ。これはただの接触にすぎない・・だからって身体のどこかがおかしくなるわけでは・・多分・・ない。
 それだけだそれだけだ表面的なことなのだ。大したことでは・・えーっと・・ないのだ。ここは様子を見、隙を見ないと、何といってもこちらはケイル様を取られている。腕に覚えは大変あるが、この男どうもろくでもない仕掛けを持っている気がされてならない。今はケイル様の身が第一、ケイル様のためだ、ケイル様のためだ、ケイル様の・・。
 ジュンナが片手をリュートの手から離し、それをそのまま彼女の頬にあてる。心持ちその手がリュートの顔をすくいあげ、彼女は覚悟をきめようとぎゅっと固く目を閉じる。目をつぶっていたって、ジュンナの顔が近付いてくるのなんざ丸わかりである。ケイル様のためだ、ケイル様のためだ、ケイル様の・・
 “!”
 しかし。
 反射的に、本当に反射的に、彼女の努力に反しリュートの身体は反応していた。彼女はジュンナの手をふりほどくと、彼の腹のあたりに拳固で一撃をお見舞い・・まさにしている自分に気付き、リュートははっとする。
 “まずい!”
 だが次の瞬間、自分のこぶしが空を切ったのを感じてリュートはさらにえっと思った。
 見ればジュンナが驚くべきバネを見せ、身をひねり、天井近くまで高く飛んでリュートの一撃をかわしていた。
 彼は空中で今度は攻撃の姿勢に転じ、重そうな蹴りをリュートめがけておろしてくる。彼女はそれを腕で受け止めて弾いてのけた。と、ジュンナはくるりと宙で回転して、そのままぴたりと見事に着地を決めてしまった。続いて彼はきれいな、しかし独特なかたちの構えをとる。リュートも構え返して彼と対峙しながら、内心はずいぶん驚いていた。
 この男・・わたしの拳をかわした。
 どうせ素人だと思っているから無意識のうちにでも手加減はしているのだが、それにしてもこうもあっさりよけられるものではないはずだ。おまけにこの反撃、この構え、そうかこいつ手練れだったか・・。
 “道理で蹴りが入れにくかったわけだ。”
 迂闊に手を出してはいけないと思ったのは、リュート自身彼のこの気配を察していたからかもしれない。
 “それにしてはうまく力を隠していたな。”
 なるほど・・なるほど真の強者か。
 “おっ。”
 ジュンナの鋭い回し蹴りが二度、三度と連続してリュートを襲った。彼女はそれも、あるいはよけあるいは腕できれいに受けてふと身体を沈め、ジュンナのすぐ鼻先に現れ手刀を入れようとする。今度はジュンナがそれをよけきって、二人はまた間を空けて、互いに対峙する姿勢に戻る。
 “・・面白い。”
 リュートの顔に、にやりとした笑みがうかんだ。
 “手加減する必要がないということか。”
 構えをくずさないままに、ジュンナがくっくっと楽しそうに笑って言った。
 「わたしを甘くみていたな。」
 「ああ、いかにも。」
 「伊達にランナン王家に生まれておらんよ。王族はランナン拳法の正しい継承者でなくてはならないからな。国王といえば総師範も兼ねねばならん、幼い頃からたっぷり叩き込まれてね。良かったら今度特別に手ほどきをしてやろう。」
 そんな言葉が魅力的に思える自分も自分だ。リュートは一寸苦笑いをする。
 「独自の拳法があったか。」
 「ゴレルでは有名なのだが。」
 「不勉強であい済まなかったな。」
 「なにわたしもお前の型は初めて見る。今度教えてくれぬか。手取り足取り・・。」
 「おまえが言うと何だかいやらしいなあ。」
 おやおや妙に和んでしまったぞ。
 リュートは先ほどよりもうちょっと本気を出して、ジュンナをのそうと打ってかかった。しばらくは火花も散りそうなふたりの技のぶつかり合いが続く。ああもうこの服何とかならないのか。ひらつくドレスの裾がリュートにはやたら厄介だった。だからこんなもの着たくなんかないんだ。
 リュートのこぶしがジュンナの鼻っ柱を襲い、彼はそれをあっさり受け止めた。取られたリュートはしかし慌てもせず手首を捻って外れようとしたがそこでジュンナの強い声が響いた。
 「ちょっと待った!」
 「・・?」
 思わずリュートは本当にちょっと待ってしまう。
 「何かとっても大事なこと忘れてないかな?」
 「大事な・・あっ。」
 いかん。本当に忘れていた。
 「そうそう思い出したね、おまえたちの大切なお師匠様。わたしに拳なんかくり出していいのかなあ、わたしの機嫌を損ねれば、あの子の首なんてすぐ飛ぶよ?そうだな、うん、そういうことにしよう。今から少しでも妙な動きをしたらわたしは即刻兵を呼ぶ。おとなしくしなさい。」
 「うっ・・。」
 リュートはくちびるを噛み締めて、次の一手を何とか考えだそうとした。その間にジュンナはリュートの背中に腕を回し、上手いこと例のやたら広い寝台の脇へ誘ってしまう。
 彼女はそのまま寝台の上に倒しこまれ、そこにジュンナが、彼女に被いかぶさるようにのしかかってきた。
 「こらこらまた動く。師匠がどうなっても良いのかな?」
 「ひ・・卑怯な・・。」
 「何を今さら。」
 まあそりゃそうだけど。
 ジュンナのさらさらとした長い髪が、ヴェールのようにリュートの顔のそばを揺れている。なんだか緑の香りがする・・この伊達男・・。彼の長い指がリュートのあごの骨の上を、耳の下からそっとなぞっていった。最早これまでか。リュートはまたも、固く固く目をつむった。
 “ケイル様・・!”
 どこっ、と何やらくぐもったでかい音がした。
 続けて誰かが、リュートたちふたりのいる部屋の飾りだらけの大きなドアを、外から派手に蹴り飛ばした。扉は砕けて、ぱっくりと穴が開き、そこからとりあえず二人の姿が、このだだっ広い部屋の中に飛び込んできた。
 「レイラ!セイラ!」
 それは、手のひらに何やら小さなものを転がしているレイラと、ケイルを両腕で抱きかかえたセイラの姿だった。それを見たリュートはあっと言う間にジュンナの腕の下から逃れると、そこにあった重そうな置時計を掴みあげて衣装棚に二、三度打ち付け、あとはやはり扉を蹴りとばして中から自分の服と、大事な例の棒をひっぱり出し、レイラとセイラのそばに駆け寄った。
 「あらリュートったら似合うわね。」
 「頼むよ、きみまでよしてくれ・・まあ助かった、ありがとう。ケイル様すみません、これを。」
 リュートはセイラに抱えられたケイルの膝の上に自分の服をぽんとのせると、愛用の棒をかしゃりと鳴らしていつものように刃を引き出した。
 「なかなか上首尾だね。」
 「ええ、行きはらくだったわ、セイラがいたから・・。でもセイラの両手がケイル様で塞がっちゃったんで、ケイル様見つけてからここまで来るのに火薬いっぱい使っちゃった。また作らなきゃ。」
 「これからどうする。」
 「外に出て雲に乗るしかないわね。」
 「了解。一気に破ってつっ走るぞ!」
 リュートは手の中で棒をくるくると回してしっかり握り直すと、肩ごしにセイラを見遣ってうなづいて見せ、すぐに破れたドアから一番先に飛び出していった。レイラは素早く、膝を曲げて小さなお辞儀をジュンナにしてからリュートに続き、セイラはこの仰らしい部屋の内部にちらりと一瞥をくれてから、やはりふたりに続いてドアの穴から外に駆け出していった。
 廊下がやたら騒がしくなり、三人を追う兵士の怒号と足音が響いてくる。それらは部屋の前を荒々しく次々と通過していったが、やがてひとり、その中から、部屋の中へドアの穴をくぐって入ってくる者があった。
 「陛下、ご無事で。」
 その男、シンムは相変わらず落ち着いた足取りで、寝台の上にあぐらをかいて座っているジュンナのそばに近付いてきた。ジュンナはそこで、ちょっと目を丸くして何だかぽかんとしていたが、やがて天を仰ぐと心底愉快そうに、まさに呵々大笑し始めた。
 「陛下。」
 「気に入った!これは一夜の伽どころの騒ぎではない。まるごとすっかりわたしのものにしてやる、見ているがよい。」
 「は、どちらの姫でしょうか。」
 「どちらもだ!」
 ことここに至ってジュンナは本当に上機嫌だった。
 「旅支度をせよシンム。おまえも、そしてわたしの分もだ。あの者たち、わたしからけして逃れられぬということを身をもって思い知るがよい。」
 「御自らですか。」
 「ああ、リョクマを呼べ。それと連中にも召集をかけておけ・・うむ旅もひさしぶりだな。これは面白くなりそうだ。」
 「・・直ちに支度を整えます。」
 「うむ、頼んだぞ。・・待っておれよあの者ども。あれらにはわたしの元こそふさわしいのだ。それと・・。」
 ジュンナはふと、底知れぬ目をした横顔をシンムに見せて続けた。
 「あの修道者もな。」
 御意、とシンムは短く言って頭をさげた。
 一方、部屋から逃げ出した四人は、廊下をどんどん走ってレイラの案内で外に向かった。行く手に立ちふさがる兵士達は、レイラの火薬とリュートの鬼のような猛攻にあい、たちまち次々と蹴散らされていく。
 とうとう四人は城の正面口から表へ出た。整然と手の入れられた中庭に一歩踏み出すと、リュートとレイラは空に、何かを探すような視線を送った。すると彼方から凄まじい勢いで白っぽいものがふたつ・・あまり厚みはなく雲というより小さな絨毯のようなそれらが滑るように降りてきてリュートとレイラの足元で止まった。
 「セイラ、ケイル様を。」
 レイラはセイラに、ケイルを下におろすよう頼むと、リュートの服を持ったケイルのその身体を両手で抱き締めるようにして持ち上げ、一緒に自分の雲に乗り込んだ。
 “あ、取られた。”
 それを見てリュートはちょっとだけ苦笑いをする。ま、馬力はわたしの雲の方があるわけだし、順当といえば順当なんだけどね。
 「仕方ない、セイラ、乗れ。乗ったらわたしにしっかりつかまれよ。」
 「何?」
 「雲はもともとひとり乗りだ。おまけに人間は乗れなくなっている。ただしおまえがわたしにぴったりついているのなら・・わたしの持ち物、といった感覚で一緒に乗ることはできるだろう。ちょっと重量オーバーだけどな。わかったか?わかったら遠慮はいらん、すぐに乗れ!」
 セイラは黙ってリュートの雲に足をかけた。そのあとからリュートが飛び乗り、セイラの前に立って手印を切る。
 「ちゃんとしがみつけ、遠慮するなと言ったろう!」
 「あ、ああ・・。」
 セイラはリュートの後ろから、その背中に胸をぴったり合わせて彼女の肩を抱きかかえた。
 「速力出すぞ、飛ばされるなよ!」
 リュートが言い終わるのを待たずに、ふたりの乗った雲は一気に駆け出してあっという間に天高く舞い上がり、そのまま風を切って夜空を一直線に走っていった。そのうしろをケイルを乗せたレイラの雲が、それを追うように尾いて走る。
 「大丈夫か、セイラ!」
 「ああ、おまえこそ。」
 「うん、あとでこの雲いたわってやらないとな。」
 セイラが少し笑ったのを、リュートは風のうなりに混ざって右の耳元すぐに聞いた。身体に叩き付けられる空気の中で、背中のセイラの体温がやたら暖かく感じられた。
 「落ちるなよ、セイラ。」
 リュートは風の中、その顔を高くあげてまっすぐに前を向いた。
 「もう少しで下におりるからな。」
 その頃ランナン城の一室では、例のジュンナ王が窓辺にひとりもたれ、明るい月の夜の中、空を駆け抜けた二つのかげを、消えてしまってもまだ見送るように眺めていた。その目はおよそ見られないほどに和み、口には素直な微笑みが浮かべられている。彼はふと、天から目を切るとさらにふっと微笑い、窓枠に乗せた深紅の酒を持ち上げてそれですこし舌を湿した。
 “待っておれよ、リュート、レイラ。”
 貴様、と自分に怒鳴ったリュート、最後に小さくお辞儀をしたレイラの顔が、ふわりふわりと浮かんで消えた。
 “おまえたちはわたしのものになるのだ。”
 「陛下。」
 扉の外で誰かがそう呼ぶ声がした。
 「リョクマか。入れ。」
 ジュンナの返事に応えて部屋の扉が開かれる。入ってきた人影に向かってジュンナは相変わらずの笑顔をむけ、よお、と右手の酒を小さく上にあげてみせた。



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