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一・旅立ちと月下の出会い

 紅い。
 まだ明けぬ闇の中、大地より出で木々を舐めた紅い熱の塊は、どろどろと断崖を走り抜け、そのまま何の未練も見せずに次々と真下へ広い水の中へ、流れるように落ち続けていた。正と負の熱の入り混じるあたりでは、光と風と力が弾け飛び、色とかたちは失われていた。強いていえば真っ白が・・只の白が、白とも言えぬ空白をそこに広げて他の何者をも拒絶していた。
 リュートはしばらくそれを見ていた。彼女はこの様子を見ているのがとても好きだった。彼女のいわゆる“雲”に乗って、まっ黒にたたえられた湖の水のはるか上空にまっすぐに立ち、惑う風にその黒く波打つ長い髪(それは頭のうしろ高いところで一旦ひとつに括られたあと、またぞろりと背中に流されていたが)を乱れるに任せながら、凛としたその横顔で、リュートはその壮大な転換劇を、ただじっと見つめていた。
 やがて彼女の表情が動いた。朝のにおい。
 “夜が明ける・・。”
 リュートはふわりと“雲”の向きを転じると、すべるように湖上から陸へと立ち去った。そのままそこにいて朝を見るのも好きだったけれど、今日は何だか、もう帰ろうと言う気分になったのだ。
 すこしひんやりとし始めた風を切って、リュートは宙に筆を走らせるように、なめらかに流れるように洞へ飛んだ。そこからしばらく行った先の、乾いた砂と赤い土の大地サーク。そのほとりの自らの洞へ・・。
 彼女は今は、その荒れ地の案内人。
 一部には“サークのリュート”と呼ばれることもあった。

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 木々の枝や葉が幾重にも重なったその奥の奥。誰も知らない薮の向こうに、いきなりからりと開けた場所があった。
 広々としたそこは深い深い岩壁の底にあり、大きな葉を持つ背の高い木が数本、薮から離れて点在していた。向こうの壁にはぽっかりと黒い大きな穴が穿たれ、それがリュートの棲む洞の入り口となっていた。
 岩壁のそば、巨木の足元の木陰の中に、石でできた平らな白い台がある。黒い髪のリュートはその上に、これまた白い大きなさっぱりとした布をかぶって、すやすやと気持ちの良さそうな寝息をたてていた。
 あたりには、まだ昼を迎えない前の、瑞々しさを残した明るい日の光が満ち、さらさらと軽いそよ風が時折リュートのほほを撫で髪を揺らしていた。白い布からは、これもまぶしい真珠色の、彼女の剥き出しの腕や脚が少しづつはみ出して見えている。白い布の下のリュートは文字どおり、一糸纏わぬ姿だった。
 かさ、と薮の葉がこすれた。
 さらにがさがさと人がそれをかき分ける音、すぐに続いて、まだ幼い、透き通った、そしてはっきりとした優雅な発音の声が、穏やかなリズムで呼び掛けるのがあたりに響いた。
 「あの・・すみません。」
 リュートの耳には入っていない。
 「すみません・・いらっしゃいませんか?いらっしゃいませんか、リュートさん・・。」
 大きく葉が揺れて、その陰からひとりの少年が、岩壁の前の広場に踏み出してきた。声のとおりまだ幼い。十二、三歳前後というところだろうか、透けるような肌に測って造ったとした思えないような整った顔だち、髪はどこまでも長く、まっすぐで細く、軽く明るい、色味のない黄金色をしている。
 白い、彼には少し大きめの衣を纏ったその少年は、広場にふみ出すと、きょとんとした目であたりをくるくると見回していた。
 「うーん・・?」
 そこでリュートが半分目を覚まし、事態を把握しないまま石の上で身を起こした。白い布がはらりとずれて、リュートのなめらかな肩がふとあらわになり、脚は膝まで表に出た。
 「うん?」
 「わっ!」
 まだ寝ぼけているリュートが少年の方へ顔を向けたのと、どうにか胸元を隠してさらけ出されたリュートの肌に少年が気付いたのはほぼ同時だった。少年は大慌てといった風で、彼に続いてがさがさとやってきた黒い人影を両手で押し戻し、再度薮の中に押し込んだ。
 「あ・・。」
 おとなしく少年に押し込まれたのは、リュートからはちらりとしか見えなかったが、背の高い、若い男のようだった。
 「ケイル様?」
 「いけませんセイラ、戻って戻って・・わたしも行きます。」
 「はあ・・。」
 やがて二人は木々の間にすっかりまた引っ込んでしまった。リュートはちょっと苦笑いをし、石の台から降りて着物を取りに向こうの茂みに軽やかに向かった。失礼なことしちゃったかな。何せ滅多にこんなとこ、お客さんはないもんだからさ・・。
 「お待たせ致しました。」
 リュートは服を着けると先程の二人が消えた茂みの方に進み、葉っぱを掻き分けた。少し向こうにはさっき見た愛らしい少年と、見るからにしなやかそうな筋肉をまとった背の高い黒髪の男が並んでむこうを向いて立っていて、リュートのかけた声に揃って反応し彼女に顔をむけてきた。
 「わたくしにご用の方ですか。」
 「ああはい、ええ・・。あの、“サークのリュート”さんですか?」
 「ええ、いかにも、わたしです。」
 「お目にかかれて幸運でした。わたしは旅の修道者、ケイルと申します。こちらは弟子のセイラ。サーク越えをしたいと思っているのですが、こちらに案内をして下さるリュートさんという方がいらっしゃると伺い、お捜ししてここまで参りました。」
 「それはそれは・・。」
 へえ、この男なかなかやるじゃないか。リュートは、セイラと呼ばれた、少年の脇に立つ男をちらりと眺めてそう思った。この者、以前はひとりで腕を頼りに生きてきたといった風情だが、そんな男がこのような子どもを師と仰ぐことができるとはなかなか度量が大きい。普通はなかなか、どんなにこの子が優れていると見えたって、それを認めることすらできないものだ。
 “それとも余程のことがあったか。”
 リュートはちょっと考えかけたが、すぐに止した。余計な詮索は誰に対しても無用というものだ。
 「よくわたしが見つかりましたね。」
 「ええ幸運としか言い様がありません。これも何かのお導きでしょうか。リュートさんのお話をして下さった方も、リュートさんのお姿を見た人にはまだ会ったことがない、捜すのはいいがお会いできるとは限らないので、見つからなければ早めに諦めるのが良いだろうとそうおっしゃっておいででしたし。」
 ま、そうだろうな、とリュートは微笑った。もともとこの広大な荒れ地サークを越えようなんて人間が現れること自体ごくごく珍しい。それがさらに、こんなひっこんだところに棲んでいる自分に会おうなんて言うのだから、ますます彼女の姿を見る可能性は低くなる。
 サークの案内人のわりにはリュートもずいぶん不親切なところに住まっているようだが、もともと案内人になろうと思ってここに来たわけではないし、何度かたまたま人間のサーク越えを手伝ったのがいつの間にか伝承となっているらしいというまでのことで、自ら進んで案内をかって出ることも特にないのだ。リュートはこの洞とこの場所がずいぶん気に入っていたし人が恋しくなるわけでもないし、この地を動く気は当分ない。ただ、自分を捜そうと思う人たちに厄介をかけているらしいのは少し申し訳なく思うけれど・・。
 「では、参りましょうか。」
 ついその辺にでも出かけるようにリュートがそう言ったので、ケイルと名乗った少年は、またきょとんとした目になった。
 「あの、もうよろしいんですか。」
 「構いませんよ。」
 「サークはすぐに越えられるのでしょうか。」
 「いえ、数日はかかります、皆さんの足でしたらね・・。しかしわたしには準備はいりません。お急ぎではありませんか。直ちに参りましょう。」
 「あ、はい。」
 ケイルの顔がよかった、と安心したようにほころんだ。
 「案内をお願いできるのですね。」
 「お役に立ちましょう。」
 リュートもにっこり笑ってそう言った。
 「あなたのためでしたら。」
 うん、実にいい。この子、気に入った。
 三人が連れ立って茂みに分け入りしばらく行くと、断ち切られたようにぷつりとある箇所で林が途切れ、唐突に無愛想な乾いた土地が、海のように目の前に広がった。見渡すばかり土と砂と石ころばかり、あちらこちらで風がくるくると回り砂をふき上げているのがのぞまれ、たった今までおおいかぶさるように重なりあっていたあの緑の木々はかけらも見えない。
 「これがサークです。」
 リュートはケイルを見てそう言った。
 「よろしいですか?」
 ケイルはリュートを見上げてこっくりとうなづいた。
 一同は赤茶けた土を踏んでしばらく進んだ。突風が一度彼らを襲い、ケイルが右手を顔にかざして眉をしかめ立ち止まる。そんな彼を気遣うようにわきのリュートが声をかけた。
 「ケイル様大丈夫ですか。」
 「ええ大丈夫、すみません・・それにしても本当に全く何もないところですね。これでは、わたしたちだけでは、どちらをむいて行けばいいのかさえ皆目見当もつきません。」
 それを聞いてリュートは微笑んだ。
 「ですからサークを越えるなんて方が滅多に出ないのでしょうね。しかし時折はここを越える行商人もおりますし、コツを掴めばなんとかなるようですよ。」
 「ダイルやグレンダの商人の方ですね。一度だけ都でお見かけしたことがあります。」
 「ケイル様は都からおいでですか。」
 「はい、都の大院で学問をいたしておりました。」
 「ずいぶん長旅でしたね。」
 「ええ、でもまだ半分来たか来ないかくらいですから・・。」
 広大な乾燥地サークを挟んで東はチェンダ地方、西はゴレル地方と呼ばれている。チェンダは多民族を抱えながらも一応統一され、都を東の端、大海のほとりのシーアに置いているが、ゴレルの方は小国が割拠点在し、一つの地方と言いつつ統制はとられていなかった。また岩山や密林などの地形に阻まれ、国同士の距離もそれぞれあいて、ゴレル一帯すべての地理を把握している者はごく少ないとまで言われている。人の踏み入らぬ土地も多いらしい。
 それにしてもこの少年、シーアの都からここまでと言えばほぼチェンダ横断ではないか。
 「都からずっとおふたりで?」
 「いえ、最初はひとりでした。セイラとは途中で知り合って、一緒に来てくれることになったのです。」
 「そうですか。」
 のっけはひとりか。ますますもって無謀なことだ・・どこに行くのか知らないけど。
 「・・わたし、塔を探しているんです。」
 リュートの内心の疑問に答えるようにケイルが言った。
 「ゴレルにあるのですか。」
 「はい、そう伺っております。わたしがおりましたシーアの大院は、チェンダでは学問の総本山にあたります。そこで学びを修めたと認められると、ゴレルにあるそちらの総本山、大院にある“石造りの塔”に派遣されることになるのです。そこでその中にある“うつせみの部屋”に入り“秘蹟の石”に触れること、それができればその者は、チェンダとゴレルの秘蹟をこなしたことになり、この世を救うことができると言われております。」
 「この世を救う・・。」
 話がどんどん大仰になってくる。
 「ケイル様、チェンダでの学問は修了なさったのですか。」
 「はい、つい先日。」
 「・・そのお年で?」
 「なんだかむいていたみたいで・・。」
 そういう問題だろうか果たして?
 なんだかすごいことになってきたな、とリュートは小首を傾げ傾げ歩いていた。世界を救おうなんて逸材が現れるあたり、とうとうこの世も末なのだろうか?
 “それより何より・・。”
 このふたり、無事に“石造りの塔”とやらにたどり着けるのだろうか?
 ともかくも統一されているチェンダと違って、ゴレルは旅人にとってけして安全な土地柄とは言えない。道すじも厳しいし、難所も多い。いやどんな難所がどこにあるのかさえ、はっきりとは掌握され尽くしていない程度の開けようだ。さらにそのへんに点在する小国群ときたら、戦いに明け暮れ領土や財産を奪い合った乱世の気風を今だ残す荒くれどもがこぞって治めているようなところばかりだという。
 ここまでふたりで来たのだって充分偉業なのに、この先どんな困難を乗り越えることになるのやら、会ってすぐとはいえリュートには、彼らの行く手が思いやられてならなかった。
 しかもこの子こんなにきれいで目立ちすぎる。もう、すぐにでもかどわかされそうに見えるしな・・。
 「で、その“石造りの塔”とやらはゴレルのどのへんにあるのです?」
 「さあ・・。」
 「・・“さあ”?」
 「はあ、それがよくわからなくって・・。」
 「わからないって・・。」
 今回おうむ返しばっかりやっているのがリュートには自分でも妙だったが仕方がなかった。
 「ご存知ないんですか?」
 「ある程度しか。」
 「どの程度です。」
 「西へ西へ行ったところ、サークを越え、ゴレルの奥のそのまた奥に・・。」
 「それだけですか。」
 「ええそれだけです。」
 おとぎ話じゃないんだからね。それじゃあ昔々あるところに、と同じじゃないか。
 “よくそんなので旅に出る気になったなあ。”
 リュートは呆れるのを通り越してとうとう感心してしまった。
 「どなたかそこにお着きになった方はいらっしゃるのですか。」
 「え?」
 「いえ、その何とかの塔に。」
 「ああ“石造りの塔”。いえ、それが、実はまだ。」
 「行こうとした方は?」
 「わたしの百年前におひとりいらしたようです。その前にも幾人か。」
 「お戻りになったので?」
 「いえそれが、実は、まだ。」
 この子、寄ってたかってみんなに騙されてるんじゃないだろうか。
 リュートは難しい顔になってそっと青空を見上げた。あまりに優れたこの少年、妬まれるか邪魔にされるかして、ありもしない話で追い出されてたりしていないかなあ。もしや本当の話なのだとしても、そんな頼りない情報だけでこんな年端もいかない少年を(しかもたった一人で!)いかな出来がいいからって、大院とやらもよくぞ送りだす気になったもんだ。
 「・・着けるんですか?」
 「はい?」
 「その、何とかってところに。」
 「“石造りの塔”ですね・・着けると思います。いえ、わたし、着かなくっちゃならないんです。」
 「この世を救うためですか。」
 「それもあります。」
 「他にも何か?」
 「そう、何と言いますか」
 ケイルはそこで初めて、物を思うような顔をした。
 「お恥ずかしいですが自分のため、ということになるでしょうか・・。」
 リュートはもうあえてそれ以上は、深くは尋ねないことにした。
 「そういえばリュートさんにも、何だかお探しものがおありのようですね。」
 ケイルがすぐに、元の愛想のいい顔つきに戻り、明るく微笑んでそう言った。
 「わたしに?」
 リュートはしかし、首を傾げた。
 「心当たりはありませんが・・。」
 そうですか、とケイルは微笑った。

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 何か、変だ。
 ひっそりとした暗闇を、膝を抱え込んで眺めながらリュートは思った。それは三人がサークに踏み込んでから二度目の夜。サークには当然のように宿屋はないので、必然的に彼らも野宿をすることになる。
 サークの夜は冷える。火をしっかり焚いてケイルには敷布をぐるぐる巻きにする。火の寝ずの番は自分が引き受ける、とリュートが言ったが、セイラの申し出でそれは二人の交代制となった。いや正確に言うとセイラはリュートの言葉に首を横に振っただけであり、それはセイラがいたします、と間に入って通訳したのはケイルだった。
 今は、その火とケイルをセイラに任せ、リュートは闇の中にいくらか踏み出して、座り込んで満天の星を眺めていた。リュートは星を眺めることも好きだった。見れば見るほど何だか星が増えていくような空を見つめて見つめて、いつか自分がいなくなっていくような感じに陥るのも、リュートはいつも好きだった。
 あいつ、無理しなくていいのにな。人間なんだから眠らなきゃ。わたしは眠らないからといって特に何ということはないわけだし・・まあ確かに眠っているのは気持ちのいいことだけど。
 セイラと火の方を一度振り向いてそう思い、しかしそのあとリュートはもう一度、彼方、闇の向こうを見据えてまた膝を抱いた。
 何か、おかしい。とても妙だ。何がかと言うと具体的には魔物の数が多すぎることだ。昨日に始まり今日いっぱいも、リュート(とセイラ)はどれだけの魔物を倒し消し去ってきたか知れない。
 チェンダには、特に山間部には若干の魔物が隠れ棲んでいるし、このサークにだって前から出没しないこともないけれど、ここ二日のこの多さは一体何だろう。やはりこの頃、世も末なのか。魔界の何者かがサークに触手を伸ばしてきているのか?それとも。それとも・・。
 “ケイル様が狙われているのだろうか。”
 修道者の生きた血には魔力を高める作用があると聞く。連中、それが狙いだろうか。今までこんなに魔物に会ったことはありませんでしたよ、とケイルも首を傾げていた。噂が広まったということなのだろうか?しかし連中、妙に組織だっていたような気もしたが・・どこかに親玉でも潜んでいるのだろうか。
 リュートは冴え冴えとした満月を見上げた。その日の月はことのほか明るく、サークの枯れた大地を濡らすように照らしていた。何にもましてリュートを惹きつける、月、この世で一番好きなもの。
 その清かな光の中で、けれどリュートは重苦しい塊を胸に抱え込んで座っていた。
 ゴレルはもともと、チェンダよりはるかに魔物の跋扈する土地である。それに加えてこの状況では、このまま彼らをゴレルに送ることは、みすみすケイルとセイラを魔物の餌食に差し出してしまうようなものではないのか?セイラは確かに、最初の印象どおり結構な手練だが、相手が魔物では刀自体が通用しにくく、どんなにその刃で見事に捉えても、思ったような傷を負わせられずに苦戦しているようだ。
 今まで見送った者どもは、猛者だったりゴレルに入ってすぐに着けるような手前の国々に行く者たちばかりだった。しかし今度は・・あのケイルとセイラは・・さらに彼らの行く先が・・。
 “うーん。”
 リュートは口をきゅっとすぼめて首を大きく傾げて考えていた。とはいえ、わたしに何ができる?余計なお節介、やかれるだけやかれた方も有り難迷惑といったところ・・
 はっ、と。
 リュートは立ち上がり、火の方を向いた。
 「セイラ!ケイル様を!」
 セイラはその声に素早く反応すると、火の前で眠るケイルの側に駆け寄り、それは立派な、彼愛用の刀をすらりと抜いた。リュートはばしんと一度、手のひらを広げて固い大地を叩いた。すると、火とケイルとセイラを囲んだ円状に地面から風が下から上に噴き上げ、彼らの周りに空気の壁を作り上げた。あれで完璧とは言えないが、とりあえずセイラもいることだし、向こうはあんなものでいいだろう。
 「出て来い!わたしが相手だ!」
 ひと声リュートが呼ばわると、あたりの地面が次々と割れ、奇声と共に、十はいると思われる異形の魔物が、二本足で立ち、手に手に刀を持って地中より次々と飛び出して来た。リュートは常に背に負っている、長い棒を鮮やかに手に持ち替えてひと振りした。するとその棒はしゃきり、と音をたてて少し伸び、左右の端から月の光を受けて冷たく輝く、鋭い刃が現れ出てきた。
 “夜襲だなどと、ふざけた真似を。”
 雄叫びを上げリュートに斬りかかってくる魔物どもを彼女は次々と弾き返し、逆にあるいは斬りつけあるいは刺し貫いていった。サークに来た当初は実は自分でも驚いたのだが、リュートはおよそ並ぶものがないのではと思われるほど、戦闘能力が高かった。今とて一人で十数匹の魔物を相手にする程度は、さして苦労があるわけでもない。
 “ケイル様。”
 ちらりとあちらの様子を伺うと、空気の壁に阻まれて、さすがに魔物どもにも簡単にケイルやセイラに手出しをすることはできないようだった。それでもたまに斬り込んでこようとする刃は、ケイルを背にしたセイラがはじからその刀で叩き落としていく。
 “いいぞ。”
 その調子でもう少し、こらえてくれ。こっちを片付けたらすぐにわたしがそちらに加勢に・・
 “・・!”
 リュートの顔色がそこで変わった。
 何だ、これは?気配がする。今まで感じたことのない・・いや本当はそうではなくて・・
 “来る!”
 リュートは目の前の最後の魔物を一突きで仕留めると、そのままくるりと身体をひねって後ろを向いた。正面高くにあの、美しく輝く満月が見える。音のような、音でないような、長く尾を引く鳴き声に似たものがリュートの耳を強く震わせた。
 大地がまた割れ、そこからひとつの人影が高く高く、冷えた夜空に飛んであがった。
 月光を背に浴び、黒いシルエットとなって天空近くに飛んだそれは、リュートと同じく、人間の姿をしていた。どちらかといえばがっしりした身体つきの、やや髪の長い男のようだ。顔はまだよく見えないが、様子からいってリュートより少し年上、というかたちになっていると思う。顔の前で交叉された腕に大振りの三日月刀を一本妖しく光らせ、その影は月の光の中、一時、空に止まって見えた。
 しかしすぐに、彼は直線の軌跡を描いてリュートの方へ、そらおそろしい速度でまさに噛み付くように襲いかかった。リュートはその三日月刀を棒で受けると見事に弾き、男と間を取ってぎりりと対峙する。
 “こいつ・・。”
 「はっ!」
 すぐに彼の男はリュート目掛けて三日月刀を一度また一度、次々とふるってきた。踏み込む彼の刃を受け、返しながら、リュートはじりじりと男に押されてあとずさりを余儀なくされた。
 “これほどまでの腕に”
 まみえるのはリュートも初めてのことだった。
 これはどうも、いつもと同じ、というわけにはさすがにいかないようだ・・しかし。
 “・・もらった!”
 リュートはすでに男の間合いを見切っていた。一瞬の好機、彼女はそれを逃すことなく、その刃をまっすぐに男に繰り出す。
 「あっ!」
 しかしほんの、ほんのわずかそれが届く手前で、男の姿はリュートの刃の先から消えた。彼は再度天高く飛ぶと、リュートの愛する月光の中、三日月刀を手に黒い影となった。砂漠、月、中空の黒い人影。夢の中のような景色だとリュートは思った。
 男の足がまた乾いた土の上に立ち、彼とリュートは向かい合ってお互いを見た。男は、やや大づくりなパーツを顔に配した、印象の強い顔だちをしていた。美形ではないが美男の部類には入るのかもしれない。伏しがちに見えるまぶた、口元には人を喰ったような不思議な色が浮かんでいる。男のその口元は、見ているリュートを何故かとても落ち着かない気分にさせた。不安に似ているその感覚を、リュートはしかしすぐに彼女の中から振り落とした。
 「おまえ・・“サークのリュート”か。」
 「いかにも。貴様は何者だ。」
 「俺の名はロウコ。」
 「ロウコ?・・どこから来た。何が望みだ。」
 「望み・・?」
 ロウコと名乗った男は一瞬表情をわずかだけ変えた、が、すぐにそれを消してリュートに言ってよこした。
 「なに、今日はほんの挨拶代わりだ。まさかここで、名高い“サークのリュート”に会えるとは思わなかったがな。」
 「ふざけるな。」
 「本当さ。これほどの腕の用心棒がいたのではかなわんな。ここは一旦退却だ。手勢を整えて再度参上することにしよう。」
 「ふざけるなったら。」
 「ふざけちゃいないさ。」
 ロウコの目がもろにリュートの黒い瞳を見つめる。リュートは内心ぎくりとしたが、それは努めて表に出さずに彼に言い返した。
 「おまえ・・ケイル様を狙っているのか?」
 「さあな。」
 「答えろ!いったいケイル様をどうする気だ。」
 「おまえはあの者の何を知っているのだ?」
 「何?」
 「あの者のことをどこまで知っているのか、と言っているのだ。」
 「どこまでって・・。」
 「あまり奴の心配をするから弟子にでもなったのかと思ったぞ。おまえはあの者たちを連れて、このサークを渡るだけではないのか?」
 「・・。」
 「良いさ、いずれにしてもこれで終わりというわけにはいかない。俺にはあの子どもが要り用だからな。」
 「・・ケイル様はただの子どもではない。」
 「知ってるさ。」
 空気が動くのを肌に感じて、リュートははっとまわりを見回した。見れば、ケイルとセイラの周りに巡らせた、風の壁の勢いがみるみる弱まっていっている。
 「ケイル様・・!」
 思わず呼んだリュートの背後から、三日月刀の刃がぬっと彼女の頬のすぐそばにつき出される。
 「!」
 「よそ見をしている場合ではないぞ。」
 ちっ、とリュートは舌打ちをして身体をひねり、ロウコの刃から我が身を離した。そのまま彼女は棒を横一文字に走らせたが、ロウコはそれを、真上に高く飛んでよける。
 「うっ!」
 砂嵐がぐるぐると踊って夜の空に大きく巻き上がった。リュートの細めた目の視界の中に、黒い人影がひとつ動く。
 「待てこの・・」
 「生憎だな。」
 ロウコの声は笑いを含んでいるようだった。
 「また来るさ。」
 リュートはロウコを追おうとしたが、ふと立ち止まってケイルらの方を振り向いた。今や壁を失った彼らを火のそばで、六匹ほどの魔物がとり囲んでいる。
 「貴様らっ!」
 リュートは棒を持ち直し、そちらに駆け出そうとした、が、その目の前でいきなり魔物たちの姿が消えた。彼女は足をふと緩め、今度は歩いてケイルとセイラのそばに近付いた。ふん、退却か。なめた真似だ。
 「ケイル様、ご無事ですか。」
 「ええ、無傷です。リュートさん、いつもありがとうございます。セイラもお疲れさまでした。」
 セイラは黙って頭を下げた。
 「リュートさん、あの方・・。」
 「どれです。」
 「さっきの方です、リュートさんと一緒にいらした。あの方はわたしのことを・・その、狙っておいでなのですか?」
 「ええまあ。」
 リュートは不興げにそれに答えた。
 「そんなことを言ってましたね。」
 ケイルは黙って視線を落とした。それを見たリュートはあわてて彼の近くに寄る。
 「大丈夫ですよケイル様。わたしがお側にいる限り、あんな奴には指一本触れさせませんから。」
 「リュートさんが?」
 ケイルは澄んだ瞳でリュートを見上げた。
 「お近くにいて下さるのですか?」
 そこでリュートはぐっと詰まった。今は丁度道の半ば、サークを越えるまではこの調子で勘定すると、あと三晩ほどをこの荒れ地で過ごすことになる予定だった。

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 これが最後の夜になる。
 リュートはまたも、火から離れて、月と星のいる夜空をひとり見上げていた。あれ以来、昼間は相変わらずだが夜襲がかかることはついぞなく、大した障害にも遭わずに明日にはケイルたちはサークを越えきってしまうだろう。あの・・あのロウコと名乗った男もあの夜以来気配すら見せない。実に結構なことだ。
 「リュートさん。」
 「はいっ!」
 いきなり声をかけられて、リュートは反射的に背筋を伸ばした。
 どうしたことだろうそんなにぼんやりしていたのか、リュートともあろう者が、後ろからケイルが近付いてくるのに毛ほども気付いていなかった。
 「ケイル様。」
 「ちょっとだけご一緒してもよろしいですか?」
 「はい、もちろん。お寝みにならなくてよろしいのですか?」
 「ええ、短い時間だけですから。」
 ケイルはそう言うと、ちょこんとリュートの隣に座った。
 「リュートさんには本当にお世話になりました。」
 彼は穏やかにそう切り出した。
 「いえ、大したことはありません。」
 「リュートさんがいらっしゃらなければ、こんなに早くサークを越えることはできませんでした。道もそうですし、あの魔物たちのことも・・。お礼をいくら申し上げても言い尽くせないと思います。」
 「おそれいります。」
 「リュートさん。」
 ケイルはちょっと首を傾げてリュートの顔を見た。
 「あの方をお待ちになっているのですね?」
 リュートはケイルの顔を見返した。
 「どの方です。」
 「先日おいでになった方です。ロウコさん。」
 「まさか。何故そんなことをお思いになるのです。」
 「でもあの方、リュートさんと同じ方なのでしょう?」
 「・・。」
 リュートは思わず荒れ地のむこうに目をやった。
 「そんなことをご存知なのですか。」
 「はい、すぐにわかりました・・失礼でしたでしょうか?」
 「いえ全く。けれど・・。」
 話してしまうべきだろうか。
 「ケイル様。」
 そうだな。別に隠しだてするようなことでもない。
 「ケイル様・・ご承知かとは思いますがわたしは人間ではありません。」
 「はい。」
 「そして魔物でもなくさらに何かの精でもありません。わたしはわたしのような者に今まで会ったことはありませんでした。育てられたのは百合の精の谷でしたが、そこにいる時も、そこを出てひとりでサークのほとりに住むようになってからも、わたしと同じ属性を持つものに出会うことはなく、そして誰一人わたしと同じ“波”を出すものを知っている者はいなかったのです。」
 「・・はい。」
 ケイルは小さくゆっくりとうなづいてリュートの話を聞いている。
 「わたしは、特に探してはいなかったと思います・・わたしと同じ者たちのことを。ただ、ずっと考えてはいました。わたしは一体なにものなのだろう、と。わたしのようなものはこの世に他には存在しないのだろうか。わたしはたったひとつの、種の個体なのだろうか。その是非を今までの間、気に掛けていないことはなかったのです。わたしのようなものを見つけることを望んでいたのかどうか、それは今は、わかりません。ただ、あの男は・・。」
 「あなたと同じ“波”だったのですね。」
 「ええ。まさかこんなところでこんな形で出会うとは。そしてそれがあのような者だとは。」
 「お気に召さないのですか?」
 「気に入りませんね。」
 それを聞いてケイルは笑った。
 「でもリュートさんはあの方に会いたいと思っていらっしゃるのでしょう。」
 それに答えるには少し間が要った。
 もう一度・・あの者を目にしたい。そう思っていることは認めざるを得なかった。あれは本当にいたのだろうか。そして本当にわたしと同じものなのだろうか?それを確かめたかった。だからもう一度。けれど・・。
 「会いたいと思っているわけではありませんよ。」
 リュートがそう言いケイルはまた笑った。
 「あの方、おいやなんですか。」
 「あんなふざけた奴は好きません。」
 「ふざけていらっしゃいましたか。」
 「ええ、とっても。」
 じゃあ今度お目にかかったら、どんな風にふざけていらっしゃるかよく見とかないと、と、ケイルは楽しみだなあと言わんばかりにさらに笑った。
 「あのですね、リュートさん。」
 「はい。」
 「これからもお越しいただけませんか、わたしたちと一緒に。」
 「・・。」
 この数日、リュートが迷い続けていたことに、ケイルはずばりと触れた形だった。
 「リュートさんがいて下さると、とっても心強いと思うんです。これからはさらに道も険しくなりますし・・。それにリュートさん、わたしたちといらっしゃれば、きっとロウコさんにお会いになれます。」
 「それは・・。」
 「ね、そうでしょう。あの方はわたしを狙っていらっしゃるのでしょう?だったらきっと。
 けしてらくではない旅です。ご苦労をおかけすることになるのではと案じないこともありません。けれど、もしかすると、リュートさんのお役に立ちます。それにわたしも・・」
 「え?」
 「リュートさんが来て下さったら嬉しいんです。」
 やれやれ、とリュートは内心苦笑いをした。この歳でさらに修道者の身で何て見事に口説くのやら。
 「参ってもよろしいですか。」
 やや間をおいたあと、リュートはそっとそう言った。ケイルはリュートの顔を横から見ると、嬉しそうに嬉しそうに、その小さな顔いっぱいでにっこりと笑った。

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