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第二十章 うわさ話

 そんなことがある八時間ほど前、まだアルソルヴェが船長室を訪れようかとしている頃。
 エミル湖から若干離れた内陸部のオロテグの街の酒場で、数名の男女が大きな卓を囲んで、楽しそうに遅い夕食を取っていた。
 どこがと言ってはっきりするわけではなくしかし確実に何やら華のある彼らは酒場でも目立った存在だったが、かと言って周りから浮いているわけでもなく、和気あいあいと食事を進め酒場の賑わいに一役かっていた。
 「でさあ次どうなるの、次。そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
 「内緒。」
 「教えるに教えられないんだろ、要するにまだ影も形もない。」
 「な・い・しょ。」
 「わー図星なんだ。クローネ頼むぜ、本番の前の日にホン仕上げるのだけはよしてくれよな。こないだみたいなのはもうたくさんだぜ。」
 「今度は台詞短かめにしてくれよなー。マルソのホンは台詞長くていけない。三幕の俺の台詞、なんだあれ。」
 「次書く時は倍にしてやるぜ、ネルム。」
 「でも、時代ものにするってのは決めてるんでしょ?」
 「うーん・・・かなあって。」
 「おーい、まだテーマも決まってないわけ?」
 明るくさんざめく彼らの、通路を挟んで隣には、四、五人ほどの旅の商人の一行が陣取ってこれまた陽気に杯を重ね、会話に興じていた。
 「あーそれで・・・。何だかものものしいと思った。あっちの道通らなくて正解だったな。」
 「まあな。あれでもおとなしいうちだがあの兵隊の人数はねえ・・・ちとびびるね。」
 「どうも気詰まりさ。しかし何だって、女の子ふたりだって?」
 「ああ、レンダ城に連れてくらしい。」
 「何だそれ。貢ぎもんか?」 
 「そうだろよ、あのレンダ王だもんな。」 
 「あー好きもんらしいねえ。」
 「かーいー女の子たちだったらしいぜ。お嬢さまって風情で初々しくて。」 
 「誰か見たのか。」
 「馬車の窓は開いてるから見えるらしいよ。あと時々休憩もしてるみたいだし。」
 「ふーん可愛いお嬢さまか。もったいないねえ。」
 「全くさ。可哀想だね、どこのどんな子たちだろ。」
 「さあ・・・没落貴族のお姫さまって噂もあるぜ。」
 「へーえますます可哀想に。」 
 「でもその子たちなかなかやるらしいぜ。何でも一度逃げ出そうとしたことがあったらしい。それで捕まって引き戻される途中だと。」 
 「ほお見どころあるじゃないか。よっぽどいやだったんだねえ。」
 「そんな根性のあるお姫さまならまた逃げ出すんじゃないのか?そしたら大騒ぎになるぜえ。」
 「しかし今回はちと無理じゃないかね、お伴をしてるのがあのエスタニだって言うから。ちょっとやそっとじゃ逃がしちゃもらえないさ。」
 「お、本当か。あのエスタニが?」
 「へええそりゃまたすごい力の入れようだね。奴まで駆り出すたあご執心なことだ。」
 「なんだいそのエスタニってのは。」
 「おまえ知らないのか、珍しいやつだな。レンダ王お抱えの筆頭魔術者さ。若いけどおそろしい野郎らしいぜ。」
 「筆頭魔術者?そんなのまで出張ってきてるのか、大袈裟だねえ。」
 「だからさ、それだけその子たちをレンダ王が欲しがってるってことなんじゃないのか。」
 「恐れ入った女好きだね。」
 「一旦逃げられてるから執念燃やしてるんじゃないのか。まさかレンダ王ともあろう者が逃げられっ放しってわけにもいかないだろ。」
 「そりゃそうだ、体面に関わるってもんだろな。」
 「じらされると燃えるしなー。」
 「それ違うだろ。」
 「まあとにかくエスタニが出て来たんじゃもう逃れ様もないだろう。大魔術者の手で可愛いお嬢ちゃん方はレンダ王のベッドの中にってね。」
 「何だかなあ。」
 「でもま、なんだ。うまくレンダ王に気に入られれば贅沢もさせてもらえるし悪いようにはならないだろ。自分だったら喜んでって子もいるんじゃないかい。」
 「まーな。でもそのコたちは逃げたかったって言うんだからやっぱり可哀想な話さ。」
 「そうだなあ・・・。」 
 商人たちの話はなおも続いた。
 「・・・。」
 「クローネ、どうかした?」
 連れのひとりにそう声を掛けられて、クローネと呼ばれた茶色の髪を長く伸ばした若い女は、はっとした顔になりすぐに笑ってちょっと眠くなっちゃった、と言った。
 「ばてるには早いぜ、まだあと三日、演んなきゃさ。」
 「そうそう、あなたはホンも書かなきゃ。」
 「めずらしーなークローネがもう潰れる?」
 「体調悪いの?」
 「ううん大丈夫。一瞬眠かっただけ、元気よお。」
 「ははは、無理すんなよ。」
 「平気平気。」
 それからさらに数時間が経ち街の酒場も、夜通し開けているのを売りにしている二軒を除いてあらかた灯りを消し、戸を閉じてしまった頃。
 一軒の中規模の石造りの宿の四角い玄関が、音をたてずに開いて中からひとりの人影が往来に出た。何やら大きな荷物をひとつ抱えて、人影は出てきた扉を用心してそおっとそおっと閉じてしまう。それからその影が人通りのない石畳の道をひとり進もうとしたところで、宿の玄関の大きな扉が再度今度はきいと音とたてて開いた。
 先に出ていた影はぎくりとしたようで、立ち止まると開いたドアを振り向いた。
 新しくそこから出て来た影はするするとすぐ先の影に追い付くと、その前に立ってそれを見下ろした。街灯の白っぽい光に照らされた、片方は髪の長い女の姿、あとから来た方は肩のあたりのがっしりとした、やや浅黒い肌の若い男だった。
 「行くと思った。」
 先に口を開いたのは男の方だった。女はそれを聞くとちょっと肩をすくめて、見つかるとは思わなかったわ、と短く言った。
 「兄さんとこ?」
 「ええ、あのバカ兄貴。」
 「見逃しにできないって?」
 「そうよ。何なのあの人、見損なったわ。わたしはね、今まであの人のすることにずーっと黙ってきたわよ。でも今日ばかりは許せないわね。いやがる女の子を無理矢理引っ張っていってやらしい男のベッドに放り込むなんて・・・そんなことわたしが許さないわ。邪魔してやる。お嬢さんはわたしが助けるわ。」
 それを聞いて男は小さくため息をついた。
 「まったくどこからどこまであんただよな・・・でもそれだけじゃないだろ。あんた兄貴にそんなことに手を染めてほしくないんだよな。」
 女は一瞬言葉に詰まった顔をしたが、すぐに視線を斜め下に落とすと、ためらいがちにうなづいて男に応えた。
 「そうよ・・・そんな卑しい真似に加担してほしくないの。いくら何でも・・・。どうしてあの人ああもレンダに従順なのかしらね。そもそもの始めからわたしには理解できないわ。でもともかく、これだけはいやよ。止めてくる。できたらはり飛ばして目覚まさせてやるわ。」
 はり飛ばして、ねえ・・・。男はもう一度、目立たないように小さくため息をついた。彼女が兄貴をはり飛ばしている光景なんか、あまりに想像し易くて可笑しい位だ。
 「舞台どうすんだよクローネ。あと三日あるんだぜ。座長には話がついてるんだろうけどさ。」
 「ええ、了承は取ってあるわ。あの人たちこの近くにいるみたいだから、用事はすぐ済ませられると思うの。今回わたしは役者じゃないし、わたしの仕事はマルソがやってくれるから大丈夫って・・・。」
 「おい俺か。」 
 「・・・座長が言ったのよ。明日命じられちゃうと思うわ、よろしくね。」
 「頼むぜ、俺だって音効やってんのに・・・。あんた何だっけ、照明だっけ?両方やるの、無理だぜえ。」
 「何とかさせるって座長が言ってた。」
 「する、じゃなくてさせる、なわけね。」 
 「ごめんなさいね、悪いけど頼むわ。そうね・・・戻ってきたら何かおごるから。」
 「多分ほぼ全員にしわ寄せが来るからそれやるならあんた全員におごることになるぜ。」
 「それは無理ねえ。まあ・・・なるべく早く戻ってくるから。」
 「まあそこまで話もまとまってるんじゃ止めだてしても無駄だよな。」
 クローネと呼ばれた女はちょっと笑って、あら、止める気だったの、とマルソに言った。
 「どうして止めるつもりだったの。」
 「そりゃ何だか・・・いや、いいんだ。仕方ない、頑張ってやるから気をつけて行ってきな。兄貴に返り討ちにあうんじゃないぜ。」
 「健闘してくるわ。」
 「今からどうするんだ、こんなに遅いのに。」
 「街外れまで行って宿を取るわ。まだ入れてくれるところを知ってるの。今夜のうちにみんなのそばを離れておきたかったのよ。朝になるときっと誰かに見られるから・・・夜が明けたらこの街を発つわ。みんなには座長がうまく言ってくれるはずよ。」
 「暗いし物騒だぜ。」 
 「いいのありがと。あんまり目立ちたくないからあなたは戻って。わたしのことなら大丈夫。」
 「でも・・・。」
 「ほんとよ、知ってるでしょう。お気持ちだけいただくわ。」
 そこで言いつのってもクローネの気が変わるとは思えなかった。マルソはそこで諦めて、それじゃ気をつけてな、ともう一度言った。クローネは笑顔を見せて、マルソにうなづいて見せると荷物を抱え、石畳の道を先に進もうとした。それをふとマルソの声が呼び止める。
 「クローネ。」
 「なあに。」
 「あんた・・・戻って来るよな。」
 クローネはマルソの方にすっかり向き直って両手で荷物を持ちそれは華やかにまた笑った。
 「当たり前だわ・・・どうしてそんなこと尋くの。」
 「何となくさ。すぐ戻るんだろう。」
 「ええ、やることやったらすぐに。もしちょっと時間がかかってしまっても、必ずみんなに追い付くわ。」
 「早く戻れよ。次のホンだってあるんだから。」
 「んー忙しくなっちゃったしな。次はマルソ書いてよ、任せるわ。」
 「却下。交替で書くって決めてるだろ。次はあんた。俺書かないよ、続けてなんて。」
 「書ける書ける。」
 「まっぴら。」
 「お願いしたわね。」 
 「されてない。」
 「まーそういうことでも良くってよ。」 
 「ちえ、行っちまったもん勝ちだよな。」
 マルソは肩をすくめてそう言った。
 「じゃあさクローネ、代わりに書いてやったら俺と寝てくれる?」
 「うーん、仕上がり次第かな。」 
 「はいはい。」
 クローネの返事は明るかったが、まるでそんな気なんかないことがまる判りになる言い様だった。 
 「じゃ、ね。」
 クローネは最後にそう言うと、闇に浮かび上がるようなあざやかな笑顔を見せて身を翻し、夜の街に消えていった。角を曲がり彼女の姿が見えなくなってしまっても、マルソはしばらくそこに立ち尽くして、ぼんやりと彼女を見送る姿勢のままでいた。
 彼女なら・・・クローネならきっと大丈夫だ。あれで実は底なしに強い魔術者だし今回相手は実の兄だ。彼女の身にさして危険が及ぶとも思われない。だというのに・・・いうのに・・・。
 マルソはその時どうしたわけか、クローネがもう戻ってこないことがあるような気持ちに捕らわれてしまっていた。彼女の消えた街角を、今すぐ走って追いかけたかった。行くなと止めたかった。止めなくてはならない・・・このままあいつは戻ってこない。何故かそんな気がとてもして・・・。
 しかしマルソは夜の道に背中を向けて、誰をも起こさないように宿の扉を開いた。それでも彼女は止まらない。誰が何をどうしても、あのクローネを思いとどまらせることなど所詮できはしない話なのだ。
 “戻ってこいよ、クローネ。”
 そう・・・必ず彼女は帰ってくる、彼女が確かにそう言ったのだから。彼女はけして嘘をつかない。約束は何があっても守る。そういう女だ。
 マルソは宿の扉に身体をすべりこませると、開いた時と同じように細心の注意をもって扉を閉じた。
 宿の玄関口が閉じられたあと、表の石畳を踏む者はそれから長い時間現れなかった。ただぼうっと光を投げる暖かい色の街灯にやわらかく照らされたからっぽの道の上に、とうとう朝の光がひんやりと濡れて射されるまで、そこにはもう誰の姿も、一度も立つことさえなかったのだった。

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 そんな別れがあった翌日。
 相変わらずのかたんかたんと規則正しい馬車の揺れに身を任せながら、青い眼のロロディアはそっと、今日も正面に腰掛ける男の姿を遠慮がちに見遣った。
 その男は相変わらず、微動だにしないといった勢いで姿勢正しくそこに座っていて、何かの仮面のような顔つきをしたまま向かいのふたりの王女の頭の後ろの、横に細長い窓から過ぎてきた小道をただ見ていた。馬車の中には三人きり、今日もすっきりといい天気だ。
 ロロディアは目を、自分の右側の窓の外に転じた。今から馬車は山道に入ろうとしているようだ。すぐそばに幅の広い川があり、けっこうな速度で清水がぐんぐん流れている。濃いみどりの川の色がその深さを物語っているようだ。
 「これ、何という川ですの?」
 ロロディアの問いに正面の男は、視線を川に向けることもないまま答えた。
 「アウゲ川でございます。」
 「ずいぶん深そうですわね。」 
 「水深はかなりあると聞いております。」 
 そうですの、とロロディアはつぶやくように言い、向かいの男エスタニに、ありがとうと付け加えて言った。エスタニはごく小さく会釈をしてそれに応えた。
 馬車は騎馬の兵士を従えて、ゆっくりとした勾配を慎重に進んでいった。くねくね曲がる山道をある高さまで登ったところで、一旦休憩の合図が出された。道のわきの、丸く大きく崖に張り出した空き地に馬車が寄せられ、扉が開けられてふたりの王女は表に降り立った。エスタニもすぐに続いて外に出る。
 馬から降りた兵士たちが広げてくれた布の上に王女たちは並んで座り込んで、ちょっと身体を伸ばし深呼吸をした。小枝を拾ってお湯を沸かし、彼らは王女たちにお茶をいれてくれもした。ふたりは嬉しそうにゆっくりゆっくりそれを飲んだ。相変わらず彼女たちの正面に陣取って、黒く長い髪のエスタニも運ばれてきたお茶に口をつけた。一同が休んでいるこの空き地は、その半分が空中に大きく飛び出したかたちになっており、片側はすとんと切れた崖になっていた。おいしくお茶をいただきおわったミュゼルが、器を足元に置き、ふと立ち上がってその崖の方に向かった。
 ロロディアとエスタニが見守る中、ミュゼルはおそるおそる崖のはじっこに近付き、ひょいと向こうを眺めやってすぐにロロディアたちの方へ戻ってきた。
 「わたくし、崖はきらいですわ。」
 帰ってきたミュゼルはそう言うと、ロロディアの隣にまたちょこんと座り込んだ。
 「あの下、どうなってまして。」
 「おそろしいものですわ。底には川がありますの。先程の川ですわね。」
 「あら。」
 今度はミュゼルとエスタニを残して、ロロディアが立って崖の方にむかった。
 「あぶないですわロロディア様。お気をつけになって。」
 「ええ。」
  ロロディアはそう返事をしながら崖のそばにそうっと寄って、眼下を流れる川をのぞきこんだ。  
 「お戻り下さいロロディア様。そちらは危険です。」
 「あ、はあい。」
 エスタニにそう言われても、ロロディアはしげしげと崖下を見つめたまま、半分だけしか戻ってきそうな様子を見せない。
 「ロロディア様いけませんわ。崖はおやめ下さいまし。」
 そう言ってミュゼルが再度立って、小走りにロロディアの近くに寄っていった。エスタニもゆっくりと器を置くと立ち上がり、ふたりの王女のあとを追った。
 「ロロディア様。」
 エスタニより数歩早くロロディアの横に立ったミュゼルは、ロロディアの手をそっと握った。ふたりの王女は視線を合わせ、小さく同じタイミングでうなづきあった・・・ふたりの足がとん、と大地を蹴り、黄金色の長い髪がふわりふわりと青い空に流れて舞った。
 “!”
 「わあっ!」
 まわりの兵士たちから声があがった。さすがのエスタニもはっとしてすぐに走り出したが時すでに遅かった。ふたりの長い髪の少女たちは手に手を取り合ったまま、まっ逆さまに眼下のアウゲ川の水面に落ち込んでいく。
 エスタニはその左手を王女たちの方へかざして何ごとかを待った・・・がすぐに思い当たることがあったようで、彼は小さく首を振り、まわりの兵士に鋭く言った。
 「おふたりを探せ、川を下るんだ!」
 エスタニの声で兵士たちは次々と馬に飛び乗り、今来た山道を下っていった。ひとり残ったエスタニはあらためて、王女たちの消えた広い川の流れを見下ろした。
 “首飾りか・・・。”
 それさえなければ今の魔法で、彼女たちの身体を引き寄せ取り返すことができたはずなのに。
 一方川に飛び込んだふたりの王女は、身体に迫る急流に為す術もなく押し流されて川を下っていた。必死に時折上げる頭で、あやうく息をついでいく。今にも溺れそうに見えたふたりではあったが当の本人たちはそんなことを考えもせず、ただできる限りの力で時を待ち続けていた。
 ほどなくそれはやってきた。
 大きな力がぐいと有無を言わせずロロディアの身体を川底へひきづりこみ、ぐっと息が苦しくなった。死ぬかもしれない、と反射的にロロディアがそう思った次の瞬間には彼女の身体はもうふっとらくになり、気付けば彼女は人気のない、どこかわからない広い河原にいた。
 河原の片側には切り立った崖がやはり高くそびえ立っており、崖の上からは木々が重なりあって濃く茂っているのが窺える。髪も身体もびしょぬれでとにかく重かったが、とりあえずそこでロロディアはほっと息をついた。ぱしゃんと音がしたのでそちらを見ると、そこにはいつの間にかミュゼルの姿があって、彼女は河原の水辺にほど近いところにやはりずぶぬれで、きょとんと座り込んでいた。息が見るからに荒く、顔色もくちびるもまっ青で目だけが濡れたように光っていた。
 「ミュゼル様。」
 重たく感じる身体を引きづって、ロロディアは立ち上がり緑の瞳の娘の方に近付いた。ミュゼルもその声に応えて振り向くと、のろのろとどうにかといった風に立ち上がってロロディアに歩み寄ろうとした。
 「ご無事です?」 
 「ええ・・・でも死ぬかと思いましたわ。」
 「わたくしも。」
 ふたりは途中で落ち合うと、すっかり疲れきったというようにまた身を寄せあって河原に座り込んだ。川にはね・・・と言ったケイアの声が甦る。
 “川にはね、水竜の通り道があるの。山の中の川には大抵あるわ。その上を通るとあっという間に遠く離れた、川の別の場所に移動できるのよ。”
 水竜と水竜使いにはその近道を使うことができる。ロロディアたちと別れた時、レンダ兵に追われたケイアも近くの川の中に飛び込んだ。きっと彼女はあの川にひそむその通り道をくぐってどこか遠いところに逃れたのだろう。
 “万一ってことがあるから・・・。”
 あなたたちは水竜使いではないけれど、と笑ってケイアはふたりの王女の額に、首に掛けていた小さな首飾りについたかけらで何ごとか紋様を描いておまじないを唱えてくれた。
 「簡単だけど水竜の祝福。これであなたたちは水竜の友人よ。永遠にとは言わないけれどしばらくはあなたたちも龍の通り道が使える。あぶなくなったら川に飛び込みなさい。でもふたりとも離れちゃだめよ。いつも一緒にね。」
 それを信じてふたりは一緒に、あのアルゲ川に身を投げたのだ。そしてここにこうしてどうにかふたり無事にいる。あたりは静かで人気もない。先ほどと似たような山の中だが彼らから遠く離れられたことだけは確かなようだった。
 「良かったですわね。」
 「本当に。」
 ふたりは目を閉じて、川と水竜と水竜使いに感謝を捧げた。ケイアにはとびきりの親しみを込めてその名をつぶやいた・・・よかった、この分ならばきっとケイアも無事にレンダ兵から逃れている。
 本当は早く立ち上がってもっと遠くへ行かなくてはならないのだが、ふたりの王女はそこでしばらくぼーっと座って動けずにいた。さすがにし慣れない無茶をしたし、もう少しで溺れかけた。選りにも選ってあんな急流、しかも結構な崖の上からのダイビングだ。まさかケイアも彼女たちがそんなかたちで逃げにかかるとは思ってもいなかったに違いない。
 全身びしょ濡れだしちょっと疲れた・・・でもこの服や髪、ちゃんと乾かさないといくら暖かい春とはいえ風邪をひいてしまわないかしら。
 「参りましょうか。」
 「ええそろそろ・・・。」 
 その時。
 ふたりの王女は気配を察し、冷えた手と手を取り合っていっそう寄り添った。誰か、来る。誰かがいきなり現れる。これはあの時と同じ・・・ 
 「竜巻きの・・・。」
 誰かが魔術を・・・。
 「・・・驚きましたね。」 
 落ち着き払った固い声に、ふたりの王女はびくりと身体を震わせた。
 そこには全く突然に、あのエスタニの姿があった。驚いた、と言いながらいつものとおりの冷たい表情で瑕疵ひとつない完璧な佇まい。この世の人ではないようだ・・・。目の前に立つ彼を見て、ロロディアは時々そう思うようにその時もそう感じた。絵に描かれた姿のよう。悪魔の絵か・・・それとも厳しい天使の姿か・・・。
 「ただのお姫さまではいらっしゃらないことは存じていたつもりです。が、それでもまだ甘かったようですね。あのようなことまでお出来になるとは、そこらの勇士どもも顔負けでしょう。さすが一国のお世継ぎの器です。両国ともさぞや誇りにしておいでのことでしょう。」
 「その国に、戻して下さるおつもりはないのでしょう。」
 きっぱりとした口調でロロディアはエスタニに応じて言った。
 「ええ。わたくしの使命はおふたりをレンダの城にお戻しすることですから。」
 「・・・そうですわね。」
 ロロディアはそう言ってくちびるをきゅっと噛み締めた。見逃してくれなどと言う気は少しもなかった。しかしかと言ってこのままおとなしく彼に再度捕まってしまう気持ちもない。
 「戻りましょうか、おふたりとも。」
 しかしエスタニは当然のようにそう言った。
 「そんなに濡れておいででは風邪をお召しになります。お怪我がなくて何よりでした。」
 「・・・戻りませんわ。」
 半分あとずさりをしてロロディアはそうエスタニに応えた。
 「お戻りなさい。」
 「いいえ・・・いいえ、わたしたちは行きます。あんなところには戻りません。」
 「お聞き分け下さいロロディア様。」
 「聞けません。もう二度とあんな場所へは・・・。」
 「ロロディア様。」
 ことここに至ってもエスタニの口調に変化はなかった。
 「お聞き入れがなければわたくしは力を行使しなければなりません。」
 ロロディアはその輝く青い目でエスタニをきつく見た。
 「あなた方には通常の魔術は通じません、その破魔の首飾りがある限り・・・。それを外していただけなければもしくはわたしの言うことを聞いていただけないと仰せなら、わたくしは別の魔術を使わなくてはならない。古代の魔術です。しかしわたくしとてこの秘められた魔術に関しては駆け出し同然まして独学です。使える種類もごく限られておりますし微妙な加減など思いもよりません。ですから・・・この魔術を使うようなことになればどうしても手荒な行いということになってしまいます。」
 「わたくしを脅迫なさいますの。」
 ますます目を強く光らせてロロディアはそう言った。
 「警告、です。わたくしとしてもそのようなことに致したくはございません。」
 「わたくし共がそれでひるむとお思い?」
 「残念ながらそれも思いません・・・誇り高い方々ですから。」
 エスタニは小さく息をついた。
 「わたくしたちをどうなさるの。」
 「ご心配なく。お命に関わりのあるようにはなりません。傷をお付けすることも・・・。」
 「それはわたくしたちが貢ぎものだからですの?」
 ミュゼルがそう言い、エスタニの目の奥に一瞬だが動揺が走った。
 「傷ものをレンダ王に差し出すことはできませんわね・・・でもわたくしたちそんなものにはなりませんわ。傷なりとお付け下さいまし。逃げた人質を取り戻すだけであれば多少の乱暴は許されますわ・・・慰みもののお人形でないのなら。あなたがわたくしたちをそんなものとしてあのレンダ王に持ち帰る気でないのなら。」
 ミュゼルに続いてそう言いながらロロディアは自分がこんなことまで言ってしまっているのをとても不思議に思っていた。彼が自分たちをどう思おうとどう扱おうと知ったことではないのだ。ミュゼルの、そして自分のこの不要な問いかけはひとつ別の質問をその後ろに隠しているように思える。
 “あなたは・・・そんな方ではありませんわよね?”
 そんなことを確認しようとしてどうするのだ。彼を信じたいと思ってどうするのだ。でもこの人は・・・この人は何だか・・・。
 “ねえミュゼル様。”
 この人は何かを隠している。わたしたちは何故か、とてもそれを知りたい。
 「わたしは・・・」
 しかしいつもの口調でエスタニはふたりの王女に告げた。
 「わたしはあなた方を傷つけることはありません。」
 それを聞いてミュゼルが少し悲しそうな顔をした。
 「しかし少し・・・苦しいですよ。お覚悟下さい。」
 あたりの空気がすうっと緊張し、木々が囁きあうようにざわざわと鳴った。ミュゼルとロロディアは手と手を固く取り合いますます身体を寄せ合った。
 エスタニの、血の透けたくちびるが何ごとかをつぶやいた。と、いきなり空中に、真っ黒な稲妻のようにぽっかりと暗い裂け目ができた。エスタニはさらに小声で呟き続けた・・・ロロディアとミュゼルは胸の上に何か重たいものが乗ってきたような息苦しさを感じていた。
 「ロロディア様。」
 「ミュゼル様・・・。」
 大丈夫、ふたりならきっと大丈夫。ふたりなら・・・。
 その時。
 突風が吹き付け、あたりの全てを乱暴に一度、打って通り過ぎた。風のあとで、ロロディアとミュゼルはいつの間にかつむってしまっていたまぶたをそっと開けた。見れば先ほどの黒い裂け目が跡形もなく消えている。胸苦しさも一掃されて、身体が軽い。あちらの方では今までどおりエスタニがあの黒髪をわずか乱して立っていたが、その目がおそろしい光を宿して王女たちではない何かをじろりと睨み付けていた。ロロディアとミュゼルは彼の視線の先を追った。
 「間一髪、劇的な演出だわ。プロならではでしょ。」
 そこには茶色の長い髪をおろした、すらりとスマートなあでやかな美女が、不敵な笑みを顔に浮かべて立っていた。切れ長の謎めいたまなざし、趣味の良い化粧と服装、落ち着き払った優雅な物腰。
 “どなた・・・?”
 その女は身体の向きを帰ると、軽い足取りでふたりの王女のそばにさっさと歩み寄ってきた。
 「さ、参りましょお嬢さま方。まあこんなに濡れて、早く髪も乾かしましょうね。気持ち悪いでしょ。」
 「あの・・・。」
 「大丈夫、わたくしあなた方をお手伝いに来ましたの。変な男のところには戻したりいたしませんからご心配なく。」
 「あなたは・・・。」
 女が王女たちのすぐそばで立ち止まりにっこり笑ったところでようやくエスタニが固い口調で言った。
 「何をしに来たのだ。」
 女はまた身体を翻し、王女たちを背にエスタニと正面から対して張りのある声で言った。
 「聞こえてなかったの?お嬢さまたちをお助けに来たのよ。気持ち悪い男の床になんかけして行かせませんから、お生憎。」
 「帰るが良い。おまえにはおまえのやるべきことがあるはずだ。」
 「今わたしのやるべきことはこれ。窮地のお嬢さま方を見過ごしにはできなくてよ。同じ女としてもね・・・参りましょ。」
 「クローネ。」
 クローネと呼ばれた女はきっとエスタニの方を改めて見た。
 「何よバカ兄貴。」
 「なに?」
 「バカだからバカって言ってるのよ。まさかお兄さんがこんなことになってるなんて思わなかったわ。あんな・・・あんな下司どもに使われてるってだけで充分なのに、女衒の真似までなさるの?こんなお嬢さま方を無理矢理引っ張っていくなんて・・・いつの間にか脳みその中身でもいじられたのではなくって?」
 「クローネ。」
 「とにかくわたしは許さない。こんなことがわたしのいるこの世界で起こっているってことも、それにわたしのお兄さんが関わっているってことも許さない。お嬢さま方はいただいていくわ。とっとと帰って色魔にでも詫びてくるのね。」
 「クローネ。」 
 しかしエスタニの口調は、相変わらずのままだった。
 「その方々をわたしに渡せ。おまえの手に負える問題ではない。」
 「ご挨拶ね。」
 「わたしは何としてもその方々をレンダ城にお連れしなくてはならない。邪魔をすると言うのなら・・・」
 「いいわよ、わたしと戦う?」
 クローネはきらりと瞳を光らせてそう言った。
 「・・・。」
 「やってみましょうか?わたしはけしてこの方たちをお兄さんには渡さない。腕づくで取ってお行きなさい。手加減は無用よ。さっき古代魔術がどうとかっておっしゃっていたようだけど・・・そういうお勉強をしていたのはご自分だけではありませんからね。」
 「おまえも?」 
 「ええ、ひそかにお勉強してたの。かなりなものよ。もちろん小さい頃からの魔術の腕の研鑽も怠りありませんからね。折角だからたっぷりお見せするわ・・・さあではどうぞ。どこからでも。」
 そう言うとクローネは再度王女たちから少し離れて、エスタニと対峙した。エスタニはもう本当に厄介そうに小さくため息をつくと、冷ややかな視線をクローネに送った。
 「きかぬ奴だな。」
 「そっちこそ。」
 「痛い目をみるぞ。」
 「そっくりお返しするわ。」
 「そうか。では・・・。」
 エスタニの指先がくるりと小さく円を描いた。
 「受けるが良い。」
 と、うす紫色のもやがさあっと広がり、すぐにそれは渦巻きになってまっすぐ前に進むと、クローネの姿を正面から呑み込んでしまおうと襲いかかった。
 「!」
 しかしクローネはその圧倒的な風を片手で無造作に弾き返した。返された渦巻きは逆行してエスタニに向かいかけたが途中であっさりかき消えてしまった。続いてクローネが兄をひと睨みすると宙からいく匹もの蛇が現れて、口々に鋭い牙をむきエスタニに降り注ごうとした。しかしそれらはいづれも彼の身体にたどり着く前に、すぐに雲散させられていた。
 クローネは横に走り、エスタニはその場で身体の向きを変えてクローネの動きをそのまま追った。クローネが右手を振ると崖の一角が大きく崩れておそろしい量の土砂が不自然な落ち方でエスタニの立ち位置を襲ったが、彼の身体から出た強い光がそれらをことごとく射し貫き、ぐわっと大きな音がして全ての岩や土が粉々にされると、それらはまた不自然にエスタニを避けてばらばらと彼のまわりに散らばった。
 「・・・!」
 はっと気付くとクローネは、いつの間にか弾力のある木の蔓のようなものに、身体をぐるぐる巻きにされていた・・・が、彼女が両腕をぐっと強く動かすと、すぐに蔓はちぎれて四方に散り、そのまま消えた。彼女が放った、皮膚を切り裂く尖った氷の粒を含んだ風がエスタニの放った炎に灼かれたが、エスタニから投げられた濃い青のまっすぐな固い光の筋も、クローネの身体から発せられたきらきら光る霧に包まれてたちまちのうちに溶けるように消え去った。
 「すごい・・・。」
 しばらくは兄妹ふたりの、光と風の応酬が続いていた。王女たちはほとんど我を忘れてその激しい戦いに見入っていたが、ふと彼女らの背後から、ふたりに呼び掛けるひそひそとした声が聞こえてきたのに気が付いた。
 「ロロディアちゃん、ミュゼルちゃん。」 
 「・・・ケイアさん!」
 王女たちはきょろきょろと辺りを見回したが、肝心の彼女の姿がない。
 「ケイアさん、どちらですの。」
 「すぐうしろにいるわ、姿を消しているの。これってホントにもたない技なんだけどね。すぐ術が破れて見えるようになっちゃうわ、魔術よくわかんないからねえわたしは・・・。それはともかく、すごいことになってるわね。なにあの人たち。まだいたんだ、あんな魔術使える人って。」
 「ええ・・・すばらしいものですわ。」
 「全くね。あなたたちも大したものね。ちゃあんとわたしの言ったこと覚えてて下さって、ご自分たちでお逃げになったのね。わたしたち、あなた方がまだ兵隊さんに囲まれてると思ってたから、うちの人間いっぱい動員して派手に襲おうと思って待ち伏せしてたのよ。でもいざ実行って直前にあなたたちが川に飛び込んじゃったから・・・。わたし、様子見にひとりで今朝からあなたたちに張り付いてたから、あれ見てホントびっくりしちゃった。
 みんなはさっきの山の坂の上で待機してたんだけど、それに待っててって言い残してひとりであとを追ってきたのよ。今からそこにあなたたちをお連れしたいのだけど。」
 「そうでしたの・・・。」
 「さ、行きましょ。船長さんたちにも会ってきたわよ。あなたたちを船に連れて行くって約束しちゃったわ。」
 「船長さんに・・・!」
 「そうそう、だから行きましょ、今のうちよ。」
 「でも・・・。」
 ミュゼルはそっと相変わらず戦う兄妹の方を心配げに見遣った。
 「あの方、わたしたちを助けようとして下さったのですわ。」
 「そう、そうね。あの女のかたね。わたし忘れないようにするわ、あとできっと探し出してお礼をする。ヴィルギスの民は受けた親切はけして忘れないのよ。でも今は行きましょう。あの方々兄妹なんでしょう。あの女性が殺されてしまうということはないと思うわ。」
 「黙って参りますの。」
 「ひとこと挨拶してもいいわよ。」
 そこでくるりと、被っていた布を脱ぎでもしたように、不意にあのしなやかなケイアの姿が二人の目の前に現れてきた。ケイアは王女たちににこっと笑ってみせると、急に大きな声をあげて向こうで戦っているふたりに言った。
 「お取り込み中ですけど!お姫さまたちはいただいていくわよ!」
 魔術者の兄妹は同時にケイアを見てさすがに少々驚いたようだった。しかし妹はすぐに心得たという笑みをその顔に浮かべると、一瞬ケイアに片目をつぶってみせ、こちらも大きな声で返事をした。
 「頼むわ!気をつけてね!」
 「任せて!あなたもね!」
 ケイア、ロロディア、ミュゼルの三人は一目散に川へと向かった。エスタニはその三人に向かって、青紫の光の細い筋を投げ付けた・・・それは彼女たちの近くでふわっと大きく広がり三人を包み込んでしまおうとしたが、突然その網の中に茶色の長いやわらかそうな髪の姿が飛び込んできて、全身から放つ光でその網を受け留め両の腕を身体の前で十字に組んで魔力の圧力に抗していた。
 「あなた・・・。」
 「いいから行って!こんなの平気、早く!」
 「ありがとう・・・。」
 「お礼なんて忘れて!早く!」
 三人の娘たちは思い切るように再度そこから駆け出すと、ケイアを先頭に次々とまた、深い川の中に身を沈めていった。クローネは全身の力を使ってどうにか、自分をつかまえていた青紫の光を中から砕いて霧消させた。やさしく丸い胸が大きく上下し、彼女の息が若干あがっているのがそれで明らかに見て取れた。クローネはさっと川と岸とそして兄の姿に目を配り、ごく短い間何かを思案しているようであったが、すぐに何ごとかつぶやくと、忽ちそのすらりとした姿をその場から消した。
 妹が立ち去ったのを認めたエスタニはしばらくそこに立ち尽くしていたが、やがてゆっくりとその場に腰をかけた。大きくひとつ胸から息をつく。正直・・・そう正直、少し疲れている。
 “強くなった。”
 これほどの腕の者はそうはいまい。尤もわたしを除いては、だが・・・。
 “!”
 その時。暗い気配にエスタニは、はっと顔を上げ空を見据えた。
 そこにはまっ黒な、煙のような渦があった。それはぐるぐると、巻き込んだものをことごとく引きちぎるかと思わせる旋回を内に、一気にエスタニの身体目がけおそろしいスピードで押し寄せてくるように見えていた。

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