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古典の入門2『これで古典がよくわかる』橋本治

 古典の入門書について語るシリーズの第二弾は橋本治の『これで古典がよくわかる』だ。
 前回は俵万智の『恋する伊勢物語』を取り上げた。『伊勢物語』が最初の古典としてふさわしいと考えており、その最初の古典を読むにあたっての入門書として『恋する伊勢物語』は良く書けていると考えたからだ。しかし誰もが『伊勢物語』から古典を始められるわけでも無いのは僕も承知している。だから今回から数回は、特定の作品に絞らず「古典」全体を対象にした入門書を取り上げてみようと思う。
 今回は、そうした本の中でも、古典を学びたい人より古典を学ぶ理由を分かりたい人向けの本を選んだ。入門書というより、門に意識を向けるための本だ。古典はなんとなく大事そうだとは思うけれど、自分では読んでみようと思えない人。古典を好きになってみたい人。そういう人はぜひ本書を読み、古典好きのマインドセットを手に入れる契機としてもらいたい。

 橋本治は小説家だ。だがその名を世に知らしめたのは『桃尻語訳 枕草子』をはじめとする古典の現代語訳ではなかったか。「春って曙よ!」から始まる当時の女子高校生の口調を彷彿とさせる現代語役は、衝撃を持って世に受け止められ、後に何人もフォロワーを生み出した。
 彼はなぜそんな作品を書いたのか。どんな問題意識を持ちいかなる解決策を提示しようと考えたのか。その答えが述べられているのが本書だ。本書の「まえがき」にはこうある。

「今の人に古典は遠い」・・・あまりにも多くの人たちが、古典とは関係ないところにいて、はじめから「関係ない」と思っています。古典はそんなものでしょうか?古典に焦点があわないままの人たちに、「古典とはこんなものか」と思っていただきたくて、私はこの本を書きました。

 「古典に焦点があわない」というのは言い得て妙だ。焦点があわないまま生きて、あわないことに不自由を感じないという自分を根拠に古典不要の論を立てる。そんな人は本書が書かれた1997年以後も大勢いた。今もいる。

 焦点があわないまま偉くなってしまった人はもう、古典など読まないだろう。読まなくても偉くなれる自分を誇りつつ、古典の不要を語っていくだろう。悲しい事態だ。橋本はそのような状況を食い止めるために本書を書いているらしい。おそらく本書のターゲットは、焦点があわないがまだ偉くなっていない人たちだ。要するに高校生や大学生である。
 彼らに橋本は語る。

日本人は、えんえんと長い時間をかけて、「当たり前の日本語の文章」を生み出す方向へと進んできました。そしてそれは、その時代その時代の「人間のありかた」そのものなんです。古典を読む時に一番必要なことは、「自分も人間、古典を書いたのも人間ーだからこそどっかに“接点”はある」と思うことでしょうね。

 橋本は日本人の書き言葉はそもそも漢文だったということを踏まえている。ちなみにここでの「当たり前の日本語の文章」とは漢字とひらがなが混じった文章のことであり、話し言葉と書き言葉が古典に比べれば近づいている現代の文章のことだ。
 現代でも話し言葉と書き言葉は完全には一致していない。おそらく今後も一致することはないだろう。書き言葉は書き言葉らしさを残しつつ話し言葉を取り入れて、変わり続けていく。だからある時代の書き言葉=文章は、「その時代その時代の『人間のありかた』そのもの」なのだ。
 文章は、先人の紡いできた言葉を用いつつ、現代の「おしゃべり」を取り込んで完成する。ではそれはどのようにすると成功するのか。その方法を知るには成功例を読むのが手っ取り早いはずだ。そしてその成功例を、僕たちは古典と呼んでいる。
 清少納言は、紫式部は、兼好法師は、それぞれの時代においてどのように先人の言葉と向き合い、自分の文章を書いたのか。
 こんな問いに少しでも反応する心があるなら、きっとあなたは古典に焦点を合わせることができる。ぜひ本書を手に取ってもらいたい。

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