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【玉葉集】15 実家の人たち

 六帖の題にてよみ侍りける歌の中に、若菜を
里人や若菜摘むらし
朝日さす三笠の野辺は春めきにけり
(玉葉集・春歌・15・藤原為家)

 玉葉集を撰んだ為兼の祖父・為家の歌です。思ったより普通の歌が撰ばれているという印象です。

 詞書から題詠と分かります。「新撰六帖題和歌」のために詠まれた歌でした。このイベントは『古今和歌六帖』の歌題にもとづき5人の歌人が各題一首ずつの和歌を詠んだものです。為家はその企画・推進の立場にありました。

 似ている歌と比べると少しこの歌の特徴が見えてきます。例えば拾遺集の

野辺見れば若菜摘みけり
むべしこそ垣根の草も春めきにけれ
(拾遺集・春歌19・紀貫之)
野原の方を見ると
若菜を摘んでいるのだ。
なるほど、だから
垣根の草も
すっかり春めいているというわけだ

は若菜を摘んでいる景と垣根の景を結んでいます。春めいた景色を含む二つの景色を結びつけている点では為家歌と似ています。
 ただ貫之歌は視界の内の二つを結びつけていました。為家歌は違います。二句末の助動詞が「けり」ではなく推定の「らし」です。つまり前半の景色は眼前にありません。

 構造が<推定ー眼前>となっている点では

深山には霰降るらし
外山なるまさきの葛色づきにけり
(古今集・神遊びの歌・1077)

にも似ています。「まさきの葛」の景色から「深山」の霰を想像する歌です。こちらは推定と眼前を分けることで一首に奥行を作ることに成功しました。

 為家歌に奥行は感じられるでしょうか?

 僕にはそうは感じられません。里人が若菜を摘む様子がくっきりと描かれているように感じます。その理由は一句末を「や」として一首内での重みを持たせていることではないでしょうか。

里人や若菜摘むらし
朝日さす三笠の野辺は春めきにけり

 実は「里人や」は「新撰六帖題和歌」では「里人も」となっていました。類推を意識させる「も」は詠嘆の「や」に変更され里人への注目度を上げているでしょう。

 眼前に無い里人と眼前の三笠の野辺とを同時に重点的に描く。それがこの歌の特徴と言えるかも知れません。その2つをつなぐ貫之歌のような道理も「外山なる」歌のような奥行も無いまま。
 これは良い歌なのでしょうか。僕には歌の中心が分散化してピントがぼけてしまったような印象に感じられてしまいます。

ああ、町の人々は今
若菜を摘んでいるらしいぞ
朝日が差し込む
三笠山の麓に広がる野辺は
すっかり春めいてしまったことだよ

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