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こたつねこの好きな画家3

おはようこんにちはこんばんは\(^▽^)/!

こたつねこです。

タイトルを見てどこまで続くんだ?このねこは?と思われた方もいらっしゃると思いますが、今回もお付き合いくださいね(๑♡ᴗ♡๑)

さて今回はミケランジェロについて書きます。
私2016年に勤続30年の記念として休暇と旅行券を会社から頂きました(退職前の話)。
そしてその年の8月1日~8月20日(リフレッシュ休暇+お盆休み)丸々休んでイタリア、スイス、ベルギー、フランス、イギリスを旅行しました(コタツネコの人生において最大級の海外旅行)。その時にミケランジェロのダビデ像を見ましてあまりにもインパクトが強かったので今回書こうと決めました(内容が前回のレオナルド・ダ・ヴィンチ同様、殆どWikipediaの受け売りですみません)

ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(伊: Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能(の)人」と呼ばれる

ミケランジェロ・ブオナローティ
Michelangelo Buonarroti

ダニエレ・ダ・ヴォルテッラが描いたミケランジェロの肖像画

ミケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評価を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされている。ミケランジェロが制作した絵画、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、最も有名なものの一つとなっている。長寿を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想録なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家の中で最もその記録が詳細に残っている人物でもある。
ミケランジェロの彫刻で最も有名と思われる『ピエタ』(1498年 - 1499年、サン・ピエトロ大聖堂)と『ダヴィデ像』(1504年、アカデミア美術館)は、どちらもミケランジェロが20歳代のときの作品である。また、ミケランジェロ自身は絵画作品を軽視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画、システィーナ礼拝堂の『システィーナ礼拝堂天井画』と祭壇壁画『最後の審判』を描いている。さらに建築家としてもフィレンツェのラウレンツィアーナ図書館(英語版)で、マニエリスム建築の先駆けといえる様式で設計を行っている。また、74歳のときにアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネの死去をうけて、当時改築中だったサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命された。このときミケランジェロは従前の設計を変更し、建物西側(奥)はミケランジェロの設計どおりに建てられた。ただし、主ドーム部分はミケランジェロの死後になって、別の設計に変更されて完成している。

『システィーナ礼拝堂天井画』の『ユディトとホロフェルネス』の部分拡大画像。描かれているホロフェルネスは、ミケランジェロの自画像といわれている。

ミケランジェロは、存命中にその伝記が出版された初めての西洋美術家であるという点でも、際立った存在といえる。伝記のうちの一つがジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』で、ヴァザーリはミケランジェロをルネサンス期の芸術における頂点として絶賛し、その作品は何世紀にもわたって西洋美術界で通用するだろうとしている。ミケランジェロは存命中から「神から愛された男 (Il Divino )」と呼ばれることすらあり、当時の人々からは偉人として畏敬の念を持って見られていた。ミケランジェロの作品に見られる情熱的で独特の作風は後続の芸術家たちの模範となり、盛期ルネサンスの次の西洋芸術運動であるマニエリスムとなって結実していった。


【作品について】


ピエタ (ミケランジェロ)

『サン・ピエトロのピエタ』はミケランジェロの数ある彫刻の中でもダビデ像と並ぶ最高傑作である。

この項では、イタリアの芸術家・ミケランジェロ(1475年 - 1564年)が「ピエタ」(Pietà、慈悲などの意)を題材として制作した、4体の彫刻作品について記述する。
ピエタは聖母子像の一種であり、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことである。
ミケランジェロが制作した4作品(ただし、完成したのは『サン・ピエトロのピエタ』のみ)の通称と制作年、現在の収蔵場所は以下の通りである。

『サン・ピエトロのピエタ』(1498年 - 1500年、サン・ピエトロ大聖堂)

⒉『フィレンツェのピエタ』(1547年? - 、フィレンツェ、ドゥオーモ博物館)未完成

⒊『パレストリーナのピエタ』(1555年? - 、フィレンツェ、アカデミア美術館)未完成

⒋『ロンダニーニのピエタ』(1559年 - 、ミラノ、スフォルツァ城博物館)未完成

とりわけ『サン・ピエトロのピエタ』は、他の芸術家によっても同じ題材で数多く作られたピエタと比較しても肩を並べるもののない傑作であり、これによってミケランジェロの名声は確立された。また、視力を失いながら手探りで制作を続けたといわれる4作目『ロンダニーニのピエタ』はミケランジェロの遺作となった。

上記に示される様に全部で4体の『ピエタ』がありますが、説明が長くなりますのでここでは最も有名な『サン・ピエトロのピエタ』のみ挙げておきます。ご了承ください。

サン・ピエトロのピエタ

ミケランジェロの肖像、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ筆。

『サン・ピエトロのピエタ』。


概要

サン・ピエトロのピエタ』(1498年 – 1500年)はローマのサン・ピエトロ大聖堂収蔵の大理石彫刻の一つであり、「ピエタ」を題材とする数多の作品の中でも第一に挙げられるものである。古典的な調和、美、抑制というルネサンスの理想の最終到達点ともいうべき完成度を誇り、ミケランジェロの数多い作品の中でもとりわけ洗練され精緻を極めたものとなっている。

完成まで

ミケランジェロは故郷フィレンツェの政情不安や芸術の中心地ローマへの関心からフィレンツェを離れて1496年以来ローマに滞在し、この地でリアリオ枢機卿のために『バッカス』の彫像などを作っていた。そのミケランジェロのもとへ、同地に大使として派遣されていた元サン・ドニ修道院長のフランス人枢機卿ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラからピエタの制作依頼が入った。枢機卿は自分の葬儀の記念のためのピエタ像を求めていたのである。1498年8月27日、枢機卿とミケランジェロは金貨450ドゥカーティの報酬で契約を交わした。同年12月、ミケランジェロはみずから石切り場へ出向いて大理石を手に入れ、制作を開始した。
枢機卿が定めた制作期限は1499年8月であった(この月の6日に枢機卿は死去した)が、ミケランジェロがこれに間に合わせることができたのかどうかは定かではない。ミケランジェロはその後1501年5月にフィレンツェへ戻るが、その間に作られた作品がわずかに未完成の絵画一枚しかないことから、少なくとも1500年までは大作ピエタのために忙殺されていたのだろうという推測が一般的である。
イエス・キリストの亡骸を抱きながら悲嘆に暮れる聖母マリアという題材は、フィレンツェの画家たちのあいだには先例があるものの、イタリアの彫刻でこれが扱われるのはきわめて斬新なことであった。しかし北方、とりわけ枢機卿の故郷フランスやドイツでは伝統的にピエタの木像が作られ、聖金曜日の典礼などで用いられていた。またボローニャのサン・ドメニコ教会にはドイツ人の手になるピエタ像があったことなどから、ピエタの制作に際してミケランジェロがこれらの先行作品のことを念頭に置いていたかもしれないことは充分に推測可能である。これらの先例を独特の手法で消化吸収しながら、ミケランジェロは彫鏤を重ねた。

完成後

およそ2年をかけてミケランジェロは大理石の一枚岩からかつてなく壮麗な彫刻を創り上げた。制作にあたり「ピエタ」という題材について彼の下した解釈は、過去の他の芸術家たちとは大きく異なるものであった。失意に沈む年配の女性として表現されるのが通例であった聖母マリアの姿を、ミケランジェロは若々しく穏やかで神々しい女性に仕立て上げたのである。息子イエスよりも若く見えることについて枢機卿は「マグダラのマリアの間違いではないか」と非難した(ドレスの裾からマリアの爪先がわずかに覗いていることからも、この非難は的外れなものではない)が、ミケランジェロは「原罪のない聖母マリアは歳をとらない」と断言した(解釈については後段で詳述)。また磔刑の傷跡は小さな釘の跡と脇腹の傷だけに限定されており、足は無傷である。
『サン・ピエトロのピエタ』が最初に設置されたのは現在のサン・ピエトロ大聖堂ではなく、その南翼廊近くのサン・ペトロニッラ礼拝堂にあるジャン・ド・ビレール枢機卿の墓の上であった。この礼拝堂はのちに大聖堂再建計画にともないバシリカを改築するためドナト・ブラマンテによって取り壊されることが決まり、ピエタはサン・ピエトロ大聖堂内へ移されることとなった。その後もピエタは教会内を何度か移動し、1749年に現在の位置、サン・ピエトロ大聖堂のバシリカに入って右側すなわち北面にある第一礼拝堂(Holy doorと聖セバスティアヌスの祭壇のあいだ)に移された。この礼拝堂は、教皇が礼拝の儀式を執り行なう前に法衣をまとう場所となっている。

ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』によれば、ピエタの設置を終えてまもないころに「あれは二流彫刻家のクリストフォロ・ソラーリ(Cristoforo Solari)が創ったものだ」という噂がささやかれているのを耳にしたミケランジェロは怒りにかられ、夜中に教会へ忍び込んでマリアの肩から胸に下がる飾り帯の部分に「MICHAELA[N]GELUS BONAROTUS FLORENTIN[US] FACIEBA[T](フィレンツェの人ミケランジェロ・ブオナローティ作)」と刻み込んだという(右写真参照)。のちにミケランジェロは発作的にこうした行為に出たことを後悔し、それ以後けっして自分の作品に名前を入れようとはしないことを誓った。そのため、『サン・ピエトロのピエタ』は彼がみずから署名を入れた唯一の作品となった。
後年、ピエタは少なからぬ損傷を被っている。1736年にはこの作品のあまりの美しさに正気を失った男によってマリアの左手の指四本が折られ、ジュゼッペ・リリオーニ(Giuseppe Lirioni)によって修復されているが、このときに修復者がマリアの仕種をより美しく見せようと誇張するなどの改竄を行なったのではないかと疑う研究者と、それを否定する研究者とに二分されている。最も深刻な被害としては、1972年5月21日(聖霊降臨祭の日)に発生した、精神を病んだ地質学者(Laszlo Toth)が「俺はイエス・キリストだ」と叫びながら鉄鎚でマリアを叩き壊したという事件がよく知られている。事件後には綿密な修復作業を終えてサン・ピエトロ大聖堂の元の場所に戻されたが、現在では防弾ガラスのパネルによって保護されている。なおバチカン公認のレプリカがバチカン博物館の他ポーランドのポズナンと韓国の盆唐区のカトリック教会にあるが、この修復作業のさいにはポズナンのレプリカが逆にモデルとして参照された。

構成

本作はルネサンス美術に典型的な三角形の構図を取っており、聖母マリアの頭を頂点としながら、底辺となる台座(ゴルゴタの丘)に向かって他の二辺となるマリアのドレスの襞が徐々に広がってゆくことで三角形を形づくるようになっている。この三角形の上に、座っているマリア(垂直方向)と横たわるイエス(水平方向)を直交させて重ねるというのがミケランジェロのアイディアであった。しかし、ピエタにおいてイエスをマリアの膝の上に載せて描くのは絵画においては珍しくないが、彫刻においては困難であり、イエスがマリアにもたれかかるような形をとることの方が多い。成人男性であるイエスの頭や足は当然マリアの膝からはみ出ることとなり、その大理石の重さを支えるものがなくなるという即物的な理由からである(マリアのドレスは、三角形を描くという審美的な役割だけでなく、横たわるイエスの頭や足を支えるという物理的な役割をも果たしている)。

この無理を犯すためにミケランジェロはあえて二人の像の均整を取らないという方策に出ており、このイエス像の大きさが等身大のものであったとすると、同じ縮尺で換算したマリアの身長はイエスより大きくなってしまうという不自然さを残した(とはいえ、マリア像の大半は彼女のドレスの内に隠されているため、まったく自然に見えないわけではない)。しかし、これはミケランジェロの設計ミスではない。例えばダビデ像ども下から見上げたときに均整の取れた肉体と映るよう設計されているため、真横から眺めるとどことなく不恰好に見える。同様の作為が施されたピエタ(前述の通り当初は別のところに展示されていた)の設置場所を変えたために生じた不自然さであり、はじめから高所へ設置されることに決まっていたならば、観覧者の目の錯覚を逆利用して補正するように変形することがミケランジェロに可能だったことは明らかである。

解釈

聖母マリアが非常に若々しく表現されているという特色については、さまざまな解釈がなされている。ミケランジェロ自身が彼の伝記作家であり彫刻家仲間でもあったアスカニオ・コンディヴィに語った、「マリアの若さは彼女の不滅の純潔を象徴しているのだ」というものがその筆頭である。曰く、
純潔な女性がそうでない女性よりも瑞々しいままでありつづけるということを君は知らないのか? いわんやマリアにおいておや、だ。彼女は肉体を衰えさせるような劣情を一度も抱いたことがないのだからな。
次いでよく知られる解釈は、ミケランジェロがダンテの『神曲』から強く影響を受けたというものである。この詩篇に対するミケランジェロの熱中ぶりは、ボローニャにいたころは給料を支払ってまで『神曲』を暗誦できる者を傍に置いていたという逸話によっても知られる。「天国篇」第33歌において、マリアのために祈りを奉げる聖ベルナルドの「Vergine madre, figlia del tuo figlio (母なる処女、汝が子の娘)」という科白がある。マリアが「自分の息子の娘」になるのは、イエス・キリストは三位一体の位格の一つであるため、マリアは(他のすべての人間と同様に)イエスの子であるが、イエスの母であることもまた事実だという神学的な理屈だが、ミケランジェロはこれに依拠していたのだという説である。
第三の解釈は、前記引用文の後に続けてコンディヴィが記したミケランジェロ自身の言葉である。
聖母マリアのこうした瑞々しさと華やぐ若さは、自然の摂理によってだけではなく、神の力によっても支えられているものなのだ。
また、鑑賞者が実際に眼にしているのはまさに幼子のイエスを抱いているマリアの姿に他ならないのだとする説もある。マリアの若々しい容貌や穏やかな表情に加えその腕の位置などは彼女が自分の幼い子供を見つめているさまを表現しており、鑑賞者はそこに将来のイエスの姿を映し見ているのだというのである。
なお、ミケランジェロ自身は6歳のときに母をなくし、その後里子に出されている。そこで、亡き母を思い描いて聖母に投影したという見方もある。

またカトリック教会には、聖母マリアの母が、原罪なくマリアを懐妊したという教義が存在する(聖母の無原罪の御宿り)。したがって聖母マリアは死を免れることになる。このために、カトリック圏で描かれる聖母マリアはほとんどすべて若い女性の姿を取り、老いた聖母の図像は皆無である。なぜなら、老いは死の前兆であるので、死を免れたマリアは老いることもない、ということになるからである。ピエタの聖母が、処刑当時30歳前後と推定されるイエスの母としては若すぎる背景には、このような神学的観念も影響していると考えられる。

ダビデ像 (ミケランジェロ)

ミケランジェロ作『ダビデ像』

ダビデ像(ダビデぞう、伊: David di Michelangelo)は、ミケランジェロが1501年から制作を開始し、1504年9月8日に公開した彫刻作品である。フィレンツェのアカデミア美術館に収蔵されている。


概要


ピエタと並ぶミケランジェロの代表作であるばかりでなく、ルネサンス期を通じて最も卓越した作品の一つである。人間の力強さや美しさの象徴ともみなされる作品であり、芸術の歴史における最も有名な作品のひとつと言える。ダビデとは旧約聖書においてイスラエル王国の二代目の統治者。大理石で身の丈5.17メートルにかたどられたこの像は、ダビデが巨人ゴリアテとの戦いに臨み、岩石を投げつけようと狙いを定めている場面を表現している。そして、ルネサンスならではの表現として、瞳が割礼器具のようにハート型に象られていることや、イスラエルの民の証とされる割礼の痕がないことが挙げられる。
元来はフィレンツェ市庁舎の置かれたヴェッキオ宮殿の前に飾られていた(1873年に現在の場所に移設)ことなどもあり、のちに都市国家フィレンツェ共和国が周囲を取り囲む強大な対抗勢力に脅かされるようになった時には、巨人に立ち向かうこの像こそフィレンツェを象徴するものだという解釈がなされるようになった[1]。

完成まで

ミケランジェロのダビデ像の歴史は、制作期間(1501年から1504年)をはるかにさかのぼり、その始まりは1464年まで辿ることができる。当時サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の運営権を担う大聖堂造営局は、実質的にフィレンツェ羊毛業組合(英語版)が握っていた。大聖堂(ドゥオーモ)の建築には140年以上を要したため司教は途中で費用を支払えなくなり、この組合が代わりにそれを請け負ったためである。フィレンツェ羊毛業組合は、かねてよりこの大聖堂のバットレス(控え壁)に旧約聖書を題材とした12体からなる巨大な彫像の連作を飾るという計画を立てており、すでに何人かの彫刻家へ発注もしていた。この計画の背景には、15世紀初頭からミラノ公国をはじめとする外部の脅威が迫っていたため、聖書中の聖人や伝説中の英雄の像を大聖堂に飾りフィレンツェの興国の気運を高めようとの配慮があった。しかし、1463年の時点で完成していたのはドナテッロによる「預言者」像とその弟子アゴスティーノ・ディ・ドゥッチオ(英語版)による「ヘラクレス」像の2作だけであった(この2作は、いずれものちに壊されていて現存しない)。この計画を何としても進めるため、大聖堂造営局は同1463年にアゴスティーノと再契約し、ダビデ像を制作するという言質を取りつけた。しかしアゴスティーノは、像の脚部と胸部や衣服の概観を大まかに作り、脚と脚のあいだに隙間を空けるところまで制作を進行させたが、師ドナテッロの死去した1466年、理由は不明ながらも制作を中断し契約も破棄してしまった。大聖堂造営局は、アゴスティーノの未完成品を仕上げるようアントニオ・ロッセリーノ(英語版)に依頼した。

ドナテッロ作『ダビデ像』

ロッセリーノの契約もやがて破棄され、質のよい大理石を産出することで知られるイタリア北部の都市カッラーラの採石場から運ばれた大理石の塊は大聖堂の事業監督所に25年ものあいだ吹きさらしのまま放置されることとなった。たとえ素材のままではあれ、値段もさることながらフィレンツェまで運ぶのに莫大な人件費や輸送費がかかる巨大な大理石を飾っておくことは、大聖堂造営局の威信を高める効果があったからである。1500年に作成された大聖堂事業監督所の在庫目録には「荒く輪郭を描かれたまま仰向けの状態で放置された『ダビデ』と呼ばれる大理石像」と表現されている。翌年に書かれた文書では、造営局がこの巨大な大理石の塊を作品として完成させることのできる芸術家を探す決意をしたことが示されている。造営局は、招いた芸術家に『巨人像』(完成後『ダビデ』の名が定着するまではたんにこうも呼ばれていた)を調べて意見を述べてもらうためにこれを立たせるよう指示を出した。レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ何人かの芸術家が打診されたが、造営局は26歳の若きミケランジェロに委託することを決定した。1501年8月16日、ミケランジェロはこの困難な仕事を引き受ける契約を正式に交わし、翌9月9日から約3年にわたる制作の第一歩を踏み出した。
ミケランジェロは好奇の視線にさらされながら作業することを嫌い、土台と大理石の周りを仕切りで囲って極秘裏に作業を続けた。フィレンツェ市長が視察に来たときには中に入れざるをえなかったが、このときミケランジェロは作業台の一番上に登り、大理石に打ち付けずに槌の背だけを叩いて音を出し、手の中に握った大理石の粉末を市長の鼻先に散らすことで作業をしている振りをしてごまかした。市長が「いま自分はこの像に命が吹き込まれる瞬間を目の当たりにしたのだな」と感動しながら帰って行くのを見てほくそえんでいたというエピソードをジョルジョ・ヴァザーリが書き残している。この作品のために描かれた素描やスケッチもほとんどがミケランジェロ自身の手によって焼却処分に付された。

本来の位置に置かれたレプリカ

1503年から翌年にかけては、他の仕事の依頼が入ったために作業がやや停滞している。上記のような秘密裏の作業やピエタの制作にあたり大理石の採掘に自ら立ち会ったという逸話からも見て取れる通り、ミケランジェロは作品を制作する過程のすべてに直接関与し、己れの全精力を傾けることによって己れの全個性を作品のうちに刻み込むという芸術家としてのポリシーをもっていたため、複数の作品を同時進行で制作しなかった。そのため、断りきれない他の仕事が入るとそれまでの仕事を中断せざるをえなかったのである。こうした別件の委嘱のうちの一つに、フィレンツェ当局のために制作したもう一つのダビデ像がある。正式な契約相手はピエール・ド・ロアン元帥で、この人物がフィレンツェ市庁舎にドナテッロの『ダビデ像』を模したブロンズのダビデ像を寄贈するため1502年8月にミケランジェロへ依頼をしたのである。しかし、1504年にロアン元帥が失脚したためこの契約は破棄され、ミケランジェロも鋳造まで終えていながら仕上げを放棄してしまった。1508年にこのブロンズ像はベネット・ダ・ロヴェツァーノが完成させてフランスのフロリモン・ロベルトの手に渡ったが、17世紀以降行方不明となっている。
彫刻の完成が近づいた1504年1月25日、フィレンツェ市当局はレオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリを含むフィレンツェの芸術家たちによる協議会を設け、この像を設置するのに最もふさわしい場所を決めるための会合を開いた。市民の士気を高めるという意義を背負ったこの像を最も適切な場所に置くことはもはや市当局の政策の一環であり、ミケランジェロ個人の手を離れた問題となっていたためである。したがって当初の計画通りに大聖堂内もしくはその近くに置くべきと主張したボッティチェリらはむしろ少数派であった。ジュリアーノ・ダ・サンガッロは屋外に置くと大理石が損傷するおそれがあるためシニョリーア広場にあるランツィの回廊(ロッジア・ディ・ランツィ)を提案した。ダ・ヴィンチやピエロ・ディ・コジモらの賛同も得たこの意見が多数を占めたが、市政長官は同じくシニョリーア広場に面した市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の正面入口脇に置くという裁定を下した。

完成後

ドナテッロ作『ユディトとホロフェルネス』

もともとヴェッキオ宮殿の入口脇にはドナテッロのブロンズ像「ユディトとホロフェルネス(英語版)」が置かれていたが、これを移動してかわりにダビデ像を置くという市当局の決定には、反メディチ家という意図が隠されている。「ユディトとホロフェルネス」も同じく英雄的な抵抗運動による暴君からの解放をテーマとするものであるが(詳細はユディトを参照)、元来はメディチ家礼賛のために作られた像だからである。1512年にメディチ家が復権したときにはホロフェルネスの代わりにダビデ像の首が切り落とされた戯画が出回り、1527年のローマ略奪に乗じて起きた反メディチ革命のさいには実際にダビデ像が打ち壊され、左腕が損壊するという大きな被害を受けた。なお、この左腕の破片はヴァザーリが拾い集めて後日修復された。こうした損害が再び起こることや風雨によって大理石が劣化することを避けるため、1873年にこの像はフィレンツェのアカデミア美術館に移動されることとなった。もともとダビデ像が置かれていた市庁舎前には1910年から複製が置かれている。
1991年、不届きな観覧客の一人が鉄鎚でこの像に打ちかかり、左足が砕かれるという事件が起きた。現場検証によって得られた大理石の砕片を鑑識にかけた結果、ミケランジェロが用いた大理石はカッラーラの分離集落MisegliaにあるFantiscritti採石場から得られたものであるという事実が判明した。上述の通り、この大理石はミケランジェロがダビデ像を彫り出すより40年ほど前に採掘されたものである。アゴスティーノ・ディ・ドゥッチオとアントニオ・ロッセリーノの二人が手をつけながら、経験にも技能にも欠け、大理石そのものにも問題があったため途中で断念したものをミケランジェロが完成させたのである。大理石そのものの問題とは、劣化を早める原因となる微細な穴が多く含まれていたことであり、そのおかげでミケランジェロは無料でこの大理石塊を手に入れることができたといわれている。
完成後500年を間近に控えた2003年には、像の汚れが目立ってきたため1843年以来160年ぶりの清掃がなされることになったが、ここで再び大理石の質をめぐって問題が発生した。アカデミア美術館館長のフランカ・ファレッティは500年分の汚れを徹底的に清めるためには水洗いをするべきだと主張したのに対し、依頼を受けた修復の専門家アニェーゼ・パロンキが、水洗いは大理石を傷めるとして反論したのである。館長と対立したパロンキが依頼を退けて辞任する事態にまでいたったが、最終的には表面に貼った和紙に水分を与えて汚れを吸収させてから剥がすという方法で修復は無事に終えられた。
Wikipediaより

以上、長くなりましたがミケランジェロの創った2体の彫刻で最も有名な物について書きました。ミケランジェロには他にも冒頭で触れている西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画、システィーナ礼拝堂の『システィーナ礼拝堂天井画』と祭壇壁画『最後の審判』を描いています。さらに建築家としてもフィレンツェのラウレンツィアーナ図書館(英語版)で、マニエリスム建築の先駆けといえる様式で設計を行っている。また、74歳のときにアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネの死去をうけて、当時改築中だったサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命されていますが、文章が膨大な量になってしまうのでこたつねこの判断により割愛させていただきます。ご了承ください。

《おしまい》

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