di acute 胸の鋏を抜くときに神様にきこえる卑語の韻 瀬口真司

di acute 胸の鋏を抜くときに神様にきこえる卑語の韻
瀬口真司「夕立代位篇」

di acuteは攻撃力をアップさせる魔法。例えば以下のような、

花曇り あなたが山羊に餌をやる様をいつまでも覚えているだろう。
𠮷田恭大『光と私語』

初句5音+一字開けの歌をぼく(と岡短卒業生の村上さん)はフィールド魔法と呼んでいる。引用した𠮷田の歌では、「花曇り」という語のもつ生暖かそうな気温の質感や読者との季節のおおまかな共有などをうけて、「いつまでも覚えているだろう。」という主体の時間感覚を含めた認識が共有可能/不可能の狭間に置かれることに成功している。このような、初句5音が一首全体に働きかけるとき、それを「フィールド魔法」と捉えることは可能だろう。

それを踏まえて瀬口の歌をもう一度、

di acute 胸の鋏を抜くときに神様にきこえる卑語の韻
瀬口真司「夕立代位篇」

攻撃力をアップさせる魔法である「di acute」を唱えているのは主体かもしれない。胸から(象徴的なものであれ)鋏を引き抜くという行為は相当な痛みを伴うだろうし、その痛みに耐えるために唱える。あるいは、神様が唱えているかもしれない。娯楽を求めた神様が、胸の鋏を抜くための力を与えるために。この詠唱主体のぶれがこの一首の不安感をより高めている。また、「卑語の韻」(「韻」までいうのが瀬口短歌のもっともおもしろいところのひとつだとおもう)とは胸から鋏を抜く者の叫声のようなものだと思った。痛みによって否応なくでる叫びすらも「韻」として聴き、快楽を得る神様。この暴力的な関係性があらわになればなるほど、その暴力の背後にある恍惚も亡霊のように迫ってくる。
そして、その暴力-恍惚の関係を司っているのが初句5音「di acute」である。攻撃力を高めるdi acuteが唱えられるとき、暴力と恍惚は二重螺旋のように絡みあいながら高まってゆく。詠唱主体が胸から鋏を抜く者と神様の間を絶えず行き来し、両者が一体化する瞬間、暴力と恍惚もまた混ざり合いより上位の「何か」に達する。その「何か」の気配をこの一首は纏っている。


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