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森崎和江著「まっくら 女坑夫からの聞き書き」を読んで

オモシロ仲間の作家、文学者の蛙坂須美にオススメしてもらった(というか、ネットストーキングして勝手にキャッチした)、女性たちも従事していた炭坑の時代を聞き書きで描くノンフィクション、森崎和江著「まっくら 女坑夫からの聞き書き」を読んだ。

副題にもあるように「聞き書き」も「聞き書き」で、各章末にある森崎の地の文以外は、ほぼ九州の方言。しかも近代化以前の香りが濃厚な、相当に強めの方言が改行も少なくびっしりと書き連ねられている。「九州弁」とひとことで言っても筑豊、筑後、肥後などと微妙が差異があるようだが、読んでいるわたしにはその判別はつきようもなかった。とにかく濃い方言が詰まっている。行きつけのバーに福岡での勤務経験がある広島県民がいるのだが、彼いわく「福岡の年配者の方言は聞き取れない」とのことで、1960年代初期に初版が刊行された本書の方言に慄くわたしの反応は自然なものなのだろうと納得した。思えばわたしも津軽弁多用の作家であり、よく読者を怯ませているのである。

本書は明治大正期の筑豊地方で、「男と同じ給金で」後山(掘った石炭を外に出す作業員)として労働した女性たち十人からの聞き書きで、取材当時の1950年末期には「老婆」となった話者それぞれのライフヒストリーが生々しく書かれている。
人権意識が低く、劣悪な環境を糾弾する者もいない中、食べるため、子供に食べさせるために炭坑へさがった人々の思いはシンプルでありながらも、さながら、さまざまな方向へ掘削されていった坑山内の迷宮のように複雑だ。

聞き書きの部分だけから読むと、仄暗さよりも彼女たちの気丈さ、したたかさが前面にあるように思える。読者は話し言葉の勢いにのまれ、彼女たちの体験を「人間の強さ」とだけ捉えてしまいそうになる。章末がなければ、「そんな辛い時代をよく生き抜きましたね」と安全圏から感想を洩らして終わりとなるかもしれない。
だが、聞き書きのパートが終わったあとに続く、森崎の筆はほとんどがそんな表層的な感動を覆すものばかりだ。
聞き書きはかつての「体験の中の彼女」を描いているが、取材する森崎は話者──「現在の彼女」に対峙している。現在の彼女を取り巻く景色にあるのは、閉山した炭坑と、専業主婦という檻に閉じ込められた女性たち、死に物狂いで労働した世界全てを否定するような、労働者へのアフターケアがない機械化と効率化、社会情勢によって激しく変動するパラダイムシフトの功罪である。

体験を披露した老婆たちのほとんどは「かつてのあなたが生きた世界は間違っていた」と責められていることに怒りと迷いを、昭和期への進む流れの中でずっと覚えている。中には坑内の記憶をひたすらに輝かしいものとして語った者もいるが、その話者は明らかに他の話者よりも出自が良く、坑内の見え方が当時から違っていただろうことが窺えた。(森崎はこの話者を貶しているに等しい文を章末に添えており、森崎自身の立ち位置もそこで見える)

本書は多面的なテーマを孕んでいるので、上記でわたしが触れている事柄だけがすべてではない。さきほどわたしが「表層的な感動」とした部分も大いに味わうべき、普遍性があるものだ。

本書は未だなお「現在」を鋭く捉えていると、わたしは思った。
わたし、坑山にさがったこともなく、望む望まざると無関係に女性よりも有利に権利を担保された性別「男」のわたしですら、元坑夫である女性たちが持つ怒りと悩みにシンパシーを覚えることができた。

わたしは歳を重ねるごとに誰かから「あなたの生きた時代は間違っていた」と言われている気が増している。

あなたが見て、笑ったそのテレビは間違っていた。
あなたが読んだその本は間違っていた。
あなたが感動したそのアートは間違っていた。
あなたの懸命さは、奴隷になるための懸命さだった。
あなたのひたむきに取り組んでいるそのことは、誰も望んでいないことだ。

わたしはこのような声に取り囲まれながら、抗うように己の感覚をなるべく信じようともがいている。
誰一人味方はいないと「まっくら」になることもある。
わたしの、あまりにも小さなことばに目を向ける者はほとんどいない。
それが現状である。

では、何もかもが徒労であるかのかと問われたら、否、とわたしは答える。
怒りと迷いをわたしは生かす。
詩人・森崎和江の聞き書きがまさにそうであったように、怒りと迷いを小さなことばに宿らせる、その行為こそに意味がある。

何一つ徒労では終わらない。
我々は、まっくらな中で恐怖と共に息をする。
その息にこそ、価値がある。

彷徨うことに、価値がある。
迷うことに、価値がある。
怒ることに、価値がある。

終わるまで、価値があり続ける。


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