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2019年のむすめと僕が眠る前に話していたこと

 むすめには、保育園に行きたくない朝がある。
 家でその思いを訴えるときもあれば、保育園に入ってからクラスの部屋の前で拒絶するときもある。原因は正確にはわからない。もしかすると騒がしい音環境が苦手なのかもしれないし、年齢が上がるにつれて複雑になってきた人間関係がいやなのかもしれない。もしくは、お昼寝の時間に1度しかトイレに行けないというルールが、心理的なハードルを高めているのかもしれない。わからない。僕が詳細を突き止める謂れもない。

 保育園に行きたくないときは行かなくてもいい、と僕は考えている。

 毎日保育園や学校に通えることは、特殊な能力だと思う。生来当たり前に身についているものではない。生まれ落ちた社会に合わせるかたちで、後天的に何かを身につけることによって完成する能力だ。あるいは、後天的に何かを“忘れていく”ことで完成するのかもしれない。

 とは言え、僕には仕事もある。調整のつくときは調整して休ませ、家で過ごす。むすめを仕事に連れて行けるときは連れて行くこともある。どうしても難しいときは「なるべく早くお迎えに来るから、今日は行ける?」と交渉することになる。

 毎日一定の場所に通える能力が必要なことなのかどうかは、本気でわからない。

 僕が少なくとも決めていることは、今はまだ、こちらからむすめの手を離さないことだ。
 保育園の廊下でむすめは、部屋に入るかどうかを決めかねて、30分以上にわたって逡巡しているときもある。彼女は「行きたいけど、行きたくない」と言語化する。部屋に入っていく日もあれば、帰る日もある。いずれにせよ、むすめが自分で歩みだすのを僕は寄り添って待つ。交渉を要する場合でも、待つ。
 待っている時間で育っているのは、親である僕だ。僕の中でたくさんの引き出しが開けられ、いくつかの可能性が検討され、態度が探され続ける。強制せず、勝手に決めず、誘導しない。むすめ自身を全的に尊重したい、といつも思う。彼女の「判断がつかない」という結論すらをも肯定する。そうして脳内でシナプスが活動しているうちに、自分ではない存在を経由して、僕の中に醸成されていくものがある。

 保育園の先生から見れば、僕がむすめを抱きとめてじっとしているだけだ。

 むすめが今の時点で表に出せる意思表示を尊重することだけが、彼女を全的に尊重することと合致するわけではない。
 先日、ランドセルを購入した。
 今、未就学児のむすめが好む色と、6年生のむすめが好む色は異なることもあるだろう。今だけでなく、6年後の彼女をも尊重したいと思う。今のむすめが訴えかける要望に耳を傾けると同時に、僕が予想できる未来についての可能性を語ったり、ランドセルの用途を詳細に説明したりとさまざまな働きかけをしながら、むすめと合意形成を図る。

 心理的安全性を基盤とした合意形成を積み重ねた先に、何があるのか。

 むすめは眠る前に「おはなししよう」と提案する。僕は応答する。
「今日の保育園は、○○ちゃんがパズルを片付けなくていやだった。すごくいやだった」とむすめが言う。「それはいやだったね」と僕は言う。僕のことも話す。むすめも応答する。話はとりとめなく続く。1時間ほどにおよぶことも少なくない。
 僕がむすめを育てているのではない。むすめとともに、関係性を育てているのだ。そして関係性によって、むすめと僕は育てられている。
 むすめには、保育園に行きたくない夜もある。話したあと、最後には「明日の朝に決めよう」と伝え、むすめは「うん」と言う。2019年、むすめと僕が眠る前によく話したことだ。物事は、判断されるべきタイミングを待っている。育ててきた関係性が明日も続いていく予感を残して、むすめと僕は眠る。

 未来への予感は、生きる糧になる。

 2020年、むすめは小学生になる。小学校の話を、最近は眠る前によくする。「パパは1年生のとき小学校に行けなかったよ」と言う。「え?そうなの?」とむすめは少し前のめりに応答する。
「2019年のむすめと僕が眠る前に話していたこと」そのものが、意味なのだ。親子だからといって自動的に良好な関係が築けるということは、決してない。良好でありたいと願う意思は、必要条件かもしれないが十分条件ではない。

 強いて言うなら、むすめには“忘れないでほしい”。

 むすめと僕が眠る前に話すときそうしているように、このテキストもとりとめなく終わる。

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