資本主義的か無償の愛か

先週久しぶりに家族に会った時に母や妹と相容れなかった(今も相容れるわけではない)ことを思い出した。
母とも妹ともさほど言葉を交わしてはいない。

先週祖父が亡くなって、私は祖父にとって初孫ということで幾分か特別視を受けていたのだろうなあなんて考えていた時に、愛情の偏りについてふと疑問に思うことがあった。
「初孫だから」と特別扱いを受けるのはよく聞く話だが、親が我が子に対して兄弟間での愛情の偏りはあまり目立たない。実際はあるのだろうけど、親から目に見える形は許されないような暗黙の了解のようなものも感じる。
「姉の方が大事にされていた」だとか愛情を受ける側の子供からは聞くが、親から直接的に聞く印象はあまりない。少なくとも私は両親から兄弟間への愛情の偏りはあまり感じない。

だけど、父からは資本主義だなーと感じたことがある。
私と弟は陸上競技を中学・高校をやっていてそれなりに上のレベルで競技生活を送っていた。特に、高校では全国トップクラスの環境でやっていたし、ついていけるように並々ならぬ努力をしていた自負がある。そんな私と弟に父は見返りをくれた。「頑張っているのだから」とシューズやボディケアなどお金をかけてくれていた。競技生活から離れて大学進学の時も大学で何をしたいのかなどを汲みとってくれて学費を払ってくれた。このように父は頑張ってる人が報われるように私と弟に報酬を与えてくれた。
一方、妹は中学卒業後から通信制の高校に行き、結局高校も中退して夜職などを転々としながら生活している。そんな妹は私と弟のように大学に入っていないのだからその分のお金を私にかけてくれと言う。母もこれに同調していた。
だが、お金をかけてもらうには、お金をかけてもらうだけの大義や理由が必要だと思う。
なんで何もしていないのにお金を払うのか。そんな世界線は一般的にないだろう。現代社会は貨幣経済で貨幣と物を交換する等価交換だ。
資本主義を基盤とする社会だからだ。
しかし、妹や母の言い分としては「家族なんだから」と無償の愛を求める。家族だからといってなんでもかんでもしてあげられるわけではない。
このことを思い出して人として相容れる人たちではないなと強く思ったことを思い出した。
どうして自助努力をせずに施しを受けようとするのだろう。自分の努力不足で手にできなかったものを誰かの努力から搾りとって獲得しようとするのだろう。
私はこの姿勢を理解できずにいるし、この姿勢が変わらない限り母と妹に歩み寄ることはないのだろう。

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