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洗練された「生の肯定術」

こんにちは。

水瓶座の満月をいかがお過ごしでしょうか。
Kotaneri占星術修行の旅は満月の夜も変わらず続いています。

さて、今回は「生の肯定」についてお話ししたいと思います。

が、その前にかんたんにおさらいです。


この世界は「経験」で溢れている
https://note.com/kotaneri/n/n85037dea8141

竜使いの寓話、自我と自己
https://note.com/kotaneri/n/n695b8e885c20


これら二つの記事では、「経験」という不可思議なエネルギーに満ちたこの世界と、そこにひょっこりと生まれ落ちた我々に眠る愛すべき本当の「自己」についてお話ししました。

また、私にとって占星術とは「経験」を扱う芸術であり、愛すべき本当の「自己」を美しく浮かび上がらせる魔法である、というお話もしました。

では、その芸術は私たちに何をもたらし、その魔法は何を与えてくれるのでしょうか?

この疑問については、まだお話できていません。気になりますよね。
ぜひともこれは解き明かしたい問いかけではありますが、このような尊大な問いに対して、いかにも知った風な口をきくのはあまり美しいことではないような気がしますので、こう問いを置き換えてみます。

私は占星術によって何を実現したいのだろうか?

これもまた、極めて重要な問いです。大袈裟かもしれませんが、これは「私はどう在りたいか?」という信念についての問いかけに等しいからです。

私はこの信念についての問いかけとは、かれこれ長い付き合いでして、すったもんだあった後に一応の「答え」を見つけ、今ではそれが私の価値観の底に深く根を下ろしています。

「生の肯定」を今回のテーマに選んだのは、その信念の核となる概念だからです。
それでは「生の肯定」を糸口に、私が占星術によって何を実現したいのか、紐解いていきたいと思います。



存在とは肯定である。
肯定とは意志である。
意志とは生命である。
生命とは存在である。


これは、昔思いついてノートに書き記したトートロジー(循環論法)の文章です。論理的には全く意味をなさない言葉遊びですが、「生の肯定」という概念を端的に表しています。

我々はこの世界や自己の存在を肯定せざるを得ない。肯定とは意志を持って成される行為である。意志は生命から生じる。生命は今ここに存在している。我々は存在を肯定せざるを得ない。肯定とは…(以下無限に続く)

この論理的に閉じたトートロジーが、私の「信念」の起点になります。つまり私は初めから論理的な世界の展開をあきらめ、論理の向こう側に住うことを決めた向こう側の人間なのです(どこかにお仲間はいらっしゃいませんか?)。

でもまあ、こういう言葉遊びは実は後付けで、実際のところは非常にシンプルな考えから来ています。

今ここを受け入れよう、生きてゆくことを肯定しよう、ポジティブに物事を考えよう、良きものに目を向けよう。

チープな表現で拍子抜けかもしれませんが、これが私の在りたい姿、価値観の底に根をはった「生の肯定」という概念の正体です。

人生におけるささやかながら貴重な経験の蓄積によって、私はこういう信念を持つに至ったわけですが、このようなポジティブの押し売りに辟易する方々が多くいることも知っています。
今も、お花畑を皮肉気に眺めるリアリストの苦笑いや、影を疎かにするとろくなことはないぜ?と眉をしかめる達観者の顔が目に浮かんでいます。


さて、否定的な意見を述べる人に出会ったときには、その人の肯定するものについて語ってもらうことが議論を前に進める有効な手段です。
さあ、全てをさらけ出し腹を割って話そうじゃないか、とこういうわけです。

私はこれまでも、心の中で、さあプラス思考だ!理想を抱き前を向いて歩こう、より良くやっていこう!という少年の如きポジティブさを賛美するたびに、例の苦笑いが顔をのぞくのを見てきましたが、ある日、その苦笑いに深く意識を向け、その声を聞いてみると、

彼らは、「生の肯定」という概念そのものではなく、その肯定の仕方に異議があることがわかりました。つまり、軽々しく「生の肯定」を表現することを訝しんでおられる。彼らもまた、強く「生を肯定」しているのです。

なるほど。。
もう一度よく考えてみましょう。

今ここを受け入れよう、生きてゆくことを肯定しよう、ポジティブに物事を考えよう、良きものに目を向けよう。

あなたはこの言葉を読んでどう思いましたか?
あるいは、あなたはこの言葉に力を感じますか?

自分で言っておいてなんですが、私はあんまりです。表現していることの意味はストレートでわかりやすく、立派ですらある。ですが、この言葉に通う力、エネルギーは誰かの心を動かすものではない。(苦笑い)

理由はかんたんです、「自己」の求める豊かな「経験」を生み出していないからです。

信念は、経験を生み出すときにはじめてエネルギーを帯び、この世界で力を発揮します。したがって、「生の肯定」という概念それ自体ではなく、それを通してどのような経験を生み出していけるのか、という点こそが大切なのです。

どのような高尚な教えよりも、よき理解者の愛情のこもった微笑みの方が百倍、心に響くとしたら、そこに自己の求める豊かな経験を生じさせる力があるからです。


私は幼き頃、眠る前に必ず「神さまお願いです、怖い夢をみませんように。良い夢を見られますように。お願いします」と何度もお祈りをしてから眠っていました。心を込めて本気で祈っていた記憶があります。

今ではどんな怖い夢をみていたのかあまり覚えていませんが、戦争の夢と父が商店の店主に斧で首をはねられる夢だけは鮮明に覚えています。私はそれを車の中から眺めている。父は飛んだ頭をキャッチしてまた首にはめ、車に戻ってくるのですが、斧を持った店主も鬼の形相で追いかけてくる、そういった夢です。

今となってみれば少しコミカルな感じはありますが、幼稚園児の私からすると何とも恐ろしい夢だったのでしょう。
とにかく、幼きKotaneriはどう祈りを捧げればこのような怖い夢を見ないで済むか必死に考え、工夫を凝らし、それを実践していたのです。

「生の肯定」という概念は、この「祈り」の延長線上に生まれたのではないかと考えています。

今ここを受け入れよう、生きてゆくことを肯定しよう、ポジティブに物事を考えよう、良きものに目を向けよう。という信念は、「祈り」の能動化に他なりません。

私たちは腐り果て死にゆく運命にあり、美しきものも愛するものもいずれ消えてなくなります。悲劇や邪悪さは今もすぐそこにあり、心をえぐられるような悲惨な現実がどこかで生み出され続けています。この世界は潜在的に恐ろしい夢のようなものなのです。

でもだからこそ、私たちは、自己の華やぐ美しき世界を絶え間なく創造し続け、豊かな経験を重ねゆけるようにと祈るのです。

私が占星術において実現したいのは、この「祈り」をより洗練させることなのかもしれません。



占星術には、現象を豊かな経験に昇華する力があります。

例えば、月が蠍座の方角に位置するときに生まれた人間に、占星術は蠍座と月の持つ象意の組み合わせによって紡ぎ出される物語を与えます。

もしその物語に力があれば、その人の持つ美徳を浮かび上がらせ、活性化させることができます。美徳は言うまでもなく、「自己の華やぐ世界の創造と豊かな経験の蓄積」に役立つものです。

私は占星術の力を借りることで、自分自身について、あなたについて考える経験を実り多く豊かなものにし、そこから得られた力を「自己の華やぐ美しき世界の創造と豊かな経験の蓄積」の糧にしていきたい。

それには、この記事に書いたような実践的な技術の習得が不可欠です。

占星術家になって、それから?
https://note.com/kotaneri/n/na9a7267a40aa

でも、やっぱり何よりも大切なのは、私自身がどんな世界を創りどんな経験を生み出したいのかという信念です。なぜならこれこそが、莫大な象意の中から特定の物語を浮かび上がらせるレンズであり、原動力であるからです。

私にとって占星術は洗練された「生の肯定術」であり、もしこの世界に見えない不思議な力があるならば、私は「生の肯定術」という魔術によってそれを扱う、そういう魔法使いになりたい、と思っております。

Kotaneriの占星術は生の肯定術。
やっていきます。



さて、

この記事をもって、世界・自己・信念についての三部作が書き上がり、これからの占星術修行を助けてくれるであろう三つのお札が完成しました。

抽象的で自己満足の匂いがぷんぷんとするお札ですが、私にとっては大切なアイテムです。皆さんにとってもそうであることを祈っています。

次の記事からは、占星術を学んで行く中で感じたことや、サインや天体などの具体的なお話をしていきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

では、ごきげんよう!




追記

ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』という小説の主人公ガープもまた「生の肯定」を力強く表現しています。
その一節を紹介しますが、面白い小説なのでネタバレせずに読みたい方は、下にスクロールせずに、ぜひご本で読んでみてください。

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引用するのは、
ガープが亡くなる直前、妻のヘレンと見つめ合っているシーンです。

「ガープはヘレンのほうを見た。いまは眼しか動かすことができない。ヘレンが微笑み返そうとしているのが見える。眼でもって、ガープは彼女を元気づけようとした。
心配するなよ ー 死後の世界がなくたって、どうだというんだい? ぼくの後も世界はあるじゃないか。たとえ(死後の)死後に死しかなくても、小さな良きものに感謝しようじゃないか ー 例えば、ときには、セックスのあと生命の誕生がある。
そして、とても幸運に恵まれれば、ときには、誕生のあとセックスがある!
そうてすとも、とアリス・フレッチャーならいうことだろう。そして、生命のあるかぎり、エネルギーの湧いてくる可能性はある。それと、忘れないでくれ、ヘレン、記憶というものがあるんだよ ー そう彼の眼は彼女に語っていた。」


ユーモラスで元気付けられますよね。
物語万歳!



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