竜使いの寓話、自我と自己
こんにちは。
突然ですが、皆さんは「自分」という言葉だけですべての人称(私、あなた、彼など)を表現するボリビアの少数民族のことをご存知でしょうか?
彼らは自分自身だけでなく、配偶者のことも「自分」、子どものことも「自分」、隣の集落の酋長のことも「自分」と呼びます。彼らにとって人は例外なく、みんな「自分」なのです。
面白いですよね。でもこれは「自分」という概念の不思議さを伝えようと私がでっち上げたほら話なんです。ごめんなさい、、、
何はともあれ「自分」というのは「世界」と同様、神秘的で不思議な概念だと思いませんか?
前回の記事では、この世界は経験に溢れている、世界の基礎の基礎に偏在する経験が、たまたまた私たちの感じる「これ」として表出している。
というようなお話をしました。
じゃあ、その表出した「これ」を経験している「自分」って何なんだ? となりますよね。
今回の記事では「自分とは何か?」について書きたいと思います。
「自分」がわかれば「他人」がわかります。自分と他人は基本的に同じ意識の構造を持っているからです。
「自分」についての考えをはっきりとさせておくことは、人を扱う占星術にとっても大切なことだと思います。
そういうわけで、このテーマで記事を書くことにしました。
ちなみに、、
私はユングの「自我」と「自己」という概念に、多大な影響を受けています。ですので、それについての解釈を交えながら、私なりのアレゴリー(寓喩)を用いて書きたいと思います。
それでは本題に入ります。
まずはじめに、「自我」と「自己」という言葉、それぞれの持つ意味についてかんたんに整理してみましょう。
まずは「自我」について。
自我(ego)とは、顕在意識、自分を認識している自分、感じたり考えたり望んだりしている「この自分」のことを指します。
自我は、経験の主体、この世界を経験している主人公みたいなものだと考えるといいかもしれません。自我がない状態は、目覚めていない状態と同義と言えます。
ん? でもちょっと待ってください、自我が「世界を経験をしている主人公」だとして、 それとは別の自分は存在し得るのでしょうか? それは一体どんなものなのでしょう?
こんな疑問が湧いてくるかもしれませんね。
ありがとうございます。グツドクエスチヨンです。
私はユングの本を読んで、この疑問に対しての素晴らしい洞察を得ることができました。心の中で「ユリイカ!」と叫んだくらいです。
ただとても難解な部分なので学者の皆様の深い考察と比べてしまうと、子どものお遊び的な都合の良い解釈になっているかもしれません。が、子どものお遊びは学術研究と等しく重要な知的活動ですので、どうか多目に見てやってください。
自我の他に別の自分は存在するのか? それはどんなものなのか?
この疑問には、ユングの提唱した「自己」という概念が手がかりになりそうです。
自己(self)は、顕在意識・潜在意識すべてを包括した自分自身の全体、自我と無意識の総体、「自分自身の本質となる中心点」を表します。
もちろん、この説明だけは不十分ですので、ひとつ例を用意しています。ラメッシ・バルセカールというインドの賢者の著書にあった一説です。
引用します。
「あなたはなにもしないでどれくらいじっと座っていることができるでしょう? ー ここで、一人一人の肉体的精神的器官の構成の違いが登場します。それは、物質的分野であれ、霊的分野であれ、それが作られたやり方に従って働くのです。」
確かに、校長先生の話を地べたに座って聞く小学2年生の頃の自分を想像してみてください。
私は手癖が悪く、すぐに砂遊びを始めてしまうような子どもでした。中には不動の姿勢を崩さない子もいたと思います。空を眺める子もいれば、おしゃべりをはじめてしまう子。
もちろん、これらは子どもたちの自我があれをしよう、これをしようと考えたり、求めたりして起こる行動の違いでしょうが、本当にそれだけでしょうか?
本当に、わざわざ「よし、あの校長先生の話は聞くにたえないから、これから砂遊びを始めよう」と考えてから砂遊びを始めるでしょうか?
おそらくそこには、無意識下の衝動や、私自身の自覚していない個性、自分らしさが発動しているように思えます。
このような例は、実は大人になった今も枚挙にいとまがありません。この記事ひとつとってみてもそうです。
なぜ私はこんな風変わりな記事をせっせと書いているのか?
なぜあなたはこの記事を時間をかけて読もうと思ったのか?
そもそもなぜ私は占星術家を目指そうと思い立ったのか?
私は意識的に、はっきりとそれを望んでいるのか?
どう思いますか?
自己という概念を知った今、私はこんなふうに考えています。
私たちは自らの思う以上に、限りなく深い無意識の世界からの要請に従って生きている。私たちは、つまり自我は、何かを望むことを望むことはできない。
認識するにはあまりに大きく、複雑で、ヴェールに包まれた神秘的な存在=自己がそれを望む。自己は自我に経験をもたらすエネルギーの源である。
この文章を書いている私、この文章を読んでいるあなた、われわれの意識は今この瞬間に自覚的で、目の前に広がる現象をどんな映画よりもリアルに、しっかりと経験しています。これは自我の働きによるものです。
それだけでなく、自我は色んなことをやってのけます。指先を器用に動かしてキーボードから文章を紡ぎ出し、東京の複雑な路線図を把握し、謙譲語と尊敬語を使い分けたていねいな言葉使いで社会を渡り歩きます。
しかし、自分という存在はそれだけでしょうか?
私たちはそれだけで生きているのでしょうか?
いいえ。
私たちは自我の力を超えた圧倒的な存在、自己によって生かされているのです。
すこし抽象的でオカルティックな様相を帯びてきましたね。でもそれは自己についての説明が少なくとも間違った方向にはいっていないことの証ですので、心を強く持って先に進みましょう。
ただ、すこし角度を変えて、ここからは、私たち人間に与えられた数少ない至宝、想像力の助けを借りることにしましょう。
*
まずはじめに、
こことは別の世界を、ナルニア国でもムーミン谷でも、「遠い昔、遥か彼方の銀河系」でもどこでもいいので、あなたの好きな世界を想像してみてください。
その世界では、たくさんの竜が飛び交っています。色とりどりの竜です。
赤、緑、オレンジ、グレー、青と白のしましま、朝焼けのような綺麗なグラデーションの竜もいれば、イエローサブマリンのように鮮やかな黄色の竜もいます。
その中から一匹の竜を選びます。
なんとなくの感覚でいいので、あなたにとっての理想の竜を思い描いてみてください。
その竜は「自己」を表します。
竜は生きています。ものすごい生命力を持っています。
そして同じ竜はふたつとしていません。
あなたの竜は唯一無二なのです。
竜は色だけでなく、あらゆる点においてユニークです。
あなたの竜は翼が大きく空を飛ぶことが大好きな竜かもしれませんし、あの人の竜は炎を吐くことが大好きな竜かもしれません。
とにかくそんな感じで無限のバリエーションがあるのです。
さて、その世界にはアプラクサスという絶対的な存在がいます。なんだかよくわからない存在ですが、その世界では森羅万象を司る全知全能の力を持っているのです。
ある日、アプラクサスは竜に魔法をかけ、実体のない亡霊にしてしまいます。
どうしてそんなひどいことをするのかはわかりませんが、アプラクサスの魔法にかかった竜は、何にも触れず、何も見えず、何も聞こえず、ただ暗闇の中をうごめく透明無色の存在になってしまいます。
力強い生命力と独特の美しさを持ったあなたの竜が暗闇をさまよう亡霊になってしまうなんて、あまりにもかわいそうですよね。竜の嘆き悲しむ声が聞こえてきます。
竜を助けたい。そう思ったあなたはその世界へと転生し、アプラクサスにかけ合って竜使いとなります。そうイメージしてみてください。
その竜使いは「自我」を表します。
あなたは竜を見つけ出し、魔法をすこしだけ解くことに成功します。
竜は美しい体を取り戻し、気の向くままに世界を眺め、大好物を食べ、風の薫りを感じることができるようになります。
ただし、竜は竜使いの力がなければ、またすぐに無色透明の亡霊に戻ってしまいます。アプラクサスの魔法はそれほどに強力なのです。
運命共同体となったあなたと竜は、共に荘厳な山脈へ冒険へしたり、静かな森の中でお昼寝をしたり、宙に炎を吐いて遊んだりして楽しい時間を過ごします。
そうしてたくさんの思い出を積み重ねるつれ、不思議なことに、あなたは竜の望むものを望み、竜の好むものを好み、竜の喜ぶもので喜ぶようになります。
なぜだかはわかりません。
ここは難しいことを考えるのはやめて、愛という言葉に頼ることにしましょう。
あなたは竜を愛し、竜もまたあなたを愛し、ひとつになってゆきます。愛が深まれば深まるほど、あなたと竜は重なってゆき、やがてあなたは竜の中に溶けこまれてゆきます。竜を愛するあなたはそれを受け入れ、ひとつになることを望みます。それはあなたにとってこの上ない幸せなのです。
しかし、アプラクサスはそれを望みません。
あなたが竜とひとつになり今にも溶け消えてしまいそうなその瞬間、アプラクサスは天上から凄まじい轟音とともに雷を落とし、あなたを竜から引き離します。
アプラクサスは、驚きあぜんとするあなたにこう告げます。
「竜使いよ その剣で竜の心臓を貫きなさい」
アプラクサスの命令は絶対です。
わかってはいるものの、あなたは悲しみのあまり剣を握ることすらできません。涙ばかりが溢れます。
その姿を見たあなたの竜は優しくささやきます。
「さあ 貫くんだ そして流れでる血を飲みなさい わたしはあなたのなかで生きつづけよう」
あなたはうなずき、愛する竜の胸元に剣を突き刺します。
激しく飛び散る真っ赤な血があなたの舌に触れ、共に過ごした幸せな思い出があなたの脳裏を駆け巡ります。
あなたは自分のなかに温かい竜の息吹を感じ、やがてあなたは竜とひとつになったことを悟ります。
*
さて、このように自我(竜使い)と自己(竜)を寓話的に捉えた上で、、
竜使いを今、この世界に呼び戻してみましょう。
そしてその竜使いがあなた自身だと想像してみましょう。
できましたか?
今、あなたのなかには、この世の何よりも深く愛した、あなただけの竜が息づいています。
あなたはかつて、その存在の望むものを望み、その存在の好むものを好み、その存在の喜ぶものを喜びました。力強い生命力とユニークな美しさを持ったその存在をあなたは深く愛し、愛され、その存在はあなたの全てでした。
でもよく思い出せない。
いや、正確に言えば、ディティールをうまくイメージできない。
当然のことです。
でも一体、その存在は何を望み、何を好み、何に喜んでいたのか?
竜使いのあなたは、竜の何処をそんなにも愛していたのか?
竜とひとつになることを望むなんて正気の沙汰じゃありません。
あなたと重なった竜使いは、今やキーボードで文章を紡ぐことも、東京の路線図を理解することもでき、謙譲語と尊敬語の違いもわかるのに、何よりも大切だった竜のことをうまくイメージできないのです。
私は自我と自己の関係性を、こんなふうに捉えることができるのではないかと考えています。
センチメンタルで象徴的にすぎたかもしれませんが、ここで示したいのはひとつの可能性です。
「ひとつになることを望むほどに深く愛した存在が、あなたのなかに眠っている」という可能性。
「その存在の望むものを望み、好むものを好み、喜ぶものを喜ぶことで、かつて感じたこの上ない至福に包まれる」という可能性。
私は、この危うげで、センチメンタルで象徴的な可能性を持ち続けることに、価値を見出したいと思うのです。なぜなら、それが経験に溢れたこの世界をより良く生きる上での原動力となるからです。
前回の記事で、「占星術はこの世界に溢れる経験を描像する、有効な媒体である」という話をしました。
他のすべての芸術と同様、占星術は想像力や詩的な感性、共感、物語の力を活性化させ、世界の基礎の基礎に遍く存在する経験をリアルに描写することができます。
しかし占星術の真髄は、竜に喩えた「可能性」を探り、眺め、扱うときにこそ発揮されるのではないかと感じています。星々に授かったこの不思議な万華鏡は、それを覗くことで、あなたが先ほどイメージした、色とりどりの竜の飛び交うあの美しい世界を、よりはっきりと浮かび上がらせるのです。
黄道上に鎮座する十二宮、十天体の軌道、こうしている今も途方もないスケールでまわり続ける宇宙のサイクルによって。
パチパチパチパチ
思ったよりも長くなってしまいました。。。
ので、そそくさとまとめに入りましょう。
今日の記事では、
① あなたのなかに眠る愛すべき自己(竜)という可能性
② 占星術は竜(自己)の住む美しい世界を浮かび上がらせる
というお話ができました。
占星術というこの脆く繊細な万華鏡を守る木箱やクッションが、私の中ではっきりと形を帯びてきたような気がします。
お付き合いいただきありがとうございました。
次回も読んでくだされば幸いです。
それでは、また!
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