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ゼロの平方根・後編④

【車椅子の足跡@不可解空を飛ぶ】


平成22年2月28日

「@不可解」

柴山さま
先日の情報に基づき記載住所宛てにある差出人からDMを、また別の所から往復ハガキのアンケートを郵送してもらいました。十日間ほど転居先不明等で差し戻されてはおりませんから居住実態はあるようです。
またこの所在地にはさいたま市所轄NPO法人アカシア青少年支援センターの建物があります。このボランティア団体は全国の福祉施設などから成人した青少年たちを受け入れ就労支援を行っていると紹介されています。数日内に訪ねてみようと思います。KK

平成22年3月6日

「@不可解」

柴山さま
本日さいたま市の施設を訪ねてきました。あいにく土曜日で代表の方はご不在でしたが事務局の責任者の方からお話を伺う事ができました。
テレビ局の名刺を差し上げ「身障者の行政対応」の取材という事でスムーズなご回答がいただけました。

1、施設では(若干の通所者はいる)現在三十人ほどの被支援者が施設内に居住し同施設内の作業場や近隣の訓練施設、各種学校で職業訓練を受けている。支援期間は三カ月から一年程度、入所者の中には三年以上居住する入所者もいて生活の本拠地化となり本来の自立目的とは相反している問題点もある。しかし設立精神に照らすと厳しい対応があまり出来ない。

2、ほとんどの入所者は宿泊施設ではなく居住地とし住民登録を行い、その三割はさいたま市に生活保護申請または継続申請をしている。職業訓練の一貫として運転技術も選択肢の一つ、ここで運転免許取得も支援している。

3、入所者は一定の要件を満たした者を受け入れ対象にしているが例外的に他NPO法人や行政機関からの紹介や推薦で受け入れを決める場合がある。決定は所長の専決事項である。問い合わせの後藤泰二郎氏の場合はNPO法人かながわみなと支援会(横浜市中区)からの推薦である。紹介は要審査、推薦はほぼ無審査である。

4、後藤泰二郎氏は昨年の11月9日に入所した身障者。歩行にやや困難で横浜からはご親類の方のワゴン車で入所、常時車椅子を使用していた。バリアフリーの一階の専用個室に入居申込をした。
トイレシャワー付特別専用個室の場合は入居期間と設備や要介護に応じ付加料金がかなり発生するが、後藤泰二郎氏の場合6ヶ月分の費用等をご親類の方が現金で一括前払いした。ご親類の方は六十代の方で手続き等については詳しそうだった。
翌日は職員が転入届けを代理申請した。(転出元は?の質問に対してはやや躊躇されたがなんとか聞き出せた。)

5、その日のうちに親類の方と、センターの職員も付き添い、提携の外科医院高橋クリニックで所定検査を受けた。その後、市役所で身障者手帳の交付申請をした。
後日の入居というお話でしたがその後のご利用は一切無くお預かりの生活用品費用もまだほとんど手付かずである。後藤泰二郎氏が何か事情のある裕福な方のように感じられた。

6、翌週には、リハビリに専念する旨一時退去の申し出があり、その後は一度もその個室を利用する事はなかった。費用返還の手続きをお伝えしましたが面倒掛けたくないと来た親類もそれを断ったため、現在も個室はそのままである。

7、事前に後藤泰二郎氏から通知があり、ご親類のお知り合いの方が何度か郵便物を預かりに訪れた。事務局で受け取った書留郵便物なども含まれていた。

8、先月中旬にまたワゴン車で来園、申し出により所長が在籍のホームヘルパーの青年(S君)をアルバイトとして紹介、青年が免許更新のため鴻巣市まで付き添った。お二人とも施設にはもどらなかった。
9、(介護福祉士を目指すS君の話では)割のいいアルバイト話で喜んだ。ご親戚の運転の方はずっと駐車場で待っていた。
(車内の後藤泰二郎氏は)一言も喋らなかったがすごい迫力があり訳もなく怖かった。更新手続き中はずっと緊張していた。(後藤泰二郎氏の)指図通りに車椅子を動かすのが精一杯だった。自走が楽に出来る車椅子だったが終始後ろに付くように命じられた。
試験場の警察官と口論になりかけた時は足が震えた。親戚の人が「穏やかに頼む」と言っていたのを思い出し「穏やかにお願いしますね」と二度も囁いた。あれ以上にキレたらイヤだと思ってとっさだった。

帰り際に「良くやれたな」と(後藤泰二郎氏から)封筒をもらって別れたが、中に千円札ではなく一万円が五枚も入っていて驚いた。(施設には内緒でとの事だった。)


午後、診療時間が終わるころに高橋クリニックを訪ねてみました。高橋医師の事は予め下調べしてあります。
明治医科歯科専門学校、現在の明治医療大学のご出身の外科医、先代からは開業六十年もの地元名士、自由党埼玉選出早川宗久氏の応援団でもあります。
埼玉県福祉医療の取材と称してアポを入れておきました。

診療室内に招き入れられた時の高橋医師、白髪の神経質そうなお方、自己紹介の後の話ぶりも表情もお疲れで暗くやや怪訝そう、こちらにはお茶も出されぬまま短く応えるだけ。

そこでとっておき自由党早川大先生のエピソードなど持ち出します。(実話の豪傑話しですが実際は当局別人の持ちネタです)

先生は別人のように明るくなられ、コーヒーもいただき、後はスムーズにお話を伺い、オマケまで頂いた上帰りました。

1、後藤泰二郎氏は11月9日に来院、障害認定の為の所定の診断を行った。

2、左下肢に障害があり、(診断記録を読む)関節可動域の程度、触診等による筋力測定、起立および歩行の具合等を診察、さらに障害の原因となった下肢部位の損傷、当人が提示した米国ハワイ州公立病院診断書および術後透視映像から膝関節および脛腓(ケイヒ)関節の重篤な機能障害がある。以上の所見等から著しい障害があると認められる。著しい障害は4級に相当する。
付記医師意見、オートマチック車限定の運転には機能適格と思料する。早急な対応、交付を要す。「随伴の六十代男性が上級の行政職経験者に感じられたから、敬意を示した。」との事。

付録
1.アメリカハワイ州立ホノルルメディカルセンター診断書(英文)写し、2.早川宗久大先生著書

来週は横浜市のNPO法人に行きます。後藤泰二郎氏の前住民登録地は次、現在の居所などはそのうち判明するかもしれません。
焦らず慌てず気づかれずやりましょう。KK

平成22年3月6日

「RE@不可解」
唐木田様
誠にご苦労様です。拝見いたしました。柴山聡

平成22年3月8日

「@不可解」
唐木田様
本日、後藤泰二郎なる者の追加データをお知らせします。決して職務上の違法な行為によって入手したものではありませんのでご安心下さい。
私の口から受講者に氏名を詐称して運転免許証を取得せんとした可能性について調べたい、と管理監に申し出、内々に許可いただきましたので。

後藤泰二郎 平成53年2月4日生
本籍地沖縄県名護市豊原字下久部368番
平成14年1月24日、沖縄県警察免許センター北部分校、普通免許初取得
平成17年1月31日、沖縄県警察免許センター、初回更新、違反歴無し

平成18年10月8日、大阪府警察門真運転免許試験場、記載事項変更届け(住所変更平成18年9月28日高槻市転入)および国際運転免許申請同交付。大阪府、日本国旅券平成18年10月5日発給至平成28年10月4日

平成21年11月10日、埼玉県警察大宮東署、記載事項変更届け(住所変更平成21年11月10日さいたま市転入)

平成22年1月13日、埼玉県警察鴻巣運転免許試験場、免許更新、違反歴無し、障害者手帳4級障害、適性相談室窓口判断・無条件適格、国際運転免許証交付申請同日交付、旧国際運転免許証返納

柴山聡 今後SS


平成22年3月11日
「@不可解」
TO SS
私一人では扱えない課題になりました。当EBCテレビ局報道部内でまずは副部長を頭に記者三名の準備チームを立ち上げます。私は専属、二名(男女)は他テーマ兼任となります。守秘事項も増えますのでよろしく。KK

「RE@不可解」
TO KK

了解いたしました。貴殿との交信については誰にも話してはおりません。
お役に立てる事あればお知らせ下さい SS


平成22年3月12日「@FKK」
TO HM/SA 
CC  YI
横浜市管轄NPO法人かながわみなと支援会、横浜市中区鳥浜町3‐5‐14 、理事長舛岩喜一(元神奈川税関横浜入国管理事務所所長代理)、平成8年4月設立認可、主な業務・外国船員の一時的滞在の支援および日本国籍船員の行政手続き支援および相談。


10:30
Gをさいたま市の団体に入所推薦した件、NPO法人かながわみなと支援会事務所長の島村等(ひとし)氏は同団体理事今泉幸生(こうせい)氏の指示でGを推薦(推薦がさいたま市団体の無審査入所を意味する事は心得ている)。Gはこの団体のある場所から出発したのでは無い。本人と一面識も無い。

島村氏→今泉氏に連絡

11:00
今泉氏、到着。
今泉氏は元神奈川県警察本部警視正で株式会社日東総合警備相談役竹川豊氏の要請に応じた。やはりGとの面識がない。人定も行わず入所便宜を図った。裏口入所。頼み事は上の方から。

標高が高くなって来た、気化するかな?

→HM 竹川豊氏のPFをねがいます。Gの渡航歴も。
→SA Gの英文診断書カルテ分析。

明日あたり、Gの転出元高槻市へ行きます。地取りして落ち穂拾って来ます。その後名護行こうと思います。
ダメなら明後日。

→YI 名護の土地勘ゼロです。どなたか水先案内人探してください。当携帯とメルアドにて交信待機、よろしく。
KK

「@不可解」
SS様
横浜市へ行ってきました。Gの推薦の件、こちらも何かお役所流儀の口聞きだったようでGの消息等につながるものは見えませんでした。何人かの肩書きを経由してGの資質吟味も無く裏口入学が斡旋されたようです。
こういったケースの場合、本当の出口を確かめるのは大変時間と根気がかかります。ですから、これは後回しにして他をあたります。
来週月曜日あたりは高槻、それから沖縄へ飛びます。
SS様くれぐれもご無理無きよう。 KK


平成22年3月15日

「@FKK」
TO HM/SA
CC  YI

10:00
高槻市南平台六丁目、Gの前住民登録地、現状この一角高い鋼矢板仕切(写真)。
中は重機が並び、廃車車両が乱雑に積み置き。北側にプレハブ二階建て、荒れていて人が住んでいる様子無し。外壁に古い貼り紙あり、売り地、東成区交詢社不動産。(写真)
周りに古い民家二軒、現在留守、庭先小型トラックに平岩畳店の文字。
地取りできません。すこし離れた燃料店へ。
「前はな守口なんちゃら興業とかの作業場や、ややこしいのようけきておってな、わしらよう近づかん、こんとこはずっと静かや、静かすぎるわ」
「前、人が暮らしとったかは、知らん、覚えとらんわ」

11:40
大阪法務局北大阪支局、登記簿閲覧、昭和60年農地転用、平成2年所有権売買移転大阪府茨木市竜野昌平、乙区欄履歴多数につき謄本取ります。

不動産屋TEL、「話しになりまへん、登記簿ごらんになったんのやらわかりますやろ、だあれも手え出しまへん。橘興業はんの事?かんべんしてーや、とおに縁切れてますさかい。かんべんしてくらはりまっかー」

12:20
高槻市役所、市民課、資源循環推進課、道路課など、収穫ゼロ。個人情報の壁が厚い。

14:50
守口橘興業、大阪府守口市下土居319、現地現在は民間保育所

古い看板地図には有限会社橘興業とある。クリーニング店の話、二年前に倒産した。古老の話、広域暴力団錦会系金田組の舎弟。

16:00
大阪府警察守口警察署、マルボー課、錦会金田組と守口橘興業の関係。
広域暴力団錦会は現在も警察庁主力監視対象、金田組は二年前守口市暴力団排除条例の効果もあり解散、ただ実質的には上下関係がある門真白岡に裏縁組み、勢力が吸収された模様。橘興業は平成19年に不渡り手形を出して倒産、事務所は昨年競売で第三者に譲渡。高槻市の作業場にある橘が持っていた中古重機等はスクラップ同様で大阪府でも対応に苦慮している。
高槻市の作業場での住民移動等については高槻市役所に問い合わせを。

結局、Gは何かのつてで橘興業が使っていたプレハブを利用したのでしょうか。

→YI 登記簿解読願います。ファックス入れます。本日はこれで目いっぱい。水先案内那覇の漆間道彦さんメールもらいました。明日の伊丹からANA103那覇1210、名護へ向かいます。
→MU那覇空港面会時間メール入れます。

→HM G、高槻市住民票で旅券取得のようです。一方自殺した小宮山博史の過去の渡航歴は。
→SA 自殺した小宮山博史の医療記録どこかでわかりませんか。小宮山のPF、顔写真、手配写真、その他スナップ写真など、メールは我がノートに送ってください。
KK


「RE@FKK」
TO KK
CC  YI/HM

①診断書詳訳ノートにおくりました。Gは昨年2009年10月17日ホノルルで左膝あたりを拳銃で撃たれ同日ホノルルメディカルセンターで摘出手術後9日間入院治療、2009年10月26日退院、後遺症が残りました。その後約2日通院。事件詳細は問い合わせてます。 

②小宮山データ、ノートにおくりました。一応顔写真等はこれに添付しました。SA


「RE@FKK」
TO KK
CC  YI/SA

1、株式会社日東総合警備相談役竹川豊、平成17年3月公安調査庁調査第三部長・警視監を辞職(福岡県警本部長歴任)、同月同社顧問。同社役員には過去現在と公安関係上級役職者多数、一覧はノートに転送

2、Gは平成18年10月10日、関西国際空港から出国、同日アメリカ合衆国ロスアンジェルス国際空港で入国。
日本時間平成21年11月2日アメリカ合衆国ホノルル国際空港から出国、翌日羽田国際空港で入国。約3年の間アメリカ合衆国出入国はありません。また同期間、アメリカ合衆国国内の移動についてはわかりません。ハワイでの滞在場所期間等はSAの調べをお待ちください。
3、帰国直後にGは損害保険会社一社に請求を出しています。三年間は継続して保険料を支払っていた事になるのでしょうか。詳細わかり次第お伝えします。

4、小宮山の死体検案書写しを取り寄せましょうか。兵庫監察医務院の検案でしょうか。元監察医の藤本先生にも見てもらったら、と考えています。HM

「RERE@FKK」
TO HM
CC  YI/SA

気になる検案書、よろしくお願いします。Gの身に付けていたものとか医療記録とかあったら手に入れます。
保険関連もよろしく。
KK

「案内よろしく」
TO MU


漆間道彦様
EBC東日本唐木田です。
明日ANA103便1210到着で那覇に入ります。出口あたりで連絡します。KK

「RE案内よろしく」
TO KK


お待ちします。お気を付けて。
無駄の無いようにご案内します。
MU


平成22年3月16日
「@FKK」
TO HM/SA
CC YI
CC MU
12:30那覇空港到着後、テレビカメラをかかえた小柄なMU氏が出迎えに現れた。ゴルファー宮里を想像していたせいで出会うまでやや手こずりましたがカメラに気付きやっと面会。ファミレスで打ち合わせ。13:00MU氏軽トラ?で一旦西に移動。那覇市のはずれの養護施設。Gが15歳から半年ほど過ごした場所、わがふるさと山梨の、昔の分教場の感じ、その後新設された名護市の施設に移る。強行スケジュールだとかで、こちらの地取りは後からMU氏にお願いとなる。



13:30こんどは高速に乗り名護へ。それでも名護市まではいやはや遠い。考え甘かった。15:40高速降りてからはだんだん道が狭まり、予定地手前は奥の細道、幅寄せ出来る場所も無い。MU氏の車種選択に間違えは無かった。ようやくGの生家付近に到着。見えて来た小さな漁港にもほど近い。Gが住んでいた家、荒れている、草が茂ってジャングル。MU氏一回り撮影。母親と長兄と祖父はG中学生の時水難事故で他界。親戚等二歳下妹以外に身より無し。父失踪消息不明、祖父は元漁師。名護市民生委員からMU氏への前地取り情報。

周りに家無し人無し聞ける事無し、で次。

16:10
原稿用
[養護施設を出てから最初に住み込み勤め出した所、独り暮らし最初の住民登録の地、そこに来た。
豊原という昔は国頭郡の村落、背後は山、眼の前が太平洋、そんな身構えの立地。
Gはこの豊原地区にある児童養護施設の紹介でこの道路際の食肉加工工場に職を得、隣接する瓦屋根の工場寮を住処とした。
当時豊原地区もリゾートバブル最盛期、周辺の開発が進み国や県の施設建設ラッシュでもあった。またこの素晴らしい碧い景観もリゾート進出に拍車をかけ、千金目論む様々な企業をも虜にした。ゴルフ場、別荘地、レジャー施設。一帯はそれらの事情で就労もラッシュ、若い労働者たちは引く手あまた。Gもその寄せ波に乗って食肉工場作業(操業が生産に左右され不安定)の合間を利用し多いに働きまくった。Gは周りの若者たちのように消費に明け暮れる事無く働き、そして三度の食事は二度にするなど工夫して、ひたすら金を貯め続けた。酒もタバコも飲まず、風邪を引いても怪我をしても医者にかからず宮沢賢治のような生活を送った。

やがて時が流れ、徐々に開発のブームも去っていった時には、自分の金も溜まり、自分の将来を描いた青年は突然本土福岡を目指した。
黒の洒落たスーツに身を包み、彼の全財産をポケットに納め、豊原の路上で拾った鍵の壊れたスーツケースに質素な衣類や雑貨書籍などを詰め込み、仲間と寮母たちに見送られてバスに乗り込んだ。
平成18年、まだ暑い9月下旬頃であった。]

彼と同じ境遇の青年から話を聞き、長く食肉加工工場の賄いをしている老婆にもインタビューする事が出来、かっての青年の生き様も蘇った。
オンエアされれば素晴らしい絵になっているに違いない。

「お婆ちゃん、忙しいのにゴメンナサイね」
「アーイ、ティリビのかたバー」
「お婆ちゃん、おいくつ?」
「いくちゅー、ことぅしー、ハチジュー」
「若いよ、わかくみえるよー」
「アンダーグチ言うてぃー、シカスなー」
「お婆ちゃん、この写真の人、知ってるかなー」
「ん、こりー、ティリビの人ぅか」
「いや、ふつーの人」
「知らにー、アーイ、これでも眼ぃいいんだ、オバー」
「じゃ、これは」
「歌いてぃさんかなんかー」
「これは」
「アーイ、さっきのひとぅー」
「お婆ちゃん、じゃ、後藤泰二郎さんて知ってる」
「知っとぅるさー、たいちゃんは知っとぅるさー、ディージいい子だったんだよー、」
「良ーく働いたの」
「ン、ダカラヨー、グー浦ぬウミンチュぬオジーむアンマーとぅニーニーまでぃむ亡ぐしてぃ、チムイヨー、まじみーやさしー、寝起きいーい、フユサーじゃない、遅刻しない、アリンクリン遊ばない」
「那覇の施設から17、8歳の頃来たんでしょ。」
「そーさー、しぇんしぇといっしゅになー、ユーグリーニーニー」
「痩せてたんだ、泰二郎くん、それからお知り合いの方とかは」
「だありもー」
「誰も」
「いむーど、きたなー、たいちゃんしぇいじんしきん前ぃ、ンガーしぇんむんがっくーしぇいとぅだっかなー」
「施設にいた泰二郎くんの妹さんが来てたんだ、専門学校行ってた」

「そーさー、だいちゃん、いむど、ディージーかわいがってぃた訳ィー」
「それからは、妹とは」
「手ぃ紙イッペー来てぃたなー、きちゅぬアメリカさんとなー、みおとぅなるわきー」
「米軍基地の人と結ばれる、いつ頃」
「たいちゃん辞みる頃さー、ワラパーこりでぃー」
「出来ちゃった婚、それから手紙なんかは」

「来るわきあっかー、たいちゃんからむ、なーんむな来ないわきー」

「お婆ちゃんに愛想なしだね」
「そーさー、フン」
「お婆ちゃんが泰二郎くんたちにごはん作ってあげてた」
「そーさー、たいちゃんにはもっとぅカミーカミーってぃ、チャー言ったさー」
「朝ごはん抜いてたりしたから、もっと食べろもっと食べろって」
「そーさー、フン」
「倹約してお金貯めてた」
「イッページン貯みてぃたさー」
「貯めて何するのかな」
「マガーとらっく欲しいってぃわきー」
「大型トラックですかあ、泰二郎くんこちらで長く車乗ってたの」
「工場んなあ、免許とぅってぃ、那覇までぃ行ってぃたーわきー」
「妹さんなんかとも会えたわけだ、那覇で」

「きっとぅなー、ダカラさー」

「辞める前泰二郎くん、誰かに誘われたのかな、本土来ないかって」
「ナイチャーんひとぅとぅ会ったってぃ、ダカラヨー福岡にさー」
「どんな人かお婆ちゃんに言った」
「だりか知らにぃ、那覇だかぬハバニーニーさー」
「知らないかっこいいお兄さんに誘われたんだね福岡に」
「そーさー、ナンクルナイサー、たいちゃん言ってぃさー」
「お婆ちゃんその人の事、他に何でもいいから知ってる事ない」
「オバー、あたまフラー、ダカラヨーハバしぇびるぅにーしゃとぅにーずぼんなあ、イッペーもらったさー、んでぃ、そり着てぃ行ったさー、革ぬーくとぅむなー、きーたいグヮーむさー」
「革靴も、携帯も」
「そーさー、ん、たいちゃん、んがしたかー」
「ちょっと今さがしててね、ありがとなー、お婆ちゃん、これ少しだけどニーニーたちからのお小遣いね」
「ニフェーなー、ティーギーになー、ナイチャーのひとぅよー」
「元気でね、お婆ちゃん」
「チューひくーきで帰んバー、気ー付きてぃー、たいちゃんにゆるしくなー」
「今日中に帰ります、泰二郎くんに会えたら伝えますよ、ではね」


21:30
ANA138間に合う。23時過ぎ羽田。
MU氏は明日以降、Gの配達先取引先、那覇の問屋などの当時を地取り。
→MU案内ありがとうございました

インタビューは那覇までの車中、音声だけ再生しながらMU氏の語る翻訳をメモ。復路の機内で自分の印象を加え脚色し、以上記した。私にもニュアンスが伝わった音色の良い沖縄の方言はなるべくそのままの音にした。KK

平成22年3月17日

「@FKK」
TO SS
昨日、Gの生まれ育った沖縄名護へ取材に行きました。そこでGの暮らしぶりや当時の人柄などがわかりました。また、平成18年の9月に突然、自分がコツコツと貯めた全財産を持って福岡に向かった事もわかりました。旅立った際、那覇にいた男性からもらったスーツや靴を身に着けていたそうです。この男性の誘いを受けたと想われます。KK


平成22年3月19日
(午後3時ミーティング)

荒木さくら記者
■ホノルルメディカルセンターHMCの調査結果です。
資料まず①はホノルル日刊紙メトロスターのウェブ版のコピーです。


2009年10月18日[男性足を銃撃され病院に搬送]
タイトル下が現場の事件後の様子です。


キャプション
[警察は深夜ここへのアクセス道路とカープールで起きた銃撃に対応]

本文
[ホノルル警察は10月17日深夜11時50分頃に起きた銃撃に急行した。
事件は北ヴィニヤード大通りフォスター植物公園駐車場のそばで発生、男性が左足を撃たれ入院した。
事件の通報者アーロン・ルーは銃撃まもなく被害者を助けた。
アーロン・ルーが言った。「通りかかって倒れていた男性を発見した。彼を抱き起こすと男性がお金を取られた、ガンで左足を撃たれたといったのですぐに彼のシャツで撃たれた左側に巻いた。私の家内に、彼の為に救急車を呼べとさけんだ。私は犯人を目撃してはいません」
ホノルル警察は現場近くの車両脇にいた数人から事情を訊いたが容疑者は特定しなかった。警察はその後も捜索を続けた。
病院へ搬送された被害者はタイジロウ・ゴトー32歳日本人である。
ゴトーさんはのレストランに食事から家に自転車で帰る途中に襲われた。彼は暴漢二人に拳銃でおどされ現金300ドルを奪われた後、左足の膝を撃たれた。]

警察からの連絡でEMSパラメディックが現場に急行、現場にいた怪我人の応急処置を済ませ直ぐにのHMCに搬送、ICUで緊急オペ、38口径の弾丸を膝から摘出。脚部以外の損傷は無く一旦回復室に移されました。10月20日損傷部分に樹脂装填のため再手術、10月26日退院、28日 30日検査通院しています。
日本では考えられない短い入院期間ですが超高額医療費のハワイではピストン入退院はスタンダードです。日本で加入した米国損保の旅行障害保険でその後入院治療費が支払われています。車椅子費用、救急車費用などが限度額内で全額填補、支払われています。その額740万円です。公立の病院で比較的安価でした。後藤は別に日本の生命保険会社あすなろ生命保険相互会社総合保険に加入しておりました。平成9年はたちの保険に加入、現在に至っています。現在も契約が有効で、保険料未払いはありません。後遺症保障も組まれています。死亡時死亡保険金受取人は後藤寛子となっています。
保険情報は双方内部から入手、提供元秘匿です。


後藤泰二郎のホノルルの住所は、ホノルル市スペンサー通り2329・706Aです。同所在地は国立墓地近くのやや高台。開発が進んで沢山の中層マンションがあります。番地番号から、居住はアイオラニヒル・アパートメントです。同アパートは現在シンガポールの投資組合アバンティの所有物件です。七階のこの部屋の区分所有者および後藤泰二郎の関係はまだわかりません。
唐木田チーフの調べによりますと、投資組合アバンティは平成19年6月に目黒区のウクライナ大使館跡地売却に関する詐欺事件で逮捕起訴された福岡県出身、元公安調査庁長官の重宗伊蔵が一時期代表を務めていた東京都目黒区新進投資組合と実質がほぼ同じの海外投資組合です。同新進投資組合はインターネット企業ヒンツのマザーズ仮装上場疑惑などにも取り沙汰されていました。また投資組合アバンティの上位出資者の中には広域暴力団錦会の金庫番と噂の高い那覇市の女性資産家や有名な元映画制作者元格闘家などがおります。またこれらに連なる名前の中、一つの投資組合をたぐると警察検察OBらの資金運用を任されいると思われる複数の団体名も登場します。海外投資の複雑な仕組みの裏に法の網を上手く交わした様々なマネー、リスク覚悟の思惑がうごめいているようです。
後藤泰二郎が撃たれた現場ですがダウンタウンのような治安の悪い場所ではありません。写真にありますように、下、フォスター植物公園の駐車場入口付近、前の北ヴィニヤード大通りは深夜でも交通量があります。ただ、一歩中は深夜には駐車の車もほとんど無く人ケもありません。
この付近で後藤が自転車で通りかかり被害を受けた、という事です。
写真の上です。深夜人の居そうな建物や近隣住宅、一番近いところで100mほど離れているでしょうか。


松永広樹記者
■死体検案書、副本コピーです。
共和医大藤本聡美先生にも評価いただいています。
氏名、小宮山博史、男、昭和53年6月8日生まれ。
死亡したとき、平成18年9月26日午後9時頃(推定)
死亡したところ及びその種別、種別その他、死亡したところ山口県柳井市柳井黒杭川上流ダム湖水
死亡の原因、直接死因溺死、その原因入水自殺
死亡までの時間、短時間
手術、無(斜線)
解剖、有、肺溢水(淡水)、全身表皮に浮腫(死亡後水中腐敗)、胃内容物(淡水、腐敗植物、未消化食品穀物、睡眠薬ドルミルR成分、砂粒、汚泥)全身腐敗進行、露出部損傷(死亡後)、他外傷等変異無し
死亡の種類、その他⑨自殺
その他特に付言すべきことがら、Ai所見も上記診断に同じ、血液中に微量ジフェンヒドラミン塩酸塩を検出(ドルミル含有成分)ただし死因となるべきものでは無いと判断

検案書発行年月日、平成18年10月10日
検案書医師、山口県柳井市山根3658山口医学大学山口県観察医諸岡佳人

平成18年10月10日検死済、山口県柳井港警察署検視官石原晃

Ai、オートプシー・イメージング、死亡画像診断、資料をそえて藤本先生のご意見いただきました。先生のご意見まとめてみました。

「全国で毎年三万件もの自殺者に対して必ず毎回こういった検案書が書かれます。加えてそれ以外の変死体も加わります。相当な数ですから観察医の方々も大変です。本件拝見しましたがとても丁寧に、手順どおりに検案が進められた事がよくわかります。

胃の内容物と血液中からの睡眠薬成分検出されています。私がみてもその死亡時の効果が直接の死因ではないと診断するでしょう。

検案書には疑義挟む余地は全くありません。元監察医としての意見はそれまでです。」

私の方から
「小宮山博史は指名手配逃亡5か月、そうとう精神的に追い込まれ死の直前までこらえ続けて最後に解き放とうと思い切った。常に快楽的に自由に振る舞い他人を容赦なく威嚇し排除してきた、そんな男が事冷静に自らを罰した。そんな事が本当にあったのでしょうか。」

「では一医師一市民の立場から考えてみます。
1キロメートル離れた場所でまず睡眠薬を服用し効果の出始めを狙って入水しました。睡眠薬の効果を知らなければ出来ない入念な計画性があったように思われます。とても冷静に手順を踏んだようです。
私も溺れそうになった経験があります。私泳ぎ得意ではありませんから、思い切って暴れてしまうんですね。そうすると余計に息継ぎが出来なくなって水を飲み込んだり吸い込んだりします。最悪の場合にそれを繰り返して溺死に至るわけです。私の場合は監視員に助けられましたが。
泳ぎを知る人なら泳ぎ達者でなくても、私みたいには暴れない、たとえ死のうと思って水に入ってもあの湖のような場所なら、結局、本能で岸までたどり着いて手を伸ばして、やっぱり死ねなかった、なんて事になります。
本件、溺死に至るまで本能は制御され身体がもがき暴れる事がありませんでした。遺留品を観察する限り、身に付けていた着衣や持ち物は暴れ出さなかったのです。
暴れぬよう充実に手順を組んだんです。そして用意した遺書を持ち物に入れ、靴を脱ぎ揃え、意識の低下に合わせゆっくりと身を沈めました。悟りの境地で死を迎えた、というのです。
自殺者は常日頃から前もって考えていたシナリオにそって検証を加えながら沈着に行動をする人でした。死ぬまでは。
しかし、死体と死ぬ準備をしていた人と、果たしてその検証は十分だったのでしょうか。腐敗が進んだとはいえ死体の指紋などが採られたのでしょうか。監察医の業務ではありません、鑑識の仕事です。それは本来ならまず放置の車両や遺書や所持品との一致がなければなりません。そして無二の肉体アイデンティティと重要参考人に至った犯罪現場のものや小宮山本人のそれとの照合までを図らねばなりません。(確かに乱れの少ない)着衣から小宮山博史の運転免許証が現れ、実母を腐乱死体に対面させ確認をさせたからといって、証拠を語る死体を早々と荼毘に付し灰にしてしまった事、拙速過ぎたのではないでしょうか。どこかに齟齬が有りはしなかったでしょうか。」

藤本聡美先生の鋭いご指摘でした。

ですから、今後はあの可能性を軸に考えて検証資料を集めてみようと考えています。

唐木田和穂チーフ
■両記者、取材ご苦労さま。私からは昨日お渡ししたレポートの内容までです。今日あたり漆間記者から那覇の報告が入ると思います。
今までははっきりと表せない共通した推理をもとに我々動いてきましたが、そろそろ看板を立てて本格的な取材を始めたい、カメラも回したい、と思うのですが、副局長、いかがでしょうか。
猪狩義行副局長
■賛成します。報道局長を通し編成局長のゴーサインも取りましょう。唐木田くん、カメラはもう回っていますよ。オバーの語りは確かに絵になりますよ。

唐木田和穂チーフ
■そうでした。
皆さんには、午後に今後の取材要領割り振りをお伝えしますが、これは、と気付いた事、並べてみてくれますか。まず、荒木くん。

荒木さくら記者
■保険ですね。後藤泰二郎の。生保加入時の健康診断書、医師の副本保存は微妙ですからなんとか正本を、我々看板できる訳ですから、事故事案として生保もいろいろリリースすると思います。
後はアメリカですね。現地で後藤の地取りしたいですね。

猪狩義行副局長
■カメラと二名編成のチームで早速ハワイだね。荒木。カメラは佳子ちゃんだな。カメハメハもコトバは強いから。

唐木田和穂チーフ
■では願います。事前資料、みんなで共有ファイル整理して放り込みましょう。保険関係は松永くんにリレーしてください。投資組合アバンティは更に私のほうで、なんか臭い出しましたね。
松永くんは

松永広樹記者
■まず、自殺者の遺品、着衣などのもっと詳しい記録入手。沖縄時代の真正後藤君のDNA入手と解剖時のサンプル資料との比較照合。妹さんの消息。できれば母親の身辺ルポ、もちろん気付かれないよう慎重に。あと現在の偽後藤泰二郎小宮山の足取り、これも慎重に。きっと生保にアクセスして来ると思いますから内密に協力してもらって話し入れる時は黄門様の印籠おかりします。
あと、疑問。
仮に犯罪行為が露見した場合、警察は死んだはずの小宮山を挙げるのかそれとも死んだ後藤を挙げるんでしょうか。損保は後藤を詐称して保険金を小宮山が詐取した、しかしながら小宮山なる者は戸籍上存在しない。生保は死んだ本当の後藤泰二郎の死亡保険金を受取人に支払わなければならないが後藤泰二郎はまだ戸籍上は生きている。後藤泰二郎を語る小宮山博史は後遺症保障の保険金請求をするが真正後藤泰二郎には後遺症など無論ない。頭、こんがりますね。
なお小宮山の池袋時代から掛けていた生命保険、大手二社から合計二千万の保険金が母親龍子に支払われています。逃亡中でも掛金の引き落としに遅延無く審査を要しましたが、約三カ月後に龍子の口座に送金されたようです。龍子の死亡確認があっさりだったのが何となくうなづける気がします。

唐木田和穂チーフ
■まずこの場合は誰かが証拠を揃えまずは小宮山博史の戸籍を復活させる裁判所の判決が必要、かな。通常なら司法の職権で。私人が出来ない事では無い、と思います。
警察はそれに基づいて出ていた脅迫罪の逮捕状を裁判所に求めて復活させまず執行、この別件逮捕を近道にして複数の犯罪を立証する、そんな感じでしょうか。全てをゼロに戻してからリスタートってわけですね。偽装後藤泰二郎小宮山、GGKが国際運転免許証を取得しましたから米国を含め米国以外へ出国する可能性もあります。ですから立証告発はできるだけ早い方がいい。しかし途中で警察に情報を提供出来ない、拙速。また一方我々には出国を止める手立てがない。ジレンマはあります。
かつての田中金脈やロスアンジェルス事件のように報道が世論を喚起する手法もありますから、決して傲慢ではなく、一つの選択肢としておきたいと思います。
告発のタイミングが重要ですが、いずれにしても関連事象の広がりが予想できますから相当長期間の取材も覚悟しなければなりませんね。


平成22年3月23日


12:10
「@GGK」
TO KK/SA
CC YI


①DNA鑑定の件
柳井市の変死体、病理解剖学教室には死体検案書の解剖の際の表皮のサンプルと血液が保存されています。大学医学部規則で七年間の保存が定められています。ですからこちらは取得可能。SG名護時代、那覇時代ともに採取できそうなサンプルがなさそうだとMU氏から連絡いただきました。ダメでも妹さんの所在がわかれば兄弟姉妹判定で行けると思います。MU氏には彼女の履歴消息を追い掛けてくださいと頼みました。平成18年12月4日に結婚によるアメリカ合衆国グリーンカードを取得しているそうでさらに米空軍嘉手納基地リーガルオフィスで問い合わせてもらいます。
②小宮山博史、DNA手掛かり無く難航、旧愛人方々に接近しようと思います。
③変死体着衣と、遺留品については「取材・目黒区殺人未遂事件その後」という名目で柳井港警察署のアポが取れています。北川先生のご紹介状も用意しましたからカメラ付きも承認していただきました。同時に現場も撮ります。発見状況も詳しく聞けそうです。さすが元副総監閣下。突撃は来週になります。
④SGの生保、紀尾井町あすなろ生命保険相互㈱、こちらも元総代今井先生のご紹介名刺で審査部部長の方とアポが取れてざっくばらんに相談させていただきました。何か動きあれば私またはデスク宛て連絡があります。加入時健康診断の写しマル秘にて預かりました。
 HM


13:30
「@GGK」
TO KK/HM/AS
CC YI


お伝えしましたように真正GのDNA鑑定サンプルになるようなものは発見できません。
真正G(福岡に行く前)の那覇での足取り、三カ所(それ以外は立ち寄らなかったよう)地取りしましたがGGKのような人物との接触情報は得られませんでした。
その中で気になった情報、「帰り道に良く国道添いの中古車センターなどを見ていたようだ」がありました。大型車両も並んでいる店もありますからそれを下見していてGGKが接触した可能性があります。二三、回って見てきます。
あと、那覇のエイサー祭りの前(福岡行き直前)記念に撮ったという食肉卸店のアルバムからスナップを二枚預かりました。真正Gはっきり表情確認できます。とりあえず拡大コピーを携帯で写してすぐに送ります。写真画像夕方送信します。
今からリーガルオフィスに向かいます。グリーンカード取得状況等合わせて問い合わせます。報道取材目的、何か考えます。MU

13:45
「RE@GGK」
TO HM/SA/MU
CC YI


お疲れさま。
→HM ②のアプローチ、必要ないかもしれません。HK唾液を採取できている可能性あり。その方、先にやります。一週間ぐらいでわかるはずですから連絡します。
投資ライン、当方なれない事で手こずっています。経済部の協力でしのいでいます。
件の投資組合アバンティは2005年5月2日にシンガポールで商号変更登記されています。事業目的は投資資金運用、不動産取引投資事業です。設立登記当初はEUI投資事業組合の商号、設立時主体は香港の東界貿易公司でしたがその後に日本の投資組合が実質入れ替わっています。出資者一覧は共有ファイルにPDFアップしました。
レ点チェック、これから追います。 KK

→SA 陽射しいかがですか。

13:50
(ハワイ時間2010年3月22日18:50)
「RE@GGK」
TO KK/HM
CC YI


太陽どころではありませんでした。
本日朝、空港からタクシー半日貸し切りで、まずはGGK居住スペンサー通りアイオラニヒル・アパートメントに直行。現地周辺まだ空き地あり建築工事中断ありで通りゆく人も車もまばらでした。もっとゴージャスな大理石ロビーを想像してましたが我が有明本社程度です。カメラは通りからずっと周りを舐めましたが中はセキュリティーありで入る事はできません。
市中心部にある管理会社エンマ・リアルエステート・サービスを尋ね、聴きました。
区分所有者は個人、日本人でウシオ・シラカワ、82(85?)歳の方、共同名義人がユリ・シラカワ、68(?)歳の方、シラカワ・ウシオさんの職業は日本の株式会社KANKEIプレジデント。アドレスから福岡市博多区株式会社関西総合警備保障、元代表取締役現相談役白川潮男氏(ユリさんはその配偶者?)、と思われます。区分所有契約はアバンティが建物所有名義変更と同時の2003年7月。GGK、タイジロウ・ゴトーはその会社関連企業カリフォルニア州バシフィック・インベストメント・マネジメント社員の身分で2006年10月から入居許可を得て暮らしていました。PIMの裏は取れていません。GGKと面識ある女性スタッフから話をいただきましたが、英語があまり流暢ではなく、身振りが大げさで日本の芸能人の様だったという事です。
彼女の情報を元に、知人、出入り先、よく利用する店レストラン、ガソリンスタンドなども訪ねます。運転も続けていたようでハワイ州の免許も所持していたみたいです。

ホノルル警察署も訪ねました。最初どんなにか小娘扱いされるかと二人心配の極致でしたが現実さにあらずの真逆でした。署のスボークスマンなんか初対面で「オーヨシコ、サクラ」。ワザとらしくもありましたが署内の視線はみなニコヤカでほっとしました。
事件担当の警部レオナード・サットンが一部始終を詳細市街地図を示しながら説明してくださいました。カメラは苦手だと言いながらポーズの決め方はかなり慣れていました。
説明では被害名称「強盗傷害事件」とは同じであるものの、顛末は日本で得たウエブサイト情報とはかなり隔たりのあるものでした。
現場はフォスター植物公園の西側にある駐車場入口前。その前、西への一方通行北ヴィニヤード大通り。犯行直後にこの一方通行道路左右に駐車していた車両の中にいたそれぞれ二名づつの目撃者が翌日の聞き込みで浮上しました。四人ともこの近所の同じ飲食店に勤務しており土曜日の深夜に事件を目撃していました。
目撃談を総合すると、こう。
[深夜11時分頃、右車線から駐車場入口に一台の黒のワゴン車が幅寄せして停車、すぐに助手席からまず一人の男が降りて後部座席の男性を引きずり出し歩道に投げ捨てた。男性はその場で右肩を下にして膝を抱えるように倒れ込んだ。その後ワゴン車は西に向け走り去った。車のナンバープレートは見えなかった。運転していた男も助手席の男も東洋人のようだった。後部座席にもう一人の同乗者がいるようだった。ギャングのいざこざのようにも思われた。その直後に赤い乗用車がゆっくりと一旦通り過ぎた後にバックして停車した。運転していた太った年配の男性が降りてきて倒れていた男性を介抱していた。その男性は助手席にいた女性に大声で911を呼べと叫んだ。
四人とも近くの店のスナックを車内で食べていて事件を目撃した。彼らはいつもそのあたりに車を止めていた。ギャングの騒ぎにも感じられたので後難を嫌いパトカーが到着前に走り去った。]
病院での聴取の際ミスター・ゴトーは自転車で西から東に向かって現場を通った時襲われ撃たれたと供述していたが、後に、現場のやや手前徒歩で歩いていて拉致され、車内で撃たれと供述を変えた。おそらく英語で正しく説明しきれなかったのだろう。犯人はその後の捜査でも判明していない。」
車内の右後部座席で膝に銃弾を受けたものなのでしょうか。
膝から摘出された弾丸は体内を貫通しにくい(致死性が増す)いわゆるコップキラーと呼ばれる38口径のものだったそうです。
現場一帯、北ヴィニヤード通り周辺、カメラ撮りました。聴取の通りにタクシードライバーに寝てもらい撮影、スペンサー通りまでの往復二種のコースツアーも撮影。


次にワイキキ・メディカルセンターに行き、当日の執刀医から話をうかがいました。
[弾丸は左膝の膝蓋骨お皿の裏、膝裏から侵入、脛骨と腓骨を粉砕して停止していた。まず止血し切開して弾丸を摘出した。問題はなかった。3日後に再び切開し樹脂を挿入する特殊手術を行った。術前には血液検査を行っている。サンプル等は無い。
最初の手術後に日本領事館からミスター・ミヤモトが来て説明を聞いて行った。後からは別の日本人が来て今後の手順を聞いて言った。MIU保険からも調査員が来ていた。]


在ホノルル日本領事館、電話で問い合わせました。あいにくミヤモトさんは出張、代わって別の領事館員の方から話を伺いました。日本のパスポートを所有される方が事故事件に遭遇しても必ず事情を聴取するわけでは無く、たまたま日本の省庁などからの確認要請で、また一部の私人からの要請などでそれを行ったという事はあり得る、という事でした。担当されたのは警察庁から出向の宮元貴弘一等書記官でした。SA
15:20
(ハワイ時間2010年3月22日20:20)
「RE@GGK」
TO KK/HM
CC YI


さきほど、GGKのお知り合いの方一人に話を聞きました。カイウラニ通りにある行きつけガスステーション&ショップのスタッフから。
[ゴトーは近くのオフィスに良く出入りしていた。時々東洋人の女性を伴っていた。日本語で話しかけたら全然反応が無かったから日本人では無いと思う。最近は見かけない。車はホンダの高級乗用車だった。ゴトーはショップでいろいろ教えてあげたらチップをはずんでくれて知り合いになった。他の東洋人たちはそうはしない。互いに気が合い仲良くなった。すしやイタリアンフードをご馳走にもなった。オメガの高い腕時計をはめていたし店ではノートパッドをずっと開いていたからトレーディングをしている人だと思った。携帯に何度もコールがかかって日本語で話していた。英語はまあまあ上手だった。。最近会わなかったが今撃たれたと聞いて驚いた。]
喋れるGGKと英語が苦手なGGKと二人いる感じです。SA

16:00
「@不可解/お願い事」
TO SS


先日お伝えしましたように、取組対応が進んでいます。本日のお願いですが貴殿が免許センターで回収されたという飲料缶、まだお手元にありますか。もしあれば名刺記載有明の私ども報道デスク宛てお送りいただければ幸いです。用途はご理解されていると思います。KK

16:10
「@不可解/お願い事」
TO KK


承知いたしました。明日朝に郵送いたします。密封容器に容れ厳重に保管して参りました。宜しくお願い致します。SS

16:40
「@GGK」
TO KK/HM/AS
CC YI


米空軍嘉手納基地、回答いただきました。

[2006年(平成18年)12月4日婚姻、1980年(昭和55年)8月18日生、日本沖縄県出身、ヒロコ・サンチェス、同日アメリカ合衆国永住許可証グリーンカード発給。2008年(平成20年)グリーンカード更新。
ヒロコ・サンチェス、旧姓ヒロコ・ゴトーは1997年から2006年まで空軍嘉手納基地内オフィサーズクラブ(将校クラブ)に勤務。
配偶者、1975年8月23日生、ニューメキコ州出身、ハリー・マルケス・サンチェス、1996年コロラド州スプリングス空軍士官学校卒業後エドワード空軍基地所属、2000年(平成12年)合衆国太平洋空軍第5空軍沖縄嘉手納基地第733航空輸送隊配属、2007年(平成19年)合衆国太平洋空軍マリアナ諸島グアム島アンダーソン空軍基地第36航空団司令部配属、現在階級メジャー(少佐)。
現在住所、同基地内フェアチャイルド住宅管理オフィス要確認、グアム・イーゴ・チャラン。
同居家族、ヒロコ・サンチェス。ロバート・G・サンチェス、3歳。エミ・G・サンチェス、0歳。マリア・F・サンチェス、63歳。]
オフィス報道官はしきりに「理想的、家族一緒、ハッピー」と賛辞のコメント、基地移転問題もあるせいか終始驚くほど協力的でありました。MU

16:40
「@GGK」
TO MU/HM/AS
CC YI


→MU ご協力感謝します。
→SA ハワイ島からグアム島へ飛べますか。カメハメハ同行で。行程は任せます。検査キットは忘れず持参で。
→YI いかが。 KK

16:50
「@GGK」
TO KK/HM/AS


それで願います。横田基地司令部には根回し入れておきましょう。「沖縄から嫁いだ娘たち」レポ、あたりで。撮影範囲については横田との調整が出来たら連絡します。
サンプル採取に関しては「日本人のルーツを求めて」としましょうか。慎重に。これも事前に横田の承諾取りましょう。
SGの事、自然な会話から語られるものだけに努めましょう。 YI


平成22年3月24日


「@GGK」
TO KK/AS
CC YI


09:30
柳井港警察署、行きました。着衣、遺書等所持品は遺族に返されていました。写真資料だけをカラーコピーもらいました。調書は一部書き取りました。[アマチュアカメラマンが湖水に映る木を撮影しようとしたところ浮かんでいた変なものに近づいた。よく見ると人の背中が見えて警察に通報した。
警察署がボートを出して死体を引き上げた。死体は柳井港警察署に運ばれた。]と、周知のものだけでした。
所持品発見は西に30mほど行ったやや水深浅い岸部。車があった所まで行きました。隠していた様子では無かったようです。
ずっとカメラ撮ってもらいましたがあちこち桜が入って観光ルポみたいです。


11:20
山口医大、サンプルお借りしに行きました。
発見がありました。例のものの他に貴重品が労なく手に入りました。
病理学教室で遺体の司法解剖を進めた際、万が一の場合(母親による遺体確認が不確実だった場合)に備えDNA鑑定を準備したそうで、母親および遺体から標本採取が行なわれ保管されていました。結局遺体がHKのものと断定されたためこの鑑定は見送られたそうです。準教授の方の機転でしょうか「保険請求のためお使いください」と言われ、綿棒それぞれお預かりしてしまいました。今日中に持ち帰れます。カメラは入っていません。HM

03:30
(ハワイ2010年3月23日08:30)
「@GGK」
TO KK/HM
CC YI


グアム島行、体勢整いました。機材準備オーケー、こちらより10:10アイランド便で。グアム国際空港到着後、現地ガイドに会い、まず一旦基地に入ります。サンチェス氏と13:00面会します。

昨日アパート管理会社EESの日本人女性スタッフの方から私の名刺、メモした方の携帯番号に連絡がありました。事件後、GGKにずっと付き添っていた男性はビルオーナー会社日本人役員の紹介で日本からやって来たという事がわかりました。
女性の話ではとても英語が堪能な六十代の小柄な方だったそうです。英語圏での生活をされていたような印象を受けたという事てす。男性はキタシマと名乗りましたが名刺等は差し出さなかったようです。
この方がGGK帰国後も付き添って世話をしていたのではないでしょうか。さいたま市に現れた男性と見かけが一致するかと思いますが。

同日晩、GGK知るもう一人とも会えました。知人、韓国レストランオーナー女性のそのまた知り合いの日系人女性(不動産関係のお仕事?)、ハワイ島の中規模開発の物件にオファーがあり何回かお会いになったそうです。この方によると
「①出資または購入希望はがニューヨーク在住で中国共産党幹部の子弟である②(ゴトーは)代理人に頼まれ調査している③周辺地域の発展が見込まれ将来的プロフィットも期待できる」という事で沢山の資料を提示したが、「①ゴトーには何のライセンスがなかった②すぐに手付け金として200万ドルほどの現金を用意できると豪語した③持っていた財布の現金をちらつかせたり、金の時計やアクセサリーを見せたりした」そんな態度がどうもギャングの仕草に見え、レストランオーナーから「以前に韓国人の名前を使っていた」とも聞かされたので危うきを感じ、接触を遠ざけた、というものでした。GGKのその後のアプローチは一切無かったとの事、英語力はクリアーではなかったがある程度ビジネス応用ができるレベルであったようです。ただしレストランオーナー女性はその韓国名を思い出せませんでした。
時間も無いのでそこまででした。 SA

16:40
「@GGK」
TO HM/AS
CC YI

→HM ラッキーでした。明後日にAS切り札妹さんの採取サンプルが届きますと、SGのカードをワイルドカードにしてストレートのシーケンスが出来上がりますね。ストレートフラッシュに成らなければ本件テーマはさらに前に進める事になります。
→暑いだろうが、カメハメハと頑張ってね。
本日、高槻市の行政書士さんにお願いしていたものが届きました。(申請の目的が正当な要件を備えている(外観的に)ものなら開示フリーです。)名護市情報も同手法、MU氏より入手の予定。
[高槻市、住所が移転したことが分かる証明書取得、平成18年9月28日沖縄県名護市豊原字下久部368番より大阪府高槻市南平台六丁目11番4号に転入、平成21年11月10日埼玉県さいたま市大宮区南新町一丁目5番1号に転出]


戸籍事項全部証明、一昨年証明書取得申請要件が法令により厳密化しました。やや難儀しています。

HKが西麻布の事業を始めた際に語学事業振興事業団に会員登録していた事が判明、事業団規則で死亡(犯罪行為の制限なし)の場合法定相続人に弔慰金が支払われる事もわかりました。(概ね数万円)事業団にお願いし申請に必要な証明書等取り寄せをこちらの段取りでやる事になりました。


18:00
(グアム2010年3月24日17:00)
「@GGK」
TO KK/HM
CC YI


グアムは暑さハンパ無く陽射しは容赦ありません。泳ぎたいです。

空港到着後、ガイド氏の車両で一路アンダーセン空軍基地に向かいました。空港を出て二十分ほど走るとガイドブックで見ていた基地のベージュの看板がありました。カメラを回したのはそこまで、基地内撮影は固く禁止されていますので亀ちゃんしっかりバックに格納。
車列に並んでゆっくりとゲートに入りました。何か二人、「オアフのゴルフ場に着いた」なんて、ワクワクしました。
警備兵士に持参したドキュメントを示すと別な受付を案内されました。基地内部撮影は控える事も告げられました。


インフォメーションデスクでボディチェックと所持品検査。
とってもデラックスな女性兵士が手際よくチビ二人日本人に指図しました。皆さんグレーの迷彩服。
亀ちゃんがバッグを肩に持ち替えようとした時、デラックスさんから「下に置いて!下に置いて!」と一喝され、これは本当にビビりました。
間もなく連絡を受けたらしい女性が登場(下士官?こんどは紺スーツ白ワイシャツにセミタイ、髪アップにして紺ミリタリーのソフト帽子、BSでは見慣れていた姿も実物にご対面でき感激です、格好いいっす。AS余談)


彼女に軍用バギー幌なしジープで案内されました。(これも二人感激、カメラダメが残念ス)

ガイドはゲート脇で待機です。

広ーい敷地内、軍用機のひっきりなし離着陸を横目に見ながら(亀ちゃん悔し泣きス、翼クンだそうです)サンチェス氏のオフィスまで走りました。(ゴルフ場内をスーパーカートで凱旋しているような気分でもありました。サクラ)

彼女が説明してくれました。(彼女も同世代のアメリカン、シンディさん、シンシア・スタインバーグさん)サンチェス少佐、第36航空団738輸送隊インスペクター、管理監?、で、彼のお父さんも元空軍パイロット、第二次大戦の英雄、だとか。

滑走路西側、ベージュ二階建て前停車。(入口には36thサムサムと、あのブルーの両翼ロゴがあります。亀、指摘) 

また入口にてセキュリティーチェック。

二階への階段(階段、デカい)上がりかけた時。
シンディ下士官急停止直立、二人日本人シンクロして一歩引き、前をカーキ色ツナギ紳士、シンディ下士官最敬礼、二人日本人軽く会釈、紳士微笑一礼、シンディ下士官小声で「ヴァイスコマンダー」、二人日本人背中見送り再度深々一礼。それは、いわゆる、ジェネラル閣下、基地副司令官殿、なのでした。(二人日本人、うちの会長の時よりカンメイ大)

定刻1300に10分前、二階の通路中ほど、少佐のオフィスドア、シンディ下士官がノック。
「入れ!」で入室。
中に勲章付き紺色四つボタン士官(シンディ下士官によれば空軍士官正装、二人日本人のための敬意礼)
荒木亀田オソロにて「ナイスミーチューサー(英語)」
サンチェス少佐「ハジメマシテー、ヨウコソイラッシャイマシター(日本語)」
シンディ下士官「お二人ご案内しました。サー(英語)」
サンチェス少佐「ドウゾソチラニオカケクダサイ(日本語)」
二人日本人「サンキュー、サー(英語)」
(サーは沖縄語ではなく、Sir)
サンチェス少佐「ワタシワハリーサンチェスデスドウゾヨロシク(日本語)」
微妙に調子が狂いましたが、我々の自己紹介、取材意図「沖縄花嫁」、など伝え、少佐の経歴生い立ち、花嫁との出会い、新しい家族との生活など軽めのインタビュー。SGの事に触れ、

「彼とは二回だけ会っている。一度目は2005年7月、911テロの前、最後の嘉手納基地オープンデイで会った。ヒロコの兄はとてもシャイだった。タイジローは航空機の他、施設車両に大変興味を示した。二度目は基地で結婚式を挙げる3ヶ月ほど前、嘉手納のレストランで会った。彼はヒロコには高級腕時計、私には高価なニコンをプレゼントしてくれた。グアムに来てからヒロコはタイジローと連絡が取れないと嘆いている。」

ともコメントされました。
少佐の許可いただき室内ではカメラ撮り出来ています。
途中、日本茶のご馳走などもてなし挟んで約三十分。その後サンチェス少佐は公務で退室、別れ際に
サンチェス少佐

「マタオアイシマショウ、スタインバーグ、グンソウ、マイファミリー、イエ、イキマス(日本語)」
シンディ、軍曹。その軽快バギーでチャランという基地外西側の住宅地に向かう事になりました。
一旦、ゲートでガイドと再開しました。二人日本人クルーはシンディ軍曹のバギーでガイドを先導します。
ゲートを出るとガイドがクラクションを鳴らしバギーを止め車を降りて手招きで道端の車を呼び寄せました。
彼の話によると(待ちの暇に)いとこに日本人テレビクルーが来ている情報を与えたせいで(また暇人)にわかパパラッチズ集結の模様。仕方がないから大振りしてご挨拶。それでも、タケシは知ってるかタクヤは来てるかなどワケ判らずうるさく、また仕方ないので彼の背中に相合い傘書いて、漢字で桜&石川遼(ゴメンナサイ)なんて書いて上げてサヨナラゴメンになりました。シンディ軍曹、顔色一つ変えません。
ゲートから約5km、チャラン地区ウルフォフォループという所にサンチェス少佐家族の住む家がありました。
映画ディープクラッシュでヒーローの家族が住んでた家のよう、ビーチの眺めは有りませんが、とっても素敵な住まい。
前庭にお婆ちゃんと男の子が遊んでいました。
すぐ、ミセスヒロコがドアから出て来て挨拶。
シンディ軍曹はミセスヒロコとお互い日本式の挨拶を交わし基地へ帰還しました。
「サンキュー、シンディー、サンキュー」
二人日本人、派手に別れを告げました。

ミセスヒロコ

、「グランマー、ロビー」と二人も呼びました。
細身に50`S風ワンピースがよくお似合いのヒロコ夫人、フカキョンに似た写り良い方、亀ちゃんカメラが寄りました。
赤ちゃんは奥でおやすみ中のご様子。
挨拶の後、ホノルルでシコタマ買い込んだ子供服、ベビー服、絵本、動物園グッズ、日本ブランドの婦人服(オーバーMサイズで亀ユーズに変更)、ワイン(MU情報から)などのお土産ふんだんプレゼント。
取材の概略お話しし、リビングのソファー位置を少し窓辺に移してもらってからインタビュー開始。

「こんなにいっぱい、おみやげいただいて、ありがとうございます」
「ロバート君、今おいくつ?」
「3歳になったばかり」
「こちらでご誕生?」
「そー、基地内の病院、で」
「エミちゃんも?」
「そー、同じ」
「こちらのおうち、素敵ですね」
「ありがとうございます。基地内の宿舎にいたんですよ、でもー、子供できたから、ハリーが捜しました」
「いいですね、お庭も広々」
「ハリーがグランマを呼ぶのに、アラモゴード、ニューメヒコの町です、イーグルドライブ?グランマ?」
「SURE!」
「その家に良く似ているからって、この場所を選びました」
「ご主人との交際はいつ頃から?」
「私がオフィサーズクラブで働かさせてもらうようになってから、えー、二年目ぐらいから。当時栄養士としてお仕事させていただいてました。ハリーが本土から転属して来てから、その後ぐらいのお付き合い、かな」
「転属2000年、と伺ってますが?」
「そー、その後、ですから7、8年前ですね。ハリーには日本語を教えて私は英語を習いました。ハリーは沖縄のお肉がおいしいって、私のアパート、すごい小さかったんですけど、狭いキッチンで良く食べて帰りました。」

(沖縄訛りは全く感じません SA)

「その後、ずっとお付き合いが続いた?」
「なんとなく。ずっと優しいお友達でした」
「2005年にハリーのお父さんが亡くなってお葬式でアラモゴードへ帰って、帰って来て、すぐプロポーズされました。だいたいいいかなって、思えて、それから、2年ぐらいかな、ハリーの借りたマンションでいっしょに暮らしました。」
「それから?」
「ハリーの転属プランが出た時は妊娠がわかっていましたから、後は、ちょっと、ハリーが慌ててました。12月4日に基地の教会で挙式しました。ジェネラルに立会人お願いしました。ハリーの友人がクラブでパーティーを開いてくれました。」
「皆さんのご家族は?」
「ハリーは本土のお母さんは呼べませんし、遠いでしょ、私は孤児ですし。」
「お兄さんは?」
「兄は結局パーティーにも来ませんでした。名護を出ていたらしいんです。携帯も持たない兄でしたから連絡もできません。手紙は戻らなかったんですが何ひとつ言ってもきませんでした。兄、英語はさっぱりでしたからハリーに会うのにも引き下がってしまうんです。だからかな、とも思います。」
「お兄さん、結婚式前、お二人とお会いになってますよね?プレゼントがあったんですか?」
「そー、すごい高い時計とハリーのカメラ、今もはめていますよ、これ」
「あー、オメガ、ですよね」
「そー、施設を出た後は二年に一回ぐらいしか会う事ができませんでした。兄が車で那覇に来るようになってからは時々私の時間と都合がつく時に。夏に国際通りの裏の店で、輸入品のポーンショップ、ウィンドウの中、腕時計、女性用の、私が覗いて羨ましがったんです。そしたら、もしお金がいっぱいあったらどれがいいかって聞くんです。私、詳しくない、だから、オメガ、って言ったんですね。それから9月の日曜日にマンション近くから電話があって、お祝いするって。ハリーいっしょうけんめいに日本語で話かけましたけど、兄ったら無口の無口。あっという間に食べ終わって、包み持たされて、別れました。家に帰ってからハリーと二人、ビックリでしたよ。あんな高いもの、ムリしたから」
「お兄さんのか・、カッコイいプレゼントでしたね」
「そー、ハリーのほしがってたニコンの事もいつ知ったのか、きっと昔のオープンデイの時、ハリーのカメラを見たんでしょうね。ハリーはフィルムカメラ派ですって、いつも自慢でしたから」
「グアムに移ってからもお手紙か何か出されました?」
「グアムに来た年、3月にロバートが生まれた後、名護の住所に出しました、転送されるかと思って。転送されたみたいです。でもやはり返事はありません。それから9月頃、グランマが本土から引っ越して来てから、も一度、その手紙はリターンしましたけど。」

インタビューはその後も続き赤ちゃんやお部屋やお庭を撮らせていただきました。
インタビュー途中「お兄さんの形見」と言いかけてしまいました。ヤバかったです。
郵便物転送期間は多分一年間だったと思います。だから半年ぐらいは高槻に届いていた、そのアパートなんかでしょうか。郵便受けがあった。出国してしまっていたGGKの代わりに誰かがそれを受け取っていた可能性あるかもしれませんね。
そして一年待たずに尋ね当らずとなった。郵便受けが無くなった→その建物自体の変化があった、例の不動産トラブルの時期に重なるのでしょうか。

ミセスヒロコ、帰り際に言いました。

「お連れして下さったハリーの副官、シンディ、軍曹」

「?」
「彼女、カリフォルニアのケネス・スタインバーグ上院議員さんの姪っ子さんですよ」
「・・・、REALY?」

(アメリカ政治さっばりなんですが、なんか、二人日本人、今も恥ずかしさでいっぱいです。)

引き上げる直前、「沖縄花嫁のルーツ」と説明し綿棒採取ご協力いただきました。

成田行き最終便、間に合いませんでした。
明日便連絡します。SA

16:40
(グアム2010年3月24日17:40)
「@GGK」
TO SA/HM
CC YI
→SA ご苦労さまでした。お二人。シャワー浴びて冷たいビールでお体を労ってください。KK

17:40
(グアム2010年3月23日18:40)
「@GGK」
TO KK/HM
CC YI
→KK シャワーまだお湯でません。水の出、悪いです。今、二人でビール浴びています。SA

平成22年3月25日

10:30
「@GGK」
TO KK/AS
CC YI

つい先ほどあすなろ生命から連絡ありました。今日の10時頃に八重洲東京支社にGGKの保険証券写しと委任状を持った男性が現れ、契約審査部長が対応されたそうです。いきなり請求があったと言う訳ではなかったそうですが海外出張中の本人に代わっての手続きなどを尋ねられて行ったそうです。
保険会社として仮に委任状があったとしても請求や契約内容の変更等は原則本人直接のものでなければならないと説明したに留めたそうです。男性は現在の本人の住民票を提示し請求書類などの郵送を頼んで帰ったそうです。
自己紹介の際に名刺を出されました。コピーがデスクに届きました。今、データが入ります。HM

10:40
「@GGK」
TO HM/AS
CC YI

→HM 名刺届きました。記載の会社は新木場ですね。今、目黒の事件現場から五反田まで写してきました。車、30分で新木場行けます。現地、落ち合えますか? KK

10:40
「RE@GGK」
TO KK/AS
CC YI

今、品川付近、大崎で降りて新木場向います。30分ちょっとで駅につきます。駅から連絡します。HM


13:30
スタッフミーティング
唐木田チーフ記者
「始めに。みなさん採取されたDNAサンプル、本日、検査結果もらってきました。
ジェナリシス社広尾ラボ、特急仕上げご協力いただきました。

技師の解説はカメラ撮りしました。検査証明と解析パターン、補足文書はコピーの通りです。

説明します。

検体Aは黒杭川上流ダムの遺体DNA。検体Bは小宮山龍子、博史の母親のDNA。検体Cはヒロコ・サンチェス、後藤泰二郎の実の妹。そして検体Dが後藤泰二郎を名乗って運転免許証を搾取したと思われる男性のDNAサンプル、飲料缶に残された微量のもの、とても解析不能と思われましたが最新技術でクリアしてくれました。すごいと思います。
まず、A-Cは兄弟姉妹判定をした結果非常に高い数値が出ました。極めて高い確率で兄弟姉妹と推定されるという事です。
後藤泰二郎さんのご冥福お祈りします。
当然、A-D、血の繋がりは無し、赤の他人、という事、血縁は一切認められません。後藤泰二郎の身分を名乗るDは成りすましの偽者だと判明したのです。

さて、意外な事。

B-D間にも血縁が認められませんでした。親子ではないと判明しました。たしか、博史は非嫡子ながら実子で出生届が出ていましたので、Dサンプルは小宮山博史のものではあるが龍子の実の子では無かった可能性、または、Dサンプルが小宮山以外の第三者の可能性、2つの可能性も生まれました。

このあたりまたまだ探る必要があります。

本日は午前中にGGKを昨年のホノルル被弾事件からずっとアテンドを続けてきた人物を訪ね当て、当人からそのいきさつを取材してまいりました。

北島荘介氏、66歳、株式会社太平洋セキュリティーエイジェンシー、江東区新木場にあります海外招聘者ならびに海外渡航者の警護を業務とするリーダー企業ですが、その略称POSAC非常勤スタッフの方です。

北島荘介氏はかって防衛庁の派遣左官として長く米国に滞在した経験を持つ方です。日本領事館の書記官も歴任された方でもあります。
本日の午前、八重洲のあすなろ生命東京支社を訪れ、SG契約の、期間15年継続中はたちの保険若葉、について障害補償条項などについて問い合わせをしました。先々月、海外に出国したGGKから委任状を得ており、コピーの契約者番号などをもとに問い合わせをしたという事です。

すでにGGKは海外に飛んでいた事もわかりました。

以下、インタビューの本人コメントです。

「私は防衛庁を定年退職後POSACの顧問に就任し、外国人、特に米国人との折衝に関して監督をしておりました。アメリカでの邦人警護も経験者としてスタッフの指導もしておりました。
三年前に引退し名前だけの相談役、実質隠居生活を送っておりました。

昨年10月にPOSACの社長からと、関西総合警備の役員の方からと、急なお電話をいただき懇願され、即日に招かれて大阪府立病院まで伺う事になりました。
病院の一室にいらしたカンソウケイ元会長の白川潮男氏から、『ハワイの不動産管理会社から緊急連絡が入った。ホノルルにいる親類縁者が事故にあった。当人の安全な帰国をアシストしてほしい。』と、また懇願されました。氏は脳梗塞で1カ月前に倒れられ入院されておりました。我々元市ヶ谷でもよく知られた先輩の強い依頼であり、また格別な報酬の魅力もありましたので、恥ずかしながらお引き受けいたしました。ご病人の海外からの移送など、馴れた仕事でもありましたから。

翌日には身支度整え羽田からホノルルへ飛び出しました。ホノルル領事館には私の後輩がおりましたので事前にある程度の情報は入手しました。ホノルルから病院に直行し手術治療の進捗に合わせ帰国の段取りをも組みました。
後藤氏とは初対面でした。良く日焼けされていました。ご挨拶をして私がアシストする事を伝えましたが、おおむね頷く程度であまり話をなさろうとはしませんでした。私の経験からこちらからも最低限の要件だけを伝えるように努めました。
再手術の後には長く話しかけてこられた事がありました。細かな指示をされた事がありました。それで、市内で指定されたサングラスを三つほどと、私名義で借りた携帯電話を揃えて、病室に届けたりをした、そんな事もありました。
また、対面の時です。加入の障害保険が気になっていたのでしょう、これは白川元会長側も気にされていたようでたが、後藤氏はナースを呼び手荷物を取り寄せ私に何度も確認させました。彼の保険カードを預かり私が病院手続きなどすぐ行いました。
退院後は現地のヘルパーさんも手配し食事や身の回りのお世話をさせました。私もその白川元会長所有アパートを常時覗いて安全を確認しました。私はすぐそばのホテルに投宿しておりました。
事件が銃撃によるものだけに白川元会長は現地マフィアの暴力などを想像しとても不安を感じているようでした。そんな事もあり、報告は都度レポ役の役員さんに宛ててメール送信し続けました。怪我と手術の事、事件の顛末、現地警察署の事件概要、障害保険補填の件、退院後の健康状態、外部との本人のやり取りの様子など、詳細に連絡しました。特に心配の旨は無し、不穏な動きも無し、その後の狙撃容疑者の判明も無し、なども報告しました。返信にはいつも元会長の労いのお言葉がこれこれだったとあり、費用は拘らなくても良いとも念を押されていました。

若い方の回復力は大したものですね、一週間ほどで室内では杖の歩行ができるようになっていました。

11月1日に後藤氏はご自身の手荷物を一つにまとめられました。旅行なれしている印象です。部屋内部はかなり整頓されておりそのまま出国を迎えました。
白川元会長の会社役員の方からもその日指図書がメールで届き、出入国の手配をしました。新しい車椅子も病院サービスの斡旋で手に入れました。一般的に電動はそのまま日本で使えませんが、変圧オプションを付けました。
11月2日の日本航空便を手配しました。プライオリティ・サービスの身障者コードWCHSと車椅子の持ち込みも伝えました。私も白川元会長お計らいでビジネスをいただきました。
11月2日の夜10時に羽田に付きPOSAC手配の介護タクシーで舞浜のシェラトンホテルに行きました。そこで私の任務は終了しました。
それからPOSACの女性スタッフにバトンタッチしました。

これでと家休んでおりますと、またPOSAC社長から電話を受け先方に、役員さんに、連絡をすると、また追加の依頼がありました。私も次女の出産などで多少物入りでしたからお引き受けいたしました。

メール頂いた指図書には警察庁OBのネットワークで根回しがあった旨の記載がありました。その事を頭に留め置き指図通りに舞浜シェラトンまで行き用意されたワゴン車を運転しさいたま市に行きました。後藤氏は杖で歩けそうですが車に車椅子も載せました。車椅子リフトはホテルにいたスタッフから操作方法を学びました。
さいたま市では新しい居住先への入居手続きと転出転入届依頼、医療機関での障害認定、市役所での障害者手帳交付申請、などでした。
11月9日、でした。

しかし、この裕福な方がなぜこんな施設に入るのか、あるいは入る手続きをしたのか、疑問ではありましたが、有力者の依頼が故、特別な事情あり、との思いで、ただただ指図をこなしました。
後藤氏は続けてシェラトンに滞在していました。スタッフの話では全く外出はなさらず時々買い物手配をこなしたという事です。役所等から現住所に様々書類が届きますので連絡の必要の都度POSACスタッフが回収に行っています。
今年、再度連絡を受け1月13日でしたか、免許証の更新をサポートしました。
すでに杖だけでの歩行ができるようでしたが、身障者の場合多少過程が異なりますので事前に細かい資料を作り鴻巣までの車内で覚えてもらいました。必要申請書は全部用意しました。写真は施設入居の際に準備したものを添えました。
POSAC女性スタッフから最近の後藤氏が長い隠遁生活のせいかイライラが募っているようだと告げられており、そのため試験場内での補助にいささか抵抗を覚えましたので、社長に連絡の上、施設に適任者を用意するようお願いしました。
試験会場で車椅子を下ろし施設紹介の男性に後をお願いしました。

無事に免許証など取得した後の後藤氏、笑顔は始めて見た気がしました。その青年を鴻巣駅で下ろし、施設には寄らずにシェラトンに行きました。

その月、1月25日、後藤氏は成田からカナダに向け出国しました。最初、白川元会長のご指示で手配しかけたロスアンジェルス行きを後藤氏の意向で変更、白川元会長ご承諾の上バンクーバー行きカナダ航空券を手配しました。カナダには受け入れ態勢があると思いました。
成田まではPOSACのスタッフが見送ったそうです。車椅子を載せて行ったかわかりませんが、プライオリティ・サービスは利用されたはずです。
今日、保険会社に行ったのは、当初先月始めに行く指図でしたが、白川会長サイドから時期改めての連絡で保留しておいたのですが、私の私用で丸の内まで行ったついでに、思い付きですが、お尋ねしました。
実は、後になって、私自身もあれこれ不審に思う事もあり、また私自身に不法行為が有っても困るとも考えて、取った行動です。
白川元会長には勝手をして申し訳がないと思います。後遺症がある訳ですからなぜ保険手続きを進めないのか不思議に思ったんですね。
あと、なぜあの施設に、さいたま市に住所変更したのか、なぜ日本の運転免許更新にこだわったのか、ハワイ州の免許を持ちながら一年しか有効でない日本の国際運転免許証にこだわったのか、なぜ急いでカナダに出国したのか、あれこれ不思議に思えたんですね。」

GGKはすでに国外に逃亡を図っていました。


向田隆編成局次長
「平成1年9月26日、後藤泰二郎さんが山口県内で死亡、不審な死を遂げた事がほぼ判明し実証された訳です。後藤泰二郎さんのご冥福、改めてお祈り申し上げます。
我々一ジャーナリストの立場として、その事実を実の妹さん、唯一の肉親者にまずは伝えねばなりません。
悲しい伝達をせねばなりません。
その上で、現在まだ日本国籍を有される方から、海外から、日本に対して訴えを起こしていただく必要がある、と考えます。
なぜなら、訴えの利益を唯一備えている方だからです。 

後藤泰二郎さん、お兄さんの死亡の確認です。なによりも代え難い唯一の肉親の真実です。
確認できる事により、その非業の死を弔い、正しく埋葬し直す権利があります。
日本の戸籍に関し真正な事実を求め、司法の無礼にも一矢を投じて頂きたいと思います。

今後の展開につきましては日本の法律家、軍属と家族を擁護する米国空軍法律機関、さらには我が局の人のネットワークにとどまらず、有能なスタッフを様々配置する必要もあります。
一方で我々は真実を広く視聴者の方々にお知らせする任務があります。
これから起こる事、過去に起きた事、細かく取材し分析し、我々チャンネル映像によって伝えたい、こう思います。
本日までの取材編成に加え、今日同席、西堀孝雄記者、山森育江D、法務部・横川ウィレム顧問。計六人、局の中規模事案態勢とします。
唐木田チーフ、松永、荒木、両記者、チーム申し送り漏れなくお願い、以後、引き続き健闘ください。」

平成22年3月29日

「@GGK」」(取材共有ファイル)

今二日目の福岡です。ヒト関係いろいろあたりました。

1、小宮山博史、博多区、筆頭戸籍は除籍ですが母龍子で父名は空欄です。
2、小宮山龍子、昭和15年4月25日韓国太田市生まれ、父崔龍博、母崔恩恵、昭和45年7月8日小宮山英順と婚姻編入(同時に帰化)昭和51年12月6日小宮山英順死去戸籍抹消、昭和53年6月8日博史出生届(38の子?結構高齢)、博史、男、嫡子ですが婚外子、父名空欄です。

龍子さんが平成10年まで経営していた博多区中洲の上川端、韓国料理店付近、地取りしました。

近くの店舗を訪ね当時の龍子を知る方から龍子の店の厨房で働いていたスタッフの情報いただきました。この方は現在近くで韓国料理店をなさっています。
「昭和55年頃までは龍子さんの両親(在日)経営の遊技場があり夫英順も働いていたようです。夫は結婚後早くに病死したそうです。夫の死後、子供が欲しかった龍子が母親の知人の娘の産んだ子供を籍に入れました。龍子さんも両親も可愛がって育てていました。
両親の死去後、平成始め頃、不動産を処分、その敷地一角を得て10年ほど前まで韓国料理店を営んでいたそうです。(現在駐車場です。遊技場後はマンション建物です。)
博史は中学生になってからグレ始め、高校にもほとんど行かず、川端では有名なワルになりました。金もあったから母親たちも甘やかした結果です。
あれだけの事やって一度も捕まらないには訳があるって噂になりました。博史はあの頃の警察お偉いさんの息子が遊び人で韓国クラブの女の子に産ませた不倫の子供だからだと。
その遊び人は天罰で死んだそうです。これも噂ですが東京のホテル火災、ニュージャパンの火災で愛人と焼死したらしいって。
遊び人は離婚されてしまってましたし子供もいなかったから、保険金なんかで龍子にもだいぶ養育費が回ってきているらしいって。これも噂です。名前は知りません。だからって訳じゃないですが、私がこの小さい店が出せたのもそのおかげかもしれません。」

4、関西総合警備保障元会長現相談役白川潮男氏の長男白川匡氏、昭和57年2月8日ホテルニュージャパン火災で死亡、享年28歳。火災当時白川潮男氏は56歳、在カナダ総領事。その前が福岡県警本部長。東大法卒昭和25年警察庁入庁、外務省、警察庁警備局、長崎県警本部長、内閣官房長官付、福岡県警本部長を歴任、昭和56年カナダトロント総領事を経て、昭和60年関西総合警備株式会社代表取締役就任、平成12年取締役会長就任、平成18年取締役退任相談役。昨年に脳梗塞で倒れ入院、現在自宅療養中、

名士、さすがにデータ豊富です。私はサッカー履歴、ちょこ、です。

白川潮男氏昭和元年生まれ、昭和28年に前妻貴乃さんと婚姻、昭和55年死別、昭和60年に現在の妻百合さんと入籍しています。子は匡のみ。白川匡氏は29年生まれ、早大卒、元国際通信社、フリー記者、昭和57年死亡。昭和52年に結婚翌年離婚、子はいません。昭和57年火災の後、法定相続人潮男氏には多額の生命保険金が支払われているようです。 松永広樹

平成22年4月12日

拝啓 唐木田和穂様

 ご丁寧な経過資料をご郵送いただきありがとうございます。
 ご配慮くださいましたように過敏な問題も認識しておりますので大事に保存いたします。
 私は刑事畑の経歴がありません。ですから凶悪な事案に向き合う事もありませんでした。せいぜい悪質な交通違反者の取り調べほどです。
 ですが、あの小宮山という人物があれほどの巧妙な手口で身分をすり替えた事、いささか不思議に思えてなりません。用意周到に自分の痕跡を準備してある事をたった一人で成し終えた事も。手順良く海外に逃亡できた事も、また不可解です。
 先週、九州管区内の各交通センターに指導に行く機会がありました。その時、福岡県警の刑事部の人間に小宮山の指名手配時の噂を聞きました。当時小宮山は沖縄にある錦会系の組織に匿われているという情報があったそうです。当然捜査対象にはなったのですが捕捉はできなかったようです。また、小宮山が黒杭川に残したとされる福岡県内で盗まれた車両、その出処もやはり同系の土木事業者からです。大阪高槻の作業場も基を一にしていると思います。
 ただ、その類の組織が主導したというにはまた巧妙すぎますしリスクと利益のバランスも合いません。

 これはまた噂ですが、福岡時代に良く耳にした話です。
 昔の炭坑労働紛争で内偵線と呼ばれた連中がずいぶんと組合員の検挙に裏で活躍した経緯があります。一部は逆オルグされた組合員であり一部は組織から送り込まれた人物達でした。やがて炭坑事業の傾斜と共に彼等が切り捨てられました。そんな時、一人の有名な人物が彼等を再度取り込み、彼等に職をあたえました。その人物、今はもう故人ですが、昔は関東軍の主計将校であの児玉機関にも近かった諜報を知る人物です。おそらく戦後の相当な資金を利用し、またかつての軍人達を福岡で組織し、表で輸送、裏で港湾労働者の手配や占領軍の物資の横流しをやっていました。当然、地元ヤクザ組織とは密接でした。そればかりではなく地元政治家たちの支援をしたり警察公安の任務を密かに取り仕切ったり、ヤクザ組織どうしの争いの仲裁役になったりしていた、とも噂されていました。私の父からも聞かされていた話です。今はいくつかの企業組織に変貌しているようですが、権力癒着など名残も依然あるようです。
 そんな遠い昔ではなく、管内警察から懲戒解雇を受けた者達が何人も、それらしい後組織の企業体にリクルートされたのは私も実際に眼にしています。普通に警察を退職された方々や自衛隊を退職された方々ももちろんいます。
 具体的には名前を挙げられませんが、警備関係や港湾事業関係、認可法人などもあります。一旦小さな事業所に入りそこから警備関係に移った者もいます。警備関係の事業所内規に触れないような仕掛けなのでしょう。九州地区いろいろです。沖縄にもあります。

 私の厳正な職場を冒涜するかもしれませんが、思い切って申し上げます

 荷担した共犯者がいたとしたら、無謀なだけのヤクザ、などではなかったと思います。

 彼等の内の一握りの猛者達ならただ金銭の為に危ない請負ミッションをやります。また猛者達には十分なスキルがあります。秘密裏に事が運べる大胆さ冷静さがあります。

 小宮山がそんな組織内の人物であったとは思いませんが、もし彼等の支援があったとしたら、あれこれ頷ける思いです。
 また単に小宮山本人の発意から起こした事件ではなく小宮山をそこまで支援する別な強い思いが必ずあったとも想像しております。

 誠に唐突な事を書いてしまいました。お許しください。そして、ご内密に。

追伸
 先日、わが不肖の弟が残した遺品を妻と整理した時でした。
 俊が事件を起こす前まで間借りしていたご友人宅から押収されなかった遺品を引き取りまとめてありました。確かめるのもはばかり長い間隅にしまい込んでありました。ひとつひとつ処分すべきを選んでおりました際にラップでくるまれていた弟手描きの絵がありました。これは部屋主の友人が俊から預けられていた物だと手渡されていた事を思い出しました。
 中身は俊が渋谷の時代に掲載されたミニコミ紙と描きためた数葉のオリジナルでした。ミニコミ紙には俊の丁寧な作画でストーリーが綴られておりました。他愛のないオートバイライダー物、男女の触れ合いを絡めて描いた他愛ない物です。ただ、白バイ警官がうるさく小言を繰り返していましたから、多分自分の体験談を基にしているなと思いながら読み進めました。
 オリジナル作画もオートバイものでしたが途中で終わっていました。おそらく絶筆なるものと思っておりますが、やはり実体験を下敷きに描いたような印象です。派手な衣装の女の子たち、日常が描かれ、トラブルが描かれ、いわゆるニケツが描かれ、高速疾走シーンが描かれ、などです。最後になったシーンは口下手な友人に代わって主人公が友人が密かにしたう彼女の結婚パーティーにサプライズで登場し紙袋から拳銃を発射するというもの、一瞬引きつりかけましたが、そのページの次には銃口から万国旗に見立てたハートマークが飛び出していた、主人公が愛のキューピッド役を演じた、またそんな他愛ないものでした。
 俊の気に入っていたような物を他にも揃え缶に詰め替えました。あれからもうすぐ満三年、少しだけは骨壺に入れてやろうと思いました。

 その日の晩、ふと思いました。あの時、もしあれが実銃でなかったならば、と。
 弟の犯した重い犯罪はもう復原のしようが無いのですが・・・。

 独り言を申し上げてしまいました。
   敬具

NEXT→⑤沖縄花嫁、届いた訃報 続@不可解

https://note.com/kotan777/n/nd10f80b16d14

全エピソード一覧を見る

https://note.com/kotan777/n/n2f3d40418d14

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