「アイヌの歌人《違星北斗》――その青春と死をめぐって」

 山科清春

 この文章は「本のメルマガ」2008年12月25日号(Vol.343)、2009年1月25日号(Vol.346)、2月25日号(Vol.349)に掲載されたものです。

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はじめに


 これから3回に渡って、違星北斗(いぼし・ほくと)というアイヌの歌人のことを紹介したいと思います。

 北斗は本名を滝次郎といい、1901(明治34)年に北海道の余市町で生まれました。
 彼が生きた時代、アイヌの人々は、過酷な生活を強いられていました。かつて北海道の地の主であった彼らは、後から入ってきた和人たちが作り上げた社会の中で、マイノリティとして差別と貧困の中での生活を余儀なくされていました。アイヌ語の使用も、伝統的な狩猟生活も禁じられ、伝染病によって命を落とす者や、酒によって身を持ち崩す者も少なくありませんでした。いつしか「滅び行く民族」などという一方的な烙印を押され、国家の推進する「同化政策」によって、その存在をも、歴史の中に葬り去られようとしていたのです。
 そんな時でした。一人のアイヌ青年が一人立ち上がりました。

 「アイヌが滅びてなるものか。違星北斗はアイヌだ」

 違星北斗は、アイヌの青年の肉声を、「短歌」の形にして、北海道内の新聞や短歌雑誌に発表し、「俺はアイヌだ、俺はここにいる」とその存在を「逆宣伝」的に示したのです。

  
 《アイヌと云ふ新しくよい概念を 内地の人に与へたく思ふ》

 《滅び行くアイヌの為めに起つアイヌ 違星北斗の瞳輝く》

 《俺はただアイヌであると自覚して 正しい道を踏めばよいのだ》

                              (「違星北斗遺稿『コタン』」草風館)

  
 北斗は、アイヌは和人と同化して消えてなくなるのではない、アイヌとしての自覚を持った上で、社会に貢献できるように修養しなければならないと考えていました。
 彼は短歌を発表すると同時に、自らの足で北海道各地のアイヌコタンを巡り歩き、差別や貧困の中に喘ぐ同族に語りかけ、自覚と団結を説いて回りました。
 しかし、生来病弱であった彼は結核に冒され、昭和4年、27歳の若さで生涯を閉じました。そのため歌人としての活動期間は約2年と極めて短く、北海道のメディアを主な発表の場としていたため、全国的には全く知られていません。
 しかしながら、彼が短歌に込めたメッセージは、多くの同族に影響を与え、その後のアイヌの進むべき方向をさししめしました。北海道の歴史、特にアイヌ民族の思想史を語る上では欠かすことの出来ない人物だと思います。
 来る平成20年1月26日、違星北斗は没後80年を迎えます。地元余市町でも、違星北斗に対して関する催しはないようですが、その青春のすべてを同族の地位向上の為に捧げた情熱の歌人・違星北斗の生涯は、もっと多くの人に知られてもよいと思います。


1 成宗の一夜

 大正14年2月15日。違星北斗滝次郎は、東京府市場協会の事務員という職を得て上京します。
 彼の祖父・万次郎は、明治の初めに政府が行ったアイヌの留学生の一人として東京の地で学びました。ほろ酔いになると孫たちに東京の思い出話を語ったといい、その影響から、北斗には、東京に対する憧れがありました。
 祖父の時代から50年を経た大正末の東京で、23歳の北斗は多くの出会いに恵まれます。学者、作家、出版人、思想家と、そうそうたる名士の知遇を得るのですが、その中でも、特に大きな影響を与え、後の人生の方向性を定めたのがアイヌ語学者・金田一京助との出会いでした。
 上京直後のある日、北斗は昼の3時に杉並町成宗の駅を降りて5時間(!)、迷いに迷って成宗中を尋ね回った末、ようやく夜の8時に金田一の家に辿り着いたといいます。おまけに田んぼに落ちたのか、足もとは泥だらけ。金田一はとにかく上がれと勧めるのですが、北斗は汚れているので遠慮しますという。この純朴で不器用、その一方で、ねばり強く、目的を達成するまでは諦めない情熱と忍耐力。北斗の性格がよくあらわれた出来事です。
 その夜、北斗と金田一は、アイヌの現状や未来について、夜が更けるまで熱烈に語り合いました。
 子どもの頃から和人の同級生に侮蔑され、社会に出れば出たで差別的待遇が待ち受けていました。貧困や病気に苦しむ同族の現実を見ながら成長した北斗は、やがて和人を憎悪し、国家を恨むようになります。しかしある時、一人の和人の教師にやさしい言葉をかけてもらったことにより、そのような反逆精神に凝り固まっているのは間違いだったと改心し、自修して社会に役に立つ人間にならなければならない、と考えるようになっていきました。
 北斗が語る言葉を金田一は真剣に聞き、質問にも真摯に答え、アイヌであることに誇りや自信を持つように励ましましましたが、長らく虐げられてきた北斗には、そういわれても、あまり実感が湧かなかったかもしれません。アイヌ語もほとんど話せず、アイヌ文化も習得していない北斗にとっては、誇りや自信を持つということ以前に、自らがアイヌであるということに対して、どう考えどう向き合えばよいのかという「迷い」があったのではないかと思います。
 そんな北斗に、金田一は一冊の本の存在を教えました。『アイヌ神謡集』という本です。作者の知里幸恵はこの一冊を遺して19歳で亡くなったアイヌの少女です。彼女は先祖が代々伝えてきた神謡(ユーカラ)をアイヌ語と美しい日本語で書き記し、その中でかつてのアイヌの自由の天地であった北海道の姿、大自然の神々と先祖の自由で天真爛漫な生活をうたいあげていました。また「亡びゆく弱き者」の烙印を押された同族の現在を嘆き、アイヌの中から「強き者」が出てくることを願いました。
 北斗はこの本を読み、大きな衝撃と感銘を受けます。
 知里幸恵の示したアイヌの失われた楽園のヴィジョンを、北斗は「コタン(村、郷里)」と名付けました。そのイメージは彼の心の「迷い」を振り払い、民族の誇りを取り戻すための精神的支柱として、その心にしっかりと刻み込まれたのです。
 この成宗の一夜から1年半後、北斗は自ら東京生活に終止符を打ち、北海道に戻って民族復興のために青春のすべてを費やすことになるのですが、それは知里幸恵の遺した願いに対する、北斗なりの「答え」だったのかも知れません。


2 コタン巡礼

 大正15年7月5日、24歳のアイヌの青年違星北斗(いぼし・ほくと、本名・滝次郎)は、東京での生活に終止符を打ち、郷里北海道へと戻ります。
 北斗はこの1年半の東京生活が「極楽」であったと記しています。
 生まれ育った北海道の余市では、和人からの差別に苦んできた北斗でしたが、東京ではその差別からも解放され、一青年として東京府市場協会の事務員として働き、経済的にも精神的にも安定した生活を送ることができた時期でした。
 多くの文化人と出会い、知識と思想を高めていったのもこの頃のことでした。金田一京助の導きで、学会に参加し、民俗学者の柳田国夫や中山太郎、考現学の 今和次郎、沖縄学の伊波普猷らと出会いました。また、作家の山中峯太郎とも親しく交わり、のちに山中は北斗をモデルにした小説を書いています。
 思想的には修養思想を説いた西川光次郎や希望社の後藤静香などに傾倒し、その活動を手伝い、また日蓮系の仏教団体、国柱会にも出入りしていました。
 あまりにも順調で、幸福な東京での生活でした。しかし、その幸福な生活がやがて北斗の心に新たな不安を芽生えさせることになります。

 これまで、ただ「アイヌである」ことを理由に、和人から差別されてきた自分が、今度は、ただ自分が「アイヌである」というだけの理由で、知名の士の会合に呼ばれてチヤホヤされ、演説したり銀の食器でご馳走になったりしている。これは結局、同じことではないのか。
 そう思い至った時、北斗は愕然とします。
 自分がこうして浮かれている間にも、北海道の各所では同族たちが差別に苦しみ、貧困に喘ぎ、病で命を落とそうとしているのではないか。それなのに自分は 一体何をしているのか。こうしている間にも、この地上から消し去られようとしているアイヌ民族の文化や先祖伝来の信仰、伝承に言語、そして何よりもアイヌ 民族自身の存在を、このまま永遠に滅びさせてはならない。その仕事は他ならぬアイヌ自身の手でやらなければならない。
 そう決意すると、北斗は「極楽」であった東京での生活をなげうち、北海道へ戻る決意を固めます。
 その青春のすべてを同胞の地位向上ために捧げる覚悟の帰郷でした。

          ※

 大正15年7月7日。北斗は幌別(現・登別)のバチラー八重子の教会で旅装を解きます。
 バチラー八重子は英国聖公会の宣教師ジョン・バチラーの養女となったアイヌの女性で、養父ともに伝道を通じてのアイヌ救済事業を展開していました。
 北斗はしばらく幌別の八重子のところに滞在し、その後日高の平取コタンに入るつもりだったようです。
 北斗はこの滞在中に、印象的な体験をします。教会の日曜礼拝に参列し、八重子のアイヌ語混じりのお祈りや、同族の信徒たちによるアイヌ語の讃美歌を聴い て、大いに感動し、以後この18歳年上の同族の女性のことを非常に敬愛するようになりました。日記や手紙には「ヤエ姉様」「お母様のよう」とあり、敬慕の 情が伺えます。
 しかし、北斗は当然あり得た、バチラー父娘の元で同族のために働くという選択肢を、なぜか選びませんでした。
 そこには、埋めがたい考え方の相違があったのだと思います。北斗は八重子と意見を交換するうちに、違和感を感じはじめます。バチラー教会の伝道を通じて のアイヌ施策は、北斗には遅々としてもどかしく思えました。また「布教」というが見え隠れしているのも気になったのかもしれません。北斗は、

 《五十年伝道されし此のコタン 見るべきものの無きを悲しむ》

 と、バチラーへの批判めいた短歌を詠み、後には「キリスト教ではアイヌは救えない」とも語っています。適度に距離を保ちながら、自分の信念に適う方法でアイヌ復権の運動を実行してゆくことになります。
 この他、北斗は幌別滞在中には知里幸恵の生家を訪ねて、その両親や、弟の知里真志保とも会ったり、幌別の同族と親交を温めたり、白老へ出かけてコタンの病院や小学校を訪ねたりと、精力的に動き回って、北海道における活動のスタートを切ります。

         ※

 約1週間の幌別滞在のあと、北斗は日高の平取のコタンに入ります。大正15年7月中旬のことです。
 北斗は、平取は「本当にあこがれの地」だったと書いています。おそらく金田一京助あたりから、平取は「アイヌの旧都」であり、アイヌ文化の中心地であ る、というように聞き、憧れを抱いて意気揚々とやってきたのだと思います。そこに知里幸恵が『アイヌ神謡集』に描いた失われた楽園の姿を重ね合わせていた のかもしれません。
 北斗が平取に入ってすぐの頃は、見るもの聞くもの全てが美しく、輝いて見えていました。日記や短歌にも平取の月や川にアイヌの神話や伝説を重ね合わせて感動し、興奮気味に伝える記述が見られます。
 平取に入ると、バチラーの平取教会の手伝いをしたり、土木や林業の肉体労働をしながら、平取を拠点に日高のコタンを巡り、コタンの指導者と意見交換をしたり、小学校に教材を配本したり、伝承を聞いたりと、活発に活動を始めます。
 
 しかし、北斗にとってあこがれの地であった平取コタンは、北斗を温かく迎えてくれませんでした。熱っぽく語る言葉は黙殺され、馬鹿にされ、あるいは皮肉 で返されました。さすがに落ち込んだりもしたようですが、北斗の覚悟はそこで引き下がるような生半可なものではありませんでした。
 北斗はその後も断続的に日高や胆振のコタンを巡り、多くの同胞に自覚を呼びかけ続けます。
 その運動はわずかずつにですが、確実に拡がって行き、やがて北斗と、同じようにコタン巡礼の旅を始めるようになる同族の若者たちとの出会いへ、さらに《アイヌ一貫同志会》と呼ばれた小さな結社の誕生へと繋がってゆくことになります。


3 違星北斗の青春と死

 昭和2年2月、違星北斗は平取をあとにし、その拠点を余市に移します。
 春先には家業のニシン漁を手伝うのですが、生来病弱な北斗は、病を得て寝込んでしまいます。その療養中に幼なじみの中里凸天とともに作ったのが、のちに『違星北斗遺稿 コタン』にも収録された『コタン』という小冊子です。
 巻頭には知里幸恵の『アイヌ神謡集』の「序文」が掲げられ、幸恵への敬意を表明しています。また、この中には思想の神髄というべき「アイヌの姿」という文章が掲載されており、この同人誌の内容は、違星北斗の思想の一つの到達点を示すものだといえると思います。
 この同人誌の編集を終えた夏ごろ、北斗は病気から回復し、その活動はさらに活発になっていきます。北斗にとっての「コタン」、余市に戻ってきて、ようやく地に足の着いた活動ができるようになったのかもしれません。
 この夏、北斗は余市の遺跡の調査や、余市の古老への聞き取り調査などを行い、これはのちに「疑ふべきフゴツペの遺跡」という新聞連載となって結実します。
 秋頃には歌人として頭角を現し始めます。小樽の歌人並木凡平に認められ「歌壇の彗星」「同族の救世主」などという仰々しい二つ名を付けられて、口語短歌誌『新短歌時代』や『小樽新聞』で活躍しはじめます。

 《私の歌はいつも論説の二三句を並べた様にゴツゴツしたもの許りである。(中略)歌に現はれた所は全くアイヌの宣伝と弁明とに他ならない。それには幾多の情実もあるが、結局現代社会の欠陥が然らしめるのだ。そして住み心地よい北海道、争闘のない世界たらしめたい念願が迸り出るからである。殊更に作る心算で個性を無視した虚偽なものは歌ひたくないのだ。》

 北斗は自選歌集「北斗帖」の冒頭で自らの短歌をこのように解説しています。

 《アイヌと云ふ新しくよい概念を 内地の人に与へたく思ふ》
 《滅び行くアイヌの為めに起つアイヌ 違星北斗の瞳輝く》
 《滅亡に瀕するアイヌ民族に せめては生きよ俺の此の歌》

 確かに、文学的にみれば上手いとはいえないかもしれません。
 ただ、「滅び行く民族アイヌ」というイメージが蔓延している和人社会に対して、北斗は短歌という表現手段を使って「アイヌはここにいる」と宣言し、「アイヌはほろびない」と同族を励ましたことに、大きな意味があると思います。

 北斗は積極的に新聞、雑誌といったメディアを利用しました。北斗は若い頃新聞に掲載されたアイヌ蔑視の短歌を読み、怒りを燃え上がらせた経験があり、それが「短歌」で和人に復讐しようという決意の原点になったのだといいます。
 東京時代には多くの出版人と交わり、自分も雑誌によって独修を重ねていた北斗は、メディアの力というもの知り、意識的にアイヌの「宣伝」をしたのです。
 一方で北斗は、「口コミ」の力も重要であることを知っていました。
 昭和2年の年末、北斗はコタンをめぐる旅に出ます。ガッチャキ(痔)の薬を行商しながらの旅でした。蓑や笠を身につけ、脚絆を巻き、大きな行李を背負い、冬の胆振・日高地方を歩き回りました。
 同じ頃、北斗に共鳴した同族十勝の吉田菊太郎と鵡川の辺泥和郎が、同じように各地のコタンを巡り、自分たちのことを「アイヌ一貫同志会」と呼んでいたといいます。各地の同族の間にネットワークをつくることが目的でした。

 《ガッチャキの薬を売ったその金で 十一州を視察する俺》
 《仕方なくあきらめるんだと云ふ心 哀れアイヌを亡ぼした心》
 《山中のどんな淋しいコタンにも 酒の空瓶たんと見出した》

 行く先々のコタンでは諦めに支配され、酒におぼれる無気力な同族の姿を見て、北斗は失望することも少なくありませんでしたが、一方でこの道中で出会った同族の中から、未来の指導者が生まれているのですから、意義のある旅だったといえると思います。
 1928(昭和3)年4月25日の夜、故里の余市に戻っていた違星北斗は、外出中に吐血します。

 《咯血のその鮮紅色を見つめては 気を取り直す「死んぢゃならない」》
 《あばら家に風吹き入りてごみほこり 立つ其の中に病みて寝るなり》 
 《続けては咳する事の苦しさに 坐って居れば縄の寄り来る》

 当初、北斗は今回の発病も、すぐに直るだろうという希望を持っていたようですが、この年の病は、前年のよりもひどいようで、悪化する一方でした。

 《希望もて微笑みし去年も夢に似て 若さの誇り我を去り行く》
 《永いこと病んで臥たので意気失せて 心小さな私となった》
 《血を吐いた後の眩暈に今度こそ 死ぬぢゃないかと胸の轟き》

 闘病生活が長引くにつれ、北斗の希望に満ちた溌剌とした若さは影をひそめ、気が小さくなり、弱気な短歌が多くなります。この頃には東京時代の恩人に、ネガティブな手紙を書き送ってもいます。
 下記の3首は友人の山上草人がこの頃の北斗の姿や発言を詠んだ短歌です。

 《夕陽さす小窓の下に病む北斗 ほゝえみもせずじつと見つめる》
 《この胸にコロポツクルが躍つてる 其奴が肺をけとばすのだ畜生!》
 《忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか 滅びてしまへと言つてはせきこむ》

 冬になると、北斗の容態は悪化し、危篤のまま昭和4年の正月を迎えます。1月5日に危篤から回復したあと、翌日3首の短歌を日記に書き残しています。

 《青春の希望に燃ゆる此の我に あゝ誰か此の悩みを与へし》 
 《いかにして「我世に勝てり」と叫びたる キリストの如安きに居らむ》
 《世の中は何が何やら知らねども 死ぬ事だけは確かなりけり》

 これが、北斗の絶筆となりました。その後、再び危篤状態となり、1月26日に絶命します。

 青春の全てを同族の復興にかけた違星北斗は、苦悩の中にその生涯を閉じました。27歳でした。彼にその青春の「悩み」を与えた者が誰だったのか、彼がなぜその「悩み」と戦わねばならなかったのか。その問いかけに対して、そろそろ私たちは答えを出さなければならない時ではないでしょうか。

※違星北斗に興味を持たれた方は研究サイト「違星北斗.com」にお越しください。  http://iboshihokuto.com

◎山本由樹(やまもと・よしき):1972年兵庫県生まれ。違星北斗.com管理人。ペンネーム「山科清春」として漫画

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