アイヌの歌人・違星北斗研究の先駆者について

山科清春

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1 違星北斗とは

 アイヌの歌人・違星北斗(いぼし・ほくと)の研究史をまとめてみたいと思うが、その前に違星北斗という人物自体、それほど知られているわけではないので、簡単に紹介しておきたい。

 違星北斗(滝次郎)は1901年、北海道後志支庁余市町生まれ。
 戸籍上は1902年1月1日生まれとなっているが、1901年の年の瀬に生まれたらしく、本人や周囲の者は1901年生まれだと言っていた。
 彼が生まれたのは余市の大川町の外れにあったアイヌ集落だが、ステロタイプな「アイヌコタン」のイメージで捉えると、少し誤解が生じるかもしれない。
 当時の余市はニシン漁で賑わっていた。アイヌのほとんども、地域の巨大産業である漁業で生計を立てていた。
 北斗自身も余市アイヌは全道の中でも「和人化」の早かったコタンであると言っている。
 
 一方で、父・甚作はアイヌ文化の中で育った世代であり、熊取りの名手として知られていた。
 余市の大川町のアイヌは、産業を通じて余市の和人社会と融合しつつ、アイヌのコミュニティや家庭内では独自の文化をかろうじて守っていた。
 北斗が活躍した大正から昭和の初めは、そのわずかに残ったアイヌの文化や言語が、まさに消えてゆこうとしていた過渡期であった。
 教育熱心だった母・ハルのすすめで和人と同じ小学校に入った滝次郎は、同級生からの絶え間のないアイヌ蔑視の言葉に心を痛め、やっとのことで6年間の小学校生活を終えたが、家業の漁師となり、社会に出た瞬間に、さらに激しい根本的・社会構造的な差別待遇が彼を待っていたのだった。
 北海道の本来の主であるはずのアイヌが、土地だけでなく、自然の恵みや、民族の言語、文化など、あらゆるものを奪われて、差別と貧困の中で生活しなければいけない現状。
 若き日の北斗はをそれを嘆き、世を恨んで自暴自棄になって、心と身体を病んでしまった。
 だが、信じるに足る指導者との出会いに恵まれ、彼自身も素直な性格と柔軟な考えを持っていたこともあって、しだいに考えを改めるようになる。
 自らがアイヌであるということを否定したり、恥じたりするのではなく、反対にアイヌである自分が「修養」し、社会に役立つ尊敬される人物となろう。
 そして、当時の和人が侮蔑の言葉として使っていた「アイヌ」という言葉の悪い概念を返上し、本来の意味である「尊敬される人間」「紳士」といった意味を取り戻さなければならない、といった前向きな考えを持つようになっていった。

 その後、東京で就職する機会に恵まれた北斗は、アイヌ語研究の第一人者・金田一京助の知己を得て、そこからさらに多くの学者・作家・出版人・思想家・宗教家などの一流の文化人と交わり、学問と思想を貪欲に吸収していくことになる。
 差別から解放された東京での暮らしは、郷里では苦しみ続けた彼に訪れた、初めての幸せな時間となったが、その幸福が今度は彼を一人苦悩させることにもなってゆく。
 故郷北海道では、アイヌであることで差別されてきた自分が、今度は逆にアイヌであるということで、名士たちにチヤホヤされている。こんなことをしている間にも、北海道各地のコタンでは、同族たちが差別と貧困の中で涙を流しながら暮らしているというのに……一年半の東京生活の末、北斗は「アイヌ民族の復興に生涯を捧げよう」と北海道に戻る決心をしたのである。

 北海道に戻った北斗は各地のアイヌコタンをめぐり、自覚と団結を説いて、アイヌ青年によるネットワークをつくる一方、アイヌの研究はアイヌ自らの手で為さねばならないと考え、アイヌの伝統文化や神話・宗教の研究、遺跡の調査などをはじめる。
 同時に、現代に生きるアイヌの心情を31文字の短歌に読み込んで、新聞や雑誌に発表するということも始めた。
 北斗の荒々しく無骨な、しかし繊細な心情を詠んだ短歌は、小樽歌壇の並木凡平らに絶賛され、しだいに注目され始めることになる。
 しかし、もとより病弱だった北斗は、持病の結核を悪化させ、昭和4年1月26日に志半ばでこの世を去った。満27歳であった。
 北斗の死の翌々年、北海道アイヌ協会が設立されることになるが、この団体の中心人物の多くが北斗と交流のあった同族であったことを考えると、彼の果たした役目は決して小さなものではなかったと思われる。

 彼は、各地に点在していたアイヌコタンを巡り、自らが縫い針のようになって、同族の間に糸を通し、「点」と「点」をつないで「線」にしていったのだ。
 私見だが、明治維新において坂本龍馬が果たしたような「下準備」を、彼は果たそうとし、そしてある程度は果たして死んでいったのだと私は思っている。
 しかしながら、現在、故郷の余市においてさえ、彼の名を知る者は少ない。
 ただ、わずかながら、この違星北斗の名と功績を後世に伝えようと努力をした人々があり、彼らの仕事のおかげで、現代の我々は彼のことを知ることができるのである。
 次項より、違星北斗がどのような人々の手によって研究され、顕彰されてきたかを簡単にまとめてみたいと思う。

 

2 違星北斗遺稿「コタン」

 違星北斗が亡くなった二日後、余市小学校の訓導(教員)であった古田謙二は、まだ消毒薬の匂いが残る寝室に入った。彼は病床の北斗をたびたび見舞い、末期には手紙の代筆もしていた北斗の親しい和人の友人であった。後に冬草と号し、「緋衣」という句誌を主宰する人物であるが、当時は草人という号で短歌も読んでいた。

   夕陽さす小窓の下に病む北斗 
   ほゝえみもせずじつと見つめる

   この胸にコロポツクルが躍つてる 
   其奴が肺をけとばすのだ畜生!
    
 古田は、北斗の枕元に置いてあったボストンバッグの中から、北斗の遺稿や日記帳などを発見し、遺稿集を編んでやろうと、その整理を始める。

   遺稿集あんでやらうと来て座せば
   畳にみる染むだ北斗の体臭

   クレグール(クレゾール)くさい日記にのぞかれる
   彼の想ひはみな歪んでる


 北斗の遺稿集は、最初は小樽新聞や歌誌「新短歌時代」で活躍した並木凡平ら小樽口語短歌の人々によって出版される予定だったようだが、結局は北斗が東京時代から世話になっていた希望社という社会運動団体の出版部が出すことになった。
 北斗と親交があった希望社の宗近真澄(エスペラント運動の関係者として名が残っている)が、北斗が敬愛していた希望社の代表・後藤静香(せいこう)に出版を願い出て、それが通ったのだった。
 希望社の依頼を受けた古田は、バッグの中の遺稿を原稿用紙50枚に書き写し、新聞の切抜きや雑誌、日記などとともに希望社に送った。
 「あまり原稿はいじらず、原稿になるとおぼしき書類を整理し、それに本や日誌もそえて送ってやりました」と証言している。
 希望社で編集を担当した岩崎吉勝は、昭和5年2月18日に古田からの原稿を受け取り、昭和5年5月、希望社より最初の遺稿集「違星北斗遺稿 コタン」が発行された。
 この昭和5年刊の希望社版「コタン」は、80年前の本にもかかわらず、現在でも比較的安価で入手できる。
 当時、希望社が「希望社運動」という社会運動を展開しており、若者に影響力を持っていた。
 そのため幾度も版が重ねられているようで、著者も第5版まで確認している。その結果、意外な人物がこの本を愛読していたという記録もある。
 例えば歌舞伎・演劇研究家の郡司正勝は、青年時代にこの「コタン」を読み、北斗に共感していたと後に書いており、こういった例は他にもあるかもしれない。

 ちなみに、北斗の死の数年後、真面目な若者に神のように慕われた後藤静香は、新聞にスキャンダルを報道され、希望社は空中分解してしまった。
 その結果、古田が希望社に送った原稿や雑誌などが古田の元に再び戻って来ることはなかった。
 古田が「歪んでる」といった北斗の日記も、残念ながら「コタン」に収録された部分以外は全て失われてしまったのである。


3 『コタン』後の創作群

 北斗の死の11年後、1940(昭和15)年、作家の山中峯太郎が小説『民族』を書いている。
 これは完全なフィクションであるものの、主人公の名「ヰボシ」は明らかに違星北斗をモデルにしており、登場人物の中にも、北斗の親戚の名が登場している。
 これは上京中に北斗が山中と親交を持ち、直接山中に話したことを山中が参考にしたからである。
 この『民族』は戦前の陸軍将校の機関誌という特殊な媒体に発表されたこともあり、作中のヰボシ青年はアイヌ民族の未来を悲観して死を選ぶという悲劇的な結末になっている。
 この結末に納得できなかった山中は、終戦直後の昭和22年に全面的に書き直し、結末に希望をもたせた『コタンの娘』として発表しなおしている。

 昭和26(1951)年には、駒澤大学の関係者と見られる阿部忍が、違星北斗をモデルにした『泣血(きゅうけつ)』という長編小説を「駒澤文壇」と「潮」というガリ版刷り同人誌に発表している。小説としての完成度は高いとはいえないが、北斗のことについては、意外とよく調べられている印象を受ける。


4 違星北斗の会の木呂子敏彦

 1954(昭和29)年、北海道帯広の農業家・教育研究家である木呂子(きろこ)敏彦は「違星北斗の会」を設立し、忘却されつつあった北斗の顕彰と、遺稿の調査収集を始める。
 木呂子は12ページの小冊子である「違星北斗遺稿集」を発行し、その中で、違星北斗の歌碑を二風谷に建設する計画を発表した(昭和43年実現)。
 また、NHK札幌放送局に北斗のラジオドラマ「光を掲げた人々・違星北斗」の企画を働きかけ、翌年、放送を実現させている。
 木呂子は、金田一京助、後藤静香、古田謙二といった、北斗に関わりがあった人々に連絡をとり、遺稿集の編集に際しては前述の小説の作者・阿部忍にも資料の提供を呼びかけた。
 阿部は作品掲載を了承していたが、小説が長編ためか、掲載は実現しなかった。(ただし、阿部の『泣血』は、ラジオドラマのシナリオの参考にされた可能性がある)。
  


5 湯本喜作『アイヌの歌人』 ~「アイヌ三大歌人」の紹介~

 1963(昭和38)年、東京の実業家・湯本喜作は、今日、「アイヌ三大歌人」と呼ばれる違星北斗・バチラー八重子・森竹竹市の三名を紹介した『アイヌの歌人』という本を出版する。
 湯本は、若き日にどこかで読んで記憶にあった違星北斗の研究を思い立ち、北海道の郷土史家の谷口正の協力を得て、資料の収集をはじめたという。
 湯本のこの著作は、実際の調査が谷口に委ねられていた。
 湯本本人は遺稿集『コタン』の存在さえ知らなかったようで、研究者とは言いがたい。
 協力者の谷口正は国鉄の駅員の傍ら研究をした人で「コタンの夜話」という著作があるらしいが、未確認である。
 出版の翌年、湯本の『アイヌの歌人』を、北斗の友人であった古田が読み、あまりの誤謬の多さから、訂正箇所と補足説明を書き記し、資料の貸与を申し出る。
 その手紙が残っており、北斗の素顔を知る貴重な資料となっている。
 『アイヌの歌人』については、評価は芳しくないのだが、この古田の手紙(《アイヌの歌人について》)の貴重な証言を引き出しただけでも、湯本がこの本を出版した意味はあるといえるだろう。


6 早川勝美「違星北斗の歌と生涯」と向井豊昭「うた詠み」

 1966(昭和41)年、湯本喜作に協力した郷土史家・谷口正に送られた、札幌市の早川勝美なる人物の手紙が残っている。
 この手紙(《北斗についての早川通信》)には、早川が北斗の生まれ育った余市コタンを訪れ、関係者に聴き取り調査を行った結果が書かれている。
 おそらく、研究を始めた早川が、先行研究者である谷口と情報交換したのだと思われる。
 早川勝美は翌年、同人誌「山音」48号に『違星北斗の歌と生涯』という記事を書いており、非常によく調査され、まとまったものである。

 1967(昭和42)年には、向井豊昭による小説「うた詠み」が発表されている。違星北斗を主人公にした小説ではなく、違星北斗に関心を寄せる教員が主人公で、作中には北斗の短歌も引用されている。
 ちなみに作者の向井豊昭は北海道で25年間教員を勤めた後、1990年代に60歳を越えてから、中央文壇にデビューした、異色の文学者である。
 (向井豊昭については、岡和田晃氏の研究等を参照されたい)。

7 北斗研究のネットワーク

 1968(昭和43)年、金田一京助の元に、一通の手紙が届く。
 北海道で鉄道員をしながら郷土研究をしている谷口正からで、金田一京助の息子の国語学者、春彦が、『日本語の生理と心理』という著作に、違星北斗のことがずいぶんひどく書いてあるが、本当だろうか、という問い合わせであった。
 春彦は、《子供のころに家にイボシという薄汚いアイヌ人がやってきて、父に金を借りては酒を飲み、母に嫌われていた。姿を見せなくなったと思ったら、北海道のどこかで窮死したようだ(要約)》、といったことを書いており、これを読んだ京助はおおいに驚き、谷口に急いで「ご安心あれ、委細文(ふみ)金田一」と電報を打った。
 続いて谷口に
 《あれはつまらない愚言、春彦の想像で、ウソです、私は春彦を責め、叱っています。違星君は金を貸してくれなど一度も申したこともなく、酒もタバコも用いない純情そのものの模範青年でした……》
 と、ていねいな手紙を送っている。
 北斗の人物を知る者からすると、想像できない正反対のイメージであり、春彦は誰かと混同している可能性が高いが、今となっては証明のしようもない。 

 この谷口と金田一の手紙を読んだ時、またこの人が出て来た、と思った。彼は「違星北斗の歌と生涯」を書いた早川とも連絡をとっていたし、もちろん「アイヌの歌人」の湯本喜作のために資料を提供したのも彼だ。
 その湯本喜作は古田謙二とも連絡をとりあい、古田が湯本に資料を貸与したりしている。

 それまで、違星北斗研究はあくまで時間も場所もバラバラに、散発的に行われていたように思っていたが、それぞれのキーパーソン同士が、互いに連絡を取り合っていたということが、だんだん見えてきたのである。
 そして、そのネットワークの、大多数と交流を持ち、違星北斗研究のセンターでありつづけた人物こそが、「違星北斗の会」を結成した、木呂子敏彦である。

 実は、今回紹介した資料のうち、貴重な手紙類の多くは、木呂子敏彦氏のご遺族より写しを頂いたものである。
 貴重な北斗関係者の証言を含む、早川勝美から谷口正への手紙《北斗についての早川通信》や古田謙二から湯本喜作への《「アイヌの歌人」について》も、そして阿部正の小説『泣血』も、木呂子氏が集めたものである。
 さらに、今回は紹介できなかったが、1974(昭和47)年の時点で、北斗研究の到達点というべき武井静雄の評伝『放浪の歌人・違星北斗』なども、その木呂子敏彦コレクションの資料の中にある。
 木呂子敏彦の「違星北斗の会」は、違星北斗を顕彰し、後世に残すために活動を続けた。
 その活動は、会の設立当時の昭和30年頃の歌碑建設の呼びかけ、ラジオドラマ化への尽力などが目立って見えるものの、その後も研究者・関係者との交流と資料収集は連綿と続いていた。
 違星北斗を愛し、その研究に熱意を燃やして、手間と時間を費やした研究者たちの「点」の研究をつないで「線」にしてゆき、その資料を集約するライブラリを作り上げたのだ。

 古田謙二、湯本喜作、阿部正、谷口正、早川勝美、武井静雄……そして、木呂子敏彦…。

縁あってそれらの先駆者の情熱の遺産を受け取った筆者としては、より多くの人にそれを公開し、共有して、違星北斗の魅力を伝え、次代にそれを伝える役割を、ささやかながら果たしていきたいと思っている。

(初出 「小樽文学館館報第36号」(平成25年3月31日発行)

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