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ー繊細さと生きづらさー

心の声とともに
私の人生を振り返りながら、noteを綴って行こう。

◇幼少期
◇繊細さ
◇生きづらさ
◇見えている世界
ー内省が抑圧に向かうー
◇見えているその先
◇エンパシー
ー出会い・心の変容ー
◇これからの展望


◆◇幼少期◇◆

長女として、この世に生を受けた私。
兄弟は、年子の弟がひとり。

4歳から、共働きになる。
朝一番に保育園へ行き、お残りさんで最後にお迎えの毎日。
でも、寂しいとは思わなかった。
保育園は、先生方がとても優しくて、安心していた。
きっと、幼児教育に進んだのも、この先生方の影響が大きい。

弟が一緒ということもあり、『お姉ちゃんだから』って、幼心にあった。
保育園では、年下の子たちや、障害のある子も、先生に代わって、お世話をしている、しっかり者。

当時の園長先生が、母に、『この子はどこに行っても大丈夫』と太鼓判を押したと、母から聴かされた。
その言葉が、とても嬉しくて、誇らしげに笑ってくれた母が大好きだった。

小学校2年生で、家庭の事情で転校をした。小さな小学校からマンモス校へ。

『しっかり者』の私は、意思表示がはっきりしていた。正義のヒーローだと自分のことを思っていた。
弱いものいじめや、理不尽さは、許せなくて、友達にも、ダメなことはダメと言い続けた。

ある日、クラスのリーダーの女子に、意見したのをきっかけに、クラス中から無視をされた。バイキン扱いされ、髪をハサミで切られたり、固いバッグで殴られたりした。

それでも、私は学校を休まなかった。
強い子だった…いや、「しっかり者』の私を、母が誇りに思ってくれてたから、頑張れたんだと思う。

遠足のお弁当は、ひとりぼっち。
机の間を歩くと、バイキンだと通路が広がる。
臭い臭いと言われ、お風呂で体が真っ赤になるまで洗っていたのを思い出す。

「私の言葉は誰にも届かない』
この根っことなる出来事がある。
ある日、担任がいじめに見兼ねて、学活の時間に『私の嫌な所、悪い所』の話し合いをはじめ、ひとりひとりに言わせた。これは、生涯を通しても、一番悲しかった出来事だった。

2年間続いた。
10歳の私には、傷が深すぎた。

そして、父との関係性。
父は、頑固な昭和の典型的オヤジ。
二言目には、怒鳴り飛ばす。

『お前が悪い』
『何をやってもダメだ』
『うるさい、黙れ!』

よく言われていた。
いつも、怒られないように、びくびくして、でも、わかってくれると信じて、くってかかり、また諦める。

学校にも、お父さんにも、嫌われている。そんな10歳の私は、夜空に向かって、亡くなった祖母に『迎えに来て』と泣いたことも鮮明に憶えている。

愛されるために、生まれてきたはず

◆◇繊細さ◇◆

自分の繊細さに気づき始めたのは、恐らく、高校生になった頃からだった。
小中学生の頃は、無意識に、息を吸うように、人に合わせて、感情を押し殺すことが、友達の輪から外れないために、絶対条件だった。

高校生になり、クラス委員長を3年間していた。
常に、周りの状況を把握していたし、誰が泣いているとか、悩んでいるとかすぐに察知していた。

自己主張が強かったがために、友達とのトラブルも、多かった。
親友に「トラブルメーカーだよね」と言われたことが、いまだに心にある。

多分、色んなことを諦めた時期だった様に思う。
本当は、諦めたんではなく、心を守るための防衛だったんだと。
傷つかないために、過敏に空気を詠み、的外れになり、攻撃されたと感じれば、怒り、破滅的な解決をしては、また、自分を責めて、心にたくさんの地雷を抱えていったんだと思う。

地雷は、心に呪縛をし始める。
いつも、何かに怯え、息を殺し、弱みを、誰かに気づかれないように生きるようになる。
嫌われないように。
誤解のないように。
自分の事より、まず相手の事を優先するようになり、「自分がされて嫌なこと」という基準の物差して、それを避けて行く。
いつしか、自分がなんだかも分からなくなり、心が置き去りになり始めた。
置き去りになってる事にも、気づいていないほど、息苦しかった。

◆◇生きづらさ◇◆

幼稚園の先生になりたい。
子どもたちの純真な瞳、コロコロ変わる表情、泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑う。
もしかしたら、本来の自分がそこにある事を、本能的に感じていたのかもしれない。
夢を叶えるために、苦しい高校生活は、「通過点」だと自分をなだめた。

保育科に入った頃、人との関わりを諦めた。
媚びること、合わせること、自分を偽って、傍に寄る友達など、クソだと思っていたし、そんな奴いらねえとか、強気で本気で思っていた。

学校にも行かず、中学からの仲間たちと朝方まで遊び、昼過ぎに起きて、単位ギリギリの短大生活を送っていた、
ある日、電話がかかってきた。
まだ、出会って間もない友から。

「お前、なにやってんの?」
「学校出てこいよ」
「明日、待ってるからな」

とても強い言葉だったけど、涙が出るほど温かさを感じた。
友達なんか、いらねえって思ってたのに、私を心配してくれる人がいた。

そう…
きっと私は、待っていたんだと思う。
察して、案じて、声をかけてくれる存在を。

短大を無事に卒業し、就職氷河期に、学校法人の幼稚園教諭になる。
夢が叶った。
嬉しかったし、「何をやってもダメ」だった私は、少し報われた様な気持ちだった。

それでも、やっぱり、人の目が気になる私は、子どもではなく、先生方からの言葉や、視線に苦しむことになる。
毎日、嘔吐しないと出勤できない日が続き、夢と現実の狭間で、息が付けなくなる。

逃げ出したい…
私には無理だ。

最初の結婚をする理由で、仕事を辞めた。
今となれば、幸せになりたいと言いながら、苦しさから逃げ場を探していた。

そんな結婚は、上手くいくはずもなく、3年でシングルマザーとなる。
私は幸せになれない。
愛してるなんて、続かない。
人は変わる、裏切る。
誰も信じない…という概念が、さらに深くなって行った。

現実が辛すぎて、外側を攻撃する事で心を守った。
あいつが悪い。私の人生を返せ。
お前さえ居なければ、今も先生を続けられたのに、そう思い続けた。

その後の人生も、現象は違えど、同じ呪縛からの現実が創られていく。
仕事も、続かない。
恋愛も、続かない。
人を信じられず、気を遣い過ぎて、嫌われる。
なんで、私ばっかり、こんな目に合うんだろう…ただ、大切にしたいだけなのに…。ずっと心が孤独だった。
そして、常に何かと闘っていた。

◆◇見えていた世界◇◆

人との繋がりを心の奥底では、強く求めているのに、素直に気持ちを伝えると、人は離れていくと感じていた。
自分の内側を、言葉にすると、人を困惑させるとも思っていた。
結局、理解されない。
人として、大切なものが、私には足りないんだな、だから人並みの幸せを掴めないんだ。

この悲しい現実は、どうして続くんだろう。どうしたら、幸せに生きられるんだろう。そんなことを考え続けた。

すぐにネガティブに捉えては、泣いてばかり居たように感じる。
弱さを見せたら負けるとも思っていたから、人前では強気な明るい私を見て、人はこう言ってた。

「何も悩みがなさそうだよね」
「辛い環境なのに明るくていいね」
「私もあなたみたいに強くなりたい」

そうかぁ。
私は、そんなふうに見えているんだ。
そう見せている自分に、自分自身が苦しんでいた。

ネガティブな自分は、情けないし、恥ずかしいとも思っていた。
自分で決めた人生に、責任を持たないといけないと力んでたんだと思う。

本当は、苦しいし
寂しくて、いつだって孤独。
でも、それを受け容れたら、生きていけない。崩れてしまうって思ってた。

そんな私を、まるっと受け止めてくれたのが、今の主人だ。
やっと、ありのままの自分を見せる事が出来た。
息子がプロポーズしてくれたんだ。
「パパになってくれない?」って。

やっと
生きる幸せを感じた矢先に
13年前の春
乳腺がんになった。
幸い、初期の発見だったので、手術とホルモン療法での治療で済んだ。

このホルモン療法は、私に、若年性更年期うつを運んできた。
完全に、心がバランスを崩した時期。

つけっぱなしのテレビを、なんの感情もなく、ボーッと見つめるうちに、部屋が真っ暗になった。
夕焼けの時間は、悲しくて外には出られない。
何を見ても
何を聞いても
全てがすりぬけていく。
色のない世界に
ひとりぼっちのわたし。
生命と引替えに
私は、心を失くしたと絶望した。

なんのために
生きているのか。
出来ないことが、たくさん増えた。
役に立たない私は、存在する意味がない。消えてしまいたい。
ただ、起きて食事して寝て、自分のことを、『家畜』だとすら思いながら生きていた。

そんな暮らしの中で、私はまた、生命の危機に合う。
血液検査で異常が見つかって、緊急入院した。生存に必要なホルモンがストップし、飢餓状態(ケトン)が出てしまった。
乳腺がんから、10年目の夏だった。
運命を呪った。
「私は、安心したらいけないの?」
そこから、毎晩、病室で泣いていた。
痛いよ、なんで私ばっかり…
辛いよ、怖いよ。
でも、誰にも言えなかった。
心配かけたくなかったから、ぐっと心に押し込めた。

バチが当たったんだと思った。
生命が助かったのに、私は何をしていたんだろう。大切に生きなければならないじゃないか…。
そう思った。

人生観が、がらりと変わった。
これからは、生命を大切に、自分を生きていこうと思った出来事だった。
奇跡的に、生命が救われて、退院後、初めてのお散歩で見た空は、いまでも忘れられない。

   心が内省を始めていた。
今思えば、常に自分に矢を向けたまま。剥き出しの心を、自分で痛めつけていて、こんなに苦しいのに、何でって思いながら、幸せを見つけていかなければならない。欲張ってはいけない。人のせいにしてはいけないと、また、抑圧が無意識に始まった。
沢山の固定概念を創り出す事になる。

◆◇エンパシー◇◆
ー出会い・心の変容ー

心のリハビリにTwitterを始めた。
自分の心の内側を、言葉で表現出来る場所は、いつしか、心の居場所になっていた。人と繋がりたいのに、沢山諦めてきた私にとっては、とても大切だった。

それでも、たくさんの呪縛を抱えた私は、防衛本能として、文字や言葉から温度を感じ取るようになる。
全く関係ないツイートを見ても、自分に向けられているかのように感じては、本気で泣いて、怒っていた。
Twitterですら、私は苦しいんだ…
居場所なんかないじゃん。結局、私の言葉は届かない。

優しく声をかけてくれるたくさんの方の想いを受け取れずに、3年前に一度姿を消した。

それを、救ってくれたのが、今も仲良くしてくださる人と、せっちゃんだった。

ーセッション🌼🌿,,ー

『100人セッション』をしていたせっちゃんから、セッションを受けた。心の内側を見透かされそうで、必死に守り続けてきた心の核の部分を、ガツンと殴られたら、また生きて行けなくなる、怖いって思ってた。
けど、ずっと泣きながら話す私に、せっちゃんは、こう言ってくれた。

うまく生きなければいけない。
どうしてできないんだろう。
変わらなければならない。私には何かが足りない。
だから、裏切りやトラブルが耐えなくて、いつもふざけんなって怒っていた。
涙が止まらなかった。
無意識に、抑圧し続けた感情が、動き出す。怒りを感じる前の、深い悲しみ、悔しさ、不甲斐なさ、寂しさ。
心は、びっくりしたんだよね。
受け容れるまで、かなり時間がかかったのを覚えている。
今も、こう綴りながら涙が溢れる。

溢れ出す感情を
ひとつずつ見つめていく。
その先にあったのは、たくさんの優しい手、愛情、感謝だった。
失う恐怖から、目を背け、手を跳ね除けてきた。
そう、孤独『心のひとりぼっち』を創り出していたのは、他でもない、私自身だった。

失くしたように思っていた、人生のパズルのピースは、失くしたんじゃなくて、固く閉じた掌に、強く握りしめていたんだという事に気づく。

ー共感者講座 受講🌼🌿,,ー

『共感者講座』を一期生で受講した。

受講の目的は
『生きやすくなりたいから』

NVCの感情の整理は、特に自分の中で大きなものだった。
どんな感情も、価値観に触れて生まれている。そんなことは、考えもしなかった。

感情の振り幅が、大切な願いからだと知った時、なぜだか、すごく温かかった。きっと、今までの息苦しさが、報われた気がしたんだ。

自分の中にある『願い』がなんなのか、『在り方』『どう生きていきたいか』ひとつひとつ丁寧に見つめていくことができた。

心が繊細になっていった事。
感覚が、心を守る防衛本能だった事。
そうせざるを得なかった事。
自分の中で、心が動き出す。
もう
弱さに逃げなくていいんだと思った。

寂しがり屋で、ひとりぼっちの私は、『誰かの想いを一緒に感じること』
『いかに、心を寄せ合えるか』を共感だと思って生きてきたし、多分、自分自身も、それを人に求めてきた。

だから、心が置き去りだったんだ…

優しくしたいだけ、人が好き。
誰かを思いやり、自分が悲しくなる。
そんなことが、本質的な共感を学ぶことで、分かち合いの形が変わって、自分も相手も大切にできるんだ。
希望の光だった。
同じように、繊細さや、感情豊かさゆえに、過敏で心を苦しめる人に、広く知って欲しいと思い始めた。

全ての感情の奥底に、願いがある。
大切な価値観に気づき、繋がること。
心が見えると、世界が変わる。
現実は創り出せる。

自分では、変化に気づけずにいた。
それでも、確かに現実が変わり始める。
弱い部分も、心の傷も、消えてなくなるわけじゃない。
ただ、その瞬間の感情の起点や、思考の癖に気づくことができたら、どうしたいかが、選択できるようになる。

人生は、誰のものでもない
自分で描けるんだと心から思えた。

◆◇見えているその先◇◆

心を苦しめる孤独の中にある
『見えない部分』
『声にならない想い』
ここに心が触れている。
人は、殆どが、解釈のフィルターを通して、自分が見たいように世界を見ている。

自分の価値観から誰かや何かを見つめる時、人と人の間に障壁が生まれる。
『多様性』が叫ばれる昨今もなお、『違い』を根本から理解し合う世の中ではない気がしている。

人はそもそも、弱い生き物であり、誰ひとりとして、誰にも何にも力を借りずに生きている人はいないのだと思う。
自分を正当化するために、人は高い低い、強い弱いと、指標を作る。
みな、同じ人間でありながら、自分が当たり前に持っているものを、持たない人を弱者と呼び、マイノリティを、変わり者と呼ぶ。

だとしたら、そう自分が呼ぶ側のひとからしたら、指標を作るその人こそが、弱者であり、変わり者であることになる。

先日、手話でダンスを伝える北村仁さんと、スペースでお話をした。

『音が聞こえない人』に対して、わたしは、『孤独ですよね』と伝えた。
すると、北村さんは、『みんな、意外とピースですよ、音がないのが当たり前の方からしたら、音が聞こえるって大変だよねといいますよ』と。
UDダンスは、言葉、音の壁を越える共通言語なんだ。そう思った。

その時、ふと思いが向かったのは、36歳の若さで、生命を落とした、最愛のいとこの事だった。

生まれつきの知能障害を持ち、入退院を繰り返しながら、『大きくなったら看護婦さんになりたいの」そう言っていた。
高校を卒業後、社会に出る事なく、生命を失った彼女に思いを馳せる時。
『なにかできることはなかったのか』
『小さな世界で生きて、もっと見たい世界があったのではないだろうか』
ずっとそう思ってきた。

北村さんの「ピース」の言葉に、とても光を感じた。
あぁ、あの子は、あの子の世界を懸命に生き、幸せだったのだと感じた。

       ⁎ .。❀ *⁎ .。❀ *🌼🌿,,
北村さんのUDダンスを、初めて拝見した時、温かい涙が止まらなかった。
ずっと、探していた何かを感じた。
自分が感じていたもの、伝えたい想いが全部そこにあったと、光に感じた。

協会の仲間は言う。
「愛だ」と。

心の奥底、魂から湧き上がる感情、
これなんだ、そうだこういう事だ。
私の中で、確かに何かが動いた。

言葉にできない、目に見えている、その境界線、障壁を超えた先を、たくさん想像する。

       ⁎ .。❀ *⁎ .。❀ *🌼🌿,,
人は、自分のフィルターを通して、何かを見てしまう。それは、思考の癖だったり、自分を基準にして、相手を型どってしまうからなのだと思う。

エンパシーを、広めていきたい理由が、ここにある。
見えているものが全てではない。
それは誰もがそうで、そうしないと自分という存在が、ぼやけてしまうから。
みんながそうだとしたら、本当の本当を、認め合える、それぞれの大切にする価値観を、明るみに出し、好きなものを好きだと胸を張って表すことができたら、もしかしたら、争いは、数を減らし、障壁による孤独も軽くなるのではないかと感じている。
生まれてきた悦びを、感じられる世界が広がっていくのではないだろうか。

◆◇今後の展望◇◆

私自身が、気づきと体験をし続ける。
人生の半ばをすぎ、これからを考えた時、一体、私は何ができるだろうと考えた。
これからを生きる人たちに、エンパシーを伝えていく事だと思った。

声にならない想いを抱えて、心の居場所を求め続けた私のように、苦しいことにも気づけない人がいたら、ここにいるよ、安心していっておいでと言える存在でありたいと願う。

自分や誰かの心を理解し、寄り添うことができたらと思い、エンパシーを学んだ。
心の平和活動として、心に寄り添う個人セッションを続けていく。

また、エンパシー協会内では、コミュニティ運営に力を注ぎたい。
心の居場所であり、この場所を起点に願いを実現できる、共創の世界観を、みんなで創りたいと願う。

認定講師として、講座を行うことで、共感者の仲間の輪を広めたい。
その足がかりであり、ひとりひとりの歩幅で、願いを叶えられる伴走者でありたい。

そのために、自分の願いに繋がり続け、感情の一つ一つを丁寧に見つめながら、心にひだまりを持ち続けたい。

               ー活 動 内 容ー

一般社団法人 日本エンパシー協会
                                  認定講師

・エンパシー講座、共感者講座

・個人セッション
(共感、傾聴者としての平和活動)

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🌼公式YouTube🌼

🌼協会ホームページ🌼

🌼共感者講座受講生の声🌼

【文章中より】

🌸日本エンパシー協会 代表理事🌸
  せっちゃんこと 岩村誠司さん

🌸手話ダンスで世界をつなぐ🌸
   UDダンス 北村 仁さん

🎼.•*¨*•.¸¸🎶
   私のパワーソング紹介🌼🌿,,

最後まで読んでくださり
ありがとうございました👼🏼🏹💗

こたま🌼🌿,,

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