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【批評=運動の未来/過去のために――『NAM総括』編集にあたって】( A面:赤井浩太)

はじめに

私が、友人たちとともにNAMという一つのアソシエーショニスト運動の組織を発足させたのは二〇〇〇年のことである。(中略)しかし、もろもろの事情から、このNAMは二〇〇二年の一二月をもって解散となった。(中略)NAM開始以降の私の著作はすべて、アソシエーショニスト運動と深い関わりがある。その意味で、私はこの二〇年間、NAMについて考え続けてきた、ともいえる。(柄谷行人『ニュー・アソシエーショニスト宣言』序文)

 二〇二一年二月四日、吉永剛志の『NAM総括――運動の未来のために』が航思社から刊行された 。折しも、NAMを境に『批評空間』から袂を分かった東浩紀の『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ、2020・12)、そしてNAMの提唱者である柄谷行人『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社、2021・2)とほとんど時を同じくして。

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 NAM(New Associationist Movement)とは、二〇〇〇年に柄谷行人が提起した「資本と国家への対抗」のための運動体を指す。本書は、NAMの設立当初から二〇〇二年の崩壊期までその渦中に身を置いた吉永剛志が自身の体験を踏まえつつ、この運動の「総括」を試みたものである。
 

 NAMの母体となった『批評空間』(1991〜2002)を中心とする一九九〇年代から二〇〇〇年代の言説空間の動向を知る上でも、政治運動の歴史的な文脈を知る上でも、本書は興味深く読めるであろう。少なくとも、NAMの「失敗」を今さらあげつらうために書かれたものでは決してない。むしろ本書は、従来批判的な眼差しが注がれてきたNAMの壮大な試みを現代の政治運動の「ケーススタディ」として捉え、「冷戦体制崩壊以後の左翼運動の困難とその可能性」を再考するものである。


 我々、中上健次を専門に研究する松田樹と批評家の赤井浩太は、本書に資料整理・編集協力という形で参加した。我々の目的は、「批評」と「運動」とが密接に関わっていた当時の言説空間の下に吉永の記述をパッケージ化し、特にNAMの経緯や同時代を知らない読者に向けて(松田と赤井はともに1993年生まれである)多方面からの読解を提供する「読み物」として本書を編纂することにあった。また、松田は立場上、吉永が残してきた膨大な関連資料の整理・復元の仕事――後述の通り、NAMの成立に深く関係する作家こそ実は中上健次に他ならなかった(松田樹【B面――批評=運動の過去のために】 )――にも携わった。


 我々と吉永との関係は、赤井が属していた前衛批評集団『大失敗』(現・『ラッキーストライク』)の二号に、吉永が「高瀬幸途という〝歴史〟」を寄稿したことが親交の契機となった。それ以来、二人は吉永が勤める「使い捨て時代を考える会/安全農産供給センター」にも出入りすることとなった。共通する話題・関心は、他ならぬ【批評=運動の未来/過去のために】である。編集作業に際して、主に、松田は過去の方面に、赤井は現在ないしは未来の方面に強調点を置いた。この欄では、編集作業の余滴として、あるいは本書読解の補助線として、我々がとくに着目した論点や文脈に言及しておきたい。


◆赤井浩太 【A面――批評=運動の未来のために】

 吉永剛志『NAM総括――運動の未来のために』が刊行された。
 この本には二つの顔がある。一つはかつてのNAMを総括するという「過去」に向けられた顔。もう一つはこれからの政治運動のための礎になるという「未来」に向けられた顔である。
 著者の吉永剛志は、「使い捨て時代を考える会/安全農産供給センター」や「関西よつ葉連絡会」に関わり、この社会環境に対して「食」を起点に運動を続けている。その吉永が京都のクソ暑い夏にタンクトップ一丁で書き上げたこの本は、運動の過去と未来を同時に睥睨するような、そうした強い意志を宿した相貌で世に出ることになった。
 ここで先に言っておくが、この本が総括した「過去」とその意義については、松田樹が書いた【B面】の記事を読んでくれ。というか、NAMについてひとしきり知っている人はまずそちらを読んでくれ。この本を読む上で良い補助線になる。
 この本の企画に関わり始めた頃から、おれと松田はずっと役割分担をしてきた。松田は「過去」担当、おれは「未来」担当である。といっても、未来におけるこの本の「意義」なんてのは、まぁタイムマシンにでも乗らないかぎり、論理的に考えておかしな話になってしまうから、さしあたり「これからの人たちにとっての意義」とでもしておこう。
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 ぶっちゃけた話、いやぶっちゃけなくても、「政治運動」とかってピンとこない。「政治組織」と言われればなおさら分からない。それが多くの若い人たちの実感だと思う。民青だの革マルだの中核だのといった政治セクトについては、正直なところおれは大学時代にはその気配すら感じたことがなかった。一方で、以前SEALDsに対しては批判的に言及したことがあったが、あれはまったく別の文脈である(今その批判は関係がない)。それからもちろん、この世の中には労働組合や、あるいは様々な政治イシューに基づいたNPOやNGOが数多く存在するから一概には言えないが、それにしたって限定された層で関心を集めるにすぎない。
 とまぁ、ここまで相対化してしまうと、もはやこの本が読まれうるきっかけがなかなかなく、かなりキツい。だからこそ言いたいのだが、「いや、それぐらいの話はものの本で読んだぞ」とか、「今そういう活動に関わってるんだけど?」とか思った人は、マジでこの本を読んでほしい。「読みたいけど金がないから買えない」という人は、大学図書館か公共図書館でリクエストをかけてくれ。手間を惜しまなければたいていの新刊は読むことができる。
 さらに推す。率直に言えば、「政治運動」や「政治組織」にピンとこない人であったとしても、この社会に対して何らかの問題意識があったり、あるいは何らかの社会批判を含む知的営為に関心がある人はぜひこの本を読んでほしい。
 NAMにはなんにも関係がないおれが、なぜそこまで言うのか。端的に言えば、この本は「国家と資本」という政治的・社会的な諸問題における最大範疇に対して問題意識を持った知的な人びとについての本だからであり、さらにはそうした人びとが集団として直面した困難の内実について考えた本だからだ。例えば「知行合一」とか「言行一致」とかいうかっこいい言葉があるけれども、それを実際にやろうとしたとき、どんな困難にぶちあたるのかがこの本には書かれてある。
 したがって、現在において運動や批評に関心がある人にとってまずこの本は有益な例題を提供するものである。さらにそれのみならず、今日までに流布されてきた「NAMはヤバかったらしい」的な噂話などは、本書が出版されたからにはもう終わりである。NAMは歴史になった。
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 著者の吉永剛志は、この本で詳細に書かれる「NAM」という社会運動体の参加者であった。だから当時その集団で起きたことを細かく記述している。すなわち、過去の人々の体験を回想し、その証拠としてあらゆる文章を引用し、そうしてNAMという過去に固有な意味付けを行おうとしている。その性質ゆえにこの本には歴史記述として膨大な量の人名や団体名や書籍名が登場する。この意味では外山恒一の『全共闘以後』(イーストプレス)にも似ているとも言える。本書を読むにあたってこちらも読むと政治運動史をながめる視野に奥行きが生まれるであろう。ちなみに『NAM総括』の草稿を編集する過程で、おれと松田はこの外山本は参考にさせてもらった。
 他方で、「まえがき」でも書いたように、吉永はこの本でNAMを政治的実践の「ケーススタディ」としても考えた。ある理論にもとづいて、様々な問題意識や関心をもつ人々が組織化され、そして何らかのかたちで行動に移ろうとする。そこでどのような問題が起きたのか、そしてそれはどのような人間関係の力学や、あるいは各人の誤りや浅はかさに起因したのか。そうしたことを指摘し分析し構造化したうえで、吉永は「どうすればいいのだろうか」と考えている。たとえば吉永はこのように問題提起を行っている。

NAMで短期間におこったさまざまな困難を、積極的に問題を抽出するための「ケーススタディ」としても捉える。そうすることで、NAMを批判するときの常套的なレトリックである「理論的には正しい、ただし実践では……」という紋切型を乗り越え、「では、その理論を実践的にも正しくするためにはどうするか」ということにまで踏み込んでいく。そこに踏み込まないとNAMを語る意味が全くない。昼寝をしていた方がましだ。そして傲慢な言い方かもしれないが、そうすることによってこれから運動を起こそうとする人たちの参考となればとも思っている。(第Ⅰ章「過去と未来の間で」)

 だから、本書のいたるところで登場するビッグネームに読者は振り回されてはいけない。たとえば柄谷行人、彼はたしかに国際的にも注目される思想家であるが、しかしこの本においては吉永の「ケーススタディ」を構成する重要な登場人物のひとりにすぎない。おれたちがこの本から読み取るべきこととは、「NAMその実践的問題という中心」なのだ。これは松田の【B面】記事と矛盾するように見えるかもしれないが、しかしそれは本書がリバーシブル仕様だからだ。つまり、「一粒で二度おいしい」というわけである。読み方を変えるだけで違った価値が読み取れる、そういう本だ。おにいさん、おねえさん、こいつはお得だよ。
          
 もう少し具体的な話に入ってもいいだろう。吉永は「ケーススタディ」としてNAMを考えたが、その中でも中心的な問題を占めるのは「組織」についてである。NAMは「何をするのか」ということよりも、まず「どういう組織にするのか」という点で大きな問題を抱えていた。

まず最初に言っておくと、NAMの困難の、少なくともNAMが解散に至った大部分の理由は、アナーキズム的批判(吟味)としての「権力を特定の人間に集中させない」「中心があって中心がない」という組織を作ることの圧倒的な困難に由来する。柄谷自身もそれに振り回されたというのが私の考えだ。そして振り回されただけ大したものだと私は思っている。
「中心があって中心がない」組織をどうやってうまく「運営」していくのか、どう「方向性」をうちだすのか、また「人事」はどうするのか。NAMの結果を踏まえて逆に考えれば、「中心がなく中心がない」組織をプラットフォームとして構築したら、自生的秩序としてNAMの活動は活発になるのか?
そんなわけがない。要するに誰もが経験したことがないことをやっていたのだ。(第Ⅰ章「過去と未来の間で」)

 昨今アナーキズムが流行しているということもあって、この類いの問題は耳にしたことがある人も多いかと思う。すでに見たように、吉永がここで提起し検討する問題は、一般によく見られる「組織の中心/脱中心化」や「組織と個人」という対立図式的な理論の範疇を超えて、実践の域に踏み込んでいる。本書を読めば分かるが、吉永の視点や着眼点は「批評家」や「研究者」のそれではない。簡単に言えば、「で、その話って実際には誰がどうやるの?」「それをやるとどうなるの?」という問いが吉永の記述の底にはある。
 こうした問題意識にしたがって、本書において組織の「構築」「運営」「活動」は重要な主題としてより細かい検討対象となっている。例えば、NAMと連動していた市民通貨Qのプロジェクト(Q-hive)の運営の仕方については、おれが編集の過程でそれを知ったとき、「これは運営の持続や人員配分の観点からしておかしいだろう」と思う点が少なくとも一つはあった。
 むろん、今から見ればなんとでも言えるし、いくらでもつっこめる。というか、Qプロジェクトの話にかぎらず、本書で検討の俎上に上がる出来事はあらゆる点でつっこみどころ満載である。しかし、そのつっこみは「自分自身はどうだろうか?/自分ならどうするだろうか?」という問いに折り返される性質のものでなければならない。
 本書は読み方によってはNAMを追体験しうるものだ。そこで起きるトラブルひとつひとつを子細に記述することで、吉永はこれから運動を起こす人々のために例題を提供しようとしているのである。
          
 批評の話を書いてなかった。おれはかつて外山恒一『全共闘以後』に書評を寄せたとき、この外山本を指して「運動的批評」と呼んだことがあった。今もう少し注釈を加えると、それは何らかの対象を批判する際に「やる」という視点が導入された批評のスタイルのことである。
 「やる」ことをめぐる実務的リアリズム、あるいは組織論的な政治力学、もしくは「やっちゃった」的な無意識の問題、さらには「やる」に対する嫌悪や劣等感が生みだす距離など、おそらくこのスタイルは様々な問題系を捉えるであろう。
 外山の場合はネトウヨの源流である『宝島』に集った新保守主義グループに対する批評であったが、吉永剛志の『NAM総括』の場合は、例えば鎌田哲哉や浅田彰といった文化左翼に対する「運動的批評」であると言える。
 九〇年代末からゼロ年代初頭について、例えば與那覇潤は「平成史――ぼくらの昨日の世界」(第7回後編)で、「21世紀への転換期に「主題」(物語)に回帰して躓いたのが、つくる会[引用者註:教科書をつくる会]とNAMというふたつのアソシエーション(結社、運動体)だった」と述べている。経緯はそれぞれ別様であるが、これが外山の指摘した「〝ポストモダンの左旋回〟と右旋回」の帰結であろう。
 しかし、「躓いた」ならばその勢いで一回転して立ち上がればいい。その点で言えば、吉永はデングリ返しが上手かった。そうでなければ『NAM総括』は、少なくともこのスタイル――「運動的批評」としては書かれえなかっただろう。運動の現場をもっているからこその観点や言説というのがあるのだ。
 吉永の場合、その「現場」とは農産物の「商品化」を批判的に考える有機農業運動や消費者運動である。そうした活動は『NAM総括』においては、農業消費者運動系からNAM代表となった田中正治に対する高い評価に繋がっている。批評用語で言えば、「趣味判断」ではなく「運動的判断」と言えようか。
 冒頭でも少し書いたが、吉永はふだん京都の「使い捨て時代を考える会/安全農産供給センター」の事務局で働いていて、「関西よつ葉連絡会」では「地域・アソシエーション研究所」の運営委員だ。ついでに言っておくと、最近お子さんが生まれたばかりの新米パパボンでもある。
 おれと松田は去年十月末ごろに「使い捨て時代を考える会」主催のフリーバザーで売り子を手伝わせてもらったのだが、いろいろな作物や加工品を持ち寄る参加者たちの中でニコニコしている吉永の姿を見て、おれらと話しているときの、柄谷だのジジェクだのと声を張り上げている様子とは大違いなのに驚いた。単に「地に足がついている」という評価をしたいわけではない。批評と運動の二軸で生きるという在り方は可能だということだ。
 ちなみにそのイベントが終わったあと手伝いの報酬として米と味噌を頂いた。おれは料理なんててんでダメだが、ためしに肉みそを作ってみてその米で食った。次はもう少し味を薄くして作ろうと思う。
 もうひとつ経験談を書く。おれは一昨年の十一月に「関西よつ葉連絡会」所有のよつ葉ビルで行われた「地域・アソシエーション研究所」の総会にも見学者として参席させてもらったことがある。そこでもらった総会資料には次のように書かれている。

不定型な変革への願望をいかにして現状に取って代わる選択肢の構想へとつなげていくのか、改めて「アソシエーション」に軸を置くことの重要性を強調したいと思います。この点で当研究所の果たすべき役割を自覚しています。
一方で冷戦終焉の教訓は、「政治」や「制度」に依拠した社会変革の展望にも反省を与えたと思います。人々の具体的な日常生活のあり方や人間同士の関係が変わらない限り、いくら外側から枠を整えても、枠がなくなってしまえば容易に元に戻ってしまいます。
そうした意味で、日常生活が営まれ、多様な関係が取り結ばれる「地域」こそが変革の地盤であるべきだとの考えが深まる契機になったことは間違いないでしょう。当研究所を設立する背景となった北大阪商工協同組合や関西よつ葉連絡会の事業活動は、その具体化だと思います。(『地域・アソシエーション研究所 第18回総会』「はじめに」一頁)

 こちらの眼から見れば、問題意識それ自体はアンリ・ルフェーヴル=津村喬の「日常生活批判」ラインだなとか思うわけだが、そんなことよりも驚くべきはこうした問題意識を持ち、実効的な活動を拡大してきた「関西よつ葉連絡会」が、一九七六年に始まってもう四十五年間も事業を継続しているということである(ちなみに「使い捨て時代を考える会」も一九七三年設立である)。
 左翼はだいたい内ゲバや分派活動で爆発四散しがちというのはよく知られた事実だ。一方でこの事業体は、いまや「生産」「流通」「消費」という経済の環――地べたから食卓までの全てに関わって活動を続けている。
 ところで都合がいいことに、最近東浩紀が『情況』のインタビューでこう言ってるから引用しておこう。

先ほど全共闘が話題に上りましたが、全共闘も、学生運動が挫折した後、農村とかに行っている人たちがいっぱいいるじゃないですか。コミュニティを作ったりだとか。ああいうことを、新人類の人たちはみんな馬鹿にしていた。けれどその馬鹿にしていた新人類が、結局メディアに踊らされてハッシュタグしか打てない。それだったら、畑作ってたほうが良かったんじゃないのって僕は思うんですよね。だって畑作ってる人たちは、ある意味世の中に関係なく、揺らがずに何かを作っているわけですよ。(『情況』二〇二一年冬号、十頁)

 東がここで言う「世の中」とは、要するにメディア空間、Twitterのことである。東のこの発言――おそらくド直観で言ってる――は、実のところこちらの話にダイレクトで繋がってくるのだ。
 というのも、「関西よつ葉連絡会」は事実学生運動の延長線上で設立された団体なのである。そのあたりの事情は『社会運動』(一般社団法人市民セクター政策機構、二〇一五年一月号)で「地域・アソシエーション研究所」代表の津田道夫が語っている。
 要するに、「関西よつ葉連絡会」の原点となる能勢農場は、そもそもスタートしては事業体というより、まず「自己変革の場」であって、日本共産党(国際派)と対立した所感派の活動家たちが「根拠地」として能勢農場を始め、そして津田道夫ら全共闘世代のマオ派がそこに合流したという経緯で出発した団体らしい。
 所感派は一般に評判がわるい。武装闘争路線で山村工作隊などを組織して工作活動やテロ活動を行ったものの支持を失って失敗したというのが通説だからだ。左翼運動史の記事ではないからこの話はここまでに留めるが、ともあれ、かつてのマオ派がこのようなかたちになって活動を続けているとは思わなかった。
 谷川雁や平岡正明の毛沢東主義的な根拠地論を引き継いで、日本語ラップにおける地元論を展開したおれとしては目を丸くするほかなかった。
          
 話を『NAM総括』にもどそう。すでに書いたように、この本は「一粒で二度おいしい」というタイプの本だ。つまり、松田の【B面】記事に詳しく書かれているとおり、批評史的な文脈をたどる上では面白く、またおれがこの【A面】記事で書いたように政治運動の組織論を考える上では役に立つ。
 そして、その全体は、「使い捨て時代を考える会/安全農産供給センター」や「関西よつ葉連絡会」で活動する吉永剛志が、その現場から叩き出した「運動的批評」によって貫かれている。NAM解散から二十年、その長い時間を暗中模索してきた吉永剛志の渾身の一撃である。
 ここまでおれらの記事を読んでくれたみなさま、ぜひともこの『NAM総括――運動の未来のために』を手にとってみてほしい。




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