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『ふたつの魔女と紅の子』1–2

第一話(2)


 少年の母は魔女だった。少年は物心ついたときにはこの森に住んでいて、彼女に連れられてきたとのことだった。彼女は森の環境と魔術について学ぶためここに移り住んできたようだが、ここ半年は森で過ごすより床についている時間が長くなっていた。


 母は彼に本を読むよう口酸っぱく言い聞かせていた。薬草や自然に関する書物を用意し、読んだ彼が質問するのを喜んでいた。彼もそれを理解していて、わざとわからない振りをして疑問を投げかけた。賢いのに甘え方を知らない彼なりに夜な夜な考えた可愛らしいやり方だった。


 ただ、少年にとって本を読む行為の意味が日に日に変わっていると彼は気づいていたし、その不快感がじりじりと彼の胸で膨らんで圧迫していた。彼は薬草を摘む以外の行動を家の外でしたことがない。肉は母が外から持ってきていたし、衣服も母が編んだものを大切に着ていた。豊かな自然の中で暮らす術は全て母のものだった。






 自室のベッドに寝転ぶと、頭上の窓から月明かりが忍び込んでくる。突き当たりの禁じられた部屋から持ち出してきた本の表紙をかすかな光に当てる。緑色の表紙にインクで書かれた文字。今まで母から借りたどの本とも異なる言語で書かれていて、少年には読むことができない。手書きの中身も同様だった。


 何の根拠もないが、この本は母の書いたものだと少年は確信していた。彼が母の字を見る機会は少ないけれど、きっと母の日記、もしくは日々の学びを記したものだろう。


 気づかない振りをしてきたが、母は少しずつ衰弱している。できるだけその姿を見せないように振る舞ってくれているけれど、確実に弱っているのだ。食事量は減り、睡眠に充てる時間は増え、彼はひとりで過ごすことが多くなった。母がいなければどうすればいいのだろう。夜ひとりで天井を眺めていると不安に駆られる。


 自分にできることなんて何もない。ひとりでは何もできない。今までに学んだことなんて本当にわずかなもので、それが彼の生きる術になるとは到底思えない。母がいるから彼は今日を無事に終えられたのだ。無力感と不安に引きずり込まれそうになる。眠ろうと目を閉じると、心の奥底で膝を抱えている自分と目が合ってしまうのだ。自分を信じられないのに、自分には何もできないという考えにだけは自信を持っていた。責めるものがあると楽で、賢い振りができて心地よいからか。これも逃げたい気持ちの現れなのだろうが、出口のない思考回路だった。


 苦しみを逃そうと寝返りを打ち、くたびれた枕の下に本を隠す。暗闇が怖い。窓枠にかかる薄い幕を閉めずに、月光に頬を撫でてもらいながら浅い呼吸を繰り返す。弱々しい導きを縋ってばかりではいられないのだろう。どこかでは分かっているけれど、それを認めてしまうと自分の明日を否定してしまうようで受け入れがたい。


 森での生活も記憶にあるのは季節がひとつ巡るほどだった。彼だってただ怠けていたわけではない。まだ背も伸びているし、多くを学んでいる途中だった。あまりに早いのだ。彼がもっといろんなものを受け取りたいと思うことは決して欲張りではないはずだ。この優しい日々はいつ終わってしまうのか、終わったらどうなってしまうのか。そう遠くない日のことを思うだけでも不安だった。


 母を安心させなければ。母に楽させてあげなければ。気持ちに余裕のある夜はそんな決意を抱く。だが彼女はそれを望んでいないのか、相変わらず彼に薬草摘みと読書以外を許さない。このままではだめだ。何とか禁じられた本を読み解かないと。


 日を追うごとに状況が悪くなっているのではないかという考えに首を絞められながら、少年は気を失うように眠りに落ちた。






 翌朝、少年が食事を摂るため大部屋へ行くと窓際の椅子に腰掛け外を見つめる母の背中があった。朝から起きているなんて久しぶりだった。


「母さんおはよう、気分はどう?」


 振り返った母は目を細めた。いつも口元から肩までを布で覆っているため表情が分かりづらい。


「おはよう。もうすっかり暖かくなったわね」


 母は窓の向こうへ視線を戻した。この部屋からは鬱蒼とした木々しか見えないが、鳥が窓の木枠で羽を休めている。


 気分はどうかなんて聞いておきながら、少年はいつものように自分の口に触れて健康状態を気にかけてくれないかと待っていた。そんな自分を認めたくなくて、早くこちらを向いてくれないかと苛立ちが胸の底で芽を出している。


「蘇芳。私はもうどうしていいかわからない」


「え?」


 力ない声は出そうとして出したものではない。こちらを見ない母の細い肩が小さく震えていた。


「ひとはだれかの代わりにはなれないのよ。わたしたちは気づくのが遅すぎた」


 今までにない母の、彼女自身の言葉に茫然としていると椅子の軋む音がして彼女は少年に向き直った。


「母さん、何のはなし」


 陽が昇り、窓の外が一気に明るくなる。木枠に止まっていた鳥が羽ばたき、彼女の目尻から雫が溢れた。


「何度繰り返したら成功するのかしら。あなたでようやく終えられると思っていたの、本当よ」


 少年の頬を撫でる白い指。口角に辿りつく頃に自然と口が開く。舌を掴むいつもの仕草なのに、彼を見ているのではなく何か愛しいものを探すような目線だった。


「この舌のしるしに、いつだってあなたを見ていたのに。こんな意味でもできそこないだなんて」


 彼女は我慢できなくなったのか、両手で顔を覆い嗚咽を漏らしはじめた。少年はよたよたと二、三歩後ずさりする。


「母さん……?できそこないってどういうこと?」


 朝の白い光に包まれながら彼女は泣き続けた。


 優しい日々にゆっくりと影が差していった。








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前回(第1話-1)はこちら。



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こんにちは、幸村です。

今回は改行多すぎかなぁ。他アプリで書いてから引っ張ってくるのはじめてで難しい。

暑くなってきたので扇風機を出しました。

二年ぶりくらいだったので「おまえ首ふれるか?」なんて言いながら拭き掃除して電源を入れると「いけるぜ」と首を横に振ってました。かわいいな。

大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。