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煌めくキャンディと終焉の虹

少し慣れてきた新しい職場からの帰路、なんとなく家への最短経路ではない大通りを選んで歩くと工事予定の看板が視界に入った。ある夜を境に一時期全く利用できなかった歩道橋。心を許した友に禁じられた道。懐かしいな、なんて言葉が脳裏をよぎったが思い出にするにはまだ早すぎる、半年ほど前からの約束だった。

ひとりで約束を解くなんてできなくて、おとなしく横断歩道をみっつ数えた。大通りを後にして、街の喧騒が意識の底に沈みはじめた夕暮れをポケットから取り出したiPhoneの画面に映し込む。すっかり連絡していなかった例の友人は僕の気持ちが整う前に電話に出てしまった。そうだ、彼はこういう人間だ。

「久しぶりだな」

「久しぶりだね」

楽しいとか嬉しいとか、そんな浮ついたものではないがたしかに穏やかな高揚がある。安心という言葉に含まれる唯一の激しい感情だった。

「元気?」

「元気にしてるよ、君は」

「俺も元気、いつも通りだよ。何かあったのか?」

「何もないんだけどさ」

息がうまく続かないのはマスクをつけたまま歩いているから、歩きながら通話しているからで、通話しながら心を整えているからだ。できるだけ静かに息を吸って、胸を落ち着けるために途中まで吐いて、残りの空気を声にした。

「もうそろそろいいかな、あの歩道橋」

少しの空気は小さな声にしかならない。無音が流れ、胸の底がうるさくなる。耳元で柔らかい音がこぼれてきて、緊張よりもその珍しさに心が動いた。

「いいんじゃない。素面なら」

はじめて駄菓子屋で買い物を許された日のような、温度の滲む許し。人は許されない道を避けることで自らを守っているのにいつかその道へ踏み入れたいと興味を持っていて、そのくせいくつになっても許しを求めている。たとえ愚かな選択でもそれをせずにはいられない、だけどひとりでは選択肢を見つけたところで足を止めてしまう。

時が経つほど自分に許しを与えてくれる存在は減り、分かれ道の前で立ちすくむ時間は長くなる。道の分岐を夕暮れに例える人間は太陽の辿る一本道に想いを馳せたことがないのだろう。

ありがとうと短く告げると彼も五文字を繰り返した。




翌日、少し長引いた勤務を終えて大通りを歩く。片道三車線の広い道は視界が開けていて、遠くから歩道橋を視認できた。ずっと辿りつかなければいいと考えを巡らせていたせいであっという間に虹の根本を捕まえてしまって、僕の小さな脳みそは既に限界なのかもしれない。僕は有線のイヤホンを外して肩に落とした。

半年前、誰にでもあるような苦い思いを抱えきれなくなった僕は歩道橋の上で美しい景色を見てしまった。今までのどの瞬間よりも心奪われた向こう側の世界に踏み出せなかったのは僕に残った最後の強さだったのだろう。

すっかり余裕のある今なら、何も感じられないのではないか。

そうであることを願いながら、少しだけそうでないことを期待しながら、明日から始まる工事の知らせを横目に右足と左足を交互に踏み出して、気分も一段ずつ確実に高揚していく。

階段を上りきると、湿気た風が髪を揺らした。

太陽はまっすぐ沈んでいき、夜の始まりが空を包んでいる。

人影はなく、車の行き交う音が足元から駆け上ってきて、その暴力的な気配に髪を揺らされているような惑いが生まれた。

歩道橋のちょうど真ん中、虹の頂点に立って塗装の剥がれた手すりを人差し指でなぞる。雨で傷んだ水色の空が剥がれて足元に落ちた。

ゆっくりと目線をあげると、夜の暗がりを無数のライトが走り去っていく眩しい光景が視界の端から端までを埋め尽くした。

躊躇いを覚えつつも、理性を振り払って目を閉じ大きく息を吸う。目を開くとあの日の世界が脳に直接刺激を与えるように染み込んできた。


好き勝手に走り抜けるキャンディのような丸いライト。

頭の中でカラフルな光がぱちぱちと弾けて砕けて散っていき、欠片が開いて無理矢理心を覚醒させる。

波のように押し寄せる快感が脳内を支配して、どうしようもなく甘美な世界に落ちてしまいたくなる。

ひとつひとつの彩りを人間が光らせているなんて信じられないほどに美しくて、でもこんなに不純な甘みを出せるのはたしかに人間だけだと思える駄菓子のような劇薬だった。


もう僕はあの美しくて甘くて煌びやかな世界に身を溶かすことはできない。

さすがに口には出せないが、なんだかすごく惜しいことをした気がする。

小さな脳みそに収まらないほどの理想と幸福に浸る感覚は覚えているけれど、一歩後ろに下がったばかりにガラス越しに見ているようなもどかしさがある。毎日に満足した僕には手に届かない場所になってしまった。

あのときどうやってこの誘惑から逃れたのか思い出せない。冷たい夜風が頬を撫ぜたからか、iPhoneが何かを知らせてくれたからか。人間の気配ではなかったことだけが確かだった。

「あぁ、いい体験だったな」

イヤホンを耳に戻すとどうやら音楽が鳴り続けていたようで、ちょうど一曲終わるところだった。ライトの行き交う道路から視線をあげると次の曲が始まり、たった数秒、言葉が流れる前の数音で全身の血が沸いたかと思うほどの鳥肌がたった。ポルノグラフィティのネオメロドラマティックだ。

歩道橋の階段を降りていく。懐かしいな、中学生のころ毎晩聞いていたな。

「咲こうが摘まれる君の絶望こそ、か」

一段降りるごとに高揚が遠のいていく。これでよかったのだろう。いや、きっとこれがよかった。



生きる上で支払うコストが高くてリターンに見合わないと感じていた。

借金で本当に首が回らなくなる前に終わらせるべきだと思っていて、地面へ解けてしまいたかった。

そんな消極的な理由じゃなくていつ死んでもいいなんて思えるくらいに後悔のない日々を送れたらな、ともう一度繰り返しの日々に身を投じ、日向に出たつもりだったがそれは日陰の明るい場所だった。

繰り返しになれたこの頃では、いま死ぬなんていやだ、これからきっともっと楽しくなるのに、なんて考えられるようになって陽だまりの温度に皮膚がひりつく。不慣れと不快を混ぜないように太陽と月を目で追う日々。

「最高の歩道橋だったな、ありがとう」

最後の一歩を降りてしまうと名残惜しさと誇らしさがじんわりと指先まで満ちてくる。

家に帰ったらホームランバーを食べよう。シンクを磨こう。ドラマの続きを見よう。

優しい日々の味わいに舌を慣らしていこう。

そうやって増えていくほのかな灯りを胸に抱えて、木漏れ日の揺れを数えて、最期の虹がかかる日まで。














***

自分の純情をスプーンにひとすくい
街に喰わせるたびもらえるキャンディを
舌で転がしながら記号化した言葉に
「助けて」というWordはないようだ

ポルノグラフィティ『ネオメロドラマティック』作詞・新藤晴一



大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。