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第二回隣席歌会 十三首評【後編】

皆さんこんにちは! 

あなたの隣の席で本と映画の話をめっちゃしてくる同級生系Vtuberこと古書屋敷こるのです! 

九月十六日にYouTubeにて開催しました隣席歌会(素敵な命名ですね!)にて、歌会配信にてご紹介できなかった歌がございましたので、その評(感想と考察?)をさせていただきました! 
もし良かったら、配信と合わせてお楽しみください。

お待たせしました!めちゃくちゃ冬ですが、ギリギリ年内にお出しすることができました!
後編が遅くなってしまって申し訳ない!でも、書いている間ずっと楽しかったです。送ってくださった皆さん、本当にありがとうございます。

それでは

どうぞ!!!

きみありし なつのつきひは みじかくて まいよそのこえ おもいこがれる

全てが仮名にひらかれている点が印象的な歌だ。「きみありし」と始まるため、歌の冒頭で、かつていた「きみ」のことを強く意識させられる。読み手は、「きみ」を詠んだ歌なのだなという認識の中で、その先も読み進めていくことになるのだ。仮名の効果について考えると、やはり一音一音の途切れが明確になり、ゆったりとしたイメージを作り出していることがわかる。「おもいこがれる」切ない気持ちの吐露と、言葉が一音一音漏れ出ていく様子が重なり、「きみ」への思いが泡沫のように浮かんでいく光景が見えるようだ。流暢に言葉を発することができなくなりそうなほどの苦しい思い。「ありし」とある以上、もう「きみ」はここにはいない。夏は過ぎ去った。しっとりとした切なさが感じられる歌だ。

くだらない こんな夏など置いていく バイザーを上げて アクセルを噴かす

初句「くだらない」の鋭さにどきりとする。上の句全体で、「くだらない」「こんな」「夏など」と、夏に対する眼差しの厳しさが前面に出されている。主体にとって、この夏は「こんな夏」でしかなく、煩わしいものであるかのように思える。
しかし皮肉なことに、(「バイザー」とあることで、描かれずともバイクに乗っている/乗り込む状況だということがわかる。)バイクに乗り、夏を置いていくほどのスピードで駆ける様子そのものが、美しい夏の一幕のように感じられる。バイザーをあげたということは、あげて以降、顔に直接風が当たることになる。風とスピード、そして眼差しの鋭さが共鳴して、夏の風景に溶け込んでいく。主体にとって「くだらない」はずの夏は、歌によって読み手に確かな価値を与えている。夏を置いていくという表現の加速感が心地よい一首。

ぬるま湯の ような空気を 浴びながら 缶チューハイ 買いに出る夜

人気ない夜の空気の混ざりは、どうしていつもぬるく肌に触れるのだろうか。寒くも暖かくもないその温度を、ぬるま湯と表現している。ごく共感しやすい形容だ。空気のぬるさは、主体の精神状態や目的、状況にも由来しているだろう。
眠れなかったのか、はたまた宴会のさなかに抜け出しているのか。軽い外出のため、楽なサンダルを履いて、ゆったりとした格好のままコンビニやスーパーへ向かう状況が、一切説明されずとも、夜に缶チューハイを買いに出る、という文言一つで想像できてしまう。歌の終わりは「夜」となっており、すべての言葉がこの「夜」にかかる。ありふれた、簡単に想起できるこの夜が、詠むべき特別な夜に変わるための一首のようである。想像しやすいシンプルな情景を詠んだ歌。

神様は智をもたらして子羊は 真理の毒に触る夏休み

上の句が対句的な続きを予感させて途切れていることで、神秘的な空気感を醸し出している歌。子羊という単語からは、救いを求める迷い仔といった印象を受ける。神の子羊自体がイエス・キリストを示す表現でもあり、子羊には生け贄といったイメージも付与されている。よって、子羊の取り方には選択肢が複数あるが、「神様は智をもたらした」に続けて語られるここでの子羊は神様に対応する行為者であると予想されるため、力なきものであると取りたい。
読み手は、子羊がもたらしたものは何なのか、子羊がどうしたのか、もたらされた智の結果について思いを馳せる。真理の毒は智によってもたらされたのだろうか。夏休み、という単語から、幼さや子どもといった単語が連想できる。子が、子羊が触れてしまった真理の謎めいた予感が美しい一首。

ハインライン、マイクル・コーニイ、アーウィン・ショー、夏に読みたいぼくの本棚

『夏への扉』はロバート・A・ハインラインの代表作である。マイクル・コーニィの著作で夏といえば、『ハローサマー、グッドバイ』で間違いない。アーウィン・ショーとなると『夏の日の声』、『夏服を着た女たち』が思い当たる。
並べ立てることで、夏の物語を読む時間を夢想している様が伝わってきて微笑ましい。「ぼく」がひらがなに開かれていることで柔らかい印象が作り出されている。作品や作家について知っている読み手に目配せをするような、また知らない読み手には夏の本と出会うきっかけを与えるような歌。

夕立に 湿る冷たい 土の中 樹々とさざめく 空蝉の聲

夕暮れ、雨の降りしきる森林の静けさは人を拒むような気配を漂わせる。
ここでの「空蝉」はそのまま蝉の鳴き声ととって構わないだろう。樹々のざわめきと並列で語られるその声が、空間と一体化するように調和を作っている様子が想像できる。「聲」とあえて旧字を使っていることで、声の厚みや立体感が醸し出されているようでもある。
静かな森林に響き渡る夏。蝉の賑やかさや樹々の音が強調されているのにもかかわらず、静けさを連想するのも面白い点だ。濡れた土の冷たさのリアリティに、樹々の神秘を感じるからなのかもしれない。

朗誦の 響く市の音 紅赤の 香る柘榴は 晩夏告ぐらむ

賑やかな喧騒あふれる市の中で、その一部として朗誦が響いている。これだけで、朗誦の声が高らかに響き渡る美しいものであることがわかる。柘榴は五、六月に花を咲かせ、九月〜十一にその実の旬を迎える。まだ外皮の避けていない、膨らんだ赤い果実が、市に彩りを添えている様子がよくイメージできる一首だ。
ここでは特にその香りに触れられている。どこからか香ってくる柘榴の存在に、市の中で晩夏を感じる瞬間は、鮮やかな夏の記憶として残っていくだろう。その鮮やかさを、市の喧騒の火照りと対比されるような朗誦ののびやかな声が、さらにくっきりと印象付けている。
一つひとつのモチーフの組み合わせに間違いのない、完成された晩夏の一瞬を切り取った素敵な歌。


ということで、如何でしたか!
素敵な短歌をたくさん見せてくださってありがとうございます。こうして色々思いを巡らせるのも、短歌の楽しみの一つですね。皆さんはお気に入りの歌はありましたでしょうか。

自分も作ってみたい、もしくはもっと読んでみたい、そう思ってくださる方がいらっしゃればとても嬉しいです。#隣席歌会 というインターネット上、Youtube配信にて行う歌会を不定期で開催していますので、もしよろしければぜひご参加くださいませ!

こちらは好きな短歌を鑑賞という観点から色々とお話した、もっと短歌を好きになろうの会のアーカイブになります。好きな歌人さんが見つかるかも??


あなたが短歌をもっと好きになってくれたらうれしいです!
読んでいただきましてありがとうございました!次の歌会のテーマは「身体」になる予定……。よかったら考えてみてください!投稿お待ちしております!!

それでは、古書屋敷こるのでした!

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