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第二回隣席歌会 十三首評【前編】


 皆さんこんにちは!
 あなたの隣の席で本と映画の話をめっちゃしてくる同級生系Vtuberこと古書屋敷こるのです!
 九月十六日にYouTubeにて開催しました隣席歌会(素敵な命名ですね!)にて、歌会配信にてご紹介できなかった歌がございましたので、その評(感想と考察?)をさせていただきました!
 もし良かったら、配信と合わせてお楽しみください。ちょっと長くなってしまったので、前後編の記事にてお送りいたします!

暗がりで雌伏八年待っていた花火セットは今年もまた

 最後の字足らずが切ない余韻を残している一首。いつの日か買った花火セットは、まさに雌伏八年、ずっと暗がりから出て夜に花を咲かせることを心待ちにしていたのだろう。しかし今年も、今までの八年間と同じように、使われることはなかった。暗がりに仕舞われたまま、九年目を待つことになる花火。来年は?その次は?いつかこの花火が使われる日は来るのだろうか。第三者としては、期待できないと諦めてしまいそうになるが、それでも作中主体はこの花火セットを捨てない。花火セットへの執着のようなものを感じる。それはそこに置いてあるのが「八年前に買った花火セット」だからなのだろうか。八年前、なぜ買ったのか。なぜ捨てられずにいるのか。花火への未練は、他の何かへの未練にも感じられる。一度は使って、そして余った分が八年置かれているとも邪推することはできるが、そこまで迎えに行って読むのはやりすぎのようにも思えるので、空想に留めておこう。

〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇ない返信の穴埋め問題

 返信が来ない間、その返事の内容を寂しく夢想しているようなシチュエーションが思い浮かぶ。ここで目に付くのは、〇の数が十個と限定されている点だ。これはあくまで「ない返信」の話のはずである。来ていない返信なのに、これから来る文字数だけがわかるという状況はかなり特殊なものだろう。つまり、この文字数は作中主体が勝手に定めたもので、実際に未来に来るであろう(もしくはもう来ないのかもしれない)返信の文字数は十文字ではない。この意味するところは、この穴埋め問題に頭を悩ませたところで意味はないということだ。だからこそ、それにも関わらず空虚な穴埋め問題をずっと考えてしまっている理由に想像が進む。どれほど待ち遠しいか、どれほどそのことが胸中を占めているか。〇の文字数を思い切ってたっぷり使った点がきちんと活きている歌。 

熱帯夜 眠れぬ夜の夢でなら君は笑ってくれるだろうか


 熱帯夜の後の一字空けで、「熱帯夜」という単語の持つ意味が強くなっている。じっとりと熱い夏の夜。眠れずにいるとりとめのない思考の時間。ただの夜の夢ではなく、「眠れぬ夜の夢」である。熱帯夜だから眠れず、眠れないから思考が巡り、思考が巡れば行きつく議題は君の笑顔について。「でなら」とある以上、この「君」は現実では笑いかけてくれることはないのだろう。何かわだかまりがあってのことなのか、君自体に会うことがもう叶わないのか……。語られてはいないが、確かなのは、主体が「君」に囚われていること、主体にとっての「君」は眠れぬ夏の夜に倦怠を伴って思い出す存在であること。「君」への感情が、「熱帯夜」というイメージの強い語で説明されている、シンプルが上手い歌だ。

郷帰り 隣の席の あの子との 再会果たし 希求する初夏


 「希求する」という言葉がまず目に飛び込んでくる。願い求めること。望み欲すること。それだけ強い、切実な気持ちで欲している、と表明しているのである。では一体何を?「希求する初夏」とあるため、「初夏」を希求しているともとれるが、ここでの初夏は時節を示していると仮定しよう。となると、主体が一体何を希求しているのかは、具体的には示されていないことになる。しかし、読み手は感覚によって理解することだろう。「あの子」との再会をトリガーにして起こった欲求なのだから、求めているのは「あの子」との何かに他ならない。再会したことで、動き出した衝動、願い。「初夏」はその字の通り夏の始まりを意味する言葉だ。この始まりは、あの子との始まりの予感とも重なる。「郷帰り」に起因する郷愁の念、かつてのノスタルジーの印象から、これから、今、始まる明るい夏の印象へと移り変わる。綺麗な風が吹いているみたい。「隣の席のあの子」も喜んでいることでしょう。


さっきまで虹を見上げていた君を見ていた僕はアイスをこぼす


 虹を見上げる君に見惚れていたせいで、「僕」はアイスを零してしまう。二人の関係性も、状況も、とてもわかりやすい一首。僕のかわいらしい失態を描いており心温まるが、個人的に気になったのは、さっきまでは虹を見ていた「君」が、今どこを見ているのかということである。「虹を見上げる君」を「僕」がどこから見ていたのかは示されていないが、おそらくそう離れてはいない位置からだと推測できる。最初にイメージしたのは、二人が隣にいる様子だ。筋道立てて考えれば、隣で誰かがアイスを落とせば、当然その音や気配でそちらに視線がいくだろう。さっきと違って、今君が見ているのは僕に他ならない。見つめていた対象に、今度は自分が視線を向けられるという反転が起きる。
 僕のアイスに思いを馳せるのも面白い。「こぼす」という表現から、カップアイスを掬っているスプーンからアイスが零れたのか、はたまた棒アイスがぽとりと落ちてしまったのか。スプーンから液体が零れた程度であれば、「君」は「僕」の視線に気づかないままだ。しかし、この歌は「さっきまで虹を見上げていた君」から始まっている。君の視線が移動したのは歌の中に描かれた事実だ。可愛らしいアイスの失態は、君に気付かれるだけの音や挙動を伴っていたと推理できる。


ベランダからいっこも花火をきけてない、どうりでしずかな夜ばっかだと


 簡素なようで、不思議な魅力に溢れている歌だ。花火を「いっこ」と数える主体の、花火との現実的な距離の遠さ。それでも主体は花火に意識を向けている。「いっこも」、とある以上、例年は二個か三個か、複数個の花火の音を聞いていたのだろう。それでも、花火の数え方は一個二個で、主体にとっての花火は見るものではなくあくまでも聞くものである。その適当な接し方に反して、「きけてない」と独り言ちる姿は、楽しみにしていたようにも受け取れる。このアンバランスさ、不真面目な期待が、不可思議な魅力となって読点の前句までに満ちている。わざわざ外に見に行くほどでもないけれど、聞こえてくる音で毎夏、季節を感じていたのだろう。「いっこも」「きけて」「どうりで」「しずかな」と、ひらがなを多用しているのも印象的だ。柔らかい印象と同時に、どこか淡々とした印象も受ける。関心の薄さ、それでも歌になっている。ほんの少しの物足りなさが、軽い口語とよく重なっている。気持ちの良い放り投げを感じる一首。

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