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常々、人生は螺旋階段のようなものと思っていて。同じ場所をぐるぐる回って居るようでもしっかり前に、上に進めていると。リングワンデルングでも良い。
そのイメージは変わらないのだけど、時々落とし穴のようなものがあり、滑落することもあるなというのが最近の気付き。
やることないとネガティブ思考になりがちなので、悩む時間を回避しよう。その点で仕事は有用。筋肉を虐めると人間の脳はそちらを癒やすことに集中するので大概の悩みが気にならないらしい。
むりすぎてしぬ
心底やりたいことができるまで、やってくる仕事に集中する。
その代わり自分じゃなくても良いなと感じる仕事はキッパリ断る。
そしてやりたいと思った仕事は薄謝でも引き受ける。
好きなことを好きにできるようになるために生きている。
美しい文章が書けるようになる。唐突な抱負。
認めてしまえば楽になる。
今朝は憑き物が落ちた様に穏やかな気持ちだけどまた波のように揺り返すのだろうな。
誰にも見て欲しくないけど誰かには見て欲しい場所はここで良いんだろうか。
アカウント新設するの面倒だけど鍵は掛けたくないんですよ。
なぜ自分で自分を救えないのだろうか。
でもそれはつまり誰も救えていなかったことの気付きであり同義だろうな。傲慢。
真面目だった自分どこに行ったかな、と思い返したけどたかだか一度が二度かの挫折で全部諦めたような気がするな。
結局ずっとそこから進めていない。
故に蓋して誤魔化してたものが出て来ると振れる。
このつぶやきの中でも話題がとっ散らかっている。
悩まなくなったり、表に出さないのが大人なような気がしていたけどそんなことは関係ない
音楽でも本でも、本当に好きなものに対して距離を取ってしまうことがある。この感動が褪せやしないだろうかといった不安が脳裏に浮かぶ。
いまふと思ったのだけど、歌でも文でも絵でもおそらくなんでも、アウトプットされたモノにその人を感じられるものが好きなんだな。
過去の出会いの中で、この人は「ホンモノ」だな、と感じた人はそういう人達だった気がする。
…いややっぱりそれは別の話かも、純度とか他の要素もあるわね。
人間、他人や世の中に何か言いたい生き物的なところがある。誰に求められてもないのに、自らの存在証明の様に。
一見これはその優位性や正当性、独自性を主張するものではない。ただし表層的にはだ。周りにイチャモンをつけたがるのは深層心理化では浅ましい感情がある。改善したくば泥臭くあれ。
人の心なんて分からなくて当然のものである。共感できることもあればできないこともあるし、そもそもそれも勝手な思い込みかも知らない。ただ、好意的に話をしたい、分かち合いたい、寄り添いたいなどと思えるならそれで十分だ。それと相手にどう伝わったか、どう受け取られたかは別の話なのだから。
カフェやりたいな。間借り的にラフな感じで。なんでやりたいんだろ?お洒落、儲かりそう、珈琲を振る舞いたい、場・空間を創る根拠のない自信、コミュニティ作り…ふわふわと考える。どれもが当てはまり、当てはまらない感じ。