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4/27 僕がいた頃のマガユラ

今日はマガユラ出勤最後の日……と書き出すと変だな。この記事は4/27の前日、つまり最後の出勤をする前の日に書き始めている、なんせ長くなりそうなので先回ることにした。まぁ今日は日記というよりもマガユラ卒業記念の記事、タイトル通り僕とマガユラの関係性やら歴史やらを書いていこうと思うので、あんまり今日が最後の日かどうかは関係ない。

ちょっと前から「マガユラ最後の日の記事、どの辺まで遡って書こうかな……」とは考えていたのだが、マガユラと言えば扇芝智也という人で、せっかくなので僕としばさんの出会いぐらいまで遡ろうかと思う。

今までの記事で唯一「本当にみんなに読んで欲しい」と思って書いている。面白く書くのでぜひ最後まで読んでくれたら嬉しいな。


2018年の12月ごろ、僕は尼崎toraというライブハウスで働き始めた。元々ネットCD屋「SABOTEN MUSIC」を何年か1人でやっていて、その宣伝みたいな形で色んなライブハウスで企画イベントをやっていたのだが、どうも理想どうりにならないというか、なかなか難しくて、そうしているうちに「ライブハウスで働いて修行をしよう」と思い立った。それで働くライブハウスを探している中で、働くことを決めたのが「尼崎tora」というライブハウスだった。

尼崎tora

僕はtoraではブッキングスタッフというポジション、SABOTEN MUSICのツテをフル活用して演者を呼びイベントを組みまくるというポジションで働き始めた。そして、当時toraでPAやたまにブッキングをするというポジで働いていたのが"しばさん"こと扇芝智也。

ちなみにしばさんは当時ナイアガラビルディングというバンドもやっていて、バンドと先に会ったのかtoraで先に会ったのかはちょっと忘れちゃったが、なんか変で面白い兄ちゃん、みたいな印象だった。

しかしtoraではしばさんとあまり会うことはなかった。たまに僕のイベントでPAやってくれてたっけな……、というのも、僕とちょうど入れ違いでしばさんは自分の店を出す準備を始めていて、toraにいる数が少なくなっていた。

元々toraでしばさんが働いていたからというのもあり、しばさんが新しく出す店はtoraの姉妹店という形で始まることになった。僕がtoraで働き始めて少しした2019年の2月ぐらいから、プレオープンという形で投げ銭イベントと共にゆるっと始まったしばさんの店。しばさんが元々やっていた携帯の修理屋の事務所も兼ねたイベントスペースみたいな感じで始まり、確か最初始まった頃はまだ名前もついてなかった気がする。

「野田投げ銭イベント!」と言ってイベントをしてたし、何よりマガユラの2Fでしばさんと「こすけ〜〜店の名前"たまゆら"にしようと思うんやけど、どう思う?」「やば、キンタマみたいっすね、辞めたほうがいいんちゃいます?(笑)」という会話をした覚えがめちゃくちゃある。

僕含め、多分何人かに"たまゆら"は止められたのか、結果店の名前はマガユラになった。今思うと、"たまゆら"という言葉にもちゃんと意味はあるし良い名前だったようにも思う。

プレオープンを終えて本オープンになったのが2019年の5月。そこからはマガユラもガッツリイベントを始め、僕もtoraのスタッフということでtoraの店長のタロさんからの「マガユラのブッキングもちょくちょくやって〜〜」という指令の元、5~7月はいくつかマガユラでもイベントを組むことになった。

満を辞しての僕の初めてのマガユラでのイベントがこちら↓

「僕のマガユラでの最初のイベントってどんなんだっけ」と思ってタイムツリーを遡って出てきたこのフライヤー。後に人がたくさんいる、寝る……夢?ということは"マルコヴィッチの穴"から着想を得たっぽいですね。

当時の僕のイベントのフライヤーはこんなのばっかで、6月にマガユラで組んでたイベントのフライヤーはこちら。

あとついでに、全然関係ないけどtoraでの自分のイベントのフライヤーも大量に出てきて、個人的に今見て1番笑った自分の作ったフライヤー↓

出オチが過ぎる。ちなみにこの日はみんなトッポ持ってきてくれてた。意外と覚えてるもんやな〜〜〜


そんなこんなでマガユラでイベントを組むようになると、自然としばさんと話す機会が増えた。この辺りの時期にしばさんとした会話の中で1番僕が覚えてるのは「しばさんの弾き語り、正直そこまでいいと思わないですね」みたいなことを僕が言って、そのまま2人で夜中の3時ぐらいまで喋ったこと。多分しばさんも覚えてると思う、ほんまにまじでひどすぎる。

それから、過去のフライヤー漁ってたらしばさんと一緒に企画したイベントも出てきた、これめちゃくちゃ面白かった。

畑拓朗のことを知ってる人も知らない人も、畑拓朗の弟の就職祝いをする、という意味不明なイベント。もちろん畑の弟が来るわけもなく、そして畑の弟を知ってる人なんかいるわけもなく、なのにお誕生日席みたいなところに畑を座らせてみんな畑のために歌っていた。

そしてイベントの1番最後は、ずっと2Fの楽屋で待機してもらっていたしばさんの幼馴染みが突然3Fの会場にケーキを持って現れ、畑にハグして帰っていくという謎演出で幕を下ろした。死ぬほど笑ったのを覚えている。

たしかしばさんと僕の初めての共催イベントはこれで、というかしばさんと共同で企画したイベントってこれしかなかった気もする……。そう思うとこのイベントめちゃくちゃレアだな。


僕はtoraのスタッフに全比重を戻し、マガユラはたまにイベントをしにくるぐらいのポジで過ごしている頃、世の中ではじわりじわりとコロナが流行り始める。思ったよりやばいなと誰しもが感じ始めた2020年の初め、マガユラもtoraも「この3月からイベントを休もう」と決まってしまった。

そしてたまたま2/29に僕がマガユラでイベントを組んでいたため、マガユラは僕のイベントを最後に休業に入ることになった。それがこのイベント↓

ちなみにこの日のイベントをきっかけに僕とよいまつりは付き合うことになるのだが……その話は別の機会に。

僕はコロナが始まる直前まで友達の家を転々とする家なし生活を送っていたのだが、コロナが始まってしまっては友達の家に行くのは申し訳なく、もちろん親にうつしたくないので実家には帰れず、となると1番泊まり続けても怒られずに過ごしやすいのがtoraとマガユラ、ということになった。

ということで、コロナ爆裂全盛期はほとんどtoraとマガユラで生活をしていた。イベントが全くできなくなったこの状況下では、toraでカレー配達したり映像の撮影をやったりとなんだかんだ色々試し試しやっていた。

実はこの頃しばさんも家がなくマガユラで生活をしていた。理由は忘れたが何故か僕も徐々にマガユラで寝ることが多くなってきて、つまりはそうして始まってしまったのが僕としばさんとの二人暮らし。毎朝毎朝誰も乗り込まない野田駅のホームから爆音で流れる列車到着音に2人で叩き起こされていた。

しばさんが深夜のマガユラの真っ暗な3Fで、立ったままAVを観ているのを僕が目撃したという、かの有名な事件もこの時期に起こった。(この事件はグッズ化しています)


コロナの初期はどのバンドマンもライブハウスも頭がかち割れるかというほど悩んだものだと思うが、もちろん僕もしばさんもそのうちの1人。そしてマガユラにいる時間が増えたため、しばさんと「これからマガユラどうするよ?」という話を毎夜毎夜するようになった。

そんなある日、2人で近所の天洋というラーメン屋に晩御飯を食べに行っていた時、僕が「どうせイベントできひんねやったら、この期間に2Fを改装してガチのBARに改造しません?僕は将来自分の店持ちたくて、その練習としてマネジメントしてみたいです」という話をした。コロナ直前までは2Fは楽屋兼イベントに来た人が酒を頼む場所、たまに投げ銭のイベントをやったり、気まぐれで身内だけのBAR営業をしたり、なんなら2Fのスペースの半分近くはしばさんやよく来る演者の荷物置き状態だった。

ライブハウスって入りにくいから、そのライブハウスに来るきっかけになるワンクッションになるような場所にしたいな。看板とかどうする?階段の壁に絵とか描かれへんかな、店に漫画とか並べる?せっかく"アートバー"名乗ってるし絵とかも飾りたいよな、ラーメンを食べながらそんな話をし、2人でマガユラに戻った。そして2Fの大掃除、レイアウト構想、弾丸で詰めて行った。いつも朝日と共に僕らを叩き起こしてくる野田駅のホームの爆音を聞きながら、やんややんやと話して作業してめちゃくちゃワクワクしていたのを覚えている。

まず最初に着手したのは、↑の写真だとすでにあるバーカン内の目隠しになる立板。元々は机から中の洗い場までを隔てるものがなかったので、そのせいでかなり汚く見えてしまっていてかなり序盤に着手。星子さんと一緒に……、というか主に星子さんが1人でやってたような気がする。

掃除を終えて最低限整ったな〜〜となったのが2020年6月。この頃にウーバーイーツの休憩場所としてマガユラに度々居座っていたODAGAWA SHIONもスタッフに招き入れ、3人でのリアルタイム改造BAR営業を始めた。

初シフト

僕のこの頃のツイートで「マガユラ改装しながら営業してます!!僕もほぼ毎日います!!」と言っていたのだが、何故か全然シフトに入っていなかった。理由が全く思い出せなくて、当時の僕のスケジュール帳を観たらちょっと忙しそうだけど入れないほどではなかった。不思議。

ここからの改装の勢いはまさに怒涛、毎日毎日マガユラのレイアウトに勤しんだ。

メインの看板をあらた君が描いてくれ
階段の絵をれろちゃんが描いてくれ
カウンターの立て板をアリちゃんが描いてくれ
暇な日はゲームをしつつ
メイン看板をおのにゃんがデザインしてくれた

あらたくん、アリちゃん、れろちゃんは僕の数少ない絵描きの友人であり、オープン当初はこの3人にガッツリ頼った。デザイン関連は主におのにゃん、そしてご飯メニューはさっちゃんという栄養士の女の子に頼った。絵描きのみんなにはついでに売ってもいい絵を持ってきてもらって店内に並べた。

この辺りが7~8月ぐらい、だいぶ店内の内装が整って落ち着いてきたな〜〜という頃合いに本オープンという形になった。今まで"Live-art-bar-MagaYura"という店としてやってきていたが、ここの本オープン以降は3Fが"Live-bar-MagaYura"、2Fが"Art-bar-MagaYura"という、本来の名前を半分に割るという手法で分裂した。

彼女をバーカンに引き入れる

しれっと彼女になっていたまつりちゃん含め、お客さんのリーチを広げるべく数人がマガユラのバーカンに参入した。この辺りからマガユラを知った人が1番多いかな〜〜と思っている。

僕は"21世紀ボンブ"というフリーペーパーも作っていて、その流れで知ったたくさんのフリーペーパーを仕入れたりも始めた。フリーペーパーというものが、なおかつめちゃくちゃ面白いフリーペーパーがこの世にこんなにたくさんあるとは思わなくてびっくりした。

そんなこんなで2Fのマガユラがある程度まとまってきたら、今度は「何か2Fの宣伝になることできないかな〜〜」で始めたのが、『マガユラ大喜利』という企画。毎週月曜に2Fで大喜利大会を開催し、その全てをYouTubeに投稿していくというもの。

これが実はマガユラの知名度アップにかなり一躍を買ったというか、今まで届かなかった人たちのところにスパッと広がっていた。そう、大喜利プレイヤーという人たちのところに。

あと、この頃ぐらいから「SABOTEN MUSICの人」「toraの人」より、「マガユラの人」と言われることがググッと増えた。というか「最近大喜利ばっかりやってるやん」と言われるようになった。自分の印象がガラッと変わったというのは、ある種失敗だったのかもしれないな〜〜とも思うが、まぁ知らん。

(マガユラ大喜利の細かい話は↓の記事にて)

常連さんもたくさん来てくれた。この2020年の11~12月ごろは本当にマガユラは賑わっていて、近所の一般の人や遠くから遊びに来てくれるミュージシャン等、ほぼ毎日満席みたいになっていた。のちに気づく、これが完全なる初期ブーストだったと。

(ドクペ一杯で粘り続けるマガユライチの常連の記事はこちら↓)


このマガユラ絶頂期の後、残念ながらコロナが再流行してしまう。また夜に店が開けられなくなってしまった、どうする……?というところで、僕が思いつきでしばさんに言ってしばさんもノリノリになりみんなで進めたキレキレの企画が『ジオラマガユラ』。3Fのイベントを一切なしにし、全面にマットを引いてジオラマを作るスペースとして開放するというよく分からない企画。

外から観ていたらマジでなんのためのなんなのかが全然伝わってなかったのかもな〜〜とは思うが、これに関しては僕が動画の中に全て詰め込んだのでめちゃくちゃ観てほしい。当時めちゃくちゃ観ていた「ブレイキングバッド」に影響を受けて作った映像。

最後の破壊式本当に泣きそうになった、久々に映像観たけどかなり気合い入ってて面白いです。


しばさんとの空気が悪くなった回数は数知れず、シオンくんとの空気が悪くなった回数は1~2回。色んな人を好きになり嫌いになり、笑いあり涙ありクレームなしでマガユラは歩んできた。

そしてとうとう時期がきた。天洋でしばさんと話した時の「自分の店の練習をさせて欲しい」、その自分の店を出すタイミングが来てしまった。だから僕はマガユラを辞める。まぁほんとはこの5月から出す予定だったのだが金が足りず、今のところはバイトに明け暮れているわけだが……。

自分で言うのもなんだが、ここまでのマガユラを作ってきた一本のどでかい柱は僕。僕がいなければマガユラはなかった……という訳ではもちろんなく、ただ全く違うマガユラだった、ということは確か。こんなにも力を入れ、向き合って話し合って作り上げてきたこの場所から自分がいなくなる。なんだか変な感じだ。

僕の思いがあって、もちろん僕以外の色んな人の思いがあって、そのほとんどに僕は触れて一緒に歩いてきた訳で、そうして出来上がってきたマガユラがもちろん大好きで。ただ僕はもう辞める身、今後ああしろこうしろ、あっちのがいいこっちのがいいという権利が完全に剥奪される。当然の話ではあるが、これはすごく怖くて悲しいこと。

願わくばずっと面白い店であって欲しい。というかちょっと違うな、それはちょっとだけ綺麗事な気がする。どう変わってもいいし、変わり続けることは絶対に大事だし、だけど僕個人の思いはただひたすらに「僕が面白いと思う、僕が好きで行きたくなる店」であって欲しい。だいぶ図々しいけどね。

それともうひと願いさせてもらえるなら、僕が、僕らがどういう思いでどう向き合ってこの店を作ってきたかを知っていてほしいな〜〜〜と思う。だからこれから新しくマガユラに関わる人、そしてこれからも関わり続ける人に、ここで書いてたマガユラの成り立ちを知ってもらえてたら嬉しいな……、と、まぁかなりなワガママを思ってしまっている。老害思考ってこうやって出来上がるんだろうな。

扇芝智也〜〜〜


↑までは前日の書き溜め、そしてここからは実際に最後の営業を終えてから書いている。今日はみんな来てくれて楽しかった。

"老害思想"みたいなものを上で書いたが、いざ終わってみれば案外そうは思わないかもな〜〜と思っている。ただ多分、「裏切られた!」「めちゃくちゃに切り離された!」と感じた瞬間、一気にそう思っちゃうのかもな〜〜と思う。

意志を繋いでいくってめちゃくちゃ難しいことで、物理的なレイアウトの変化やら営業形態やらメニューやらは全然どうでもよくて、しかし何に対して「意志繋いでるわ〜」と思うのかというとよく分からんな〜〜と思う。

今の気持ちで1番大きいのは、当たり前のようにマガユラで会ってた人たちともう当たり前のように会う生活が終わったんだな〜〜さみしいな〜〜みんなとまた遊びたいな〜〜みたいな、物理的な寂しさがかなり来ている。多分しばらくバイトばかりになり、まつりちゃんと2人ぼっちになったような感覚。

でもそれは早く店を出せば済む話、だって店を出せばまたみんなが来てくれる……はず!ですよね?

ならとっとと金を貯めよう、バイトを気が狂うぐらいしよう。そう、つまりはマガユラを辞めて気合いが入ったということ。完璧ですわ。

今日のマガユラ

一つの節目ってだけ、でも写真を見返すとちょっと泣けてきちゃう。人生ですな〜〜〜

これからのマガユラも、これからの僕も、それぞれよろしくできたらな〜〜と思います。末永く。

しばらくは人前に立つのはサンサンタウンだけかなと思うので、みんなサンサンタウン見に来てください。そして願わくば、この日記の応援も引き続きよろしくお願いします。

ということで〜〜〜おやすみなさい!

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