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『Waver』はアートとエンタメの継目に揺らぐ

Waverとは

 2021.1.27に発売された田所あずさ(声優・アーティスト)初のセルフプロデュースアルバム『Waver』。サウンドプロデューサーに神田ジョン(PENGUIN RESEARCH)が、メインライターにわたし大木貢祐が起用されている。作詞における「メインライター」という言葉は寡聞にして知らないがググっても出てこないので、作詞における「メインライター」は『Waver』制作における大木の振る舞いとイコールということでよろしくお願いします。

 『Waver』には前作『So What?』以降のシングルは収録されておらず、10曲全て新曲となっている。うち7曲が大木の作詞だが、ただ詞を作っただけでなく、アルバム全体のコンセプト作りから関わらせてもらった。そしてそのコンセプトからアルバム全体を見渡し、全ての曲の発注に関わる文章を田所さんと共に作成した。『Waver』には多様な曲が揃っているが、そのタネというか作詞内容の閃きは全て田所さん本人に依っている。まずはアルバム表題曲「Waver」を聴いてもらいたい。

歌上手(うま)。

 「Waver」の歌詞は田所さん本人から聞いた思いや情景をそのまま写しとったという感触がある。そこには間違いなく悲痛な叫びと、確かな決意がある。そしてその辿り着いた決意がまた複雑で、「揺れ続ける」というもの。本人はおそらくとても器用だと思うのだが、決して「それっぽい」ことでは満足することができず、原理的に答えの用意されていない「良さ」を追い続けている。何より「良い演技」、そして「良い歌」。とても孤独で苦しく、悩みの尽きない態度だが、作詞のテーマの打ち合わせなどで話を聴いている分には間違いなくその類の人物であり、大変だなと思う。いくら考えても原理的に答えが用意されていないので、とりうる解決策は「揺れる」ことだ。「何が良い演技か」、何が「良い歌か」考え悩み続けていくこと、その決意。常に暫定の「良さ」で勝負し、科学における反証可能性のようなものを保ち続けること。何が「良い」かの話し合いの場を自分の中に持つこと。

アートとエンタメの継ぎ目

 本作で田所さんの放つWaver=揺らぎは、聴く人をこそ揺らす。揺さぶり、ときに瓦解させるかもしれない。それはこのアルバム『Waver』が「アート」と「エンタメ」の継目を揺れているからだ。

 「アート」と「エンタメ」の二項対立がどのように語られているか知らないが、それは「既存の枠に亀裂を入れるもの」か「労働力の再生産に寄与するもの」かの違いに思える。

 まず「エンタメ」。エンタメは「労働力の再生産に寄与するもの」としてとても大事だ。わたしたちはまず単純に疲弊している。生まれてきてみれば不思議なことにこの世界は、生きている間の大部分の時間を、お金を得るための労働に費やさなければならないように出来ている。そういった社会に参入するための学校もときに大変で、思い描いていたような煌く青春は存在しない(するという説もある)。

 明日も明後日も仕事に、学校に行かないといけないのである。さあ早く熱いシャワーを、美味しい食事を、質の良い睡眠を、そして「エンタメ」を!心と身体を癒し、明日も戦い抜くためにできるだけ「全回復」を目指したい。そういうときに「エンタメ」は最高なのである。極端な「エンタメ」は全て既存の考え方の枠を超えず、定石を打ってくれるし、代わりに笑ってくれるものすらある。わたしたちは「エンタメ」によって安心し、リラックスしているという確信を得る。これは皮肉ではない。わたしたちの日々の疲れを癒すため、この世には「エンタメ」が絶対に必要なのだ。

 癒されよう、楽しい気持ちになろうと「エンタメ」作品に触れても、そこにはときに偶然の出会いがあり、ときに異物がゴロっとすることがある。自己が裂けるような感覚、そこから外界が垣間見えるような閃き、それ以前の自分には決して戻れない傷つき、それが「アート」だ。「エンタメ」と「アート」も他の全てと同じようにはっきりと分けることは出来ず、入り乱れ混淆している。

 田所あずさは間違いなく稀代のエンターテイナーであるが、それが全てだというわけではない(読んでいるあなたがそうであるように)。癒し、楽しませてくれる彼女が存在し、同時に思い悩み、毒を持ち、外に這い出ようとする彼女が存在する(読んでいるあなたがそうであるように)。社会は首尾一貫した自己を求めてくるが、人間はそんなふうに出来ていない。

 『Waver』は外に這い出ようとする田所あずさのドキュメンタリーだ。そしてそれ故に「アート」だ。こんなに吐露して大丈夫なのかと何度も確認したが、妥協させないでくれと彼女は言う。もちろん「エンタメ」であり、そして確実に「アート」である今回の『Waver』、受け入れにくい部分もあるかもしれないが、今の田所あずさを直に感じられるものになっている。

 せっかく多くの曲を作詞させてもらったので、少し話したいと思う。

レイドバック・ガール

この記事にあるような、“存在をかけた舐めた態度”としてのレイドバックがこの曲のテーマだ。反抗期やいわゆる厨二病的な権力への甘えとしての否ではなく、小さき変革者としての構造それ自体への否である。単純に日々の腹の立つことへの憂さ晴らしの面も1割くらいあるかもしれないが…この上ない「昇華」の例となるだろう。以前「RIVALS」のリリイベで「スペクトラム ブルー」に関して話した時にも言った憶えがあるが、既に曲の中に歌詞がある程度潜んでいるものなので、作曲者神田ジョンさんが作詞の幾らかを担ってくれたことになる。これをアルバムの一曲目にしようと言い出した田所さんもすごい。

ちっちゃな怪獣

 「落ち込むタキオンみたい」というフレーズを田所さんが「ちっちゃな怪獣みたい」と言ったことからこのタイトルになった。作曲の菊池亮太さんによる凄まじいピアノの奔流には、一つの道を突き進むことしかできない者の混乱と狂気が表れている。タキオンは高速を超えて動くことのできる理論上の粒子で、SFやこういった歌詞において便利な存在だ。光速を超えてしまうと物理が裏返るため、スピードが上がれば上がるほどエネルギーが小さくなることになる、つまり落ち込むことになる。共感してくれる人が少なくなり、落ち込み、冷めて、醒めてしまうが、だからといって道を引き返すことができない。もっと先へ、もっと先へ、たとえこの道を選ぶ前に戻れても、きっとまたこうするしかないのだろう。田所さんとジョンさんと大木によるyoutubeの鼎談ラジオでも名前を出したウクライナ出身のバレエダンサー、セルゲイ・ポルーニンの動画を貼っておきます。

作曲者、菊池亮太さんのYouTubeチャンネルです。チャンネル登録しました。


ソールに花びら

 田所さんの歌の良さがこれでもかと際立つのがこの曲。世間には「誰も傷つけない○○」という言説が溢れているがそれも程度問題の話であって、原理的に考えてありえない。花畑を駆けまわれば花を踏みつけてしまうように、生きているだけで誰かを傷つけてしまう(原理的に考えれば、たとえば生きていることは死んだ人に対して「失礼」だろう。みんなが社会道徳自体を自身で相対化し、そもそもから考えてみれば避けられる傷つきが多いのかもしれないが、社会はそれとは反対の方向に進んでいる)。

 田所さんのユーモアに焦点を当てたこの曲の歌詞は若干言いたいことが込み入っているため、聴いていて楽しくなるような言葉の置き方に心を砕いたつもりだ。田所さんはおもしろい。特殊なおもしろさを持っている。それはどう足掻いても誰かを傷つけてしまう自身の振る舞いに自覚的なことからきているように思う。「みんなの幸せ」は素晴らしいお題目だが、「みんなの幸せ」を自分の幸せの定義に入れてしまうと、前述したように身動きができなくなる。それが無限の気遣いを引き起こし、何もできない。人はそこで思いやりや気遣いを有限化し、日々生活していかなければならない。これが全方向への思いやりを諦める=毒を飲む、ということ。そしてそんな自分を悲観的に思うことなく、笑い飛ばすこと。この笑い飛ばしが、田所さんのオリジナリティ溢れるユーモアを作り上げた。この一連がソールに花びらの歌詞になった。

 これもサウンドプロデューサー神田ジョンさんの作曲。猫の鳴き声をはじめ、至る所に田所さんの「好きな音」が隠れている。「海外の童話のような雰囲気になった」とジョンさんが言っていた。その通りだと思う。どこか霞がかっている。

Rest in a Stroke

 曲の制作時に使っていた仮のタイトルは「陽だまり」。田所さんの心安らぐ「陽だまり」を目指して作られた。

ちょっと…目がシパシパしてきたので引き上げます。続きも読みたいという人がいれば書きますね……(三点リーダーを二つ置きながら)

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