「してあげる」と「当たり前」という2つの「上から目線」に気を付けたい

私の経験上、2人の人間や2つのグループの間で意識の壁ができてしまう状況として、よくあるのが「してあげる」と「当たり前」という上から目線です。

3年前にコロナ禍で、AグループとBグループで分かれた業務が始まったとき、危惧したのが、A・Bの2つのグループで壁ができてしまうことでした。Aグループの人が「Bグループの人はどうして○○までやっておいてくれなかったのだろう。」といった思いを抱いてしまいがちです。私は休憩室の前にホワイトボードを置き、他グループに切り替わる際のメッセージボードとしました。どちらのグループも、他グループへのエールを贈るあたたかいメッセージを書いてくれて、効果があったと感じています。

PTAで保護者と教員の間にもこれが当てはまりました。
かなり前のことですが、あるPTA連合会の場にPTA会長として出席しているとき、ある校長先生が、挨拶で壇上からこう述べられました。
「確かにPTAは任意団体です。しかし任意団体だからといって何もしなくていいということではない。」
その校長先生は、「PTA会長の皆さんも協力してくれない保護者への不満があるのではないか。この言葉は共感が得られるのではないか。」と思ったのかもしれません。しかし、これを聞いた私は当惑しました。この校長先生から、そんなつもりはなかったかもしれませんが、次のような意識を感じてしまったからです。
「学校(教員)は子供達のために努力してあげているのだから、PTA(保護者)は協力するのが当たり前だ。」というものです。
私はたまたまその校長先生と席が隣だったので、その挨拶の後、少し雑談をしました。挨拶への批判ということではなく、今、私のPTAでは強制感や義務感という負のイメージを払拭する努力をしていること、保護者活動のポイント制を導入してポイントが少ない保護者に罰ゲームとして本部役員をやらせようとしていた動きがあったが、それを止めたことなど。

一方で保護者の側も次のような意識を持ってしまいがちです。
「保護者はボランティアで学校に協力してあげているのだから、教員はそれに協力するのが当たり前だ。」
教員には仕事として学校に関わっているからこその難しさがあります。どこまでが仕事でどこからが任意と分けるのか。業務としてするのであれば、なぜ業務としてする必要があるのか、その価値を説明できなければならないですし、一定の制約があるでしょう。また、プライベートで教員と保護者とが、交流する、意見交換する、飲み会をすると言っても、教員にとっては、「顧客」である保護者と過ごすことは、仕事の一環からなかなか逃れられないでしょう。

上から目線ではなく、互いの違いや立場を尊重し、相手の努力に敬意を払って感謝し、いかに対等な立場で、発言したり行動したりできるか。自戒として自らに問いかけたいと思います。

私の事務所は駅から近いため来所者が多く、繁忙期には他の事務所からの応援をお願いしています。仮に、他の事務所からの応援職員が、
「応援に来てあげているのだから、もっと気遣いをしてくれて当然ではないか」と思い、
仮に、私の事務所の職員が、
「うちの事務所は多忙で他の事務所の分も来所者を受け付けてあげているのだから、他の事務所は応援に来てくれて当然だ」
と思ったとしたら、そこには大きな溝が発生してしまうでしょう。

こういった例は、本庁と事務所、フロアマネージャーと内部窓口の職員、管理職と他の職員などにも当てはまるかもしれません。
家庭でも同様です。あくまで仮の例ですが、
夫が「私は働いて稼いできてあげているのだから、妻は家事・育児をして当然だ」
妻が「私は家事・育児をしてあげているのだから、夫はもっと稼いできて当然だ」
とすると、そこには大きな溝があります。

「自分が相手にしていることには謙虚に、相手が自分にしてもらっていることは当たり前と思わず敬意と感謝を忘れないように。」
これを今日の自分へのメッセージとします。

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