【ほの暗い施設のフロアから】
老人ホームなどの介護施設では病院ほどではないが、施設内で亡くなられる方がいる。急変して救急車で病院に搬送されそのまま息を引き取る方もみえるが、朝方お部屋に伺うと亡くなっていた、ということもある。とても残念ではあるけれど、こういった介護の仕事をする上で避けれては通れない事だと思っている。
僕は霊やお化けなどのオカルトの類を信じているわけではないが、時々施設内で何かしらの気配を感じることがある。単なる気のせいなのか、はたまた霊的な何かが存在しているのかは知る由もないが、普段は感じない気配を感じ取ることが稀にある。
＊
その日、当直だった僕はいつも通り夜中０時頃に施設内を巡視していた。その時間照明を消しているため足元の非常灯を頼りに薄暗い中をゆっくりと進んでいく。あたりは静寂に包まれ、コツコツという自分の足音だけが耳に残る。賑わっていた昼間とはまた違った顔を見せる夜の施設に少し不気味さを感じていた。何もない誰もいないと分かってはいるが、暗闇の先に何かがあるような気がする。
「きっと気のせいだな」
誰に言うでもなくあえて声に出す。強がっている自分が滑稽でおかしくなって、さっきまで感じていた寒気が少し治まった気がした。
再び歩みを進めると暗闇の向こうで何かが動いたように見えた。薄暗くはっきりとは分からなかったが人のように見える。目を凝らして前方を確認すると、やはり誰かがそこにいるのは間違いないようだった。
背中に冷たい汗が流れて、鼓動が早くなっていく。それでも暗闇から視線を外さずにいるとだんだんと目が慣れていき、”その誰か”の輪郭が見えてきた。
”その誰か”は入居者の一人だった。重度認知症の男性入居者がこちらを見て笑みを浮かべながら立っていた。その方は歩行や食事そして排泄など日常生活の多くを自分自身で行うことができる。ただ短期記憶に障害があり、ついさっきの出来事もすぐに忘れてしまっていた。また日頃から館内をあてもなく歩かれることがあり、夜間帯に徘徊されるのも珍しいことではなかった。
「もう驚かさないでよ」
見知った顔に安堵したのも束の間、入居者の様相に違和感を覚えた。にこにこ笑っている顔はいつもの入居者だったが、何かがおかしい。まじまじと入居者を眺めて違和感の正体に気が付いた。入居者の顔はこちらを向いていたが首から下が後ろ向きだったのだ。頭と体の向きが180度真逆になっていて、人体の構造では絶対にあり得ない状態だった。
「ヒッ…!!」僕は声を上げそうになるのを必死に堪えた。僕に気が付いた入居者は「こんにちは！」と大きな声を出すと、首から下は反対を向いたままこちらに近づいてくる。その異様な姿は安いホラー映画に出てくる怪物のようだったが、僕を恐怖に陥れるには十分過ぎた。
「うわああああああ！！！」
僕の叫び声がフロア内に響いた。一刻も早くその場から逃げたかったが足がすくんでうまく動けない。叫んだ僕を気にしてか入居者が歩みを早める。どんどんと近づいてくる入居者の顔は心配そうな表情だが、体の向きは逆を向いたままだった。
入居者が僕の目の前に立つ。その迫力に気圧され思わずその場にへたり込んだ。「大丈夫ですか？」そう言って入居者が僕に手を差し伸べる。差し出された手を払いのけようとしたその時、手の向きが正常なことに気が付いた。そこで初めて入居者の恰好に目を向けた。
首から下が逆向きに見えたその姿は、なんてことないただ洋服とズボンを逆に着ていただけだったのだ。
「なあんだ…」ホッとした僕は差し伸べられたその手をガッチリと握りすくと立ち上がった。僕の叫び声を聞いたのか「なんだなんだ」と他の入居者たちがわらわらと居室から出てくる。
自分が入居者に怖がって叫んでしまったなんて、恥ずかしくて言えるはずがなかった。
「何でもないよ。もう大丈夫だから。さぁ皆さんお部屋に戻って休みましょう」
そう言って他の入居者たちにはお部屋に戻っていただいた。徘徊していた入居者と一緒に部屋に戻って服を着替えてもらう。そしてベッドに寝かせて「おやすみなさい」と声をかけてそっと部屋を後にした。
思いがけない醜態をさらしてしまったが、短期記憶に障害がある入居者は今日のことをすぐに忘れてしまうだろう。普段は施設での思い出を忘れてしまうことに寂しさを感じていたが、今回ばかりは忘れてくれるのをとてもありがたいと思った。
もし今日の僕の醜態をスタッフが知ったら何を言われるか分からない。今夜のことは僕だけの秘密にしよう。そんな風に思っていた。
明くる日だった。その入居者は昨夜の一部始終をスタッフや他の入居者たちに事細かに語っていた。
「私の姿を見るなり叫び声を上げて腰を抜かすもんだから、本当に驚きましたよ！」
忘れるどころか身振り手振りを加えて流暢に語るその入居者の姿はとても認知症とは思えなかった。「腰は抜かしてない！」と懸命に僕は抗ったが、「じゃあ叫んだのは事実ですね」とスタッフや入居者から大笑いされたのだった。
＊
認知症患者はすぐに物事を忘れてしまう、そう思ってる人は多い。しかし強く記憶に残った出来事は意外と忘れないことがある。
もしこの記事を読んでいる方で、大切な方が認知症となり色んなことを忘れてしまうと胸を痛めている方がいたら、僕は言いたい。
それでも語りかけてあげてください。きっとあなたの言葉は心のどこかに残っていると思う。そしていつの日か思い出す日がくると思う。
大切な人のことはきっと忘れないから。
ただ、僕の醜態はお願いだから忘れてくれないかなと強く願っている。
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