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絵を描くことはそこに存在する万物のいのちたちを掬いとって、紙という二次元的、平面的な場所に宿させる行為だとおもっている。 わたしは絵を描くとき、対象となるものをなるべくよく観察している。誤って見落として、輪郭を取りこぼさないように、丁寧に。 その万物たちは、わたしの手によって線が引かれていく度、新たないのちを紙の上に宿す。 脆く儚いいのちたち。 そのいのちたちと会話をしながらわたしは窓をつくる。 こちらの世界と絵の中の世界。そのふたつを繋げる窓。 美術館に行った時
このごろ、生きている心地がしない。 なんだかふわふわしてしまうのだ。地に足がついておらず、ただず〜っとそこらじゅうをふわふわと漂っているきがする。 ただ、作品を制作している時だけはじぶんがしっかりと地に足をつけて、意志を持って動いている感覚がある。この色をここに置いて、筆の動かし方は、角度は、顔料の濃さは、すべてじぶんのあたまで瞬時に考えている。 絵を描くという行為はすごい。単調に見える筆の動きも、何十何百何千と続ければ世界を作ってしまう。 ふわふわと漂うわたしを留め
作品と触れ合っている時間は、わたしが''個''であるわたしでなく、''作品''としてのわたしになる気がする。 作品と一体化していく。触れたところから境界が曖昧になっていく。わたし自身が作品になっていく。そして、作品が産声をあげる頃には、我が子のような感情を無機物に抱く。 わたしは制作しているときのじぶんが、じぶんでないような気がして、まるでなにかの物語の主人公になったような気分になる。からだもおおきく、考えかたもおとなになる。その感覚が好きで、作品と向き合う時間が人一倍お
今日、とある講師のはなしで思うところがあったのでそのことについて語ろうとおもう。 「芸術とデザインは全く別の方向、最早逆方向を向いている。芸術は最初から自己満足だが、デザインは最初から人の役に立とうとしている。」 この意見を語った講師は、わたしは今後一切関わらない、関わりたくないような人だった。横文字ばかりを話し、何が言いたいのか分からない一貫性のないはなしをつらつらと1時間弱話していた。 興味はさほど無かったので、不変な外の風景を眺めながら、聞き流していた。しかし、先