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想念をやり過ごす

薬を飲んですぐに体調が改善したと浮かれていたのも束の間、だんだん全部いやになってきた。SNSのアカウントを全部消そうかと思った。でもきっと回復した未来の自分が後悔するからしなかった。(あとがき:ビタミンDを飲み、この記事を夢中で書いているうちにいやな気持ちが消えた。やっぱりアカウントを消さなくてよかった。)

なんだかダメなときに浮かぶ「私はなんてみっともないのだろう」という負の想念は、脳味噌が勝手に生み出しているだけであって私の考えではない。いろいろ読んで簡単な瞑想をやってみてからそう思うようになった。

気分によって分単位で変わる私の考えなんて、そもそも無いも同然だ。「私」が何かを考えたり、体を動かしたりしているのではない。身体に発生した物質や電気信号に反応し、反射的に飛び出した想念を、あたかも意識的に創造したかのように思い込んでいるだけだ。実際は身体の反応が意識に先立っている。

もはや人間の自由意志なんてないのではないか。生物の先天的なプログラムと、後天的な学習が刻み込まれた身体が、環境に応じて自動的に動いたり、意志のような想念を生み出したりしているのではないだろうか。
「私」は自分の意志でこの文章を書いているつもりだが、本当は身体に書かされているのかもしれない。「書けば何か得られる」という記憶を持った身体が、「私」という意識に命令して文章を書かせているのかもしれない。また天気や気温など外部環境が違っていたら気分も変わって、今とは全く違う文章を書いていたに違いない。身体と環境に規定される意志を、はたして自由意志と呼んでいいのだろうか。

それは置いといて、私は「私」という観念を無くしたいわけではない。「私」という観念は、苦しみを増幅させることが往々にしてあるけれど、楽しみを感じるにも必須のものだと思う。だから私は「私」と上手く付き合っていきたい。楽しいときの「私」は苦しみの想念を生まないから気にせずに快の感情を味わっていればいい。苦しいときの「私」は次々と苦しい想念を生むから瞑想をして想念と「私」とを切り離す努力をすればいい。激痛や発作などで本当に強烈に苦しいときは、何もかも忘れてただ悶えるしかない。即効薬があれば救いだが、そんなものは無いことの方が多い。

  • 小野盛司『人間の行動と進化論: ドーキンスの利己的遺伝子説の限界とその改良』東大英数理教室

  • ニック・チェイター、高橋達二・長谷川珈(訳)『心はこうして創られる: 「即興する脳」の心理学』講談社選書メチエ

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