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知ってる?ママン No.64"教えられる・・・"

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僕の合宿の時に無理をしたようでみきさんの体調が思わしくない・・・。

お腹の張りがなかなか引かないみたいだ。出産予定日はお盆明け、もう少しお腹にいて欲しい。検診でも自宅安静を言い渡されたようでおうちで休んでいるみたいだ。

それから10日後・・・朝、か細い声のみきさんに起こされた。

「お腹の張りが止まらなくて・・・痛い。」

いそいで検診に通う産院へ電話をするとすぐに受診をするように伝えられた。子どもたちも全員乗せていそいで産院へ。その間もみきさんの痛みは増しているように見えた。

20~30分で産院に到着。すぐに診察。

「子宮口が開いていて、陣痛も始まっている。すぐに出産になるから。お父さん、ここでの出産で良い?」

「お、お願いします。」

みきさんの方を見ると、「まだ、35週なんです。お願いします。ここでの出産、お願いします。」と繰り返した。

ここまで産み場所を決めることができなかったみきさん。医療介入に対しての抵抗があったのだ。でも、今の時点でそんなことは考えていられず。

そして助産師さんが声をかけてくれている。

「お父さん、入院セットは?」

「あっ、もって来てなくて・・・」

「急いで持ってきてほしい。」

「はい、わかりました。」僕は自分の身一つで車に飛び乗り家に戻る。みきさんがまとめておいた荷物を掴むと再び産院へ。

1時間弱で戻ってくることができた。息を切らしながら分娩室に駆け込むといいなり白衣を手渡された。

あたりを見回すとみきさんはすでに分娩台の上で・・・

「おとうさん、横についてあげて。もう、でてくるよ~」と助産師さん。

その声と共に赤ちゃんが出てきた。

「あ、あおい・・・」長女ちゃんがびっくりしている。

確かに次女ちゃんの時と比べて青い・・・。先生たちが迅速にケアーをしていく。様々なチェックが行われた。

そして35週の未熟児で肺の様子が厳しいので急いでNICUのある病院への転送言い渡された。

みきさんと助産師さんは肺のサーファクタントなど知らない言葉を介しながら話し合っている。

そしてみきさんはいかに自分が浅はかだったのかを痛感していると助産師さんに伝えていた。

「産み方が生き方なんて言えるのはしょせん結果なの。100パーセント安全なんてない。命最優先でね。赤ちゃんもおかあさんも命があるのが最優先なの。わかった?」

助産師さんの言葉にみきさんは泣いていた。お腹の上に乗せられた赤ちゃんは体温が落ちていかないように帽子や布をかぶせられた。

しばらくすると大きなバスが到着。NICU用のドクターカーが到着したのだ。

僕は手続きのためについて行くことに。上の子たちはみきさんと一緒にいることに。

ドクターカーをみんなで見送りながら僕は一つの決意をした。

「僕が毎日、赤ちゃんのところにいってスキンシップをはかりに行く。母乳も届けるから。そしたらきっと早く帰ってこれるはず。」

不安そうなみきさんの顔が晴れていった。

「そうだったね。出来ることをしていこう。いつもそうだった。私にできることは体を整えておいしいおっぱいをあの子にとどけることだ。」

過去は振り返ったって返ることができない。けれどもこれから先に起きることはここにいる自分自身の行動でいかようにも変えられるということを僕たちは知っている。

そして僕はNICUに向かった。

向こうに着くと保育器の中に入った三女ちゃん。呼吸がしやすいように薬が投与され落ち着いたらしい。

週数のわりに体重もしっかりあったので数日から10日くらいには退院できるのではとの話だった。

それから毎日、2回ずつ病院に。途中、黄疸で退院が延びたが2週間ほどで退院に。

みんな大喜びで三女ちゃんをお迎え。

今回は本当に医療のありがたさを体感した。NICUには600gくらいの赤ちゃんがいて、僕は2番目に生まれてきたたくとくんを思い出していた。そんな彼を思い出しながら命について改めて考えるきっかけをもらえたのだ。

合宿から1か月。本当にいろいろなことがあった。でも一番大事なものは何か・・・気づかせてくれたのかもしれない。三女ちゃん、ありがとう。

次につづく・・・

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